「新しい公共」について考えるパネルディスカッション  (平成22年6月24日)


@「新しい公共」について考えるパネルディスカッション 概要の報告
A パネリスト略歴
B パネルディスカッション 議事録


@「新しい公共」について考えるパネルディスカッション 概要の報告

行政監視委員会調査室  荒井達夫(あらい たつお)

1. パネルディスカッションの開催理由

鳩山前内閣総理大臣は、第174回国会における施政方針演説(平成22年1月29日)の中で、「『新しい公共』によって支えられる日本」と題して次のように述べている。

「人の幸福や地域の豊かさは、企業による社会的な貢献や政治の力だけで実現できるのではありません。今、市民やNPOが、教育や子育て、街づくり、介護や福祉など身近な課題を解決するために活躍しています。昨年の所信表明演説でご紹介したチョーク工場の事例が多くの方々の共感を呼んだように、人を支えること、人の役に立つことは、それ自体が歓びとなり、生きがいともなります。こうした人々の力を、私たちは『新しい公共』と呼び、この力を支援することによって、自立と共生を基本とする人間らしい社会を築き、地域の絆を再生するとともに、肥大化した『官』をスリムにすることにつなげていきたいと考えます。一昨日、『新しい公共』円卓会議の初会合を開催しました。この会合を通じて、『新しい公共』の考え方をより多くの方と共有するための対話を深めます。こうした活動を担う組織のあり方や活動を支援するための寄付税制の拡充を含め、これまで『官』が独占してきた領域を『公(おおやけ)』に開き、『新しい公共』の担い手を拡大する社会制度のあり方について、5月を目途に具体的な提案をまとめてまいります。」

この発言に従い、政府は、「これまで『官』が独占してきた領域を『公(おおやけ)』に開き、『新しい公共』の担い手を拡大する社会制度のあり方」について検討を行い、平成22年6月4日、「新しい公共宣言」をとりまとめ、公表した。この施策は、次の菅内閣でも引き継がれており、人を支え人の役に立つ人々の力を支援する「新しい公共」の思想は、今後の我が国の国家運営の全般にわたり影響を与えることになると予想される。しかしながら、「新しい公共」が真により良い社会の実現につながるためには、行政において国民主権(憲法前文・第1条)が徹底されることが不可欠である。行政において国民主権が徹底されることなく、単に「官」の組織・業務のスリム化を目的として「新しい公共」に関する施策が実施される場合、「官」の役割が曖昧になり、責任の放棄となる可能性が高く、また、活躍が期待されるNPOは、天下りの多い公益法人のように、「官」が自分たち独自の利益を図る下請け機関に過ぎなくなるおそれがあるからである。

本来、憲法尊重擁護義務(憲法第99条)が課されている公務員にとって、国民主権の徹底は最重要事項のはずである。ところが、今日の我が国の行政は、キャリアシステムや天下り等の前近代的な非民主的人事慣行に見られるように、未だに古い「公=国家=官」という意識(※1)で運営されている場合が多く、国民主権が徹底されているとはいえない現状である。政権交代という国民主権の発現の状況下においても、それは変わっていない。したがって、「新しい公共」の実現には「官」の意識改革が不可欠であり、国民主権を徹底するための公務員研修を実施すべきではないかと考える。国会による行政監視の重要対象事項ともいえる。このような問題意識から、「公共」の思想と実践に詳しい次の4名の有識者による「『新しい公共』について考えるパネルディスカッション」を開催することにした。
・郷原信郎(名城大学教授・総務省コンプライアンス室長)
・竹田青嗣(早稲田大学教授・哲学者)
・武田康弘(白樺教育館館長・哲学者)
・福嶋浩彦(中央学院大学教授・「新しい公共」円卓会議構成員)

※1 「公」とは「国家」であり、「官」(=官僚機構)がつくるものであるとする考え方。

この4氏にパネリストを依頼したのは、主に次の理由からである。まず、郷原信郎氏は、総務省コンプライアンス室長として、公益通報者保護法を担当していること。福嶋浩彦氏は、「新しい公共」円卓会議構成員と同時に、新しい公共をつくる市民キャビネット共同代表を務めており、官民の両方において「新しい公共」運動の中心として活動していること。また、竹田青嗣氏と武田康弘氏は、行政監視委員会の客員調査員として、国民主権を徹底する「公共の哲学」について調査研究を行っていること。さらに、「官」の意識改革を考える場合、民主的倫理に反するキャリアシステムの廃止が極めて重要な課題となるが、これについて4氏はいずれも確かな見識を持っていると思われたことである。

2. パネルディスカッションの論点

「新しい公共」については、そもそもそれが何であり、なぜ今それが求められるのか、という思想の大元を問う本質的・根源的な議論はほとんど見られず、それを実現するための具体的手段(NPOに対する寄附税制等)をどうするかが議論されている。しかし、これでは、「新しい公共」は単なるキャッチフレーズの域を出ない結果になりかねないのではないか。人を支え人の役に立つ人々の力を支援することが、社会的に重要であるのは当然であり、それをあえて「新しい公共」と呼ぶ必要性はないと思われるからである。また、本質的・根源的な議論を欠いたままでは、「新しい公共」のためという名目で、実質は古い「公=国家=官」という意識による行政運営が行われるおそれがある。そこで、パネルディスカッションでは、「新しい公共」の意味と価値、つまり、「これまで『官』が独占してきた領域を『公(おおやけ)』に開き、『新しい公共』の担い手を拡大する」には、どのような意味と価値があるのか、について本質的・根源的な議論をすることにした。

「新しい公共」と「公・私・公共三元論」
「これまで『官』が独占してきた領域を『公(おおやけ)』に開き、『新しい公共』の担い手を拡大する」の意味について、鳩山前総理は詳しい説明をしていない。また、「新しい公共宣言」では、「これまで政府が独占してきた領域を『新しい公共』に開き、そのことで国民の選択肢を増やす」と異なった表現がとられている。「官」、「公」、「公共」というキーワードが定義なしに使われており不親切であるが、「これまで政府と官僚機構が独占的に担当してきた活動の領域を、一般市民・国民に開放する」という趣旨と理解してよいであろう。問題は、人を支え人の役に立つ人々の力を支援することを、わざわざこのような分かりにくい言葉を使って表現した理由である。学問としての「公共哲学」には「公・私・公共三元論」と呼ばれる思想があり、その影響とも考えられるが、本当にそうであれば疑問といわざるを得ない。「公・私・公共三元論」は、「公(=国家=官)」と「公共(=市民)」の意味を明確に区別し(※2)、「公共の利益」と異なる「公の利益」の存在を許す点で、国民主権に反する論理を含む思想だからである。

※2 公共哲学宣言(公共哲学ネットワーク 2001年12月 山脇直司東京大学教授・小林正弥千葉大学教授)には、次の説明がある。
日本では、従来、伝統的な「おほやけ」の観念に影響され、「公=国家=官」とみなす国家主義的公観念が強力であった。「公共」も、国家や官僚制によって独占されていた。しかし、今求められる「公共」は、国家的な「公」(governmental, official)に回収されてしまうものではなく、「公衆(the public)」ないし「公共的市民(public citizen、公共民)」が「共」に参加するものとしての「公」である。したがって、私たちが規範的な意味で「公共」という概念を用いるときには、国家的な「公」観念と区別し、公共的市民という意味を内包するものとしてそれを用いることにする。


ただし、鳩山前総理の施政方針演説では、「これまで『官』が独占してきた領域を『公(おおやけ)』に開き」となっていたが、「新しい公共宣言」では、「これまで政府が独占してきた領域を『新しい公共』に開き」となっており、「公」と「公共」の区別もなくなっている。今日では、「公」も「公共」も、社会一般や社会一般の人々を意味する言葉として用いられていることは明らかであり、これらの意味を明確に区別する方が普通でないというべきであろう。法制上も「公の利益」(※3)と「公共の利益」(※4)に特段の意味の違いはない。そこで、「新しい公共」運動の中心的役割を果たしている福嶋浩彦氏に、この点に関する基本の考え方を問うことにした。福嶋氏の意見は、新しい、古いという前に、市民の「公・公共」しかない。「官」の「公・公共」はあってはならない。「官」は市民の「公・公共」を実現する道具に過ぎない、という実に明解なものであった。

※3 行政事件訴訟法第31条、地方自治法第100条第5項等
※4 公益通報者保護法第8条、国家公務員法第96条第1項等


また、「公・私・公共三元論」を社会思想としてどのように評価するか、を竹田青嗣氏に問うことにした。竹田氏の意見は、市民国家の基本の考えは、市民が一般意志を代表する政治担当者を選び、その政治担当者が一般意志を代表しているか、市民が常に監視する。「公」それ自体を常にシビリアンコントロールしているというのが基本形であり、「公」と異なる「公共」を置くと理屈が分からなくなる。「公・私・公共三元論」は、市民と国家の関係について恣意的で非常に紛らわしい考え方だ、というものであった。

「新しい公共」を実現する「公共の哲学」
「新しい公共」の実現には、国民主権を徹底する「公共の哲学」が不可欠である。したがって、国民主権を徹底できない「公・私・公共三元論」は、「新しい公共」運動の思想にはなり得ない。福嶋氏の意見は、そう理解すべきであろう。「公・私・公共三元論」を現実の政治行政で使おうとするならば、「現状の説明」とするしかない。例えば、キャリアシステムについては、戦後の民主主義憲法下において、本来あってはならない違法な人事管理が発生し、今日まで慣行として続いてきており、それは「市民の公共に反する官の公」という現象である、との「現状の説明」になる。では、「新しい公共」を実現する「公共の哲学」とは何か。その点について、竹田青嗣氏と武田康弘氏の意見を聴くことにした。

竹田青嗣氏は、市民社会の基本の原理は何かを軸にして、「新しい公共」を考えるのが良いと説明した。市民国家は自由市場経済と民主主義という2つのシステムで進めていくほかないが、それがより良い方向に進むためには、改めてルソーの社会契約や一般意志の考えに学ぶべきである。人々がお互いを自由な人格として認め合い、ルールの下では常に対等である(=特権者を認めない)と了解して、社会契約により政府をつくり、社会の構成員全員に平等に配慮する一般意志を政府が代表しているか、監視する。憲法は一般意志の表現であるから、人民ではなく政府を縛るものであり、一般意志を代表しなければ、政府は正当性を失う。「新しい公共」を実現するためには、基本にこうした考えがあるのが良いという趣旨の発言であった。私は、竹田説が極めて明解で説得力があり、さらに国民主権に立脚する国家公務員法第96条「すべて職員は、全体の奉仕者として、公共の利益のために勤務しなければならない」を解釈する際の前提になると考えている。

武田康弘氏は、「公共」とは皆に関係する良いことの意味であり、「新しい公共」を実現するためには、何より市民精神を育む教育が必要であると強調した。私たち一人一人が主権者として社会や国をつくっているという市民の意識がなければ、議論自体が成立しない。主権者は、皆等しく自由と責任があり、何事も私たちが決めていくのだと自覚させる教育が必要である。それが日本ではひどくおろそかになっていることが問題の根本的原因であり、問題の解決のためには、日々の生活や仕事の中で「本当にこれで良いのか」と考える習慣をつくることが大事であるとされた。また、武田氏は、従来から「公」と「公共」の区別について、「公という世界が市民的な公共という世界とは別につくられてよいという主張は、近代民主主義社会では原理上許されない」、「主権者である国民によってつくられた『官』は、それ独自が目ざす世界(公)を持ってはならず、市民的公共を実現するためにのみ存在する」と述べている。私は、武田説が日本国憲法の民主主義思想の哲学的根拠を明らかにする重要な指摘であり、行政運営の思想的土台となると考えている。「2人のタケダ」の思想は、国民主権の民主主義国家における「公共」について、普通の人が普通に考えることができる、しかも深い思索を可能にする材料と方法を提供する思想であり、まさに国民主権を徹底する「公共の哲学」といえるのではないかと思われる。

「新しい公共」とキャリアシステム
福嶋氏は、「新しい公共」の実現のためには、「『官』が一方的な決定権を持って自分の都合で『民』に下請けに出していた構造を変えなければならない」、「主権者である国民、市民の意志に基づいて動く政府にしていかなければならない」と指摘した。ここで最大の障害となるのが、キャリアシステムである。キャリアシステムは、強固な年功序列システムであるため、ピラミッド型の行政組織において職員の早期退職を促すことで天下りの温床となっており、また、各省独立人事の中核として機能することで、いわゆる省庁割拠主義の原因にもなっている。行政運営の改善のためには、キャリアシステムの廃止が不可欠であることは明らかである。この点について、郷原氏は、コンプライアンスの観点から発言した。コンプライアンスとは、単なる法令の遵守ではなく、社会の要請に応えることであり、今日、世の中が大きく変化する中で、改めて自分の仕事が何を目指しているかを根本的に考え直さなければならない状況になっている。「新しい公共」の実現にはそれが必要であるが、旧来の閉鎖的な組織の論理がまかり通っているキャリアシステムはそれを不可能にしており、検察のキャリアシステムは典型的であるという。

また、郷原氏は、社会の要請が何であるかには正解はなく、それを考えることそのものが社会の要請に応える姿勢であると述べたが、これは、「法律が誠実に執行されているかどうか」の監視である行政監視で、「法律の誠実な執行」とは何かを考えるについて、重要な示唆を与えてくれるものであった。本当に大切なことは何か、何が重要か、を常に自分の頭で考え、問い、前向きに議論を続けていく姿勢がなければ、「法律の誠実な執行」はあり得ないということである。特にキャリアシステムは、戦前の高等文官試験制度の思想を受け継いでおり、公務員の特権者を生み出す身分制的仕組みとして機能している点で、特権者の存在を許さない国民主権の思想に反する。このことが一番意識されなければならないが、思考の硬直化の極みである強固な人事慣行の中で、職員は容易にそれに気付かない。そうであるからこそ、キャリアシステムは行政監視の重要対象事項といえるのである。



