本質観取」とは何か  

   竹田青嗣 × 西 研   

(於 朝日カルチャースクール新宿 合宿セミナー)

竹田
 まず、本質観取(=「本質直観」とほぼ同じ)とは何かについて簡単にお話をしたいと思います。
 
 現象学の基本的な考え方は、われわれのなかにどのように世界認識が成立するのか、その構造をはっきり確かめようということです。ある認識が正しいかどうかではなく、確信として成立している構造を確かめる。そうすることで、なぜそれぞれの認識に違いが出てくるのかということや、どういう条件があれば広く共通了解が生み出されていくのかということが分かる。それが基本的な発想です。いつも言うことですが、近代哲学の認識問題(エピステモロジー)の背後にあったのは、宗教戦争を軸とする信念対立の問題です。宗教対立が下火になったあとも、近代のイデオロギー対立が同じ本質をもって現われました。「確信成立」の条件あるいは構造を確かめることでこの問題は解明されるというのがフッサールの最も核心的な思想的直観だったのです。

 ともあれ、この「確信成立」の条件あるいは構造を確かめるために、現象学では「還元」を行います。それの要点をひとことで言うとこんな感じになります。われわれは普通「ここにリンゴが存在しているから、リンゴの赤くて丸くてつやつやした像を見ることができる」と考えますね。これが普通の考え方です。それをあえて、「赤くて丸くてつやつやしているこういう像を見ているので、リンゴが確かに存在しているという確信を抱くのだ」という具合に考えてみる。事実として「ここにこのリンゴがある」というふうに考えないで、「ここにリンゴがある」という確信が成立している意識の側から考えようとするわけです。

 つまり、普通ならば「リンゴがある(原因)」から「赤くて丸くてつやつやしたリンゴの像が見える(結果)」と考えるところを、「赤くて丸くてつやつしているリンゴの像が見えている(原因)」から「そこにリンゴがあるという確信が成立する(結果)」という仕方で考えるわけです。一般的な原因と結果の順序を入れ替えるわけです。

 これが還元といわれている方法の基本的な発想ですが、「本質観取」はこの考え方を応用したものです。赤くて丸くてつやつやしたものが一定の形で自分の意識に生じている場合には、だれでも、リンゴが自分の前に存在することを確信せざるをえない。自分もそうだし、ほかのひともきっとそうに違いない。単に自分の確信というのではなく、他の人にとっても同じく言える確信の構造だけを適切に取り出して記述していくこと、これが現象学的還元という方法の基本です。

 さて、そこでいま、例えばこの「リンゴ」を「罪悪感」という言葉に置き換えて、ほぼ同じ要領で考えてみます。つまり、ここでの問いは、われわれはいったいどのような心的経験のありようを「罪悪感」という言葉で呼ぶのか、というものになります。あるいはわれわれが「幸せ」と呼んでいるもの、「真理」と呼んでいるものは、われわれの中でどのような経験の芯をもっているか。そういう問い方です。「真理とはこれこれこういうものだ」ということをあらかじめ前提に置かない。また、何が「真理」なのかについて、あらかじめ客観的な事実や答えがあると考えない。一人ひとり何を「真理」と考えるか、みなバラバラである。にもかかわらず、そこになんらかの深い共通項があるとしたらそれはどのようなものだろうか。これが本質観取という方法の問い方です。
 
 もちろんこのとき、まず自分が「真理」と呼ぶもののありようを確かめ、しかしそこにとどまらずほかのひとがいろいろな形で「真理」と呼んでいるものの内実を確かめ、その共通項を上手に取り出していく。そして、「真理」という言葉の芯、だれもが、なるほどこういうことが「真理」のいちばん芯にあるなと納得できるような概念の芯を取り出す。まず大きく言えば、本質観取とはそういう方法です。


西
 この本質観取が、上手にやればそうとう面白いものになるんだな、ということが分かったのは、竹田さんが、ゼミの学生が「なつかしさ」の本質観取をして卒論にまとめたのを報告してくれたときですね。なつかしさというだれもが経験している感情を、どういうふうに言えばその内実をぴしっと表せるのか。まずいろいろな契機を出してみる。例えば、基本的には「気持ちがよい」「心があたたかくなる感じ」とか。「引き締まるよりも緩む感じ」だとか。「ほっとする感じ」とかね。そういう言葉を出しながら、同時にそういう感覚を抱いたときの具体的な体験を思い起こしていくわけです。

 
これ、いろんなところでためしてみたんですよ。勉強会でやってみたり、朝カルでもやってみたり。そうすると、なつかしさの本質観取というのは、入り口には非常にいいものだということがよく分かりました。とてもやりやすい。なんでやりやすいのかというと、なつかしいという感情はだれもが持つものだし、なつかしさの感情そのものが持っている質だとか、どういうものに懐かしさを感じるのかということは、大なり小なりみんなが自分の言葉で、自分自身の体験を語ることができるんですよね。それを積み重ねていくと、それぞれ生きている場所も違えば経験も違っているはずなのに、互いの生のなかに相当程度重なるところがあることが面白いぐらいにみえてくる。

