「フロイト完全解読T」(竹田青嗣×山竹伸二 於 2006/7 朝日カルチャーセンター横浜)を受講して
磯部和子(現象学研究会)
本講座は、「現象学と深層心理学T、U」に続き、再び竹田・山竹二人講師体制で行われた深層心理学講座の3回目、フロイト完全解読としては第1弾です。前2回に劣らず実に内容の濃い、聴く側からすれば高度の理解力・集中力を要する講義でした。
報告者として言えることは、こういうフロイト講義は前代未聞、人跡未踏であろうということです。もちろん私の狭い学習・読書経験の範囲内ですが、かなり長く生きてきて断片的にはいろいろ耳学問で入ってきていますので、それを綜合した結果での感想です。
竹田講師も示唆されたように、フロイトと言えば、その個々の仮説を取り上げてそれが本当かどうか訓古学的にあれこれ議論される。しかし全体としてはある意味過去の思想として、思想史の「巨人」の一人という形で学習されることが多いと思います。
しかしここでは全然違いました。部分的には荒唐無稽と言われるフロイト思想が、ひとつの大きな世界像として示され、その現代的意義が現象学的観点から読み解かれる、それはまったく新しい知の展開の現場に立ち会うようなスリリングな体験でした。
出席されなかった方も、その一端を垣間見ていただければと思い、報告する次第です。
圧巻はやはり両講師による、夢や無意識の本質看取ですね(第一部の4と第二部の3)。とりあえず時間がない方は(大変長大な報告になってしまってごめんなさい)、この部分だけでもお読みになると面白いですよ。
以下は、講師のレジメから借りた、講座全体のアウトライン。
第一部『夢判断』と夢の現象学
1.フロイトと現象学
@ 本講座の主旨、フロイト理解の現代的意義
A 現象学と深層心理学 ――「世界認識の水面」
2.初期フロイト――催眠療法から精神分析へ
@ シャルコーの影響、催眠術、無意識の発見
A 前期フロイト理論の概説
3.フロイト解読@『夢判断』
4.『夢判断』へのコメント
@ フロイト思想の出発点
A 「夢」の本質とは
第二部『ヒステリー研究』と現象学
1.フロイト解読A 『ヒステリー研究』
2.『ヒステリー研究』へのコメント
3.現象学から見た精神分析療法
@ 精神分析の本質(現象学的に読む『ヒステリー研究』)
A 無意識の本質(現象学的に読む『夢判断』)
このアウトラインから見られるように、今回はフロイト前期の著作『夢判断』と『ヒステリー研究』の解読を中心に、フロイト心理学の特徴、その意味、その現象学的観点からの解明を主眼としている。
以下アウトラインに沿って、講義の内容をまとめていきたい。
第一部『夢判断』と夢の現象学
1.フロイトと現象学(竹田講師)
フロイト思想の現代的意義として、2つの大きな要素がある。
○ ポストモダン思想の3つの大きな源流のひとつであること(他はソシュールとニーチェ)。人間のこころは隠された構造をもっていて人間はそれを意識できない。しかしそれを解読する方法はある。たとえば夢はその解読の窓口。あるコードを用いれば「見えない構造」を解読できる、という考え方。レヴィ=ストロースに代表される構造主義にも同様の考え方がある。社会構造についても、外から社会制度を見たら自明なものだが、分析してみると見えない、隠された構造がある。それを取り出す一定の方法があり、それを使えばいままで見えなかった構造を発見できる。
○ 心理治療の創始者という側面。フロイトは神経症の医者として出発した。もともとは生理学の学者だがユダヤ人なのでアカデミズムの世界では昇進が難しく街医者になった。フロイトの編み出した心理療法精神分析、深層心理学は、多少陰りはあるものの、今なお現代の心理治療の非常に大きな一分野、流れとなっている。
ただフロイトには、エディプスコンプレックス、去勢コンプレックス、タナトス(死の欲動)などの心理仮説があって、これらの仮説は百数十年経った今もひとつも証明されてない。フロイト自身は自分の学問は実証科学で、症例が積み重なれば仮説は証明されるだろうと考えていた。ところが証明されるどころかいろいろな異説が出てきて、基礎づけられた統一的な理論はいっこうに成立しない。これをどう考えるかは心理学の問題としても哲学の問題としても重要である。