Aパネリスト略歴

郷原 信郎(ごうはら のぶお)
名城大学教授、総務省コンプライアンス室長

【主な経歴】
1955年 島根県松江市生まれ
1977年 東京大学理学部卒業
1983年 検事任官
公正取引委員会事務局審査部付検事、東京地検検事、広島地検特別刑事部長、法務省法務総合研究所研究官、長崎地検次席検事、東京地検検事(八王子支部副部長)などを経て2003年から桐蔭横浜大学大学院特任教授を兼任
2004年 法務省法務総合研究所総括研究官兼教官
2005年 桐蔭横浜大学法科大学院教授(派遣検事)・コンプライアンス研究センターセンター長
2006年 検事を退官。引き続き、同大学法科大学院教授・コンプライアンス研究センター長
2008年 郷原総合法律事務所開設
2009年 名城大学教授・コンプライアンス研究センター長
2010年 総務省顧問・コンプライアンス室長

【主な著作】
『独占禁止法の日本的構造−制裁・措置の座標軸的分析−』(清文社、2004年)
『コンプライアンス革命〜コンプライアンス=法令遵守が招いた企業の危機〜』(文芸社、2005年)
『企業法とコンプライアンス〜"法令遵守"から"社会的要請への適応へ"〜』(東洋経済新報社、2006年)(編著)
『入札関連犯罪の理論と実務〜談合構造解消に向けて〜』(東京法令出版、2006年)
『「法令遵守」が日本を滅ぼす』(新潮社、2007年)
『思考停止社会〜「遵守」に蝕まれる日本』(講談社、2009年)
『検察が危ない』(ベストセラーズ、2010年)


竹田 青嗣(たけだ せいじ) 早稲田大学教授、哲学者

【主な経歴】
1947年生まれ
1971年 早稲田大学政治経済学部経済学科卒業
1977年 文芸評論家及び現代思想研究家として執筆活動を始める
1981年 和光大学非常勤講師
1992年 明治学院大学国際学部教授
1998年 ロンドン大学King's College Department of Philosophyにて、客員教授として在外研究
2005年 早稲田大学国際教養学部教授
※参議院行政監視委員会の客員調査員(非常勤の国家公務員・国会職員)を務める。(2009年10月〜2010年9月)
※近代市民国家の基本理念等の社会思想について講義するほか、日本国憲法及び国家公務員法の哲学的根拠について調査研究を依頼される。

【主な著作】
『意味とエロス』(作品社、1986年)(筑摩書房、1993年)
『現代思想の冒険』(毎日新聞社、1987年)(筑摩書房、1992年)
『現象学入門』(NHKブックス、1989年)
『自分を知るための哲学入門』(筑摩書房、1990年)
『エロスの世界像』(三省堂、1993年)(講談社、1997年)
『ニーチェ入門』(筑摩書房、1994年)
『ハイデガー入門』(講談社、1995年)
『プラトン入門』(筑摩書房、1999年)
『言語的思考へ−脱構築と現象学』(径書房、2001年)
『現象学は<思考の原理>である』(筑摩書房、2004年)
『近代哲学再考』(径書房、2004年)
『人間的自由の条件』(講談社、2004年)
『完全解読ヘーゲル「精神現象学」』(講談社、2007年)(共著)
『人間の未来』(筑摩書房、2009年)


武田 康弘(たけだ やすひろ) 白樺教育館館長、哲学者

【主な経歴】
1952年生まれ
1974年 慶應義塾大学文学部自主退学
1976年 私塾である我孫子児童教室を開設し、我孫子児童教育研究会を主宰
1987年 我孫子哲学研究会を主宰
※ 我孫子哲学研究会は、市民の直接参加による政治をつくる新たな哲学を生むために立ち上げられた。参加者として福嶋浩彦氏(後の我孫子市長)や佐野力氏(日本オラクル初代社長)。
1989年 哲学者竹内芳郎氏とともに、私塾である「討論塾」を開設
※ 討論塾では、現在まで約200回の討論会が行われており、新たな対話文化を生むための活動を行っている。
2001年 白樺文学館の初代館長に就任
※ 白樺文学館は、白樺派文学と民芸運動に関わる資料館であり、平成21年4月1日より、我孫子市運営の「我孫子市白樺文学館」となっている。
2004年 白樺教育館の館長に就任
※ 白樺教育館は、市民的な公共性を持つ学芸・教育実践の場として運営されており、小学生から社会人を対象に、算数・数学・国語や対話による哲学授業を行っている。

【主な著作】
「我孫子丸刈り狂想曲」(『世界』、1992年)
「民知−恋知と公共哲学」(『公共的良識人』、2005年)
「キャリアシステムを支える歪んだ想念」(『立法と調査』、2008年)
「『楽学』と『恋知』の哲学対話」(金泰昌編著『ともに公共哲学する−日本での対話・共働・開新−』東京大学出版会、2010年)


福嶋 浩彦(ふくしま ひろひこ)
中央学院大学教授、「新しい公共」円卓会議構成員

【主な経歴】
1956年 鳥取県米子市生まれ
1975年 筑波大学入学(1981年除籍)
1983年 我孫子市議会議員
1995年 我孫子市長(2007年1月まで連続3期12年務める)
この間、全国青年市長会会長、福祉自治体ユニット代表幹事などを務める。
現在 中央学院大学社会システム研究所教授、東京財団上席研究員、
新しい公共をつくる市民キャビネット共同代表
※ 本年8月より消費者庁長官

【主な著作】
『市民自治の可能性〜NPOと行政 我孫子市の試み〜』(ぎょうせい、2005年)
『公開会計改革〜ディスクロージャーが「見える行政」をつくる』(日本経済新聞出版社、2008年)(共著)
『公民連携白書2009〜2010』(時事通信社、2009年)(共著)




B パネルディスカッション  議事録

富山哲雄(行政監視委員会調査室室長)
 行政監視委員会調査室の富山でございます。本日は「新しい公共」について考えると題しましてパネルディスカッションを内閣委員会調査室と共催で企画をいたしました。
 公務多忙な折、日程をやり繰りして出席していただきました4人の先生方、本当にありがとうございます。
 さて、鳩山前総理が昨年の所信表明演説において、また今年1月の施政方針演説において「新しい公共」という考え方を述べています。「新しい公共」という言葉が注目されつつあります。前総理は演説の中で、「『新しい公共』とは人を支えるという役割を官と言われる人たちだけが担うのではなく、教育や子育て、町づくり、防犯や防災、医療や福祉などに地域でかかわっておられる方々一人一人にも参加していただき、それを社会全体として応援しようという価値観です」と述べています。
 また、「市民やNPOが身近な課題を解決するために活躍していますが、こうした人々の力を『新しい公共』と呼びます」としています。そして、こうした考え方は、次の菅内閣の下においても踏襲されているわけです。そこで改めて「新しい公共」とは何なのか、「新しい公共」の担い手はだれなのか、その背景を探ることも大きな論点になるように思います。
 いずれにいたしましても、本日は先生方から貴重な御示唆をいただき、国会からの情報発信という形につながっていけば幸いに存じます。
 それでは、本日御出席のパネリストの先生方を御紹介いたしたいと思います。皆さま方から向かいまして左側から名城大学教授の郷原信郎先生です。次に中央学院大学教授の福嶋浩彦先生です。次に早稲田大学教授の竹田青嗣先生です。そして、白樺教育館館長の武田康弘先生です。


○荒井達夫(行政監視委員会調査室首席調査員)
 それでは早速ディスカッションに入らせていただきます。まず郷原先生から自己紹介がてら、「新しい公共」についての感想なりお考えなりをお聞かせ願いたいと思います。大体1人10分以内くらいでお願いしたいと思います。


○郷原信郎(名城大学教授、総務省コンプライアンス室長)
 御紹介ありがとうございました。郷原です、よろしくお願いします。
 私はこの略歴の紹介の中にもありますように23年間検事の仕事をしておりまして、検察組織に属した最後のころは法科大学院に派遣され、組織に片足を突っ込んだ状態でいろいろな活動をしております。その活動がコンプライアンスというテーマになりまして、コンプライアンス研究センターという組織を立ち上げ、企業や官庁のコンプライアンスの問題に携わってきました。
 4年前に検察の世界から脱出を果たし、それ以降は弁護士としてコンプライアンスの問題に取り組み、具体的な周辺調査とか、開発コンサルトの検討などを手掛け、なりわいとしております。そういう意味で、私の一番仕事の中心は何かと言われたら、コンプライアンスということになります。

 このコンプライアンスという言葉に対して、従来、単純に法令遵守という言葉に置き替えるのが一般的だったのですが、私はそれが間違っていることを強く訴え続けてきました。法令遵守というのは、特に「遵守」という、とにかく守ればいい、守ることの自己目的化というか、世の中をいかに駄目にしているかということでありました。

 そういう観点から、問題だと思うことに関しては遠慮なく批判をしているのですが、昨年の春から批判の対象の大部分が検察に向けられまして、検察の在り方というよりも、その検察に対する世の中の見方に大変な誤りがあります。むしろ、検察という組織が一体どういう組織であって、どういう考え方で、どういう仕事をしているのかいうことをみんなもっとよく理解し、考えないといけないと思います。絶対的に無条件に正義のように思いこんでいるというのが、この問題に対する世の中の認識のゆがみであるということで、私としてはコンプライアンス的な観点からこの検察問題を取り上げてきました。

 そういう私の今までの経験というのは、役所に所属した形の仕事で法務・検察という組織です。その外でいろいろな官庁のことを含む組織の在り方を考えてきたのですが、今日のテーマであります「新しい公共」というテーマもあろうかと思いますが、非常に漠然としたテーマなのです。私なりにこの「公共」というのを考えてみますと、先ほどから申し上げていますコンプライアンスというのは何なのかと言うと、私はずっと「社会の要請にこたえること、社会の要請に適応することがコンプライアンス」ということを言い続けてきました。

 その後、社会の要請にこたえることとコンプライアンスをとらえると、このコンプライアンスということを通じて世の中の人たちがいろいろなことを理解し分かり合えるというのが本当は理想の社会になっていくだろうし、それが官の世界、民の世界、市民の世界共通のものがないといけないのではないでしょうか。今までそういうようなコンプライアンスのとらえ方ではなくて、とにかく日本の国に昔からガリガリに張り巡らされた法令とか規則というものを単純に守っていく方が、公(おおやけ)のためになるのだと考えて、何もそれ以上のことを考えなかった所に、それまでの日本社会の一つの病弊があるのではないかという気がします。

 例えば、私がずっと仕事をしてまいりました検察の中で、何を目的として、どういう仕事をしているかと考えたときに、昔は何も考えなくても、その職業である限り、自分がその組織の中で当たり前にやるべきことを愚直にこなしていくことが公(おおやけ)のためになるのだという姿勢で仕事をしていけばよかったのではないかと思うのです。世の中が非常に大きく変化するようになる中で、改めて本当に自分が行っている仕事というのは、何を目指して行うべきなのかということを一度みんなが根本的に考え直してみないといけない状況になってきました。
 例えば検察のように、刑事司法という昔から変わらない同じような考え方で仕事をやっていると思われる領域の中においても、本当に伝統的な検証に殺人や強盗、そういう犯罪者、典型的な明らかに犯罪と思える行為を処罰するという世界です。言ってみれば世の中、周辺部分、余り市民生活とか経済活動に関係ないのです。それとは関係ない後始末をすればいいという領域です。

 そういう所で、犯罪を処罰することは当たり前だと思ってみんなが仕事をしているうちに、実はその刑事司法という領域がどんどん社会とのかかわり方が変わってきて、今では刑事司法の領域に、例えば一番典型的なのは政治資金規正法違反ということで、世の中で一番政治的な権限を持っている人の事件を一つの法律を適用することによって摘発します。それが政治的にも社会的にも非常に大きな影響を及ぼします。

 あるいはライブドア事件という事件で、強制捜査によって翌日、東京証券取引所全銘柄がシステムダウンするという非常に大きな社会的、経済的影響を及ぼすような捜査上のアクションというのが当たり前になってきているということになると、自分たちのやっていることの領域と効果というものを考え直してみないと、自分たちがそれに対してどういう姿勢で臨むべきことかということが本当は変わっていくのではないかと思うのです。

 ところが、組織というのは通常―官の組織はみんな基本的には今までそうだったのですけれども―閉じていて、その身内の論理だけで考えることができると、その違いに気が付かないまま昔どおりの仕事をしてしまうということが続いてしまいます。
 そういう意味で、公(おおやけ)の在り方を自分たちの仕事の領域の中でもう1回外に目を開いて考えて直してみないといけない状況にいろいろな組織がさらされているという気がします。

 先日来、大変な問題が起きています日本相撲協会、相撲の世界です。結局、相撲という世界の内部だけでものを考えられていられる間は、内部だけのことがよく分かっている親方がいて、その親方の中の偉い人が理事長をやっているという、そういう組織の在り方で済むかもしれません。しかし、そういう環境でどんどん世の中の周りが変化していきます。公的な色彩を持った組織は、例外なく世の中から、情報の開示と説明責任が求められます。何か問題が発生したときに、それに対してしっかりとした答えができないといけないということになってくると、全くその組織自体が、社会から相手にされなくなるようなひどい状態になってしまうのではないでしょうか。

 そういったことがいろいろな所で、これからも起き続けていくのではないか、そういう大きな変化の中で、この公共の在り方を身近な自分たちの仕事の場の中で考えていくべきだと思います。取りあえずこの辺にします。


○荒井
 次、福嶋さん、お願いします。


○福嶋浩彦(中央学院大学教授、「新しい公共」円卓会議構成員)
 福嶋です、どうぞよろしくお願いいたします。私は2007年の1月まで千葉県の我孫子市で市長をやっておりましたけども、1人が余り長くやるのは良くないと考えていたので―とはいっても12年やったのですけれども―3期で卒業させてもらって、今は大学やシンクタンクに籍を置きながらいろいろな活動をしています。

 「新しい公共」とのかかわりは、鳩山前総理の下に作られた「新しい公共」円卓会議の委員をさせていただいていましたし、全国のNPOが作った「新しい公共をつくる市民キャビネット」という組織の共同代表をやっています。ということで、私自身「新しい公共」と極めて今つながりを持って活動をしているのですが、「新しい公共」という前に、つまり新しいとか古いとかと言う前に、公共というのが市民の公共しかないのです。公(こう)とか公(おおやけ)とか、公共というのは市民の公共しかないのです。市民の公しかないということをまずきちんと確認しなければいけないと思うのです。

