ケアの現象学:講座報告 (at朝日カルチャー横浜 2011/01/29 Sat. 15:30〜20:00)
講師:西研・山竹伸二
報告者:小井沼広嗣
今回から新たに、西先生・山竹先生、お二人の講師による「ケアの現象学」のシリーズ講座がスタートしました。「本講座は、ケアの仕事について現象学的な考察を試みることで、この領域の理論的基盤を考え、将来的にケアの仕事が社会にはたす役割や可能性について、受講生のみなさんと一緒に考えるものです」(講座のチラシより)。以下では、先日行われた本講座の第一回目の内容をご報告いたします。今回、講座に参加できなかった方々にも、その内容をお伝えできればと思います。なお、長めの報告となっていますが、下記の内容はそれぞれが比較的独立しているので、お時間のない方は、ご自分の読みたい箇所だけでもお読みいただけます。
1 対談:ケアの哲学の必要性
(西講師・山竹講師)
2 看護への現象学
(西講師)
3 べナーの看護論
(山竹講師)
4 ワークショップ:病の本質観取
(指導:西講師)
【1 ケアの哲学の必要性(西×山竹)】
●ケアの哲学の必要性
西: ケアという言葉は、最近すごく流行っています。医療、看護、介護、保育、教育、セラピー等々、多岐に渡る領域でケアという言葉が使われている。ケアとはさしあたり、誰かの世話をするということですが、なぜ今日、ケアということがことさら問題とされるのか、その背景にあるものは何なのか、これをまず考えてみたいと思います。
要因はいくつか挙げられます。一つは高齢社会がものすごい勢いで進行していますが、それにともない、介護が緊急課題となっていること。また、看護の領域ではパトリシア・ベナーなどの看護学の影響で、少し前から動きがある。また、うつなど、心の病に対する社会的認知の増大とともに、セラピーやカウンセリングなどの必要性やそれに対する社会的要求も高まっています。さらに、教育現場を見ても近年、発達障害・不登校・ひきこもりなどがとても問題化している。
山竹: 全般的に言って、ケアの仕事は以前に比べて、格段に拡大してきていると言えます。それには、昔は家や地域共同体のなかでケアできていたことが、いまは社会全体で考えなければならなくなってきたことが何といっても大きいと思います。その拡大とともに、共通のやり方、原理、理念など、ケアをめぐる公共的な認知やコンセンサスということが求められるようになった。
西: 近代社会の成熟と個人主義の進展ということですね。1960年、日本ではまだ3割が専業の農家を営んでおり、村で過ごしていた。ところが、高度経済成長を経て、急速に都市型の生活が進行してきた。生活スタイルに関していえば、この間、日本人は一人でいられる自由を求めて走ってきた、と言えると思います。けれども、個人化・個別化が進む中で、共同体的な絆・支えが失われてきた。最近は、コミュニティをどう再生するか、といった問題もよく取り沙汰されますが、これは今日取り上げるケアの問題と連動していると思います。
関係やつながりをどう作り出すか、これは私たちに課せられたこれからの問題です。これは、近代の新しい段階に入ってきていることを意味します。これを考えるためには、新たな人間観や社会観が必要となってくるわけですが、その場合に哲学というのは有効だと思います。哲学とは一言でいうと、「本質を問う思考法」だと言える。本質と言うと、あらかじめ存在する真理であるかのように一般的に捉えられがちなのですが、そうではありません。本質を把握するとは、私たちがすでにやっていることの核心を明確にすることなのです。
たとえば、看護の本質を問うというのは、看護の営みなかで最も重要な契機を自分たちで確かめ、言葉にして共有することを意味します。こうすると、自分たちのやっている営みに確信がもてるようになる。「こっちに進めばいいのだな」というのを再認することができる。それは理念の再構築という意味合いをもつわけです。今日、看護、教育など色々な実践領域で、明確な目標や理念が打ち出せないという困難が見受けられますが、自分たちのやっている営みの重要性がわからなくなってしまう場合、目標喪失やそれに伴うニヒリズムといったことが生じてしまう。そうならないためにも、実践上の目標の設定と共有、さらには実践を可能にするための「条件」の認識と共有ということが重要です。