初回以来、本講座シリーズのもう一つ大きな柱として、現象学と深層心理学の関係を探る試みがある。
人間の世界認識の構造は、現象学的にいうと、意識の水面=経験の水面を識閾とした外界と内界に大きく分かれる。この「意識の水面」より上部の外界では、事物、出来事、社会などについて相互に経験を確かめ合いながら世界について確信成立像をつくっていく。たとえば自然科学は、事物的対象に関して、多くの人が経験してたしかめられるその領域だけを確定して、みんなに分かりやすい形で記述の体系にするものだから、相当広範な共通了解が成立する。
それに対して、身体(諸器官)と心(情動・感情)の世界である「内界」については、経験を確かめ合うというような「外界」と同じ方法はとれない。「心」は外界と同様事物的対象にもなりうるが、同時に他を「対象化」する存在でもあるからだ。
フロイトは心を「対象」として扱う方法をとった(概して心理学そのものが、そういう学である)。意識の水面にあらわれてくるさまざまな相から推論して、心の世界というのはこうなっている、というふうに分析する。感情や怒りや不安などさまざまのデータを寄せ集めて共通構造を取り出すと、この世界はこうなっているにちがいないという像が成立する、というわけである。
神経症患者の多数の症例を分析した結果、フロイトは次のような基本図式に到達した。われわれの無意識にはリビドー、性的エネルギーがあり、それが意識のほうにつねに出ようとする。意識は現実原則にしたがい、出てきていいものだけゆるしてあとは押さえつけるという、抑圧を課す。人間は理性的存在というより、意識と無意識のせめぎ合いの全体が人間の自我である。このような形でフロイトは内界の像をつくった。
しかしフロイトのこうした理論のなかには、人間経験のあり方としてなるほどと思われる部分もあるが、前述のように決して検証できない仮説も多くある。「外界」でなされるような、推論・仮説・検証の妥当なプロセスを経て共通了解に至るということが成立しないのだ。
しかしだからといって、フロイト理論が哲学的に見て怪しいとか意味がないと言いたいわけではない。人間の心を対象化した思想のうちでは、今なお最大のものであり、「幻想構造としての人間」という考え方を打ち出したという意味で、現代人間思想として大きな意義がある。それを哲学的観点から検証していきたい。
2.初期フロイト――催眠療法から精神分析へ(山竹講師)
19世紀の無意識論。
ヒステリーとは心理的な原因で脚が動かなくなったり痛みを覚えたりといった身体的不調を来す病。それを催眠術を使って治療する療法がフランスなどで流行していた。つまり、本人が自分の意図していないところでの心理的働きがあるのではないか、ということが気づかれており、無意識への関心が19世紀にかなり広まっていたことを示す
夢の研究もフロイト以前にたくさんされている。『夢判断』での考察にしても、フロイトのまったく独創ではなく、これまでの夢研究をいろいろ研究して、そこから独自の知見を出している。それくらい夢の研究は多くあって、無意識への関心も高かったことをあらわしている。そもそも夢は人間が大昔から経験していることだが、それは近代以前には、概して神の啓示、悪魔の示唆など外部の影響によって生じると捉えられていた。いずれにしても、宗教的理解や夢占いなどを通じて、人間のなかに「私」という意識が及ばないようなものがあることを気づかせるのが夢であった。
無意識研究というのもフロイト以前からたくさんあったが、フロイトほど精緻ではなく、ぼんやり何か意識では捉えられないものがある程度のレベルで、そこが大きな違い。
フロイトは神経学の勉強をしたふつうの医者だったが、パリに行ってシャルコーの催眠療法を目にして驚きをもつ。シャルコーのやり方ではヒステリー患者に催眠術をかけ暗示をかけて精神疾患を治していく。ここからフロイトの無意識への関心が高まった。
フロイトの理論はずっとひとつというわけではなく、後期にいたるまで変遷を重ねている。最初はこのシャルコーの催眠療法に感銘を受けてかなり実践するが、だんだん催眠に疑問を感じだして、ブロイアーといっしょにカタルシス両方を始める。しかしこれにも限界を感じて、独自に精神分析療法を確立した。
そして、催眠や強い暗示などの手法がなくても治療できるという考えに至った。