 官の公共、役所の公共、政治家の公共などというものが存在してはならないのです。「そんなものはあってたまるか」ということだということをきちんと確認をしなければいけないだろうと思います。

 では、政府や行政というのは何だと言うと、市民が市民の公共を作る上で必要になる道具だと思うのです。なくていいということではなくて、きちんと役に立つ道具でなればいけないのです。公共というのは市民の公共しかないのだと思うのです。「新しい公共」というのは、市民の公共そのものだと思います。

 なぜ当たり前の市民の公共を新しいと言わなければいけないのかと言うと、それは残念ながら今までの公共が、本来の市民の公共ではなかったから市民の公共は新しいという言葉で呼ばざるを得ない状況があるのだろうと思うのです。
 結局、今までの公共というのは、官が全部やっていたと言うよりも、官が支配していた公共だと私は思っています。官の公共の一部とか隣にNPOやNGOが中心になってやる「新しい公共」を作るという話ではないと思うのです。公共を丸ごと変え、公共を丸ごと新しくしていって、市民の社会を創造していくのが「新しい公共」ととらえる必要があると思います。

 もう少しそれを具体的に見ていくと―円卓会議でも議論したことですけれども―公共という領域、私たちの市民社会という領域には、大きく言って三つの領域があるだろうと思います。一つはこれはいろいろな呼び方をしますが、コミュニティや地域という領域です。住民の自治会や町内会、あるいはボランティア、地域の助け合いなど、そういうコミュニティという領域は私たちの重要な領域でしょう。
 もう一つは、市場という領域があります。企業が営利活動をする市場の領域。これも私たちの市民社会には非常に大きな意味を持ち、なくてはならない領域です。
 三つ目の領域は税を使って活動する政府の領域があります。この三つの領域が私たち市民社会の重要な領域としてあるということが言えると思います。「新しい公共」を作っていくためには、この三つを全部変えるのです。コミュニティを変えます。コミュニティを変えるというのは、コミュニティのいろいろな活動を充実させ、強くしていき、そしてコミュニティの中にきちんと公共的なサービスや事業を担っていくような市民の事業主体も作っていくことです。
 これはNPO法人が今でき、特に事業NPOと言われるようなものをもっともっと強くしていこうとか、あるいはワーカーズコープとかワーカーズコレクティブといったような主体を法制化していくという取組も、今されていますけれども、そういったことも一つだと思うのです。コミュニティを強くしてという意味で、コミュニティを変える。

 それから、市場も変えないといけないだろうという議論です。これは円卓会議で随分しました。企業がちゃんと社会的責任を果たす市場にしていくことです。これは企業としてボランティア活動をやるとか、環境の分野に寄付をするとか、いろいろな活動はありますけれども、そういう社会貢献活動も重要ですが、むしろ企業本体の活動できちっと社会に役立っていく、社会の利益になる物やサービスを提供することによって収益を上げて、持続的に企業が市場の中で活動していく、そういう市場にしていくことです。

 機関投資家や個人投資家の資本市場も単に経済リターンだけを求めて莫大に投機的なお金を投資して、それで莫大な利益を上げるということではなくて、経済リターンを求めるは当たり前ですけれども、同時にその企業の社会的価値とか、存在意義もきちんと評価をして投資をしていくように変えていかないといけない、ということを円卓会議の中でも議論したのですが、そうやって市場も変えていく。
そして、政府を変えることです。これは一言で言えば、きちんと主権者である国民、主権者である市民の意思に基づいて動く国民の政府、市民の政府にしていくことです。特に「新しい公共」の実際の分野というのは地域が大きいので、地方政府をきちんと市民の政府にしていくということが重要だろうと思います。―私の一番の専門分野はここなのですが、今日はそのことは、後で議論で少し触れられたら触れますけれども、一応置いておきます。―そうやってコミュニティを変え、市場を変え、政府を変え、そしてその三つの関係性も変えるというのが重要だと思うのです。四つを変えて初めて新しい公共が実現できるだろうと思います。

 関係性というのは何かと言うと、今までの公共と言うと、要するに主権者である市民、あるいは国民の意思と乖離した官が一方的な決定権を持って公共を仕切り、―支配していたと言ってもいいかもしれません。―主権者の意思と離れた官が一方的な決定権を持って公共を仕切り、自分の勝手な都合で民に下請けに出していたというのが、今まで従来の公共でなかったのかと思います。

 ですから、官が一方的な決定権を持って勝手な自分の都合で民に下請けに出していたのです。この構造を変えないといけないのです。この構造を中央政府、国のレベルで見ると、結構、過大コストで民にやらせています。その民というのは、官僚のOBの皆さんが天下りをしている公益法人がいっぱいあって、そこには過大コストで仕事を官がアウトソーシングします。
 そこでは、天下りと言われる官僚の皆さんが平均2,000万円ぐらいの役員の報酬をもらったり、何回も退職金をもらったりするような世界があります。こういう公益法人は極めて排他的で独占的な地位を持っていて、そういう所にはほかの民間の企業やNPOは参入できない構造でやってきていると思います。ですから、刷新会議の事業仕分けでは、この前はここに集中してメスを入れたと思います。

 一方、地方の自治体に目を向けると、これと同じような構造もありますが、自治体が公社を作って、職員OBが行くような似た構造はありますが、どちらかと言うと自治体に行くと、安上がりに公共サービスをやってくれる存在としてNPOや民間企業も含めていまして、過小コストでNPOや民間企業にやらせています。そして行政のコストを下げています。行政のコストを下げたいという一方的な都合で民を使っているという構造がとても見られます。国の構造と自治体の構造は少し違いますが、いずれにしても官が自分の都合で民に下請けに出すという構造を変えないといけないだろうと思います

 ですから、もう1回最後に繰り返せば、コミュニティを変え、市場を変え、そして政府を変えるのです。そしてこの三つの関係性を変えることです。民と官の関係性と言ってもいいのですが、関係性を変えるということで、新しい公共、市民の公共ができるだろうと思います。もう少し具体的な取組については、また後で話をさせていただきます。


○荒井
 では、次に竹田青嗣先生です。

○竹田青嗣(早稲田大学教授、哲学者)
 竹田です。私は20年間ずっと哲学を教えている哲学の教師です。なぜ今ここにいるかと言うと、私は40年ほど前、マルクス主義者でした。近代社会というのは、共和主義、民主主義、そして自由経済、政治のシステムと経済のシステム、この二つで成り立っているのです。ここにはいろいろいい所もありますが、非常に大きな問題点があって、それの一番中心を言うと格差がだんだん拡大しているという変な原理があるのです。

 マルクスという人は、初めはかなり直感的に「格差の拡大というのをどうにかしないと、これはしまいに近代社会は―出発点はいい所があるから―逼迫してしまうはずである。あるいは、カタストロフィー、悲惨な所に陥るであろう。何とかそれを調整できる原理はないか」ということを考えました。私はその考えは―若いわけですから、純粋に何が正しいかというような観点から行くと―とても正しい考えだと思いました。

 ところがずっとやっているうちにいろいろな問題が出てきて―もうその話はできませんが―マルクス主義の根本的な考え方は、これを何とかしようという考えはいいのですが、そのプランは非常にまずいのです。どこがまずいかと言うと、人間を幸せにするという点でもまずいし、もう一つ大きいのは自由をどうやって確保するかについての展望がないのです。

 それで、その後私も困っていろいろなことを考えて、現代思想ではマルクス主義に替わるような新しい良い考えはないか、幾つかの考えが出てきていますが、私はやっているうちに、「待てよ、近代哲学の方が優れているのではないか」という考えを持ちまして―これも詳しくはやりません―今、象徴的に言うと、近代思想、特に社会思想の出発点はホッブズとロック、ルソー、カント、ヘーゲルですが、そのうち特に私はルソーとヘーゲルの考えがとても現代社会に大事なのではないかと思うようになりました。そのことをここ10年ぐらい書いていたのです。

 なぜかと言うと、今ルソーとヘーゲルという人は、哲学の中でも、現代思想の中でもかなりぼろかすに言われているのです。この人たちはもう用は終わったというわけです。私は今もずっと読んでいますが、ルソーやヘーゲルを読み直してポストモダン思想やアメリカのリベラリズム思想やいろいろ読み直して、私の考えはルソーやヘーゲルの考えの方が非常に正しいと思います。その要点ももう一つだけ言います。

 今、近代社会はいろいろ問題がありますが、近代社会の原理をこのまま展開していって人間社会の未来につなげていかないといけないのです。ほかに今のところ大きな自由市場経済と民主主義というこの二つのシステムを軸にして、前に進めていく以外には手がないのです。そうだとすると、この今の近代社会―市民国家と言いますが―この市民国家が持っているいろいろな問題点を市民国家自体が内的な原理で少しずつ良くしていくような考え方がないといけないわけです。なければ、もうこれは人類の終わりなのです。実際にこのことに無自覚だと今人類は終わりに近付いているのではないかと私は思っています。しかし考え方はあります。

 そこで私は、今流通しているいろいろな考え方に対して、例えばルソーという人は全体主義の親玉だとか、いろいろなことを言われています。あるいは「社会契約」という考えも非常に古い考えだとか言われています。それは理由ももちろんあります。しかし私の考えは、ルソーの社会契約や一般意志という考えは今、日本だけではなくて、あらゆる先進国がもう一度基礎に置き直して自分たちの社会を市民的に、民主的に成熟させていくための一番中心の考えではないかというのが私の考えです。
 そういうことをあちこちに少しずつ書いていたら、司会の首席調査員の荒井さんが、「これちょっと面白いから一度話をしてくれ」ということでお付き合いができました。私は「新しい公共」と、政治の世界にはほとんど素人です。もちろん政治学の基本ぐらいは、哲学ですからやりますけれども、詳しいことは素人です。

 しかし、「新しい公共」の概要を見ると、個別的にはいろいろ大変興味の深い所がありますが、しかし私の観点から言うと、一番大事な点は公共ということをどう考えるかということです。今先にお2人の福嶋先生と、それから郷原先生がお話になったのは私にはとても納得が行くことが多いですが、「その一番中心にやはり公共というもの、あるいは市民社会の基本の原理というものは何かということを軸に置いて考えるともっといいのではないか」というのが私の考えです。

 それで恐らく私の役割は、この問題を考えると一見非常に明快な考えでもいろいろなことを言う人が出てきます。世の中には―私もその一員ですが―学者という人がたくさんいて、議論をし出すと、とにかくあちこちからいろいろな議論が出てきて、すぐ問題の中心が分からなくなってしまうということはとても多いのです。

 私は若いころからそれを結構いろいろ経験してきました。それは余りここでアカデミズムの批判をしても何の意味もありませんが、私としては、できるだけそういういろいろな議論が出てきたときに、問題を簡明にして、問題を簡明にするということは、普通の人がきちんと考えられるということです。

 私は余り政治の裏側のいろいろなことを読みません。週刊誌もなるべく読まないようにしています。テレビです。テレビでその政治家の顔を見たら、この人はまずまずだな、この人は結構行けているのではないかなと思います。時々官僚の裏側とかいろいろなことを読んでも、私はテレビで見ている一般的な印象の方を比較的信用するのです。

 なぜかと言うと、そのことは結構大事なことで、一般の人はそんな裏の読みをする余裕もありませんし、そうやって一番上に出てきた所でいろいろなことを判断します。その判断になるべく簡明な考え方の図式を幾つか与えて、さあどれがいいか皆さんで選んでください。これが民主主義国家の基本像です。

 ですから、学問の場合やるのだったら、もちろん細かな難しいことも大事ですが、できるだけ簡明に考えて、その簡明な考えの幾つかのポイントを―考えは一つというのではないです―こういう考えはこういう考えだ、それが今、根本的に一番とても対立しているのです。そのことを提示して、普通の人が普通に考えられる材料を出すというのがとても大事なので、私の役割はそういうことかと思っています。

 これで終わりたいと思います。


○武田康弘(白樺教育館館長、哲学者)
 お配りしたものがありまして、これは古い18年前の「緑と市民自治」というミニコミ紙です。これは我孫子市の全域に配布したものですが、私と福嶋さんがこれを編集して作って、文章から写真からレイアウトから全部をやって、これを新聞折り込みで発行していたのです。福嶋さんが市会議員の時ですので、市会議員の給料をためて発行費用にしていたのです。ここにパネルディスカッションの案内がありますが、これは偶然に佐野さんという私の哲学研究会に熱心に通っていた人で、オラクルという会社の初代社長になった人です。この佐野さんが郷原さんに今日替わっただけで、後のメンバーは一緒なのです。この中身も実は普通の復権というように書いていたのですが、今、竹田青嗣さんからお話がありまして、何か特別な知によってということではなくて、普通と言っていることの意味を深めて考えてみようというシンポジウムがあったのです。

 哲学と言うと、すぐ古代のアリストテレスの哲学ということから始まります。NHKで人気の番組になっているサンデル教授とかいって、ハーバード大学の世界のエリートを育てるようなことを言って、正義か道徳かということでやっているわけです。そこでは哲学者の名前がどんどん出てきます。先見的なカントの哲学の観念論に対してイギリスの経験論のようなものを出してきたり、現代思想の社会思想のセンとかロールズの話をしたり、ぽんと振ってギリシャに戻るわけです。「政治には目的があるか」とやっているわけです。何となくそういうのを聞いていると、賢くなったような気になったりして結構番組が人気だとか言うのですが、私はあれを見ていて、これは弁論術のショーでややアメリカ的だなと思って見ていました。

 そういうのは違って、公共の問題を考えると言っているのは、これは普通の人です。ここにお集まりの方も、それぞれの職業としてたまたま今、国会の官に勤めています。でも辞めるかもしれません。ところがそういうことではなくて、自分の家に帰れば地域の住民の1人であり、お父さんであったりお母さんであったりするわけです。そのレベルで考えないと、公共と言っているのは意味をなさないと思うのです。東京大学出版会で公共哲学のシリーズの本をずっと出していて、私はそこの関係者の人たちと随分交流があって、ずっと議論を何年間かしてきました。