山竹: 本質を問うというのは、ほんとうに理解されていませんね。すぐれたケアや看護の文献でも、本質を自覚的に取り出すということはほとんどなされていない。たとえば、ベナーの研究は、私たちからすれば大変すぐれた「本質」研究を実質的にはやっているのですが、当人にはその自覚がない。本質という言葉自体がいま哲学のなかで評判が悪い、ということもあるのかもしれませんが・・。
●新たな社会観・人間観に関わるエピソード
西:さきほど新しい人間観・社会観ということを言いましたが、これに関連して私のほうから二つエピソードをご紹介したいと思います。一つ目は、「発達という観点」です。私は近年、滝川一廣さん、小林隆児さん、佐藤幹夫さんといった方々と一緒に「発達を考える会」というのを定期的に催しているのですが、それを踏まえての報告です。
「他人に迷惑をかけない、何でもできる、自立した存在」という人間観があります。これは近代社会においてきわめて一般的となっている人間観ですね。私もあるときまで、こうした人間観を抱いてきたのですが、二十代後半に障害者の方とお付き合いするようになって、このイメージの生き方はダメなんだと気がつきました。必要な助力を頼められることがほんとうの自立なんだ、と。
たとえば、目の不自由な方と一緒にゼミや授業をしたときのこと。彼に何か手助けできることはあるか、と尋ねたら、たいていのことは自分でできます、ただ自分は声でひとを識別する必要があるので、最初のうち、意見をいうときには必ずはじめに名前を言ってほしい、とのことでした。こうしたことは言われれば誰でも簡単にできることですよね。またこのように必要な事柄をあらかじめ確認しておけば、障害者ということで変に周りが気兼ねをしたりしなくてすむようにもなる。
ただ、世の中には他者に助力を乞えない人々も多くいる。自閉症もそうです。助力を乞えるためには、その前提として、他者と世界に対する信頼感がつくられる必要があるのですが、それには精神発達の過程ということが非常に重要になってきます。これに関して、児童精神医学者の滝川一廣さんは、赤ちゃんが養育者との関わりを通じて感覚的世界から「共有された世界」を獲得していくプロセスを、実に説得的に描いています。(*「発達障害における感覚・知覚世界」『饑餓陣営』35号、2010年3月。および浜田寿美男『〈私〉とは何か』講談社メチエも参照。)
@まだ意味の分節のできていない赤ちゃんは、不快に感じること(混沌的不快)があると一様に泣くしかありません。このとき、養育者が「寒いんだね」「お腹が空いたんだね」等々と分化した仕方で対処し、不快を取り除いてあげる。そうすると赤ちゃんは世界に対する信頼感を獲得し、同時に、混沌としていた感覚を次第に分化させていきます。暑い、お腹が空いた、痛い、等々で泣き方が変わってくるわけです。もし、児童虐待などがあって、親の一定の分化した対応がないと、子どもは世界に対する信頼感を得られないだけでなく、感覚もまた分化していかないことになります。たとえば、虐待された子どもは寒いのにパンツ一枚で平気でいたりする。
A赤ちゃんにとって周囲の世界は未知のものばかりで、不安になりやすい。けれども、養育者に保護されている感覚をもち、養育者から落ち着いた情動をキャッチできると、未知なものを探索する好奇心や探索心が湧いてきます。さらに、同じものをみて「ブーブーだよ」等々、養育者とのやり取りを通じて、関心を共有し、それと言葉とが結びついていく。こうして子どもは、共有された意味と言葉の世界を獲得する。それはまた、安心できる世界(未知なるものではない世界)の拡大でもあるわけです。
発達障害のひとは、共有された安心できる世界をもてないので、きわめて感覚的になり、不安で緊張も高い。また虐待された子どももしばしば発達障害と見分けがつかないそうです。どうやって他者と世界に対する信頼を育てていくかが、こういう子たちのケアのかなめになるわけです。