さらに、治療法を発展していくなかで、「抵抗」とか「転移」など心理現象にとって重要な問題に気づき始める。そのことから後期に自我、エス、超自我の理論がつくられていくわけで、これは画期的な理論修正だった
当初フロイトは、無意識は単に抑圧されたものだと考えていた。抑圧されたものイコール無意識で、それを意識に浮上させればヒステリーは治るという考えだった。
しかし実際にはなかなか病気が治らない、思い出させようとしてもなかなか思い出そうとしない。治りたくないのではないかと思わせるような「抵抗」する心理作用がそこにはたしかに働いている。フロイトはそこから、抑圧されたものだけが無意識なのではなくて、自我にも抑圧的な部分があるのではないかということに気づくようになる。すなわち、抑圧された無意識だけではなくて、抑圧する無意識があるのではないかと思うに至るのである。この抑圧する無意識がのちに超自我と呼ばれるものである。
中期にはエディプスコンプレックスをはじめ、有名な性理論があるが、この辺の話は次回にまわすとして、今日は前期理論の焦点を当てる。
第一局所論
前期フロイトは、「無意識に抑圧されたものが、前意識という意識と無意識の中間地帯で意識化される。それが夢とか神経症などの現象である」と考えた。なんらかの心理的働きで思い出したくないものが抑圧されてしまったが、それでも抑圧されたものが意識に出ていこうとする。それが神経症の症状になったり夢になったりする。なぜ単に思い出すのではなくて、神経症のようなゆがんだ形になるかというと、これは「夢判断」の核心といっていいのだが、「ありのままでは思い出したくないから」である。思い出したくないから抑圧されていたので、そう簡単に思い出せるわけではない。そこでいろいろ偽装した形で、本人がはっきり意識できないような形で意識にあらわれる、それが夢のあらわれであり神経症の症状である、という考え方がフロイトの基本。「ヒステリー研究」と「夢判断」に書かれているのはこのシンプルな図式であるというのを念頭に置いておく必要がある
後には、エディプスコンプレックスの話や超自我の話、快感原則の彼岸とか死の欲動とかいろんな仮説をフロイトはつくるようになる。特に晩年の著作ではいろんな仮説が錯綜しており、それを読み解くには全部の仮説を理解したうえで解読していかなければいけない。ところがこの『ヒステリー研究』と『夢判断』はたいへんシンプル。とくに『ヒステリー研究』はよけいな仮説がほとんどないので、フロイトの原型的な考え方がもっとも理解しやすい名著である
3.フロイト解読@『夢判断』(山竹講師)
夢分析そのものはフロイトの創始ではなく、何千年前からなされ、いまだにそのレベルでの夢占いは山ほどある。それらとフロイトの夢判断はどう違うのかを考えながら読んでいきたい。
フロイトの夢分析で誤解されがちなこととしては、性的な意味合いの象徴を使うので(たとえば傘はペニス、階段はセックス)、そういう解読の仕方をするのだろうと思っているひとが多い。だがポイントはそこにはない。
夢判断の手法
精神分析では、事態に関係なさそうなことでも、最大洩らさず言ってもらう自由連想法をとるが、これは夢判断にもまったく同様に適用される。どうでもいい夢でも断片的でも全部話すことが大切。夢はだいたい支離滅裂なので、あとで話そうとするとつい物語化してしまい、できすぎたストーリーになったりする。 そうなると夢の元もとの意味を解読するのはますます難しくなる。
以下、山竹講師は『夢判断』の具体的事例を数例挙げて詳しく説明する。〈イルマの注射の夢〉〈フロイトの教授任命に関わる夢〉〈フロイトの患者の夢〉など。
こうした夢の解析から以下のようなフロイトの知見が生まれる。
夢の材料と源泉
夢の材料は最近(多くは前日や当日)の出来事で、比較的些細なこと。しかし夢を生み出した願望自体は幼年時代に由来することも多い。その他身体的刺激が夢の源泉となることもある。
夢の作業
A 圧縮: 複数の人物や事物の要素だけが選択され、綜合人物や混合物など新たな統一的形象をつくりあげる。
B 移動: 強い関心のある要素は、価値度の低かった別の要素に変換されて、まるで価値なき要素のように扱われる。
C 論理的諸関係の復元: 「もしも」「ゆえに」「〜のように」「といえども」「〜か、あるいは〜」、そして否定形などの論理的関係は無視されるが、別の形で表現されることもある。