 ところが、その代表的な1人は、「この公共哲学というのも学者の運動だ」と規定しているのです。でも、公共の哲学と言って、「学者の運動だ」というのは随分ひどい話というので、私と激しくぶつかるということがあったのです。大元に戻して公共とは何かと考えてみようと思うのですが、考えてみた結果は今、福嶋さんが話しましたように、「新しい公共」ということで、円卓会議でいろいろな結論が出ていると思うのです。

 公共は難しい話ではないのです。自分1人のプライベートなことではなくて、みんなの何かしらの徳、良いこと、皆さんにみんなにかかわることを公共と言っているだけの話で、小学生の高学年から「公共」という言葉はみんな知っています。
 ところが子供たちと話をしても、あるいは学生や主婦の方や会社員の方と話をしても、何か公共と言っていることが遠いのです。公共と言うとすぐ、「役所のことね」と言います。「役所のことでしょう」と言うから、「いや、そういう意味ではない」と言っても、なかなかピンとこないのです。

 これは先ほど福嶋さんが話したように、新しいとか古いとか言う前に、「そもそも私たちの社会や国というのは一体だれが作っているのですか」という話なのです。それは一部の政治家が作っていたり、あるいは学者や評論家が作っているわけではないのです。主権者と言っているのは、日本国憲法になってもう六十何年経つわけですが、主権者は一人一人の住民、国民なのです。私たちが国を作っているのです。私が国を作っているのです。あなたが国を作っているわけであって、国がどこか別にあるわけではないのです。

 ところが教育の中でも、このことはきちんと自覚できるように教えることが行われていないのです。このことは結局、日々の実践としてそういうことがなされないから、子供たちも分からないのです。子供たちが分からないから大人になっても分からないのです。今、学校でやっているのは、読み書き計算と言っていることの緻密化なのです。それだけなのです。もちろんそれは重要です。重要だから私もそういうことを子供たちに教えているのです。

 もう一つ大事なのはコミュニティです。自分たちの社会を―社会というのは、この場合、例えば小学校であれば小学校の学校です。学級や学校です―その中で考えて話をして決めていくのです。こういう能力を付けることが授業としてきちんと中に入ることがないと、民主制の社会はやっていけないのです。皆、客観テストで―いわゆる客観知と言いますが―ドリルに答えが書いてある問題だけずっとやってきて、何点か点数が上だったら良い高校や良い大学と言われる所に入ってエリート職業になるのです。そういう競争だけやっていて、「公共」と言ったって、「みんなで」と言ってもできるはずがないのです。

 もう一つは、やはり今の資本主義社会の問題もあります。放置すれば格差がどんどん広がります。うんと格差がある所で今ワーキングプアーと言って、年収が200万円以下の人が大変多いです。そういう社会の中で、片や官の人たちの中には1,000万円以上の人、さらに2,000万円以上、日銀総裁三千何百万円なのです。これは政治家と違って諸経費がかかるわけではないのです。丸々入ってしまわけです。それは全部税金なのです。私などは年収だけで言うとワーキングプアーの部類ですので、私塾などをやっているとそういうことになってしまうのです。それは驚くほどの金額なのです。そういう問題をクリアにしていかないと、私はみんなで社会、みんなで国を作るんだと言っても無理だと思います。やはりそうしたらエリート支配みたいになってしまうのです。

 ですから、ここで私は18年前に普通の復権という題でディスカッションをやって、そこでは公共と言っていることを作っていくための更に原理となるものを探ろうとしたわけです。そういう意味での思想哲学と言っていることを竹田青嗣さんが『現象学入門』という本を書かれていて、大変面白い優れた見方をされていたのでお呼びして一緒にディスカッションをやったということなのです。

 私は2年半前にパネルディスカッションで、「公共哲学と公務員倫理」というのがやはりここでありました。これはコピーですけれども、『立法と調査』の特集号として出たのです。びっくりしたのは、そのまま何の編集もなしにしゃべったもののそのままという形で全部載っているのです。ここで先ほどやはり福嶋さんも強調していましたが、公(おおやけ)と言って東京大学出版会の最高責任者の金泰昌(キムテチャン)さんが、「公(おおやけ)という領域がある」「これは官僚世界、官、これを公(おおやけ)だ」と、官僚政府のことを言っています。金泰昌の場合は、政府というのをどちらに入るかというのをあいまいにしています。「官僚がいろいろなことを日本の社会では仕切っていて、そのことを公(おおやけ)だ」と言っていて、「公(おおやけ)で官僚の人たちは国家のためにあなた方は尽くしている」、こういう言い方でした。それと、「市民的公共と言っているのは、別なのだ。これを区分けすることが大事」という主張でした。

 そこで私と厳しい議論になりまして、そのことがかなり面白い議論になったというので―その時ここに御出席いただいていた方は御存じでしょうが―そういうことがありました。その話で言っていることと、実はこの公共問題はずっと今日まで続いています。初めて出席される方はピンと来ないと思いますので、後でまたお話しようと思います。いろいろ話をしていると次々に出てくるので一応止めます。


○荒井
 今、武田康弘さんがまとめみたいな感じにもなってきたのですけれども、元々このパネルディスカッションの趣旨はもう既に紹介していますけれども、「新しい公共」は何なのですか。公共は何ですか、公(おおやけ)は何なのですか、官は何ですかということをきちんと考えないと、「新しい公共」は何ですかと言っても分からないのです。

 それが分からなければ何か具体策をやりましょうといったときにできないのです。NPOを使おうということしか出てこないのです。「NPOは大事だ」と言っているしかないのです。私は官の意識改革はものすごく大事だと思っているのです。そこの所を聞いてみたいのがとても大きなこのパネルディスカッションの趣旨です。
 今回は行政監視委員会調査室と内閣委員会調査室の共催です。そもそも行政運営はどうあるべきなのか、それを監視していくのはどういうことなのかというようなことから、この「新しい公共」というのを考えようということなのです。

 まず郷原さんをお呼びしたのは、郷原さんはコンプライアンスということを言っておられました。単なる法令遵守ではないのです。それは社会の要請に応じていなければいけないのです。それは行政が―行政というのは法律の誠実な執行ということなのでしょうけれども―その誠実な執行というのが、実はコンプライアンスの考え方に全く同じではないかと私は思いまして、それで話を聞いてみたいと思いました。
 まず、郷原さんにお聞きしたいのですが、公(おおやけ)は国家の利益と言う方もいるのです。一方で公共と言ったら、それは国民一般の利益で、これは違うのだと言います。公(おおやけ)と公共は違うのです。そこに官が入るのです。そういう発想というのは、まだまだ強くありまして、そう考えたときに特に検察にもキャリアシステムというのがございますが、そういう考えを取ったときに、本当に大丈夫なのかと思うのですが、いかがでしょうか。

○郷原
 先ほども言ったように、「国の形や社会の在り方は、余り変わっていない時代というのは、その組織には元々何かやるべきものというのがあって、それ以上考えなくても、そこの中で法令規則に基づいてやるべきとされていることをそのままこなしていくことが、公(おおやけ)の利益となり、それが社会の要請にもこたえること」ということで割り切ってしまって、何も考えなくてよかったという意識があります。ところがそれが「今そういう考え方では、全然トータルでは社会の要請にこたえることになっていないのではないか」ということを私はずっと言っている所なのです。

 世の中がどんどん複雑化、多様化してくると、いろいろな価値や要請というものが複雑に絡み合ってきますし、もう変化してくるので、そこを固定的に考えているわけにはいかないのです。もしそこが固定化できるのだとしたら、今、荒井さんがおっしゃったようなキャリアシステムというもうしっかりしたものがあって、自分はこの時代にはこういうことをやったらこういうように昇進していって、その後こういう管理職としての仕事があって、退職後はこういうようにして保障されるということをずっと予定していた方向で仕事をしていることが、すなわち社会の要請にもこたえることだったと思っているのですけれども、今の世の中はおよそそうではないわけです。

 そうするとその時々で、自分たちの組織にはどういうミッションが与えられているのか、社会が何を求めているのかということを考えなくてはいけなくなってきます。それがなかなかできないのが日本の組織の特徴だと思うのです。
 それが企業の世界は相当マーケットメカニズムの中でそういうやり方を変えていかざるを得なくなってきたのですけれども、官の世界はそれがなかなか変わらないのです。元々そういう根本的にものを考えるという習慣が余りないわけです。常に自分の目の前にある所管事項や規程というものに縛られて仕事をするのが当たり前だと思っていますので、その先にあるものを考えたことがなかったのです。

 しかし、それでもその官の世界はもう相当90年代以降、いろいろな変革を迫られています。情報公開を迫られるとどうしてもある程度のことをやらざるを得ないということで、相当変わってきたと思うのですが、先ほど申し上げた私がかつて所属していた検察という世界は、世の中に対して非常にある意味では大きな影響を今、及ぼすようになっている組織でありながら、組織がその中で自己完結してしまっているのです。情報開示も基本的に求められないし、説明責任についていろいろ議論があるのですけれども、「ない」と言っているわけです。「裁判所に対して説明責任を負えばいい」というわけです。

 そうした閉じた世界の中では、最初私が言ったような旧来のキャリアシステムが今でも維持されています。組織の中での論理がそのまままかり通っているのです。キャリアシステムというのは、やはり長期的に同じ価値観で仕事がしていけるという、ある意味で恵まれた官の世界と言っているのですけれども。それが今、全体的に非常に世の中に適合しにくくなっている状況だと思うのです。

 そこでもなおかつ世の中に組織が適合できていない根本に、そのキャリアシステムにしがみついている組織の状態があります。その一つの例が検察ということだと思います。その中身を言うと、まだまだそこまで極端な例でなくてもほかにもいろいろあると思うのです。


○荒井
 次に、福嶋先生の印象をお聞きしたいのです。我孫子市では提案型公共サービス民営化制度というのを実施されています。この「新しい公共」の宣言の中にそれが紹介されていました。だんだん全国的に広まりつつあって、これをやっていくときに、やはり官の改革ということも頭に多分あったのかと思うのですけれども。それと、これを実施する時に、どんな苦労があったのかをお聞きしたいのです。


○福嶋
 当然、民と官の関係性を変えるということは、関係性だけでは変わらないのです。関係性だけを変えようと思っても変わるわけがないので、民も変わるし官も変わるのです。お互いが変わるというのが前提でないと関係性も変わらないと思うので、その官の改革というのが当然前提にはあるわけです。

 今、郷原さんのおっしゃったことを引き継げば、私はずっと市長の時に職員の人たちに言っていたのは、とにかく「国の言うとおりにするな」「前例は変えろ」「隣やその隣の自治体と同じことをするな」と言ってきたのです。何をしないといけないかと言うと、「自分の頭で我孫子市のために何が必要か考えよう」と言っていたのです。
 自分の頭で考えないと市民とも対話できませんから、民とも関係など作れるわけがないです。市民からしても自分の頭で考えていない市の職員と話したってしょうがないわけで、「きちんと自分の頭で考えよう」と言ってきたのです。

 お尋ねの提案型公共サービス民営化制度ですが、この苦労というか、その制度自体は少し説明しないと多分分からないかと思うので、時間内でごく簡単に説明すると、要するにこれは、我孫子市役所がやっている事務も事業も例外なく全部の仕事です。数にすると1,100件ありましたけれども、それを全部棚ざらしにして、1,100件一つ一つについて、これはこういう予算をかけて、こういう人件費をかけて、こういう年次計画で、こういう目標を設定して、こういう内容でやっていますということを全部明らかにして、例外なくどれに対してでもいいから、この事業は、我孫子市役所がやるより自分の会社がやった方が、自分のNPOがやった方が市民にとっていい質の事業・サービスができるというものがあったら提案してくださいという制度です。
 提案があったら、それを外部の専門家とサービスの受け手の市民と行政の三者で検討して、市民の利益になるようになるなら移そうという制度だったわけです。

 一番この肝心な所は、今まで行政がアウトソーシングするときには、役所の中で、これは民間に任せても大丈夫だろうとか、民間に任せた方がコストが下がるだろうと、これは民間に任せようと役所の中で一方的に決めていたのです。役所の中で決めたものを、その後事業者を公募して入札したりプロポーザルして決めていたということがほとんどだったけれども、しかも、コストを下げるという動機でほとんどやっていたのです。

 コストが下がること自体は悪いことではないのだけれども、民間の力がいかされてコストが下がっていればいいけれども、コストが7割に下がった、その中身をよく見ると、今まで直営でやっていた時の市の正規職員の給料と、新たに民間がやるようになった、受託したとか、指定管理者を受けたNPOや企業で仕事をしている人の給料を比較すると3割カットされて、民間の側が7割の給料しかもらっていないのです。それで7割にコストが下がっているというものがほとんどなのです。行政はこんなことをやっていいのですか。こんなことを日常的にやっていたら、「同一労働・同一賃金を行政が先頭に立って壊している」と言われてもしょうがないです。

 安易にやっていいというわけではないけれども、本当に行政にお金がないならば、特定の事業を民間に移して、そこで働く民間の人の給料を30%下げるのではなくて、行政の全員の正規職員の給料を30%ではなく3%下げれば、はるかに財政的には節約にはなるはずです。本当にお金がないならこっちをやらなければならないわけで、コスト削減などという理由でやっていたらおかしいです。ですから、質で決めていきます。もちろん費用対効果はちゃんと見ないと、質がちょっと上がっただけでコスト10倍になったとしたら、それはほかにしわ寄せが行くので市民の利益にはならないから、費用対効果はきちっと見るけれども、質で見ていくということと、行政で勝手に決めないことです。一方的な決定権を行政は持たないことです。民と対話をして、どっちがやるかを決めることです。決める一番の判断は質ですということを制度化しようと思ってこの制度を作ったのです。

 私が市長の時代に79件集まって34件採用を決めましたけれども、要するに一言で言えば、この事業というのは、行政が自分の都合で民間に出したいものを出すのではなくて、民間がやりたいと思うもの、「この仕事だったら私たちはものすごく市民のために頑張ろうという意欲を持ってできるから、この仕事は是非やりたい」とか、「この事業だったら自分たちのノウハウを生かしてずっといい事業に組み替えられるから是非やってみたい」と、民間がやりたいと思うものを、きちんと民に移していくことです。行政が出したいものではなくて、民間がやりたいもの、これはかなり違うのです。民がやりたいものをきちんと民に移していくことです。