次に新たな社会観ということに関連して、「学校教育の新たな動向」をご紹介したいと思います。私は最近、山形大学付属小学校を見学に行く機会があったのですが、ここではすべての科目が対話的な「問題解決型」のスタイルで授業されている。たとえば算数なんかでも、立法体と正六面体とはどちらが圧力に強いか、またその理由は何なのか、といった仕方で話し合いがされるわけです。現在の子どもたちは、基本的に「私生活は個人主義的、集団生活は同調主義的」となりがちなのですが、子どもによってはそのことにすごいストレスを感じてしまう。けれども、これらの授業では、「言葉に出してみることがちゃんと受け止めてもらえる」という安心感のなかでお互いに対話を続けられるようになります。これは、これからの社会生活の集団形成のモデルとなるかもしれません。
また、これは私自身の例なのですが、私は和光大のゼミではグループに分けて、なつかしさ、自由、などのテーマで本質観取をさせたり、テキストの下線部の意味合いについて討論をさせてきました。そのさい、お互いの感覚を丁寧に言葉で「尋ねあう」ことを強調します。尋ねあいはある意味で相手に踏み込むことですから、そこには不安や抵抗感も生じかねませんが、相手の言っていることをちゃんと受け止めよう、という尊重が同時にあれば、安心と信頼の感覚を強めることができるわけです。尋ねあいを通じて、他者の生を理解しながら、自分の生を捉えなおすことができる。そうすると、他者と自分の生の両方に関心と配慮がでてくることになります。また、自分のこれまで抱いてきたかたよったルールなどを反省し、修正する契機にもなるわけで、ゼミはよく活かすと、下手なセラピーよりもはるかに効果を発揮する。これは昔、竹田さんとやっていた民族差別論のゼミでの経験が決定的でした。
●三つの承認、およびセラピーとの関連
山竹: それでは、西さんの今のお話に関連させながら、私のほうからは承認というテーマについて話をさせていただきます。私は最近、承認をテーマにした本を書いていたということもあって(*今年の3月に講談社現代新書から『「認められたい」の正体』として出版予定)、「人に認められたい」という人間の欲望はどういう本質をもっているのかをずっと考えてきました。
私の考えでは、承認の欲望は、承認対象となる他者に応じて、三つに分けることができます。一つは「親和的承認」、二つ目は「集団的承認」、三つ目は「一般的承認」です。一つ目は、家族や恋人や親友など、身近で親しい人々、愛と信頼の関係にある他者からの承認です。二つ目は、学校の級友や職場での同僚など、ルールや役割関係にもとづく集団内での他者からの承認です。三つ目は、社会的関係にある他者一般からの承認ですが、これは実際の具体的な他者ではなく、自分の内面で想定された他者からの承認です。「この私の考え・ルール(ないし行い)は誰であれ認めてくれるはずだ」といった仕方をとるので、自己内承認とも言い換えられます。(これは自分の考えや行いの「普遍性」を問うわけですから、自分勝手な承認などではありません。)
重要なのは、人間のこうした三段階の承認は心の発達の段階に応じて分化しており、以後は、相補的な関係にある、ということです。まず、西さんのお話にもあったように、他者や世界への信頼という面では、親からの親和的承認が基盤となります。親からの無条件的な承認というベースがあってはじめて、子どもは集団のなかでの承認の獲得へとステップ・アップすることができる。
もし親和的承認(無条件の承認)が弱いと、ひとは集団でも非常に強迫的に承認を求めることになります。心の病は不安が原因となって発症することが多いのですが、親和的承認が得られなかったとすると、そのひとは他者や世界に対する不安や恐怖、敵意を抱くことになり、いびつな自己ルールを抱えやすい。セラピーにおいては、クライエントのこうした自己ルールを直すことが目指されるわけですが、そのためには治療者からの信頼(親和的承認)がベースとなる。つまり、クライエントには、親和的承認が欠けているわけですから、社会関係うんぬん以前に、治療者はいったんこのおおもとの欲求を充たしてあげる必要があるわけです。
現在、セラピーや心理療法には様々な理論がありますが、どんなセラピーであれ、この親和的承認を充たすよう機能していなければ、セラピーとしてはうまくいかない。たとえば、論理療法という方法はクライエントのルールの歪みを当人に自覚させるように促すわけですが、もし信頼関係の構築なしで、単にクライエントのルールの歪みを論理的に気づかせるというだけでは、本人はそのあやまちを受け入れられないばかりか、セラピストの指摘は自分に対する攻撃だ、と受け取ってしまいます。だから、どんな理論的基盤に立つにしろ、有能なセラピストというのは、自覚的にであれ無自覚的にであれ、かならずクライエントとの信頼関係をまず生みだしているといえる。