D 表現可能性への顧慮: 抽象的表現は具象的な表現へ置き換えられる
E 象徴的表現: 長くとがった武器は男性性器、部屋や容器は女性性器等。しかし象徴の意義そのものや、機械的対応関係よりも、それが本人にとって主観的にどう受けとめられているかが大切であることを、フロイトは強調している。
H 夢のなかの情動: 情動は検閲の作用に服せず、そのまま夢にあらわれる
以上から、夢の作業をひとつの図式でいうと、夢の潜在内容(無意識的願望)を、抑圧=検閲、すなわち圧縮、移動、形象化などの作業を経て変形ないし偽装し、意識にとって許容できる形で顕在内容として登場させるということになる。
また、「夢は願望充足である」ということが、この『夢判断』のもたらした大きな知見であるといえるだろう。
『夢判断』を読むと、まったくの無内容と思われていた夢が、実は明確な意味を持つことがあきらかになるように思われ、驚嘆を引き起こす。
そしてそこには、抑圧(検閲)、圧縮、移動等々きわめて説得力のある解釈が打ち出されているので、それがフロイト仮説全体への信憑性を高める。
しかし、この仮説は、決して検証しえない独断論的部分を含む。
夢に関してはいろいろな仮説が成り立つ。
以下は竹田仮説。
フロイトの場合夢をシンボルによるテクストとしてとらえているが、竹田は情動のテクストと考える。
人間の心は不安があると必ずそれをうち消そうとする(補償力動)。夢も同じ。夢の実存は現実の関係世界の実存というより、自分の存在世界=情動の世界の実存である。意味系列の因果性は自我統御がなくなると薄くなるので、固執や絶望やルサンチマンが現れ出てくる。心というのはそういう不安を補償したりうち消したりする性質をもっている。現在の自我不調が過去のエロス的欲望を召喚している。
この情動のテクストは天上の染みのまだら模様と同様、何か意味ありげに見えるが、しかし決して万人に決定的な意味を与えない。いろんな形象が浮かんでくるだけ。いわば、解釈の多義性、検証不可能性をもった、一種の記号による超越論的テクストといえる。カフカの小説などを考えてみるとよいだろう。
だが特定の観点があれば、そのなかから意味を読みとることができる。夢なんか何の意味もないんだとは誰も思っていない。こういう夢をみたことはだいたいこういうことかな、という自分としての確信をもち、それなりの納得をもつ。夢はまったくアトランダムに現れているのではなく、その人それぞれの独自の確信の仕方であらわれるという構造をもつ。
フロイト仮説の場合、そこに性的欲望の抑圧を読みとった。たしかにそういうこともあるかもしれないが、全ての場合がそうかどうかは検証できない。
それはわれわれの世界観と同じように、哲学的にはどれが真理だとは原理的に言えないようなもの、確固とした共通了解が固まっていかない構造をもつものである。
したがって大切なのは、フロイトをはじめとするさまざま仮説のうちで、どちらが正しいかを問題にするのではなく、どのような解釈が自分自身にとってよい意味をもたらすのかということ、つまり自己了解の問題として考えていくことである。
第二部『ヒステリー研究』と現象学
1.フロイト解読A 『ヒステリー研究』(山竹講師)
本書はブロイアーとの共著とされているが、実は共同執筆は、「予報」というところだけ。そのあとの症例も、アンナO以外は全部フロイトが出したものである。それで結論部分は予報の内容とずれがあるので、ブロイアーとしても納得していなかったらしい。
「予報」におけるヒステリー現象の心的機制
シャルコーなどでは、心的外傷が無意識に抑圧されているので、言葉に出せば治るというシンプルなものだった。事件に対して強い情動的反応、あるいは言語化で反応すれば、カタルシスの作用で感動は消失する(除反応)。
以下、山竹講師は、『ヒステリー研究』に挙げられた症例をいくつか解説する。〈エミー・フォン・N夫人〉〈ミス・ルーシー・R〉〈エリザベート・フォン・R嬢〉〈E・アンナ・O嬢〉など。
これらの患者の診療を経て、フロイトは「予報」ではまだ得ていなかったいくつかの知見に到達する。
1.催眠をかけなくても思い出してしまうことがあるので、催眠療法への疑問が生じ、これ以降催眠療法は使わない(フロイトは催眠術が上手でなかった?)。代わりに患者の額に手を置いて、何でも自由に話してくださいという、自由連想的精神分析法のはしりのような手法を実施する。