 また、これをやっていくときには独特の快があるんです。一人ひとり生きている場所が違うので、具体例としては当然さまざま違ったものがでてくるわけです。その違いがまたおもしろい。でも、その違いをこえて同じような気持ちの動きがあるということがはっきり分かる。人間相互の違い、生きている条件や生存の場所の違いと同時に、人として共通の思いをもっていることがはっきり見えてくるというのは独特な快の経験なんですよね。

 ちょっと話が飛ぶんですが、この前レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』という本を久しぶりに読み直してみました。現代思想ブームの走りになった本ですが、出版されたのはけっこう古くて1950年代に刊行されています。レヴィ=ストロースはもともと哲学を専攻していたんですが、その後文化人類学者となり、たいへん困難な旅をしながら世界各国さまざまな無文字民族を訪ね、そこで見聞きしたり感じたりしたことをこの本にまとめています。見聞記に近い、エッセイのようなもので非常に面白く読めます。

 なんでこんな話をしたかというと、レヴィ=ストロースの場合、インディオの神話の話をしていたと思ったら突然ギリシア・ローマ神話の話になったり、それからいきなり北欧神話の話に飛んだりということを平気でするんです。全然違ったところの神話を全部結び付けてしゃべってしまうわけです。これは下手すると危険なことです。でもぼくは、なぜレヴィ=ストロースがそれをできるのかがよく分かる。彼はね、「人間は同じ」だと思っているのです。人間性にはすごく深く共通するものがある。その同じ人間性をもつものが、それぞれの状況のもとに生き、考え方や生き方の選択をする。その積み重ねのもとにそれぞれ別の文化が作り上げられていく。そうすると、この文化とこの文化は一見バラバラに見えるけれども、なぜその文化が生み出されてきたんだろう、どういう思いや思考のもとにそれぞれの神話や風俗習慣などができあがったんだろうと考えていくと、まったく違った時・場所で形成されてきたはずのそれぞれの文化の間につながりが見えてくる。だからレヴィ=ストロースは、一見恣意的なようだけれども、「人間というものがもつ共通な思い」に立ち返りそれぞれの文化の成り立ちを確かめていくことで、ヨーロッパの人たちがそれまで考えてきた人間性よりも、広い視野に立って人間性の本質を提示できるはずだと思っていた……と思うんですよ。

 フーコーの場合、この発想を歴史に応用していきます。ルネッサンス時代のさまざまな学問は全部同じ構造を持っている。17世紀のデカルト時代のさまざまな学問は全部同じ発想のもとにあり同じ構造をもっている。フランス革命以降、近代になってでてきた学問もまた同じ構造をもっている。違った種類の学問がその時代に共通する同じ発想をもっていて、それをエピステーメーと呼びます。そして、各時代のエピステーメーは、全然別種の発想からできているというように考える。学問がどんどん進歩していき、どんどん真理に近づいていくという連続的な進歩という見方を一切しない。ルネッサンス時代にはルネッサンス時代のゲームがあり、デカルト時代にはデカルト時代のゲームがある。そのゲームのルールはまったく違う。まったく別物なんだ。そう考えるのです。

 でもこうなると、「結局それぞれのゲームがあるだけじゃないか」ということになってしまう。構造主義やポストモダン思想、あるいはウィトゲンシュタインの言語ゲーム論などがもたらした負の側面は、そういう「それぞれのゲームがあるだけだ」という感覚だと思います。


 でも、半分ぐらいは共感する部分がある。ぼく自身も、70年代までは、ものごとはどんどんよくなる、進歩していくという感覚をもっていたけれども、その感覚が80年代半ばくらいにいっぺん死んでいる。

 たとえば音楽でも、ジャズなんかもどんどん和声が複雑になったりリズムが複雑になったりして高度化するわけです。若いころは常に最先端にいたいので、いちばんとんがっているのを追いかけていた。ところが、80年代半ばころから、そういう感覚がぼくの中でいっぺんつぶれているんです。たとえばスイングとか昔のジャズでも、単純なものであってもすごくいいものがあったり、メロディのうっとりするようなのがあったりする。そういうことをいろいろなものに対して感じるようになり、自分の中で進歩の価値観というのがいっぺん折れちゃっているんですよね。

 それはある意味ではポジィティブな面もあると思う。常に先端に行かなければならない、進歩していかなくてはならないという強迫観念が取り払われ、それぞれの時代のそれぞれのものをそれぞれとして味わえるようになるというのは、すごく解放感のあることですから。でも、その反面で「信じられる何か確かなものなどどこにもない。それぞれの人がそれぞれのゲームをやっているだけだ」というニヒリズムにつながる感覚を生み出してしまったのはネガティブなことだし、それは大きな問題だと思います。