 言い方を変えれば、行政がやっている仕事を全部棚ざらしにして、民間の方から、「これは行政がやるよりこっちがやった方がいい、我々がやった方がいい」と民間の方から奪い取ってもらう制度です。この制度だけで民と官の関係性が変わるわけではなくて、一つの制度でしかないけれども、結構、肝の部分の制度だと思っていました。そういう取組もしたということです。よろしいでしょうか。余り苦労話という話ではないのですけれども。

○荒井
 順番に聞かせていただいていますけれども、次に竹田青嗣先生です。私は元々国家公務員制度や行政組織の方をやっていまして、今、行政監視委員会で行政組織全般を見ています。今、行政監視委員会、もちろん内閣委員会の方もそうだと思いますけれども。日本国憲法から統治機構全般をきちっと見て考えていくという方向性がとても薄いのです。私は議員を補佐する仕事をやっていく中で、とてもそういう発想は必要だなと思っていました。そういうことをやっている中で政権交代が起きたのです。
 そしたらそこで言われるのは、国民主権や主権在民とか、それを実現するための統治機構というのを盛んに言われ始めたのです。行政を監視するための仕組みをどうするのか。国民の目をどういうように反映させていこうということなのです。これはやはり日本国憲法が想定している統治機構はどういうものなのかをきちんと考えなければいないと考え始めまして、そういう話をずっとここのところやってきました。

 参考資料でお配りしたものに「新しい公共宣言」という抜粋というのがありまして、線を引いてあります。「政府に対して」と言っていて、そこに「新しい公共宣言」の方々の考え方が凝縮しているのだと思います。
 要するに、「政府が『国民が決める社会』の構築に向けて具体的な対策を採る」「『国民が決める社会』の構築だ、そのためには、政府は、国民や企業から、『公共』の核になる部分を委任されているという自覚を持て」「国民一人一人、そして、各種の市民セクターや企業など、様々な構成員が、それぞれの立場で『公共』を担っていることを認識しろ」ということなのです。これが基本なのだと。片や法制的に見ると日本国憲法は当然のことながら、主権在民ということを前文で書いてあって、公務員はどういうようにあるのかと言ったら、「全体の奉仕者で一部の奉仕者ではない。憲法を守れ」と。

 国家公務員法を見ると、「公務の民主的且つ能率的な運営を保障する」というのが究極の目的です。「全体の奉仕者として、公共の利益のために働け」と書いてあるのです。ところが、これをちゃんと説明したものがどこにもないのです。それでいろいろ読んでいったのですけれどもないのです。

 私はこの竹田青嗣さんの『哲学ってなんだ』というこの本をたまたま読んでいて、ここに社会契約の説明が出てきているのですけれども、ここに近代市民社会の基本原理はこういうことですよということが簡明に書かれていて、これが国家公務員法の第96条の「すべて職員は、国民全体の奉仕者として、公共の利益のために勤務し、且つ、職務の遂行に当つては、全力を挙げてこれに専念しなければならない」。これを理解する前提の思想として非常に大事だということを思ったのです。それまでこんなに分かりやすいのを読んだことがないのです。ほかのものはいろいろなことを書いてあるだけだという感じがしています。

 それで、竹田青嗣先生にいろいろお聞きするようになって、実は1年半ぐらい前に竹田青嗣先生が講演をやった時に、「近代市民社会の基本原理というのが、公務員の制度を考えるときに非常に大事だ」という話を伺いました。ここにはいらっしゃらないのですけれども、人事院の企画官の方が、その時たまたまいらっしゃって、やはり私と同じ感覚を持って、ものすごく大事だということを言っていたのです。それで、そこの所をかいつまんでお話していただければありがたいと思います。


○竹田
 今ちょうど横で字違いの武士の武田さんの方から参考資料を見せていただいて、私はこれは初めて見たのですが、ミネルヴァ書房『よくわかる憲法』という本なのですが、そこの36ページに「ルソーの『社会契約論』は」という所があって、「ルソーは社会契約に参加する国民は自分自身はそのすべての権利ととともに、国家に対し全面的に譲渡しなければならないと言っている」「このようなルソーの思想は人権宣言と180度異なるものである」と書いてあるわけです。これはもう私と全く反対の考えです。今、私は見てびっくりしたのですが、これは憲法の本ですから、恐らく皆さんが憲法を勉強するようなときの基本の一つなのではないかと思いますが、私はそれほど驚きません。

 なぜなら私は哲学の分野でも、政治学の分野でもルソーは、かなりこういう批判をされているというのはよく知っています。一番有名なのは、バートランド・ラッセルという人です。この人はこういうことを言い出した初めです。バートランド・ラッセルについては有名な人なので―これも余り言うと時間がありませんが―私はこの人の近代哲学観はかなりひどいと思っております。しかしこれを議論すると大変なのです。

 そこで私は一つごく簡単になるべく分かりやすくルソーが言っていることは何かということとを言ってみます。ルソーはそれまでの社会は、必ず第一人者(覇権を持った人)が国のルールを独占するのです。その人が国の権威とルールと武力を独占することには意味があって、そうしないとその国は外の国家の脅威に対して防衛することができないわけです。ですから、近代以前の社会は―いろいろアジア的とかヨーロッパ的とかいろいろありますが―どんな社会でも基本はこういう三角形の専制直接支配構造になっているのです。例外はほとんどありません。それで王様が皆さんが作った生産物の3分の1から半分を取って、それで軍隊を整備し、インフラを整備して国を守ってきたのです。これが国家の存在理由でもあるのです。

 ホッブズがそのことを哲学的に一番初めにはっきりさせたのですが、ルソーはこう考えました。確かに統治というものはしょうがない。王様に全権を与えてしまうというのは人間の自由から言うと、非常に大きな矛盾ではあるが、しかし、そうしないと各人が自由を主張し合ってどうなるかと言うと、結局、普遍戦争状態ということです。みんなで戦い合うということで収まらないのです。戦い合うとどうなるかと言うと、戦いが第一人者を選び出して、彼が一番強いから彼の言うことを聞こうというので、また大きな支配国家ができるのです。こういうことを人類は概算すると1万年ぐらい繰り返してきたのです。

 それでルソーはこう考えました。「国家というものをきちんと守って、かつ各人が自由であり得るその可能性の原理は一つだけある」。本当に一つかどうかと言うといろいろあるのですが、私が考えたとき今のところまだ一つしかありません。それは、一人一人の人間は自由であるということを自覚して、なぜならば昔はそういう自覚はなかったのです。キリスト教が全盛で人間は被造物だったので、そういう自覚はなかなかなかったのです。「取りあえず自覚して、相手もまた、どんな人間も自分と同じく自由であるということを認め合う。認め合った上で、みんなでその自由の権限を集めて、契約して自分たちの政府を建てる。戦いによって1人の王様を選ぶのではなくて、相互契約によって、社会契約によってルール権限者を1人選び出す」という考えです。

 この考えは、ルソーはまたその後いろいろなことを言っているので、それについてまたいろいろなことを言う人がたくさんいますが、この考えを一番シンプルにするとどうなるかと言うと。「我々はいろいろ身分も能力も資質もみんな違う人が集まって、ここでフェアなゲームをしましょう」というのと同じです。
 フェアなゲームをするときにどうなるかと言うと、我々にはお金持ちもいたり、力の強い者もいるけれども、そういう背後は全部捨象して、お互いが相手を抽象的な自由な人格として認め合うのです。ただプレーヤーとしてだけ認め合います。それで、全員で相談して、こういうルールでやりましょうというゲームのルールを決めて、そのルールの結果は、それは勝ち負け多少あるけれども、しょうがないです。そのゲームが楽しい限り、そのゲームをみんなでフェアにやりましょう。これはゲームです。ゲームにおいてルールの下における対等とか、それからこのゲームが全然面白くなくなったらだれか1人勝ち、完全に1人の人だけが勝ってたくさんの人が面白くないのであれば、ルールをもう一度みんなで変えて―これはルール変更の権限ですが―そのルール変更の権限も全員が対等に持っているのです。これがフェアなルールというものの理念型です。

 もう一つ大事なのは、このルールを運営する人、それを選び出します。我々はそれをアンパイアーとか、ジャッジとか言います。ジャッジは何をするかと言うと、このルールがフェアに運営されているということをいわば監視しているわけです。このジャッジやアンパイアーの役割は、ルソーの言い方だと、「このゲームをフェアな形でやろうとするゲームの参加者の全員の意志です。これを一般意志と言いますが、一般意志をきちんと代表しています。もっと簡単に言うと、特殊意志につかないのです。必ず全員に配慮、対等に配慮していて、特定の人に配慮しない」。これは当然のことです。我々ゲームをやっているときは当然のことです。アンパイアーやジャッジがそういうフェアな一般意志を代表することを忘れたら、アンパイアーやジャッジであるということの資格を喪失するのです。ルソーはそのことを、「一般意志は常に正しい」と言いました。一般意志を代表している限り政府は正しいです。一般意志を代表することができなければ、政府はその正当な資格を失うわけです。そのことを一般意志は常に正しいと言ったのです。そうするといろいろな人が―ルソーの書き方も余り良くない面があるのですが―ルソーは、「一般意志は常に正しい」と言っているわけです。そうすると政府は常に正しいことになるのです。「ルソーの一般意志は正しいが、政府の絶対権力を擁護するものである」というのがルソー批判の今までの類型です。

 もし皆さん興味をお持ちであれば、ルソーの『社会契約論』はそれほど難しくありませんから読めます。「竹田はこんなことを言っていたぞ」と読むと、なぜか不思議な具合に、なるほどそういうように言っているなと読めるのではないかと私は信じます。
 それで、それは近代市民国家の基本形なのです。大変シンプルです。もちろんそれに理屈を付けるとややこしくなりますが、このことは、現代の民主主義国家の一番基本の憲法というものの基本です。「憲法というのは何かと言うと、一般意志が書かれてあるのが憲法だ」と考えるのが一番OKです。それで、憲法は一般意志に背くようなことが書かれてあれば、その憲法としての資格がないわけです。

 もう一つ言うと、憲法は人民を縛るのではなくて、統治者を縛るのです。人民に基底を置くのは法律です。憲法は一般意志の表現ですから、統治者に対してこういう形で一般意志を常に表現しているかどうかなのです。このことが「新しい公共」の問題にも、官僚とか、そういうものがどうあるべきか、ということと全部かかわってきます。
 しかし、これは私の分かりやすい仮説を取りあえず置いておきたいと思いますが、これが「みんなで契約をしてフェアなゲームをする。ルールの下に常に対等である。全員の一般意志がいつでも一番よく代表されるように統治権限者はそれを務めないといけない。そうでなければ政府は正当性を失う」。これはルソーが言っている一番基本形です。ほかの考えがあるかもしれませんが、私はそれでは近代社会の基本形としては成り立たないという考えです。


○荒井
 最後に武田康弘先生にお聞きしたいのですけれども、「新しい公共」と言ったときに、「古い公共」というのがあるのだろうという話になってしまうのです。では、新しい公(おおやけ)は何だ、古い公(おおやけ)は何だという話です。それを考えるときに、主権在民に立脚しなければいけないということは言われているのですけれども、武田康弘さんはこういうことを言っておられます。「公(おおやけ)という世界が市民的な公共とは別に作られてよいという主張は、近代民主主義社会では原理上許されません」「主権者である国民によって作られた官は、それ独自が目指す世界を持ってはならない。市民的な公共を実現するためにのみ存在する」となっていて、これは「新しい公共」という宣言を考える上では、私はとても大事なのではないかと思っています。

 それをはっきりさせないと、何だか「新しい公共」というのはお題目みたいな、みんなでいいことやりましょうみたいなことを言っているだけであって、結局、官も変わらない、民も変わりません。それで実際やってみたら、官は今までどおりキャリアシステムもしっかり残って、天下りもしっかりやっています。民の方は、お金をもらえる人たちだけがもらっています。きちっとしておかないとそのようになるのではないかと、恐ろしいような気がするのです。そこの思想的な所を確認したいと思いました。いかがでしょうか。


○武田
 キーワードはやはり郷原さんも福嶋さんも強調していましたが、根本的に考えることがないのか、そういう習慣も力もないのです。市役所の職員も自分の頭で考えることがないのです。だれが考えるのかということになります。何となくシステムがあって制度があって、それが醸すムードみたいなのがあるわけです。そのムードに乗っかっていくわけです。そうすると自分の頭で何にどのような価値があるかと言っていることを掘り下げていくということ自体ができないのです。

 竹田青嗣さんから「ルール社会が一人一人が自由な存在だと互いに認め合うこと。自由を相互に承認し合うという形でのルール社会が近代の民主主義社会である」。それは全くそのとおりなのです。そのルールが何かということをつかんで守っていくのです。ところが、「どうして、何のために」という考える力がないと、「ルールを守る」と言っていることが、悪い学校の校則みたいになってしまうのです。子供たちが今日でもそうです。私立高校に行った子も我孫子の公立の高校、中学に行った子も皆同じことを言うのです。「どうして、こんな校則、変じゃない」と言っても、「それは校則だから」と先生の答えはどこでも一緒なのです。「おかしい」「説明してくれ」と言うと、「君は考える必要はない。これは校則だから」こういう話なのです。

 今思い出したのですけれども、東大総長をされていた佐々木毅さんはラジオ番組である女子大生から公共事業で談合が問題とされているときに、「談合というのがなぜいけないのですか」という女子大生の質問に対して、何て答えたかと言うと、「君、それは法律で決まっているからだよ」と答えたのです。ちょっと二の句が継げないのです。これは同じ発想なのだけれども、「どうして、こういう校則必要ないじゃないですか」と子供が言うと、「それは校則だから守りなさい」という話なのです。これは自分の頭で考えるというのとあべこべなのです。どだいルールというものに従うにしても、ルールを変えていこうとしても、自分の頭で考えていない子がどうやって変えるのかということです。コンピュータがルールを変えられないのです。ロボットはルールを変えられないのです。主体性を持った頭を作らなかったら変えられないのです。でも、それは小さい時からの教育です。