2.カタルシス療法はヒステリー以外の神経症患者にも効果が見られたので、「予報」の心的機制がヒステリー特有のものとはいえない。カタルシス療法は対症療法なので新たな症状の発生は予防できない。医師と患者の深い信頼関係が必要。
3.催眠状態にならない(抵抗が強い)人もいるので、カタルシス療法には限界がある。この「抵抗」の「発見」がフロイト後期の自我論形成に大きく寄与したと思われる。催眠術をかけなくても、前額法などの心理的操作で防衛を解除することができるということを言い始めた。
4.抑圧された観念が原因となるヒステリーを防衛ヒステリーと命名、「防衛」の概念を第一義的と見るようになった。
2.『ヒステリー研究』へのコメント(竹田講師)
「ヒステリー研究」が全部「夢判断」に反映されている。せき止めるもの、検閲、抑圧が無意識の内容をねじ曲げている、という点ではまったく同じ構造。ヒステリーの場合、抑えつけられた興奮量が身体性に転化するというのは、生理学者らしいフロイトの特徴的な考え方だ。
フロイトの無意識の仮説は生物学と類比させている。心がどういうものかというのを、フロイトは細胞のイメージで考えていた。細胞膜のいちばん薄いところが外側の世界に接していて ここが意識である。外界刺激があってそれが中に入ってくると、中に入ってしまったものはもう知覚されない。その知覚は無意識のなかで溜められる。そして性的興奮量が下がるので身体の痙攣や脚の痛みとしてあらわれるというようなことだ。
今から考えるとかなり奇矯な説だが、説得力があると思えるのは、ヒステリーというのは心の不調が原因となり身体の変調が現れるという部分だ。心の不調があるとそれが身体に現れるというのは、われわれは日常的に経験しており、その意味で検証可能である。しかし当時は心身二元論が圧倒的力を持っていたので、この点が認識されなかった。
〔山竹講師〕
この講座はフロイトを単に理解するというより、哲学的に考えるのが主眼。そこで、ヒステリー研究と夢判断を現象学的に捉えなおしてみたい。
フロイトの場合、「無意識がどうなっているのか」という発想のもと、いろいろな症例から無意識の理論をつくりあげた。これを逆転して、「なぜここに無意識があるという確信が成り立つのか」という形で考えなおしてみる。
無意識の本質看取
すでに自分の中に構成されている「無意識とはこういうものだ」という知識をいったん遮断し、「自分はこういうときに『無意識』があると思う」という経験を思い浮かべてみる。すると、それはおおよそ以下の5つに分類できる。@ 習慣化した運動 A 自律神経反応(動悸・発汗・胃痛) B 感情 C イメージ(空想・夢) D 他者の反応。
これらに共通しているのは、自己了解をうながす契機になっている、ということではないか。自己了解は無意識だけと結びついているわけではないが、「自分はこんな無意識をもっていたのか」ということ、言い換えれば「自分はこんな不安、こんな欲望をもった人間だったのか」ということに気づくことは、それまでの自己理解を刷新する契機となる。したがって、基本的に、無意識の経験において自己了解は本質的な核になるものである。
自己了解の本質契機は三つに整理できる。一、身体的現象(動悸、赤面、など身体性に自分の意識を越えたものがある)、二、他者関係(誰かに指摘されることから、こんな無意識があったのかという了解が生まれる)、三、承認欲望(誰かから自分の無意識について指摘された場合、それを受け入れようとするのは、愛されたい、承認されたい、という欲望がわれわれの中に働いているから。)である。
さて、ここからヒステリー研究、夢判断を捉えなおすとどうなるか。
夢はイメージに属する。自分ではコントロールできないイメージが湧いてくるとき、無意識の確信が成立する。心の世界は全部理性が掌握しているという考えが一方であるとすれば、自分の心なのに分からないということが気づかされるような部分がある。だから夢は無意識の確信成立に大きく寄与する。
ヒステリーは身体現象。ヒステリー研究は治療論でもあるわけだが、治療論そのものの本質がある意味自己了解というところにある。抑圧された無意識を意識化するということはすなわち、自己了解が起きているということ。自分はこんな人間だったのかという自己理解の刷新が起きている。