 それでいうと、今回『悲しき熱帯』という本を読んでみて、構造主義やポストモダン思想が生まれるきっかけをつくったレヴィ=ストロース自身は、きちんと人間性というものを信じていたんだな、ということがあらためて分かったように思います。

 それで、現象学の本質観取の話に戻るんですが、本質観取の方法には、人間がそれぞれ違った生き方をしていることを十分尊重しながら、そのうえでお互いを理解しあったり、「これはほんとうによいものだ」「みんなにとってたいせつなことだ」ということを確かめあったりしていけるよさがあるんです。ぼくは、現代の思想でそういう可能性をもっているのは現象学以外にはないんじゃないかと思っています。本質観取を実際にやってみると、「人間って生き方や考え方の違いがどれだけあっても、やっぱり同じ心の動きや思いのようなものを持っている」という実感が深いところから与えられる。それはちょっとほかにはないような、得がたい体験なんですよね。


竹田

 レヴィ=ストロースの場合は、構造主義は構造主義でも「よい構造主義」(笑い)というか、優れた構造主義だと思う。いろんな神話の構造分析をしたうえで、こうすれば共通項が取り出せる、ということをきちんとやっている。このあとレヴィ=ストロースを模倣した社会の構造主義的分析というのが山のように現われたけど、こちらはほとんどが、結論がまず先にあり、論理はなんとでもこじつけるという状態になってしまった。そのために、構造主義はどんなイデオロギーでも使える信念補強の道具になった。
 
 でも、レヴィ=ストロースの仕事はいまでもとても普遍的な強さをもっていて、その意義も明らかですね。たとえば、具体的に意識されている一つ一つの事象だけを集めても、それがどういう意味を持っているのかということはそれほど明確にならない。けれどもそれをたくさん並べて見比べてみると、それまで意識できなかったある構造をわれわれが生活の態度として持っていることがみえてくる。いわばわれわれの無意識のうちにあるものをそうやって取り出すことができる。このために具体的な内容をとばして、関係の形式性だけに注目する。それが構造主義の基本的な発想ですね。


 レヴィ=ストロースは、さまざまな神話をずっと並べて、たとえば生と死というのは文化が違っても共通するものであり、それに関連して光と闇だとか、明と暗だとかいろんな二分法が出てくるというように分析をしたうえで、人間社会というのは、一見かなりバラバラでも大きな共通構造があるでしょう、ということをだんだんと示していくわけですが、非常に説得力がある。その説得力の秘密が重要で、単に論理的に整合的だからというのではなくて、彼の説が、われわれ自身がそれぞれの生の経験に立ち返って、なるほど「それはそうだな」と確認できるようなものになっているからです。

 構造主義の中には、共通本質を取り出してゆくという現象学と共通した側面がある。ところがやっかいなのは、もう一つ、取り出された構造が一つの仮説として検証されないでもすむ、という側面がある点です。

 たとえばよく言われていることだけど、フロイトの深層心理学は、ソシュールとならんで構造主義の方法の重要な源流の一つです。経験的データをあつめてその形式性に注目することで、われわれの気づかなかった「構造」を取り出すという点で、フロイト深層心理学自体、一つの構造主義と呼べるからです。フロイトは、神経症の患者をたくさん診ているうちに、子どものときに親との関係に問題があった人が多いことに気づき、神経症の原因は、明示的な意識と無意識的な欲求(主として性的)の葛藤にあり、幼児期のエディプス関係において傷を持った人が神経症の素因をもっている、という仮説を立てた。


 しかし、たとえば「あなたの神経症はエディプスコンプレックスから来ています」と言われて、「ああそうか」と納得する人は、三分の一くらいの人、それとももう少しかな? ともあれ、大事なのは、けっしてそれ以上にはならない仮説でしかありえない。なぜならこれは本質的に、ポパーの言い方で言えば反証不可能かつ、検証不可能な仮説なんですね。これは私自身若いころにずいぶん苦しんだ経験があってはっきり言えます。フロイト以降もう100年をとうにすぎているけれど、フロイトの仮説はかなりそれらしいけど、けっして検証できない仮説であることがいまでははっきりしています。そこに構造主義のおおきな弱点があるわけです。


 フーコーの発想もフロイトと似ています。たとえば、フーコーの『監獄の誕生』の中心の主張は、近代社会の主体は、無意識のうちに支配を内面化する社会構造のうちに投げ込まれている、あるいは、近代社会とは主体における支配の内面化の悪しき制度である、というものです。近代人は、自分自身の主体があると意識的には思い込んでいるけれども実はそうではない。主観的には自由を展開しているつもりでいて、実はその自由を縛っているのが近代の構造だ、というわけですね。たいへん独創的でハッとさせる主張です。しかしこの主張は、社会というものを、ある観点から切り取ったもので、この観点の普遍性は、やはり三分の一ほどの人は納得するかもしれないという性格のものです。そしてけっしてそれ以上にならない。ただし、ここでは詳しく言えないけれど、フロイトとフーコーには少し違いがある。フロイトの反証不可能性は、仮説が「物語」であることから来ています。これに対して、フーコーの反証不可能性、検証不可能性は、その仮説が近代社会の一「解釈」であることから来ています。このために、はじめに社会観を共有している人の信念や感性だけを補強するような説になっているわけです。