ちなみに、西さんの言われた「尋ね合い」というのも、こうしたセラピーの実践に通じることだと言えます。クライエントは「弱い自分、不安に満ちた自分をさらけ出しても受け入れてくれますか」という不安と期待を織り交ぜた感覚を抱きつつ話すわけですから、治療者はクライエントの言うことに丁寧に耳を傾ける必要があるわけです。
三段階目の一般的承認は、社会的承認の土台の上に築かれます。これは、身近な人たちや具体的な他者から承認される経験を身体化しつつ、それらを超えて、自分のルールを確立することだと言えます。これがないと、周りの人たちの承認を求めて同調しがちになり、つねに周囲の人にビクビクしなければならなくなる。
一般的承認は、心の病の治療を考えるうえでも非常に重要です。というのも、クライエントはいつかは治療者の手を離れ、自分自身の生活に復帰しなければならないわけですから、治療者のあいだの二者関係的な承認関係にずっととどまっているわけにはいかない。治療者の手を離れても周囲の人々とうまく関係を築いていけるか、その際の肝となるのが一般的承認です。自分の中に「こうするのがよいことだ」という確固とした根拠をもつことができてはじめて、ひとは本当に自立したといえるし、周囲の人々とも適切な仕方で関係性を築くことができるようになる。
最後に、承認の問題と病との関連を一言。病を抱えると、ひとは「自分はもう何もできないのではないか、世話されるばかりの役に立たない人間なのではないか」といった自己価値の下落に苛まれることになりがちです。つまり、ルールの社会のなかでの集団的承認の可能性が大きくうち砕かれるということです。そうなると、家族や介護者といった、周囲のひとの親和的承認が大きな支えとなる。たとえば、老人介護なんかでも、これまでの人生ですでに様々な価値あることを成し遂げてきたことを当人に気づかせ、自己肯定感をもたせるといったことが重要だと思います。
【2 看護への現象学(西)】
●看護の現象学的研究について
べナーの研究以降、現象学的アプローチを用いた看護研究が多くなされるようになっています。そこでは一般に、現象学とは「人の生きられている世界・意味の世界を捉えようとする方法である」というふうに認識されており、その点では問題ないのですが、私としては気になる点が二つある。
@今の現象学的な看護研究の動向は、自然科学に対抗的になっていることです。けれども、看護の世界は意味の世界とともに科学と技術の世界にもかかわっています。この点を自覚しないと、看護の本質を捉える上で片手落ちになる。その点ではベナーも、科学を批判まではしないものの、自然科学をどう捉えるのかがあいまいです。科学の役割の適切な位置づけをするには、超越論的問題(確信成立の問題)に足場をもつ必要がある。つまり、なぜ私たちは科学の世界に信頼を寄せているのか、その本質を明らかにしておく、ということです。
A「本質観取」の方法的自覚がないこと。ベナーの看護論もそうだし、現象学心理学の第一人者であるジオルジのメソッドも、日本で普及しているかぎりでは、「一人の患者の意味世界をつかむ」という仕方で本質が捉えられています。(ただし昨年、直接ジオルジさんにお会いしたところ、ご本人は本質を取り出すということの重要性を知っておられるようでした。)けれども、私たちの考えでは、本質観取というのは一人のひとの経験を取り出すのではなく、病の本質、癌の病の本質といったふうに、誰しもに共通なものを取り出すことです。
また、本質を取り出すさいに重要なのは、本質とは、体験のうちにあらかじめ(観点なしに)存在するものではなく、何らかの必要や問いがあってはじめて設定されるものだということです。患者にインタビューする際だって、かならず観点と問いかけがあって質問する。患者の言葉はその結果でてくる言葉であって、決して無機的な言葉ではないわけです。本質を取り出すことの必要と問いを自覚しつつ、それを行えば、質的研究も非常に有益なものになるでしょう。
●事例1:『ワトソン看護論―人間科学とヒューマンケア』医学書院、1985/92年