 私は、小学校1年生の子から大学生まで見ていて、大人の人たちの勉強会もやっているので、7歳〜8歳の子供から、今、来ている一番高齢者は80歳過ぎの方まで来ているのです。全世代ずっと見ているわけです。そうするととってもよく見えるのです。ある部分だけではなくてこういう学校に入ったばかりの子から80歳過ぎの方までと対話をして私が講義もするということをやっていると、よく見えてくるのです。見事なぐらい自分の頭で考えるというのは残念ながらないのです。一人一人がおびえているのです。日本社会では公共は新しいも古いもないので、公共ということ自体がどうも成立していないし、成立できないのです。
 なぜかと言うと、自分で発想して意見を言うと言っていること自体が悪いということなのです。それが否定されているのです。ここの中でみんな学校生活やってきてどうですか。うちの学校では自分たちの学級のクラスのこと、学校の規則のこと、そういうことについていろいろと話し合う時間が作られていて、そういうことで学校生活をやってきたという方というのは、多分ほとんどいらっしゃらないのではないかと思うのです。

 学校の勉強もそうなのです。日本の子供たちは質問をだれもしないのです。小学生も中学生も高校生も、大学生もしないのです。質問をするということ自体が悪いことみたいなのです。今までいろいろな子供たちを見てきて、うちの教室に来るとどうも自分でいろいろと考えてしまう人間になってしまうのです。我孫子で評判になってしまって、「武田さんの塾に行くと、自分の意見を言うような子になってしまう」と言われているのです。自分の意見を言うような子になってしまう。どこが問題なのかと思うのです。

 そこで、子供たちが学校で意見を言います。大きな声でわめくとか、そういうのではないです。交換日記みたいなものを先生とやっているのです。そこでちゃんと自分の考えを書くのです。ところが呼出しをされるのです。「いろいろこういう君の意見を書いてあるけど、大人になってから言いなさい」。こういう状況の中で育つと、「みんなの考えを」と言ったって、みんなの考えはないのです。空気だけがあって、みんなの考えがないのです。「どうして、何で」と言っていること自体の習慣がなくて、「どうして、何で」と言った途端、「ちょっとあの子変わっている」「変な子だ」。親が面白いのです。「この教室にうちの子入れてくれますか。先生お願いできますか」「もちろんです」「いいのですか、うちの子はすごい質問するのですよ。学校で困ると言われる。質問が多過ぎるから授業やりにくい」と言われるから、「質問がないと駄目なので、質問する子が素晴らしい子です。そういう子ほど大事にしなければいけないのです。そういうことをみんなで奨励しなくてはいけないので、そういう子を褒めなきゃいけない」ということを私も30何年間同じことを言い続けていて、そういう子を育てようとしてずっとやってきているのです。
 でも、自分で考えて議論をしたり、対話して、考え、話し、決めるということがなかなかないのです。奨励されないのです。奨励されないどころか嫌がられるのです。それを変えないと始まらないと思うのです。

 荒井さんの質問からそれてしまっているかもしれません。私は一番元になる所をしっかりやることがどうしても必要で、そういうことはやらないで、何か理論を作って新しい公共を広げようと言っても、これはもう無理です。それは結局形だけになるのです。形だけになるならNPOにやらせればいいのだという話に落ち着いてしまうのです。中身を耕すとか、中身を問うということがどうしてもないのです。
 結局、私たちは市民だという意識がないのです。市民という教育がされていないのです。市民精神というのはシチズンシップと言います。シチズンシップということも教育が全然ないのです。主権在民の主権者は一人一人で、みんなに等しく自由と責任があるのです。私たちが決めて作っていくのだという社会をもしやるのであるならば、そういうことを少し広げていくのであるならば、シチズンシップ(市民精神)の教育がどうしても必要なのです。

 市民というのは平たく言えば、私はこの社会の中のただ1人だというのではなく、私はこの社会、この国を作っている1人だという自覚なのです。それが市民たる基本の要件だと思いますが、そういう市民精神がなくて、ただ勤めに行けば勤め人として何かをするのです。官僚でも会社員でもいいです。会社員として、あるいは官僚として何かしらうまく日々を過ごせばいいのです。何のために仕事をしているのですか、一体何でこういう仕事があるのですか。そのことを問わなければ、すべて砂上の楼閣だということなのです。
 ところが、教育の中では、そのことがひどくおろそかになっているものだから、そこに一番私がいろいろな問題の根本的な原因があると考えているのです。


○荒井
 少し外れたという感じがします。今すごく納得されるようなお顔されていましたけれども、ちょっと郷原先生にお願いします。


○郷原
 納得というよりもいつも講演の最初に言っている話が正に今武田先生がおっしゃった感じで、先に強く言われてしまったと思います。私がいつも言うことは、先ほど言った法令遵守ということです。なぜ法令遵守が駄目なのかという、実は「法令」と「遵守」の結び付きが駄目なのではなくて、私は「遵守」ということが駄目なのです。
 「コンプライアンス=法令遵守ではない。この二つがイコールだと考えることが間違いだ」と言うと、多くの人が、「それはそのとおりだ。そんなこと言われなくても分かっている」と言うわけです。一体どういう意味かと言うと、「コンプライアンスは法令遵守より大きな概念である。法令だけ遵守していたのでは駄目なのです。あらゆるもの、規則も基準も規範も任務も全部遵守しないといけないのに、法令だけ遵守していればいいというしみったれたことを言っているから駄目なのだ」と、大抵お年寄りはそう言うのです。

 ですから、世の中が全部「遵守」の塊になってしまうのです。その「遵守」の塊になってしまうと、この遵守の「遵」という字、何とも重々しい、いかめしい字で、この漢字が出てくると、今、武田先生がおっしゃったような自由な発想が消えてしまうのです。「遵守」と言われた途端にこの字に押しつぶされてしまうのです。ところが、最近この遵守という言葉の「遵」という漢字を見る機会がものすごく多くなってきているわけです。いたる所で規則も遵守、基準も遵守、マニュアルも遵守、すべて遵守と言われた途端に、なぜそれは守らなくちゃいけないのですかということを聞いてはいけないという意味が込められているのです。

 それが昔は確かに我々の教育もそうだったのかもしれないですけれども、今もっとひどくなっているのだと思うのです。法令遵守(コンプライアンス)という言葉が、世の中を埋め尽くすようになっています。2000年以降のこの世の中のゆがみは、大部分法令遵守という意味のコンプライアンスによるものだと思います。これからもっともっとひどくなってくると思うのです。官僚の世界は昔は規制だとか、行政指導といって、ソフトな手段で企業を縛って、最近はむき出しの法令遵守で縛ります。法令作ってしまえばおしまいですから。その下に省令を作ってしまって、規則を作れば、全くその遵守は逃れようがなくなっています。今はもう本当に経済社会も企業社会もあらゆるものが、その遵守で押しつぶされようとしているというのが現状だと思っています。


○荒井
 福嶋先生いかがですか。


○福嶋
 武田さんが言われた「空気だけあってみんなで意見というのがない」というのは、本当にそのとおりだと思うのです。言い方を変えれば、「私はこうしたい」という意見がないのです。客観的な政策の評論だとか、かっこ付きの「客観的」にこうすべきだという意見は結構あります。

 私は地方自治が一番自分の分野なのですが、いろいろな自治体に行って市民の人と話すことも多いのですが、職員研修みたいな所で話すこともあります。そうすると、優秀なまじめな自治体職員ほどこういう言い方をするのです。「これからは地方分権の時代になる。あるいは、今の政権だと地域主権が進む。だから、きちんと自治体が自治を担えるようにしないといけないのです。政策能力も高めないといけない。きちんと自治をやらないといけないと思います」と言うのです。

 まじめに言っていることは分かるのですが、「それは逆立ちしていませんか」と私は言うのです。「だれかが分権を進めるから、つまり中央政府が分権を進めるから自治体は自治をやらないといけないということなのですか」「そうではないのではないですか」「私の地域を良くするためには、私たちが考えて私たちが決める必要があるのです。だから分権にしろと皆さんが言うのではないですか」といつも言うのです。完全に皆さん逆立ちしていませんか。その先は皮肉なのですが、「いや、大丈夫ですよ、皆さんがそう言っている間は絶対に分権なんかは進みませんから、心配しないでいいですよ」と私は言うのです。

 「皆さんが私の地域を良くするためには、私たちが決めても私が責任を取りたいから、分権にしろと言わない限り分権は進みませんから安心してください」と言うのです。みんな客観情勢からこうしないといけないという話なのです。「分権が進むからこうしなければいけない。こうすべきだ」という話はするのだけれども、「私はこうしたい。ほかの人はまた違うように、こうしたいと言っているからちゃんと合意を作って」という話ではないのです。本当にそこはしみじみ思います。

 でも、きちんと私がこうしたいという所から出発しないと、地方自治もないし、「新しい公共」もないし、私たちの本当の市民社会もないのだろうと思います。


○荒井
 時間が3時になってしまったので、こちらの会場の方からの質問も取りたいと思います。もう1点だけ、私個人的に竹田青嗣先生に確認しておきたいことがあります。

 実は、ついこの間出たばかりの『公共福祉という試み』という本なのですけれども、ここに「新しい公共の中で福祉が大事だ」ということが書いてあるのです。この方は、稲垣さんという方で三元論というものを採っているのです。公(おおやけ)と公共と私を区別しています。完全に区別するという考え方を採っています。なぜなのかよく分からないですけれども、それはまずいなと思っています。公(おおやけ)は何だか分からないけど国家の利益だと、公共は一般市民の利益だという人もいますし、この方がどう考えているんだか分からないんですけれども、とにかく分けるというのはまずいのではないか。分けてしまうと、例えば、国家公務員法の先ほどくどくど言いますけれども、96条というのがあって「公共の利益のために勤務しなければならない」と書いています。それが、「公(おおやけ)と公共は違う」と言っています。「国家公務員は国家の利益なのだ」「国民の利益を実現するためにやるのではないのだ」と言われて、そんなあほなという感じがするんです。現実にこういう話があって、社会思想として整理・研究されてきた竹田青嗣先生は、ここら辺をどう考えているかなと思って非常に関心を持ってきたのでそこだけ最後にお願いします。


○竹田
 私も、実はこの三元論を少し読んでみたのですが、余りポイントがはっきりしません。何か少し隠れているのではないかという感じを持つのです。でも、私の大きな憶測は、日本の政治思想には、伝統的に公に、あるいは政府権力に対立して市民の力を置くという構図が長くありました。これには理由があります。私の分け方で言うと、20年ぐらい前まではどんな先進国も国民国家だったのです。1990年ぐらいを前後にして世界の情勢が変わりました。東西対立が終わって社会主義という選択肢がなくなって、それで一応、先進国はもう武力的な競争ではなくて経済的に協力しながら共存しようという形になっていきました。そこで、市民国家になりつつあるのです。

 その中で恐らく「新しい公共」は、今までのように政府が上から市民に対して公共を下ろしてくるというのではなくて、市民の方から公共を担うようなものを作って対抗しようという感じがあるのではないかと思います。しかし、これは理論的に言うと非常にたくさんのほかの考えを呼ぶような紛らわしい考えだと思います。市民国家の一番基本の考えは、常に市民が一般意志を常に代表して政治担当者を選び、担当者は常に市民の一般意志を代表し、市民が常にその一般意志が代表されているかどうかを―監視委員会ではありませんが―きちんと監視をするのです。公それ自体を常にシビリアンコントロールしているというのが基本形です。

 そこで、間に公共を置くと、そこにはいろいろな思惑が入ってきます。理屈がだんだん分からなくなります。恐らく公共を置くことによって、自分は公共的なことをやりたいという市民はそこに入って、一般の市民は普通に生活をしていればいいのだと言うかどうかは分かりませんが、要するに、市民と市民国家の政府や法、そういうものの権限の関係がどうなっているのかが非常に分かりにくくなります。かなり恣意的な考えであって、余り理論的な根拠がどこから出てきたのか―私はいろいろな政治の考えを勉強していますが―日本独自のものであって、余り根拠はないと思います。

 それからもう一つだけ「新しい公共」について言うと、「新しい公共」のイメージ図はとても理想的です。市民が公共を担っていろいろなことをやっています。今まで政府が担ってきたことをやっています。ところが、これは一言で言うと、今我々の公共の場面がある意味で非常に逼迫しているということです。
 なぜかと言うと、今は世界史的に経済の具合の悪い状態です。先進国は80年代ぐらいまでは大体7%前後の成長率で、日本は10%以上上がりました。その後、もう3%の成長率を持っていればもう御の字です。今、日本はもう成長率はゼロの段階です。

 そういうことで何が起こっているかと言うと、これまで資本主義は、成長率が結構上がっていればいろいろな問題があってもまずまずOKだったんです。国民国家は資本重視で資本の発展を後押ししながらやってきています。3分の1ぐらい市民の一般福祉を心掛けてやってきたのです。それはどの先進国でも同じです。

 ところが今、なかなかそうは行きません。先進国は様々な問題を残して、今これを見ただけでもまず、地域経済はどんどん逼迫していきます。それから、企業労働者が働いている意味は何かということもだんだん見えにくくなっていきます。この社会の先が見えないからです。

 敗者が増えています。格差がまた具合が悪いと拡大するのです。そういういったん負けた人をどうやってリセットしてもう一度ゲームに参加させるかということが大きな課題になってきます。高齢者の問題も入ります。そういう問題を考えていくために、「新しい公共」というのはもちろん必要なのです。市民がそのことを担ってやっていかなくてはいけません。

 ところがそのときに、一番基本的に大事なものはもう皆さんがおっしゃっていますが、市民国家では市民の全体が今やそういう時代で、政府が何となく自国の経済を守ってくれるというのではなくて、自国の経済というのはもうなかなかそう簡単に守れないのです。先進国はどうやってそれなりに協調してみんなで共存していくかということを考えないといけないのですが、市民社会の中ではこういう逼迫感をどのように解決していくかという問題があって、市民がもう自分たちでその問題をいろいろ考えて提案を出し、政府が本当にそういう提案を受け入れるようなシステムを作っているかどうかを監視し、今までの官僚制度のような不合理みたいなものも少しずつ改良しながら、「新しい公共」を作っていかなくてはいけないのです。それは時代の要請です。