 ところが、同じ構造主義でも、レヴィ=ストロースの説はそういう感じを与えません。それが興味深いところです。西さんが言われた通りで、そこにはわたしたちが生きているその感度に照らして納得できるものがある。レヴィ=ストロースの仮説は、特定の社会観からの解釈ではなく、物語的仮説でもない。ある社会の構造の説明についての「原理」の提示になっているわけです。ここには、共通本質の取り出しへと向かう論理があるんですね。

 じつは構造主義も現象学も、「共通構造の取り出していく」という作業においては共通している。構造主義は主に社会的に存在するものの共通構造を取り出していくのに対して、現象学は基本的には心的な構造に焦点を当てるんですね。けれども大きな違いがあるのは、現象学の場合、まずはじめに認識の原理論として構想されているので、ほんとうに共通項として検証できるものだけを取り出さなければ学問として成立しないということを自覚的に方法化しているという点です。現象学では、社会的な事象についての認識も、自然事物と同様「超越」であって、つまり、自然的、社会的諸対象の「構造」の確証は、一定の年限を経た実験や検証の結果としてのみ保証される。しかし、心的な事象については、つまり「確信成立」の構造については、一定の実験や確証の成果というのではなく、適切な概念を展開することで理論として成立するわけです。たとえば知覚の確信の基本構造は、基本的に人によって違うということがあるはずがない。たとえば、われわれは、誰でも自然世界の存在についての自然な確信(自然世界が存在し、我々はその中に生きている、という「原信憑」)をもっているけれど、これと同じく、知覚の確信の構造が同じだというのは万人の自然な確信なんですね。もしそこにズレがあると、ふつうの日常生活を送れなくなるし、もし万人がバラバラの確信構造をもっていると、そもそも社会的な日常生活自体が成立しなくなる、ということも、我々は暗々裏に知っている。

 そこで、この最も基本的な知覚の確信構造を適切な言葉で表現する、というのが「超越論的還元」という発想です。

 これを、心的事象における直接的経験の共通構造の取り出し、というように言うと、構造主義の「共通構造」の取り出しは、いわば一段レベルが間接的になっている。われわれの文化的、慣習的な世界理解の多様性から、その共通構造を取り出すことです。多様な世界確信から共通性を取り出すわけです。ところがその視点は、もう確信成立の構造という明瞭な定点をもたない。つまり、必ず一種の世界解釈が入ってくる。この世界解釈が一定のバイアスをもつほど、それはイデオロギーに近づき、検証されない「物語」に近づくんですね。


 しかし、それでも思想史の中で、フロイトやマルクス的「構造主義」は大きな意味を持っています。フロイトは神経症の症状から、人間の理性とリビドーとの暗々裏の葛藤という構造を取り出し、マルクスは、資本の運動が、その生産性の増大と生産関係(配分)において根本的な矛盾をもつことを構造として取り出した。この基本構造は、一定の時間を経ると誰でも納得さぜるをえないものですね。要するに、人間は必ず世の中に対してある構想を描き、こうなっているんじゃないかという仮説を立ててみる。科学全般がそういう原理で動いている。たとえば、医療のような場合、これがきわめてはっきりしている。症状があり、仮説を立てそれに従って薬を投与したりいろんな治療を試みたりして、それで治癒効果が認められれば、この仮説は正しかった、妥当だったと見なされ、その仮説を新しい土台にしてつぎに進展させていくことができます。

 ところが、やっかいなのは、近代の人文科学の分野でこのような現象→仮説→実験・検証→実証というサイクルがまったく成立しなくなってしまった。典型的には、心理学、歴史学、社会学、民族学、言語学、芸術学といった分野で、共通了解が少しずつ進展してゆく代わりに、どこの分野でも異説の乱立と対立、という事態が一斉にあらわれてきた。フッサールはこれを「ヨーロッパ諸学の危機」と呼んだわけです。共通構造の取り出しが恣意的な観点に基づくと、「物語」や「イデオロギー」の対立になって、人文科学は科学としての本質を失って先に進めなくなってしまった。それは認識の原理論を放棄あるいは無視してしまったからですね。

 しかし、ともあれ、構造主義と現象学は、まったく対立する思考ではないし、それを対立させるのは馬鹿げたことです。この二つは、生活のためのさまざまな仮説を立て、それが具合悪くなったら、もう一度仮説の出来具合を考え直してみる、という、われわれが誰でも生活の中で行なっている思考の二つの基本要素なんですね。構造主義の普遍性が現象学の思考によってつねに検証され、確保されうる、と考えるのがいいと思います。