1978年、全米ケア学会が設立されたときの中心人物がワトソンで、「ケアリング」の概念を看護の領域に広めた草分け的な人物の一人だと言えます。医療のテクノロジーが高度化し、医療管理の緻密化・官僚化が進行するなかで、全人的な意味での看護の位置づけを強調し、「人間的な尊厳を守り、高め、維持すること」の重要性を説いている。この点までは理解できるのですが、最終的にはかなりスピリチュアルな領域にまで踏み込んでしまう。ワトソンは、人間の課題は自己の実現、さらには人類の霊的な成長だとし、看護をそれを援助するものだとする。個人としてこういうことを信じる分には一向にかまわないのですが、理念や原理の共通了解という意味では、ここまでいってしまうと問題だと思いました。
●事例2西村ユミ『語りかける身体―看護ケアの現象学』ゆみる出版、2001年
鷲田清一のお弟子さんで、理論的にはメルロ=ポンティに依拠している。この本では、植物状態の患者の介護を担当している看護師Aさんとの対話を通して、そこに患者と「視線がからむ」ということ、つまりラポールが実感されることが取り出されています。ただしこのラポールはプライマリー(担当)であるAさんしか感じられないもので、他の人間や客観的なビデオ撮影などを通じてはけっして確認されえない。その意味で、Aさん自身も「これは自分の思い入れか」と自問している。しかし西村さんはこの自問を正面から取り上げていません。身体的・感覚的な層においては確かに視線が絡んでいるのだ、ということが強調され、そこにメルロ=ポンティの自他未分の「根源的な人」の知覚というような言い方が重ねられています。この姿勢には私は疑問を感じました。
現象学的に言えば、ラポールがあるということではなく、「自分の思い入れかもしれないな」と思っているAさんの自問それ自体のほうが本質的と言えます。ひとは、「私にとっての世界の現れ(実存的世界)」と、「間主観的・客観的世界」、つまり私の見方は他の人にはちがったふうに見えるかもしれないという把握との、二つの世界を生きている。(間主観的世界はそれ自体、私の意識内で確信された世界なのですが、これはフッサールがはじめて見いだした卓見です。)Aさんもまた、患者との二者関係的な意味世界だけではなく、他の同僚の方々、他の科学的な医療世界ともかかわって生きているわけですが、西村さんは後者の次元を排除してしまっている。これでは現象学的とはいえないでしょう。
山竹コメント: 看護の世界では方法論上の混乱が多々見られますが、それを解決するには、やはりフッサールのいう超越論的問題(確信成立の問題)にまでさかのぼる必要があるのかと思いました。たとえば、西村さんの研究も、確信の成立という観点がないから、こうしたラポールが「事実として」成立している、という話になってしまっている。
【3 べナーの看護論(山竹)】
●解釈的現象学
パトリシア・べナーは看護学の分野で最も影響力の大きい人物で、理論的にはハイデガーの現象学に依拠している。私たちは最近、研究会で一緒にべナーの本を読んだのですが、基本的には(彼女自身は「本質」という言葉は使わないものの)とても優れた看護の本質研究になっていると言えます。また看護の専門家ではなくとも、誰でも、多かれ少なかれ他者をケアするという経験をもっているわけですが、そうした人々にとっても十分に意義あるものとなっている。(以下、『べナー
解釈的現象学』、『現象学的人間論と看護』(ルーベルとの共著)、『べナー看護論』を参照。)
ただし、方法論の面では、彼女は自分の立場を「解釈的現象学」と呼び、主にハイデガー(ないしポンティ)に依拠する反面、フッサールに対しては誤解も多く見られます。たとえば、彼女は「世界内存在」を、反省的思考に先立つ人間の基本的なあり方、つまりは無自覚的にすでに世界と関わっているあり方とし、そうした意味世界から病気やストレス、健康などの体験様式を理解する、という方法をとっている。その点は納得のできるものですが、これが他方で、「フッサールは反省ばかりを重視した」「彼の現象学は主観的(私的)な意味理解にとどまっている」、といったフッサール批判につながってしまっているのは残念なところです。そもそも、方法的に反省を用いることと、私たちが普段、非反省的なあり方をしている面があることは、まったく別の次元の話です。