 そのために、基本の考え方をもう一度置いてやり直すことです。三元論というものは非常に紛らわしいものだというのが私の考えです。


○荒井
 大体このくらいで、後は、会場の方から質問を受けようかと思っています。何でも結構ですので、質問のある方は手を挙げて聞いてください。何でも結構です。


○質疑者1
 はい。

 では、どうぞ。


○質疑者1
 先ほど武田先生が、「質問をしない子は悪い子だ」とおっしゃっていたので、いい子になるために少し質問させていただきます。最初に郷原先生と福嶋先生にお伺いしたいんですが、例えば最初に郷原先生が、今の検察の在り方の批判をして、「これからは社会の要請にこたえるような検察でなくてはいけないんだ」ということをおっしゃいました。そのときの社会とは何なのかということです。世論調査なのか、あるいは新聞の論調なのか、社会の要請にこたえなくてはいけないという場合の社会の正義をどう見るかという、例えばメルクマールはあるのか、この辺りをお聞きしたいと思います。

 それから、福嶋先生についても同じことなのですが、「市民との対話が必要だ」あるいは「民が官の事業を取ることが必要だ」、官から民へというお話しだったのですが、そのときの民とは何なのかですね。例えば、その一つの事業を民が取るといった場合に、第三者委員会を作るということなのですが、それが正義とする―これもメルクマールということになると思うのですが―それをどう判断するのか、市民にもいろいろな考え方があり、いろいろな意見があるのだろうと思うのです。

 例えば、首長さんの場合には選挙で選ばれるから、それが正義と理解できると思うのですが、一般に市の行政を進める上において、市民の意向あるいは市民との対話といったときの市民というものの範囲をどう考えるか、その正義というものをどのように考えるかをお聞きしたいと思います。


○郷原
 私は、企業や官庁の方々にコンプライアンスの話をするときに、「コンプライアンスは法令遵守ではなくて社会の要請にこたえることだ」と言うと必ず聞かれるのが、「その社会の要請は何ですか。どう考えて、いつ聞かれるのですか」。私は、「その社会の要請が何だという正解は、絶対にないと考えた方がいい」と答えるのです。正に、先ほど武田先生が言われた、「考えることそのものが社会の要請にこたえる姿勢」ということだと思います。

 昔であれば、単純に法令を守ることだけ考えていればいい時代だったかもしれないですけれども、今はそうではなくて、例えば、検察の仕事に関して言えば、金融商品取引法違反―昔であれば証券取引法違反―の摘発をするというのを、単に違法行為を摘発するということだけで考えたのでは、そこら中にいろいろな違反があり得るわけです。全部やらなくてはいけなくなるのです。その中で自分たちがやるべき仕事というのは、いろいろな違法行為の中で一番悪質重大なものに対して、こう思って法に照らして一番重大なものに対して一番峻厳な制裁である刑罰を課すのだと考えたときには、やはり法というものを理解して、目的を理解してその背後にどんな要請があるのかを少なくとも考えなければいけないと思うのです。証券市場とは何なのか。証券市場がフェアだということはどういう要素でできあがっているのか。そういうことを一生懸命考えた末に「やはりこれはこういう理由で刑罰に処すべき違反行為なのだ」という結論を出すというのが、その背後にある社会的要請を考えながら仕事をするということだと思います。

 ところが、それを法令遵守ではなく「社会的要請にこたえることという正解がある」と考えてしまうと、最初から何かを置き換えようなどと思ってしまうので、同じことになってしまうのです。常に複雑で多様だからなかなかたどり着けないけれども、その方向に向かって進んでいくのだというコンプライアンスを考えていかなければいけないのです。それは、検察という組織においても社会的な方向に仕事をしようとすればするほど、重要になってきているのだと言えるのではないかということです。


○福嶋 
 基本的には全く同じ答えです。私が先ほど申し上げたのは、質で決めるということなのです。税を使った事業であっても、別に市役所の職員がやったら一番いい質になるというのは全くないわけです。
 音楽ホールなら音楽ホールの運営を我孫子市の教育委員会の文化課の職員がやった方が、市民にとっていい音楽ホールの運営になりますか、それともNPO○○会がやった方が市民にとっていいホールになりますか、それとも株式会社××社でやった方が、あるいは株式会社△△社がやった方が、どこでやったら一番いい質になりますかということで決めようという話なのです。

 ただ、その質と一言で言っていますけれども、正しい質を測る物差しはないのです。例えば、住民票は自動交付機もあるのですが、証明書発行の市役所の窓口があるとします。でも、駅前の行政サービスセンターの証明書発行の窓口の質というのは、仕事へ行く途中の人が必要な証明書を取っていくということが多いので―もちろん正確にですが―1秒でも早く証明書を発行するのが重要な質になるわけです。でも、住宅地にある行政サービスセンターで高齢者の人がたくさん来る所は、別に1秒でも早く渡すというのは重要な質ではなくて、センターに来た人が迷うことなく、不安を感じることなく確実に必要なものが手に入るということが重要な質なのです。

 それから、保育園の質も―我孫子市は絶対に待機児童を1人も出さない、待機児童ゼロにしているのですけれども―待機児童がいる場合は、待機している親が求める保育園の質というのは、少々子どもたちを保育園に詰め込んでも確実に保育園に入れるというのが一番大切な質なのです。

 けれども、保育園に入っている子どもの親が保育園に求める質というのは、「そんなに詰め込んでもらったら困る。ちゃんと子どもが余裕を持ったスペースで保育されないと困る」というのが質になってくるわけです。みんな違うわけなのです。正しいものはないので、ですから、いろいろな人がどう話し合って合意するかということが勝負になってくると思うのです。

 私も、内閣府で市場化テストの専門委員もやっているのですが、質の議論を一生懸命しているのですが、結構、行政が正しい物差しをどう決めるかという議論なのです。これは余りいい結果を生まないように思っていて、結局、行政が物差しを決めたら、その行政が決めた物差しで民間が質の競争をするだけなので、先ほど説明した我孫子市の提案型公共サービスの民営化制度というのは、「物差しも提案してください。『行政はこういう物差しでいいと思っているかもしれないけれども、市民が求めている物差しというのはこっちだと思いますよ』という提案をしてください」という制度なのです。そこで議論をするのです。

 最後に責任を持って決めるのは、市長が決める所は市長が決めます。議会が決める所は議会が決めます。選挙で選ばれた者が決めていきます。それこそ一般意志で決めていくということになるでしょうけれども、もう一つ、自治体の場合は直接民主制もベースにしていますから、場合によっては市民が直接選択するということも含むのですけれども。そうやって最後は何らかの手続きで決めていきますけれども、本当にきちんと議論する環境があるかどうか、いかに作るかということが勝負だと思っています。よろしいでしょうか。

○荒井
 よろしいですか。ほかにどなたかありますか。例えば、竹田先生の愛読者の方もいらっしゃったはずなのですけれども。


○質疑者2
 少し、所用があって最後30分しか聞けなかったので、前の話を聞いていなかったのでかぶっている所があれば恐縮ですけれども、少し講習内容の話ではないかもしれませんけれども、今の御質問に出たかもしれませんが、市民という言葉が時々使われているかと思います。

 法制局で法律を作っていると、よく先生方の「市民という言葉を使いたい」という話がありますと、必ず出てくるのが「市民という意味は分からない。法律だと国民という言葉を、国民主権などを使っているのに、なぜ国民と違う市民を使うのだ。意味が分からない。市民はだれなのだ。国民と何が違うのだ」という話が必ず出てきまして、先生方は御承知かもしれませんけれども、NPO法(特定非営利活動促進法)という法律の名前ですけれども、元々これは「市民活動促進法」というタイトルで議員立法されまして、衆議院で「市民活動促進法」という形で衆議院を可決したのですが、参議院で「市民という言葉が分からない」ということがありまして、市民という言葉を非営利活動と直して、非営利活動促進法という形で成立したということもありまして、やはり参議院でも「市民活動や市民というのが何だか分からない」という議論が出たところです。

 その辺も、もし既に御議論が出たら恐縮でございますが、法律で使われる「国民」というものと、そこに、「市民」という言葉を使うとき、そこはどのように考えを整理して市民というものを使っていくことができるのか、いつも私は分からない所なので教えていただければと思います。


○竹田 私が国民という言葉は使わないのは、先ほど少し言いましたが、19世紀、20世紀の列強及び先進国家は全部、例外もありますが大体、大きく国民国家として成立し、国民国家として競い合ってきたということがあります。そのときに成員は大体、国民と呼ばれたのです。なぜならば国民は国家と運命を一体にしており、国民は国家から生命や財産を守ってもらうために、いわば代わりに国家に寄与しなくてはいけないというような観念が日本などでも強くありましたし、ほかでもやはりそのようなものはあったわけです。そのような国民国家の時代は終わりました。

 今や、進んだ民主主義国家の成員は、自分たちが主権全体を背負っており、自分たちでそれを構成しているのだという意味で、もう「国民」という言葉はやめて「市民」という言葉を使った方が非常に分かりやすいのです。私は、「国民国家」の代わりに「市民国家」という言い方をなるべく使おうと思っています。


○荒井
 よろしいですか。


○質疑者2
 ありがとうございます。


○荒井
 ほかにどなたかいらっしゃいますか。


○質疑者3
 武田康弘先生にお願いします。先ほど、「主体性を持って考える」「それがとても大切なのだ。それは教育でもってやるしかないのだ」とおっしゃっていたのです。今、実際にそういうことを実践教育の中でやられていると思うのですが、ただ、学生生徒にはそれができるにしても、社会人になった人に対してそういう主体性を持って考えるということをどのように培っていけばいいのかなということなのですが。

 一つは、例えばインターネットで今は情報の垂れ流しで断片的な情報がたくさん入ってきます。あるいは、ブログやツイッターなど、正に名前のとおりつぶやきです。単につぶやいていればそれでいろいろ会話や対話ができます。そういう状況の中で社会人が主体性を持って考えるための方策あるいは自己研修も含めて、具体的にどのようにすればいいかをどうお考えでしょうか。


○武田
 それが悩みなのです。みんな私の所に長いこといろいろな人が参加をされているけれども、会社勤めの人は「朝は早いし、きつい」と言うわけです。「なかなかいろいろ自分で考えたりやってみたりすることはできない」という話なのです。
 私は、仕事を通しての創意工夫が基本だとは思っているのです。学校でも同じで、算数や国語や社会や理科や―あるいは、中学に行けば名前は変わりますけれども―そういう個々の勉強を通して考えることを私は提案してそのようにしているのです。これはだれでも学校に行っていれば目の前の学校で毎日教科の勉強が中心になるのです。ですから、そのことでやるのです。会社勤めも、あるいは役所に勤めている方も、自分の仕事と言っていることを反省してみる、とらえ返してみるということです。それは一番大事なことだろうと思っています。

 「今までこのようにやってきたのだからこれでいいのではないか」というのではなくて、少しストップをかけてみる瞬間、これは意識的にやらないとできません。少しストップをかけてみて「これは何のためだっけ」「これは本当にいいのかな」と考える習慣を、日々の生活、日々の仕事の中に入れるということが一番大事だと思っています。


○荒井
 お話どうぞ。


○郷原 そのことに関連して、是非改めて考えていただきたいのは、ルールというものに対する向き合い方の問題なのです。私は法令遵守がとんでもないといつも言うので、もう法曹資格者でありながら法令無視の郷原と思われているのです。私は決してそういうことを言っているわけではなくて、法令に対する姿勢を改めようということを言っているのです。
 上から下に「守れ、守れ」と言われたとおりに何も考えないで守ることが弊害だったりするわけです。むしろ逆に、ルールというものの使い方を下から上に向けていく必要があるのではないかということです。

 例えば、国レベルの法令の画一化がいろいろな所で弊害をもたらしている事例は山ほどあります。一番典型的なのは個人情報保護法です。いろいろな場面でいろいろな情報に関する問題があるのを、一律に個人情報保護法によって縛られるということに加えて国のガイドラインみたいなものがあると、更にそれで縛られていくようになってしまうのです。それが、本当ならそのような情報をもっと活用できるのに、活用できていない分野というのがいろいろあるわけです。

 例えば、医療の分野だと電子カルテの分野はほとんどが活用されますけれども。それを少しでも活用しようと、あるいは、医療情報をいろいろな症例への適用に活用しようと思うと、必ずそこで「個人情報保護法上、大丈夫なのか」という話が出てくるわけです。その法令上大丈夫なのか、違反しているのか、違反していないのかという解釈問題で考えようとすると、上ばかり向くことになるのです。

 では、問題を解決するためにはどういう範囲内でみんなが分かり合う必要があるのかと考えてみると、その個人情報に関するルールを身近な所で作ってみようという発想が次に出てくるのではないかという話です。
 一つの医療情報を活用しようと考えたときに、その地域の中でその影響を受ける人たちの間に何らかの発信をしていって、「我々はこういう地域でこういう医療情報を活用する上で、こういうルールでやっていけばどうかと思うのですけれどもいかがでしょうか」ということを発信していくのです。それに対していろいろなレスポンスがあって、その中でみんなのコンセンサスを得られた形でルールを作っていって活用していくことです。状況が変わってきたらそれに応じて改めるということを一つ一つの地域で、一つ一つのコミュニティの中でやっていけば、その共通部分が次第に規則になり、最終的には法令になるということになっていくと思います。

 それが下から上に向かってのルールの流れだと思うのです。それをやっていくためには絶対に一つ一つみんなが考えて納得することが必要なのですけれども、上から下に向かっての法令遵守の流れというものが完全に思考を停止させてしまうのです。
 ですから、やはり今、武田先生がおっしゃった「仕事の中で考えていく」ということは、私は一つのそれに対するアプローチの仕方として、ルールに対する向き合い方、使い方を変えていくということではないかと思うのです。


○荒井
 ほかにどなたかありませんか。


○質疑者4 意見ということではないのですけれども、私は昔、特区制度というものを作る時に携わったのですけれども、これをやった時に最初は「一国二制度を作るのはけしからん」という話もありながら、やってみると意外に草の根の民主主義みたいに、先ほど市長がおっしゃいましたように、「自分たちでやりたいものがあるのですけれども、法令があるのでできません」と言ったのが「法令は直しますから言ってください」と言ってみると意外なものが出てきました。