〔竹田講師〕
「無意識とは何か」ではなくて、「われわれが無意識と呼んでいるのはいったいどういうものか」という方向へと、発想を転換していくことが重要。
今までは気がつかなかったけれども、たしかに自分はこういう行動様式を持っている、こういうクセがある、こういう感受性があるということに気づく。新しい自己了解が生まれ、それまで気づかなかったことが自分の一部としてあったことを確信する。そのとき、われわれはそれを無意識と呼んでいる。
現象学は無意識を否定しているとよく言われるが、そんなことは全然ない。無意識という言葉が生きているかぎり、無意識ということの本質があるはずである。
今後の課題は認識対象の現象学。
無意識はわれわれの心的現象のある重要な部分、意識されていないが、われわれが心として感じることができるものであって、「細胞」のように、事物的・客観的な形では認識することができない。
心は独自の対象なので、その認識のためには独自の方法をとらなくてはならない。
事物、心、自然、社会など、対象の本質がわかると、どういう方法が合意を産みやすいかわかる。
事物認識では、まずユニット、基本エレメント、構成単位が設定され、それらが独自の関係性、因果関係のもとに規定される。それが自然科学の基礎方法である。構成単位、関係秩序、構造、法則、こういう術語のなかで把握されていく。
また、あらゆる事物は第一に人間の身体性にとって、第二に人間生活にとっての必要性、対処可能性、その観点から捉えられる。事物がどのように認識されるかについては、単にアトランダムにそれ自体を認識することはなくて、きちんとした公準がある。
事柄、事象、についてはどうか。例えば、「講義」というのは事柄である。人が大勢集まって、より知っている人がより知らない人に伝える、基本的にはそういうことである。事柄、事象というのは事物と違い一義的な説明も難しいし、高度な共通了解も事物ほどはうち立てられない。「これはどういう事象か」ということについてはけっこう人によってバラツキがあるものだ。ある人にとっては犬死にだがある人にとっては殉教、というケースも考えられる。また、事象は構成単位や構造や法則などが問題ではなくて、関係相関的な意味の連関として捉えられるべき。構成単位は比喩的になぞらえられることもあるけれども、そのものとしては捉えられない。
事象の公準は何か。人間がそこに生きる社会は、一定の行為と言語のゲームにおいて成立している。この行為と言語のゲームのなかでさまざまな事象はそれなりの意味をもつ。したがって、はじめに公共的な社会ゲームの共有性、共通了解がなければ、事象というのは一義的には定義できない。
こころはもっと難しい。事物や事象は公準というものが比較的はっきりしているが、こころは厄介である。
事物や事象、社会や歴史もいわば対象化される存在だが、こころは対象化される存在でもあるけれども、対象化する存在でもあるというまったく独自の本質をもっている。
対象化とはなにか。まず認識すること、それから感じる、行為する(行為の場合は身体も必要)ことである。こころは自ら認識し、感じ、行為し、要するにさまざまな仕方で世界を対象化する主体である。だから事物と同じように、細胞や細胞膜のような仕方で捉えるのは無理がある。
しかしこころは対象化される本質ももっているので、心理学は治癒の体系として成立する。こうした病気や障害の場合どういう対処をするか、どれがいちばんうまく治癒できるかという局面においては、それは対象化される本質と考えて全然不都合はない。われわれは経験のなかから、どういうクスリを呑ませたり、どういう言い方をしたり、どういう催眠術をかければいちばんよくなるかというということを捉えることができる。
しかし、人間を精神をもった本質と考えるときは、対象化される本質として捉えると全然うまくいかない。それが哲学の考え。その場合にはこころ自体が対象化するものであるとして捉えなければならない。
こころの問題をどう考えるかは次回の講座で取り上げてみたい。
(
ちなみに次回の「『フロイト』完全解読U」は、2007年1月20日、朝日カルチャーセンター横浜、と決まりました。是非ご参加ください 。)