 たとえば、いま、山竹伸二さんと二人で朝日カルチャー横浜でフロイトの講座をやっているんですが、フロイトの仮説は非常に興味深い面とまずい面をあわせもっている。フロイトは約100年前にエディプスコンプレックス仮説と去勢コンプレックス仮説を立てた。そして、患者を多く診ていくほど自分の仮説の正しさがだんだん証明されていくはずだと思っていたはずですが、いっこうに証明されない。そのために、「死へ衝動」というさらに怪しい仮説を立ててしまう。ところが、現象学的な観点を置くと、フロイト説のどこが検証不可能な「物語」になっているか、どこが普遍性をもった共通構造として取り出せるかを、かなりはっきり識別することができます。そのことで、フロイトの仮説の意義が、より本質的になるんです。たとえば、いま山竹さんがそれに取り組んでいますが、無意識の本質観取や身体性の本質観取などは、そういった局面で非常に力を発揮すると思います。


西
 
いま竹田さんの話を聞きながら思い出していんたんですが、「正義」の本質観取をやろうとしてうまくいかなかったことがあります。本質観取の方法の勘所、つまり、「既製の理論だとか考え方の前提をいっぺんはずして自分自身の感触をていねいに確かめ、そのうえでみんなと共有できる考えを作り出していく」ということをうまく伝えられないまま、学生たちに「正義」の本質観取をさせてしまったんです。そうすると、これまで見聞きしてきた「正義というのはこういうものだ」という仮説や考え方に当てはまるかたちでしか考えられない人がたくさん出てきてしまった。それではもうアウトなんです。現象学の枢要な点は、いろいろな意見が対立したり仮説が対立したりしたときにどうやって共通な考え方をつくるかということに対する自覚的な方法論だということにあります。ですから、まず、それぞれの経験の内実をくみあげながら本質をとらえていくことが基本になります。それがうまくできると、今度はなぜこれまでこういう説が立ってきたのか、ということもそこから検証し、確かめ直していけるようになる。


竹田

 わたしはよく、現象学は哲学的思考の原理論という性格をもつ、と言ってます。ここしばらくヨーロッパ哲学全般を読み直していたんですが、するとその印象が強くやってくる。哲学は、それまでの世界説明は神話や詩的な物語によってなされていたのに対して、「物語」を避け、概念と論理、そして原理を提示するという方法で、世界説明を行なった。そういう新しい思考方法だったんですね。概念と原理だけを使うというのは、別の言い方をすれば、任意の点から出発しないということです。「神様が世界をつくった」とか、「世界は永遠回帰している」「輪廻している」とかいう任意の出発点からはじめない。どういう出発点を設定すれば、さまざまな立場のちがった人間の合意を取り出せるか、という発想です。

 ギリシア哲学のはじめにタレスが「万物の原理(アルケー)は水である」と言いました。それが、思考の始発点としての「原理」です。ですから、哲学での「原理」というのは「真理」や「究極原因」という考えとはまったく違ったものです。おもしろいのは、個々の哲学者は、「原理」という言葉を、究極原因や真理として考えている場合がもちろんあった。しかし哲学史全体では、つぎつぎに新しい「原理」が提出される。タレスの弟子のアナクシマンドロスは「無限なもの」、その弟子アナクシメネスは「気息」を原理と言いました。哲学はそういうオープンゲームになっている。どういう言葉(原理)を始発点としておけば、より普遍的な説明が可能になるか、そういう言語ゲームなんですね。

「自分は、世界はだれかがつくった、というような考えをいったんやめて、単位による構成と考えてみるように提案する。最もシンプルで小さいものが寄り集まって複雑なものを作り、ひいては世界全体ができている。で自分はその最もシンプルな単位を水と呼びたいが、どうだろうか」これがタレスの提案だった。すると次の弟子が出てきて、「師匠は水と言ったけれども、私〈無限なもの〉というほうがもっとよいと思う。なぜなら水では世界の多様性が説明できないからだ」という。……これはアナクサマンドロスの説ですが…、そういう形で進んでいくわけです。


 私の言い方では、哲学は、大きな公共的なテーブルに人が寄り集まって、あるテーマを決め、各人がさまざまな自分なりの形の石をおいてみる、そういうゲームです。宗教の教義のゲームと違って、だれもが守らねばならない始祖の聖なる言葉もなければ、特権的な裁定者もいない。あれこれみんなで石をためすすがめつして、これがなかなかよい石だというのが自然に参加者の中で決まってくる。あるいは出された石が開かれた言語ゲームの中で鍛えられて徐々に、普遍的な合意を得られるものになっていく。そういうオープンゲームなんですね。