●疾患と病気
今日の医学では一般的なようですが、彼女は「疾患disease」と「病気illness」とを分けています。疾患とは、細胞・組織・器官といった生物的な身体レベルでの失調を指し、他方の病気は、能力の喪失や機能不全などをめぐる人間独自の体験だとされる。病気には患者によってそれぞれの意味(物語)があるわけですが、看護従事者は、それぞれの患者の可能性・習慣・関心に即して対応をするべきだというのが、彼女の基本的なスタンスだと言えます。
●現象学的人間観
べナーは、従来の医学で支配的だった、心身二元論に依拠した因果論的・機械論的な人間観(=客体としての人間観)を批判し、現象学的人間観を打ち出しています。その特質は以下の四つです。
@「身体に根ざした知性」:すでに意味が沈澱し、身体化されているので、ひとは諸々の状況を素早く、非反省的に把握し、対処することができる。
A「背景的意味」:これは文化によって共有されている意味のことで、これも身体化されたもの。
B「関心(気遣い)」:ひとは世界の意味を関心・気遣いに相関して受け取っている。
C「状況」:人間はかならずある特定の状況にすでに巻き込まれ、関与しており、そのなかでの可能性、つまりは「状況づけられた自由」において生きている、ということ。
●ストレスとは何か
べナーによれば、ストレスとは生活の円滑な進行が阻害されていると身体的・感情的・知的に感じられている状態だと定義されています。つまり、ストレスもまた意味として捉えられている。ストレスへの従来の対処法としては、感情にくよくよせず超然としたり、反応を制御することなどが言われてきたのですが、現象学的にいえば、感情を無視したり、打ち消したりするのではなく、感情に気づくことが大事だとされる。というのも、ある感情が湧くことにはかならず意味があるわけで、それに自覚的になることで、自分がこれからどうすればいいのか、その可能性を考えることができるからです。べナーの指摘は、セラピーのやり方と通じるもので、とても説得力があると言えます。
●達人看護師の実践知
『べナー看護論』では、理論的表現が難しく、従来しっかり記録されてこなかった達人(エキスパート)看護師の実践的技能を、系統的に記録し、共通構造として取り出すということがなされています。こうした研究は、看護実践の向上を促し、また、新米の看護師の目標設定にも役立つものとなる。彼女は概して体験談、事例の出し方がとても上手で、解釈的アプローチと質的評価でそれをうまくまとめています。
べナーによれば、達人看護師がこれまでやってきた援助役割の本質は次のようにまとめられます。
・援助や気遣いの露骨な表現を避け、患者が義務を感じないよう配慮する。
・患者との力関係をたくみに避け、契約関係や交換条件に依存しない。
・状況に内在する意味を把握し、全体的にアプローチする。
・ヒーリングの関係(癒しの環境)を確立する(希望を抱くよう努める。疾患や痛み、不安を受容できるような解釈を促す、等々)。
・触れることによって安楽をもたらし、コミュニケーションを図る。
・患者の回復における家族の積極的な役割を支え、情緒面と情報面で家族を支える。
・情緒・状況の変化に応じて患者を指導する(状況に合わない対応策をやめ、新たな選択肢を提供)。
また、看護師は教育とコーチの機能をも果たしており、看護師は患者にとっておそろしいものを、おそろしくないものにするのですが、それには以下のような手立てが指摘されています。
@態度、声の調子、ユーモアなど多様なアプローチを使う。
A患者が情報を受け容れる準備ができた時機(タイミング)をとらえる。
B病気がもたらすものを、患者が自分のライフスタイルの一環として取り込むのを援助する。
C患者が自分の病気をどう解釈しているかを聞き出し、これを尊重しつつ対策を考える。
D患者に必要な情報を査定し、患者が理解できるような言葉で伝える。
E看護師は教育と経験から、病気、苦しみ、痛み、死の様々な受け止め方、コーピング(対処)の方法を理解する。