 そういう経験を踏まえながら、草の根の民主主義のようなことで特区みたいなものが今、郷原先生がおっしゃったように、一つの個人情報保護法できるかどうか分かりませんけれども、ある一つのグループの中でやってみて、それがうまく行けばそれを広めていくみたいなことがあるのかな、というのがぼんやりと思っているのです。

 それともう一つ、前鳩山内閣の中で掲げていた「新しい公共」ということで、今回、この最初の御案内をいただいた時に、「これまで官が独占していた領域を公(おおやけ)に開き」と言うので、実際には1,000兆円にも上ろうかというぐらいの国債がたまってきて、このまま行って特区も財政の半分以下しか税を収めない国家の中で、これをズバッと行くのは当然の話なのです。

 そういう中で、先ほどの「新しい公共」といいますか、一部の方でもいいのですけれども、一人一人がこういう状況の中でどのように次の「新しい公共」で国づくりの中で自分がコミットしてつくっていくのに掲げていいただけるような運動論がどうやったらできるのかというのが、何か示唆でもいただけたらと思って来たのですけれども。もし、どなたでも結構なのですけれども、それにつきましては、考えていらっしゃることとか、これから取り組まれて「こっちの方になるのではないか」などございましたら教えていただければと思います。

○荒井 いかがですか。


○福嶋
 最初に、特区なのですが、特区制度自体はうまく使えば、本当にいろいろな可能性を持つ制度だと思うのですけれども、やはり自治体の方が問われていると思うのです。特区制度自体も結局、国が認めるか認めないか、国にお願いする自治体が「認めてください」とお願いするという構造は変わりませんから、よほど自治体がきちんと自覚して使わないとおかしなことになっている部分もあると思うのです。

 というのは今、自治事務で2000年から法解釈は自治権を持っているわけです。自治体が法解釈の自治権を持ってもう10年経つのです。けれども、全然自治体は使っていないのです。我孫子は結構使ったつもりですが、多くの自治体は使っていなくて、法解釈に疑問があると各省庁に問い合わせて、回答が来たらそのとおりにやるのです。少し意識を持った自治体でも、もう少しこう解釈をした方がいい事業展開になるから、省庁に「こう解釈を変えてくれませんか」「解釈を柔軟にしてください」と要望するのです。それも今は誤りなわけです。

 自治体がこういう解釈をできると思ったら自治事務で自分でやらないといけないのです。国に解釈の変更を要望する必要は全くなくて、自治体が自分でやる責任があるのです。それがおかしいと思ったら、国が是正の要求をするのです。それに対して自治体がおかしいと思ったら、国地方係争処理委員会に訴える仕組みに変わったのに、全然使っていません。


○質疑者4
 責任通せばいいですよね。

○福嶋
 はい。ですから、「法解釈をこう変えてほしい」というものを特区制度でやっているというのは、自治体にとってみっともないこと限りないと思うのですが、そのような提案もあります。「そんなものは特区で提案するのではなくて、明日からあなたがやればいいでしょう」というものも出てくると思うのです。ですから、先ほどの地域からルールを作っていくという点でも、自治体が作っていけるのに放棄しているという所もあるのです。

 もう一つ、「新しい公共」がどういういろいろな動きをしていくかと、先ほども民と官の関係性で言えば、我孫子市がやった提案型制度というものはいろいろな自治体に今、広がっています。これから、新しくやる所で藤沢市があるのですが、藤沢市はなかなかしっかりしたものをやろうとしていて、例えば、提案をしてくれる場合の例示をするのですけれども、「子育てや保育の在り方を企画して、待機児童解消の対策を実施するような提案をください」。あるいは、「公共施設の維持補修、更新計画を長期的な観点で最適化する提案をしてください」「施設の統廃合や再整備によって生じる剰余地、剰余空間を活用する提案をください」など、今まで個別にやっていた行政の事業を民が担うというだけではなくて、再編成して公共の空間を変えていく、構造を再編成していく提案をしていくことです。こういうことが本当に動けばかなり変わってくる気がします。

○郷原
 私はやはり一つの根本的な問題として単年度予算主義という問題を考え直さない限り、この国に活力を取り戻すことはできないと思うのです。どうしてもこの単年度予算主義という問題がいまだに中央官庁の中で、一番偉いとされている役所の所管の問題なので、この問題にはどうしても手が付けられないのです。それによって本来であれば考えられるべきことが考えられなくなっているとか。それに押しつぶされることにより無駄がどれだけあるのかという所がほとんど俎上に上らないです。

 結局、仕分けというのも、発想がその役所が考えたことだから、どうしても表面的な無駄をなくすということばかり考えることになるのですけれども、そもそもの単年度予算主義という縛り自体がここまで幅を利かせている国というのは余りないのではないかと思うのです。予算というものは一つの最初はその時点で一応認めただけのものであって、最終的には決算によってきちんとチェックをしていき、その代わり途中で状況が変わったら本当にきちんと理由を説明しながらどんどん使っていくというようにやっていけば、恐らく財政の在り方も全然違ってくると思います。みんながものを考えるようになればなるほど、それだけ経済の活力も増してくると思いますし、やはりその議論に手を付けない限り、先ほど言われた問題の解決はないのではないかと思っています。


○荒井
 よろしいですか。


○竹田
 一言、非常に迂遠な抽象的な哲学的観点から言いますと、哲学というのは大体私はいつも言っているのですが、200年から250年ぐらいのスパンで考えるので、余り普通の人にどうも相手にしてもらえないのです。私は荒井さんの講義に来て、初めてこのような所に来て驚いたのは、私が公というものを誤解していました。いろいろな場所でいろいろな問題についてきちんと考えようとしている人たちが―やはり私が若いころにはそういう感情をなかなか持てなかったのですが―どんどん動いているなと思います。

 それで、先ほどから国民国家と市民国家の変わり目なのだということを言っていますが、そのことについてもう一言だけ言うと、これはヘーゲルという人がこういう考えですが、「市民国家には固有の目的がある。国民国家の目的はほかの国家に負けないで自分の国が一番にならないといけない」というものがあるのです。
 なぜかと言うと、非常に厳しい競争をしていたので、負けると没落するのです。それはもう19世紀のフランスがフランス革命をして、ナポレオンが現れ、すぐドイツが危機感を持ってまた国民国家になり、ロシア、イタリアなんかも付け加わってきました。みんな非常に激しく戦って、日本もその一つです。少しうかうかすると没落するということがあるので、国民国家はまず経済のことを大事にして、経済をどうやって立てていくかということをずっと考えてきました。

 これからは、私の考えではしばらく20年ぐらいは余りいいことがありません。経済的にはのんびりやっていくしかないのです。では、市民国家の目標は何かと言うと、ヘーゲルは「一般福祉」と言っています。一般福祉というのは、単に生活水準が上がっていくということではなくて、生活上の様々なコンビニエンスやユーティリティというものが少しずつ上がっていきます。生活水準も少しずつ上がっていくということは大事です。だんだん下がっていくと絶望がたまるのです。

 もう一つは、社会の流動性が常にあって、格差が開いていないことです。格差が開いていくとやはり絶望感がたまります。それから、リセットサプライと言いますか、あるいはオポチュニティサプライと言いますか、資本主義のシステムの流れは必ず敗者が生み出されるのです。いったん敗者になっても必ずリセットされる機会がたくさんあるということが大事な目標なのです。そういうことをひっくるめて「一般福祉」と言います。「一般福祉が一番大事だ」という言い方をするのです。哲学ではなるべくまとめてしまうのです。

 言い直しますと、市民社会では様々な自由が許されるので、自分がどのように生きていきどのように幸せをつかむかは人々によってみんな違うのです。多様性なのです。私が何を目標にして生きるかはみんな違うのです。共通できるのは、昔は「国家はこのようにするとみんな幸せになるのではないか」という考えがあったのですが、それは非常に難しいです。なぜかと言うと、近代社会では何が自分にとって幸せかはみんな違うわけですから。そこで、一人一人の人間が自分なりに「自分はこう生きたい」という自由を追求できるような条件が持続的に高まっている、これが一般福祉なのです。

 先ほど言っていますように、1970年ぐらいまでは国民国家は大変忙しく、競争が非常に激しく、今もある意味では激しいのですがもっと激しかったのです。そこで、どんな国家もまず経済のことを配慮せざるを得なかったのです。一般の人の一般福祉は一番後になったのです。でも、今後は―この間にはいろいろな話がありますが―市民が自分たちの国家社会というものをどのように生きやすい社会にしていけるかということをやはり考えていかなくてはいけないのです。こういう感度というのは、私の感じでは20年前にはなかったのです。国家と言うと、どうやってほかの国に負けないように頑張るかでした。また、そういう必要がそれなりにあったわけです。

 ですから、先ほどから皆さんがおっしゃられているように、この「新しい公共」というものは、国家を構成している市民がどうやってどのように考えるか、どうやって社会を新しく構想していくか、もうける人もいるし、もうからない人もいるけれども、どういう社会がグルグル回りながらみんなが満足できるようになる社会になるかを、構想して作っていかなくてはいけないのです。

 日本は何も遅れていません、進んでもいませんが。アメリカでもひどいものです。フランスやイギリスでもなかなか大変です。イギリスはつい最近、階層社会を少しずつ脱しつつあります。日本がそのことについて良いプランを出すと、ほかの国にとってのモデルにもなります。これから市民国家が、日本及びほかの国も全部含めて、どのように市民が市民生活というものを構想していけるかということの軸として「新しい公共」というものがあるのであれば、非常に可能性があるのではないかと思います。

 私は、これは短いスパンと長いスパンがあって、長いスパンでは教育がとても大事だと思います。それは武田さんが非常に一つのモデルを示してくれていると思いますが、上からルールが降りてくるのではなく、いろいろな制度というものは既にあるのではなくて、もう小さい時から、将来我々がそれを支えないといけないんだという形で少しずつ教育というものを、長いスパンで教育の全体のコンセプトを変えていくと、30年後、40年後、50年後にようやく少しずつ効果が出てきます。でも、それはじっくりやらないと、ほかにそれ以上に良い手はないと思います。


○荒井
 最後に一言いかがですか。


○武田
 今日は、この前の金泰昌(キム・テチャン)さんとの討論会とは違って、パネラーの間で激論になるような話ではないので面白くないかもしれませんけれども。
 逆質問ですが、法制局の方、「市民という言葉が分からなくて国民のという言葉が分かる」というのは、逆にどういう意味ですか。国民というのは、国籍情報みたいなものがあるから、そのようなことなのですか。それをお聞きしたいと思いました。


○質疑者2
 私の意見ではないので、私がどこまでお伝えできるか分からないですけれども、国会議員の先生なんかは普段おっしゃるときに法律で市民という言葉を使うとなると、「そんなこと意味が分からない」と、国民主権や国民という言葉が出てくるのに、なぜその違う言葉を使うんですか。違う言葉を使う以上、違うこと、何が違うか説明できないというのはいけないのではないかという議論になるということで、そういうような職場を通じてそういうことがあるものですから、どういうように市民と使い分けるのかなと思ったのです。


○武田 ということは、例えば、こんなものを聞いてほしいのですが、これは安倍元首相の本なのですが、こう書いてあるのです。「特攻隊の人たちは、自らの死を意味あるものとして、自らの生を永遠のものにしようとする意思があった。それを可能にするのが大義に殉ずることではなかったか。彼らは、公(おおやけ)の場で発する言葉と、私の感情の発露を区別することを知っていた。死を目前にした瞬間、いとおしい人のことを思いつつも、日本という国の悠久の歴史が続くことを願ったのである。今日の豊かな日本は彼らがささげた尊い命の上に成り立っている。だが、戦後生まれの私たちは彼らにどう向き合ってきただろうか。母国、国家のために進んで身を投じた人たちに対して、尊崇の念を表してきただろうか。確かに、自分の命は大切なものである。しかし、時にはそれを投げ打ってでも守る価値が存在するのだということを考えたことになるだろうか」。こういうものがあるのです。
 その安倍元首相のブレーンと言われた八木さんという方が、ちくま新書で『反「人権」宣言』という本を出しているのですが、これには、「人権という言葉に私たちはおびえる必要はない。人権という概念が有しているイデオロギーを正確に理解した上で、その問題や限界を知り付き合えばよいのである。人権という言葉に惑わされることなく、我々の社会の倫理、共同体における相互の人間関係、これらを総合したものという意味での、国民の常識に照らし合わせて、個々具体的に判断すればよいのである。本書がその書名を『反「人権」宣言』としたのはそのような意味で、今日、私たちが人権の呪縛から解放されて、国民の常識に戻るべきことを説いたのである」というこの流れがあるわけです。

 今、「国会議員の」とおっしゃったので、確かにこのように、竹田青嗣さんがおっしゃるように、市民国家や市民という概念ではなくて、国民国家ということこそ大事なのだ。それは、安倍さんの本にもありますが、「天皇制ということなのだ。天皇制が日本国家というものを統一させてきたのだ」と、この本でも主張されています。

 ですから、そのような考え方だと、これは古い天皇制による国民国家というので、どうも多分そういうどこかにそのようなイデオロギーが入っているので、何か市民という言葉にとても抵抗感があるのではないかと思いました。

 私は思うのですけれども、やはり国会議員のサポートをするといったときのサポートというのが、「ただ言われたことだけ」と限定して話してサポートとはならないような気がするんです。やはり1人の市民として、1人の住民として、1人の人間としてみんな生きているんです。ですから、そういう視点からやはり「自分はこういうことも考えるのだけれども」と言っていくという、そういう対話の文化となるというのは大変よいことですし、大事なことではないかなと感じています。それだけです。


○荒井
 よろしいですか。もう時間も随分過ぎてしまったので、このぐらいで終わりにしたいと思います。とにかく「新しい公共」がみんなできちんと考えてなくてはいけないということだけははっきりしているのではないかなと思って、きちんと議論して、「これが正解だ」と初めから決めたわけではなく、これからも私たちの職場でもそのようにしていきたいなと思います。今日は、どうもありがとうございました。(拍手)