 重要なのは、哲学は、概念、原理、オープンゲームという基礎ルールで、世界説明の新しいゲームを創出したということです。大きく言うと、世界説明の方法は「物語」(寓意や詩も含まれる)、「解釈」そして「概念--原理」という大きな枠組みをもっています。いわゆる「形而上学」は「解釈」が主役で、スコラ神学ではこれが主流でした。つまり、いわゆる形而上学と哲学の方法は重ならないのです。もう一つ重要なのは、この「概念--原理」という方法がまさしく、自然科学の方法の基礎であるということです。たとえば、電気の現象を説明する「プラス電気」「マイナス電気」とか、物理学における「力」「ベクトル」「作用--反作用」などはすべて創出された「概念」であり、「原理」です。哲学の方法が「自然世界」に限定されて、自然科学という領域が成立したんですね。


「哲学とは何か?」と問うてみるとして、現代の哲学者の多くが、哲学は驚きから発して、自分の存在や、世界の存在の不思議について、明確な答えが出ないにせよ考え続けること自身に意味がある、という言い方をします。答えの出ない問いを考えつづけること、これは不合理故にわれ信ず、という言い方に似た、古くからある逆説的レトリックです。言葉の営みのある側面をよく表わした言い方です。しかし、哲学史を通覧してみると、実際には、答えの出ない問いを延々考え続けているような哲学者はまったくいません。たとえば、ハイデガーのようにそんなふうに装っている哲学者はたまにいるけれど、彼の本質的な功績はもちろんそんなところにはないんです。
 哲学とは何かに対するこのかなり古くからある言い回しが復活しているのは、じつは近代哲学の存在意義が現在うまく受け取られていない証拠とも言えます。現代は反哲学の時代なんですね。


 デカルトの最大の功績は、スコラ哲学者たちが延々と世界を「解釈」していたのに対して、だれもが「これは確かに存在する」と認められる始発点を置くべきである、という提案をしたことですね。思考の始発点を設定した。「コギト」がそうです。つぎに現われたスピノザの最大の功績は、世界はすなわち神である、と主張したけれど、彼の功績は、世界について、数学のように厳密に反証不可能な仕方で思考できるはずだ、という思考のモデルを提出した点です。ヒュームの最大の仕事は、数学や自然科学の領域ではそう言えても、人間や社会の領域では、けっしてそうはいかないことを、みごとに“証明”した点です。こういう哲学の思考の進み行きは、不可逆で、一歩進んだらもう二度ともとには戻れないものです。近代哲学はそういう仕方で進んで、ニーチェのところで、汎神論的なあるいは有神論的な世界像は決定的に解体され、もう二度と復活不可能になった。これが近代哲学の大きな歩みです。

 フッサールの仕事は、簡潔に言えばヒュームの発見を厳密に論理化、哲学化したことです。認識の可能性と不可能性の限界と理由を決定的な仕方で解明した。これはカントが一度試みたけれど、不十分だった。それを徹底して行なったために、認識原理論としてはほんとうに普遍的なものになって、射程範囲はまだまだこれからはっきりしてくるはずです。しかしそれがポストモダニズム思想の現象学誤解で、ほとんど見えなくなっているのが現状です。現象学の考えで我々は、哲学的認識、科学的認識の本質を、古典的な「真理」の概念からはっきり切り離して、「普遍性」「普遍的認識」あるいはこれは西さんの言葉だけど「普遍的洞察」という概念で考えられるようになったんです。ポストモダニズム思想は、「真理」概念をかなり古い方法で相対化しただけですが、現象学の方法は、本質的な議論になっている。ロジックをしっかり理解できる人は、それを理解できるはずです。

 現象学的還元は、そういう本質的な認識批判の論理です。「確信成立」の構造を解明することで、共通了解の成立する領域と、成立しない領域の構造をはじめて明確に区分することができる。つまり、われわれの認識が、普遍化されうるその条件を検証できるからです。

 それで、本質観取の方法はこの方法の展開形、応用形だと言いました。いま西さんが「正義」の本質のことを言ってくれましたが、はじめに「正義」というものの何か絶対的な内実があり、それを探すんだ、と考えるとどこにも行きつかない。むしろ、はじめはどこにも正解はない。何か言葉をおいてみて、それがどの程度、またどういう理由で合意を得るか、あるいは得ないか、を確かめながら進んでいくわけです。

 別の例で言うと、今日われわれは「羞恥心」とは何か、について議論しましたが、そのとき「対象的な価値下落」という言葉が出てきました。一つの概念ですね。するとそれは、見られている意識や、非対象の意識、負の感覚、自己の否定といった言葉をかなりうまく包括する概念であることが分かります。しかしそれはまだ一つの概念にすぎず、絶対的なものでも何でもない。しかしわれわれはこの概念を出すことで、この言葉でまだうまく言い当てられていない側面がないかどうか探すことができる。そうやって進んでいく。