西コメント: べナーの研究は、それまで正当な社会的評価を受けてこなかった看護師の人々を非常に励まし、勇気づける仕事だったと思います。ただ若干、留意点を指摘しておくと、まず、べナーの挙げる項目は多すぎるので、もっと絞り込まないとポイントが曖昧になる。本質観取だとこれらを踏まえて、もう一歩踏み込んだ共通の本質を取り出す、ということをします。あと、これはこのあいだ研究会でご一緒だった小林隆児さんのコメントですが、べナーは「ケア」「気遣い」という言葉を論じるとき、何を一番の核としているのかがはっきりしない。私たちの考えだと、ケアの中心には、「ちゃんと受け取られた」という感じ、共振性や共感性、感情の通い合い、あるいは山竹さんの言い方なら「親和的な」交流といったものがあるのだと思うのですが、ベナー本人はそうしたものを(感じてはいるようなのですが)明確には出してはいない。
【4 ワークショップ:病の本質観取(西)】
●目標
病にかかるとはどのような意味をもつ体験でしょうか。さまざまな種類の疾患があることからして、さまざまな種類の病体験があるはずですが、どんな病体験にも共通する特質(本質)をあえて取り出すことを試みてみてください。(今回はそこまで行きませんが、)病体験の本質を考えることができれば、それに対応するケアのあり方についても考えることができるはずです。
●グループ報告
〔*各人、病体験において特徴的なことを3−6点ほど書き留めてもらうという個人ワークをしてもらい、その後、5、6人のグループになってもらい(当日は3、40人の受講者だったので、6つのグループができた)、それらの本質契機を話し合って、まとめてもらった。最後に、各グループの話し合いの結果を報告してもらったところ、以下のような契機が指摘された。〕
@不快と苦痛:病によって痛みとか苦しみが生じるということ
A反省:健康の重要性や自分の生活習慣、生き方を顧みる。普段の自分を見つめなおす。
B自分への赦し:病気になるぐらいまでがんばった自分を労わるとともに、他者からは免責してもらいたいという思い。日常(家事)からの解放感もある。
C不自由さ:病気で動けないこと、日常生活の不便さ。普段どおりの予定がこなせない。
D他者からの評価からの低下、自尊感情の低下:仕事を休みたいのに休めない辛さだったり、逆に、仕事を休んでしまって役割が果たせないことの辛さがある。
E将来への不安:この病はいつまで続くのか、といった不安。最悪の事態の想像。重い病の場合、これまでどおりの生き方がゆるされないといった事態に陥る。
F不条理観:なぜ自分だけが苦しまなければならないのか。ネガティブな感情が湧いてくる。
G周りの人々の優しさを再認識:日ごろの見方や考え方を振り返る契機になった。
H他者への配慮が生じる:周りに迷惑をかけたくないなど。他者との関係性の変化や喪失。
I内向きになってしまう:孤立感。
J対処行動の必要性:薬を飲む。つねに症状に気を配る必要性。
K感覚の変容:以前とは景色が違う印象になる。可能性が狭くなる。思い通りにならない身体性を味わされる。
L医療従事者との関係の難しさ:丁寧に接してくださることが受け入れられない。過敏な反応をしてしまう。
●総括:西コメント
短い時間(30分程度)だったにもかかわらず、皆さんのみこみがはやく、たいへん有意義な話し合いがなされていたと思います。病体験の契機として、重要なものはここでほとんどすべて挙げられたのではないか、と。ただ、これだと項目が多すぎるので、本質観取としてはこれらをさらに整理するというステップが必要かと思います。それにはいくつかの区分軸が考えられます。(また実際、一つのグループからは、これらは@感覚・時間軸、A内的・外的関係的区分(自己配慮と他者関係)、B身体的・心的なもの、という三つに区分できるのではないか、との提案も出されました。)
一つは、時間軸的な整理といったものが可能かと。病体験といっても、最初に症状に気づいた段階、最初に病院にいったとき、診断を下されたとき、等々で体験の意味が変わってくる。もう一つは、ハイデガーの実存論をベースにして整理していく、といったこともできるかと思います。まず、病になると、「存在可能」の縮小・消滅といったことがおき(⇒C)、それとともに、「できない自分」に直面して自己価値の下落がおきたり(⇒D)、孤立感や不条理観といったことが湧いてくる(⇒FI)。けれどもやがては、病をもった自分の実存を引き受けること、生きるうえでの物語の編み変え、新しい物語の要請といったことが生じてくる(⇒AE)、といったような具合です。