 つまり、現象学の本質観取の方法は、公共的な大きなテーブルでの開かれた言語ゲームという哲学の基本方法を、原理化したものだと言えます。それは「真理」を取り出す方法ではなくて、「普遍認識」を育て、作り上げていく方法なんですね。こう言うと、それでは多数決が「真理」とされるというのとどこが違うんだと言う人が、まあ確率的に必ずいるんですね(笑い)。しかし、多数決が真理なら、はじめから哲学の方法をもちだす理由がどこにもない。もともと考えの違った人の中から「合意」を取り出しうる可能性の原理が、哲学の核心であって、単に多数決を取り出すのではなくて「洞察的納得」を作り出す方法です。だから哲学の本質は「普遍的洞察」の可能性の原理なんですね。そこに、現象学的の本質観取という概念の内実があるわけです。



 われわれの話はこのくらいにして、会場のみなさんから質問を聞いてみましょうか。


(質問)本質直観に向かないものごとにはどんなものがあるのですか?


西
 それはなかなかよい質問だけれども……どんなものがあるかなあ……。


竹田
 うーむ、たとえば……相撲の本質観取とか……


西

 す、相撲?


竹田
 いや、つまり、万人にとって核心的な経験的本質をもたないもの、とか、それ自体ある特定の機能や分類や役割上の意味本質としてすでに与えられているもの、というのは本質観取に向かないんですね。たとえば……机とは何か、ワープロとは何か、これはすでに機能的本質が事前に決められている。朝顔とは何か、これは生物学上の分類がすでにある。国連とか、なんとか協会とかね。 相撲といったのは、まあ誰もが見たりとったりしているわけではない……。


西

 相撲の本質観取はいきなりやると大変でしょうね。相撲の何を本質観取するかということにもよるけれども。でも、相撲の好きな人がたくさん集まって、相撲の魅力や面白さってなんだろうかということを話し合ってみたら、いろんな違いがあるかもしれないけど一定共通項もくくりだせるかもしれないよね。


竹田
 相撲がすごく好きな人たちどうしで、相撲のいいところはこういうところじゃないかということを上手に取り出していくと、お互いの共通了解が進む可能性があるね。ただ、人間はいろいろな趣味の傾向をもっているので、とくに芸事とか表現に関しては、それぞれの人間の感受性の違いがはっきり分れる。したがって、意見が対立すること自体がそういう文化的なゲームの本質でもあるわけです。というか、文化的なゲームであることが、芸術や芸事の一つの本質でもある。

 文学などもまさにそうですよね。この作品の本質は何か、というといろいろ意見が分かれて、決して意見が一致しない。この場合は、なぜそうした違いが出てくるのかということを本質観取していくと、いろいろ面白いことが出てくるわけです。たとえば、文化的なゲームでは、どこかにほんものがある、とか、もっとよいものがあるということが、そのゲームに参加する人の暗黙の前提になっている。そういういわば前提的信憑が、このゲームの一本質ということが分かったりする。ただ、そういう場所に進んでいくのはけっこう難しい。



西
 どういう方向にもっていけば共通了解がつくれるかということが非常に重要ですよね。竹田さんも言ったように、「この話題に関しては必ず意見が分かれてしまう。だからもうだめなんだ」ということじゃなくて、「そのように意見が分かれる理由はなんだろうか」と考えてみるとかね。何を目的に、どういうところで共通了解を取り出していくかということをまず考えないといけないわけなんですよね。


竹田
 自然科学ではきわめて広範な、高度な共通了解が生じる。それをわれわれは客観認識と言っているわけです。しかし美の問題とか宗教の問題では、絶対的な認識は存在しない。つまり絶対的な共通了解が成立しない。ただ、なぜそういう違いが生じるのか、についてはだれもがある経験をもっているんです。ですから、違いがなぜ出てくるのかということについての本質は取り出せます。またどういう共通了解ならば成立するのか、ということも本質観取によってはっきりしてくる。


(質問) 実際に仕事のうえで利害や意見が対立している人たちと共通了解を探ろうとしても、そうした話し合いのテーブルにもついてもらえないことがあります。本質観取を実践の場で活用していくためのよいヒントはありますか?


竹田
 本質観取はスーパーマジックではないので(笑い)、これでどんな人間関係も解決するというんではないですね。むしろそれは、条件を明確にするわけです。たとえば、非常に仲の悪い人やまたそこに権力関係がある場合には、そこから共通了解や相互承認を取り出せる条件はきわめて低い。逆にいうと、共通了解や相互承認、相互了解を作り出すには、親和性や、相互信頼というものがその条件を高くすることが分かります。対等な関係がその絶対的必要条件でないことも分かります。権力関係や利害関係を弱めることが重要な条件であることも分かってくる。そんな具合で、どういう条件があれば人間というものは共通了解を成立させることができるのかというその本質を取り出すことができるわけです。利害関係や権力関係がある場合、「そもそも意見を一致させること自体が不必要だ」という力が働いていて、それは基本的に力による競争原理ですね。

 歴史的に言って、哲学はフェアな自由な場所で可能になる。特定の政治権力や宗教権力が言論を制圧しているのではないところで、あるいはそれに抗して哲学の言論は現われてくる。そもそも共通了解というものは、「どこかにほんとうのもの、みなが求めているはずのものがあるはずだからそれを探そう」、という暗黙の前提的一致がなければ創り出されるものではありません。ですから、まず共通了解が成立するための条件というものがある。現象学の方法はだれとでも共通了解がつくれる方法というのではなく、その条件を明らかにする方法なんですね。


西

 確かにお互いの間に激しい権力差がある場合は難しけれども、それでもある一つのことについて気持ちが通じたことをきっかけに信頼感が生まれ、「ほかのことに関してももうちょっとお互いの合意をつくろうよ」というようになることもあるだろうし……互いの間に権力差や利害があるところでも、どういう条件をつくれば比較的合意なり信頼感なり作り出しやすくなるのかというかたちで問題を立て、考えてみることはできるかもしれませんよね。


竹田
 いま、西さんの言ったことは大事で、協調点が見つからない、なかなか上手に話ができないときに、何がそれをできなくさせているのかをはっきり理解する、ということがはじめの一歩ですね。「こういう条件が欠けているために、共通了解が成立しない」ということが分かれば、無駄な努力や無理なあがきをしなくて済むし、可能な目標設定が明瞭になる。条件は悪いが、それでもやはり共通了解が必要だと思えるなら、まずそのための条件を創り出そうという発想が持てるようになるからですね。


西 
 選択ができるようになりますよね。「これは無理だからあきらめる」という場合でも、ほんとうに気持ちよくあきらめられる。また、努力しようと思うのなら、まずこの条件をつくろうというように具体的にやるべきことが見えてくる。そのように選択できるということは重要だと思います。


竹田
 人間は欲望につきまとわれていますが、欲望にははっきり功罪があります。欲望は生きるための大きな理由であり、つまり生の可能性と喜びの源泉ですが、またその根本的な苦しみの理由、原因でもある。ですから、欲望を実現するための条件をはっきり理解してゆくことは、自分の生をよく生かすための必須事項ですね。

 哲学の知恵というのは、基本的にはそういう場所から発しています。条件をきちんと追い詰めれば、この欲望はあきらめきれないが、どう考えても実現不可能無理な欲望であり、それに固執するかぎり自分も他人をもスポイルする、ということが腑に落ちれば、人間はその欲望を捨てることができます。この場合は、たんなる欲望の断念ではなく、自分の固有な生への欲望がいま固執している欲望を乗り超えるので、抑圧ではなく欲望の棄却が可能になるんですね。

 また、こちらの欲望を実現するためには、こちら側の欲望は抑えるほかないということが明瞭になれば、その場合も欲望をあきらめることが可能になる。ある欲望を命令によって「打ち消す」、つまり禁圧するのではなく、ある欲望をほかの欲望で「乗り超える」場合だからですね。もちろん、口でいうほど簡単なことではなくて、こんなことを言っている私もけっこういつも何かにひっかかっているんですけどね(笑い)。でも、哲学的にいえば、誰でも欲望の抑圧や禁圧ということと、その乗り超えの場合を経験しているので、その基本的な理由が理解できるはずです。


ラカン的にいえば、ある欲望が消えて、他の欲望に置き換わりうることは、たとえば、あらゆる欲望はある「根源的な欲望の換喩」、つまり母親への原的な愛情欲求の代替物である、という言い方で説明できますが、現象学の観点からは、そういう起源論的な「物語」ではなく、欲望の禁圧と乗り超えの可能性について、誰でも本質観取を行なって共通構造を取り出すことができるわけです。


西
 自分自身の欲望を実現できる条件を考える、という思考を持てないと、生きることに無力感がつきまとうことになる。調子がいいときにはいいんですが、うまくいかないことばかり続くと、自分は何事もなしえないんだという無力感に襲われてしまう。これは非常に苦しいことです。自分自身の運命や、楽しそうにみえる他の人たちへの恨み辛みの感覚を抱えて生きていくようになりかねないし、それはとても苦しい。ニーチェのいうところのルサンチマンですよね。だから、きちんと条件を考えられる思考というのはすごく重要だと思う。わかっていてもなかなかできないというのはぼくも竹田さんと一緒だけどもね。でもやはり大切なことだと思います。


竹田
 もういちど言いたいのは、現象学の考えは、基本的に共通了解の可能性の学である、という言い方を私もしているけれど、基本は、人とうまくつきあうための技術というのでも、調整の技術というのでもありません。もちろんそれを創り出す可能性は含んでいますが。むしろ大事なのは、現象学の考え方の方向性です。

 現象学は、ある理想状態を構想して、ここに至るためにどのような条件が必要かという考え方の順序ではないんです。むしろ、現象学はいつでも、実際にわれわれが経験していることのうちその本質、を取り出していく、という思考です。たとえば、誰でも、はじめ気の合わなかった人となぜか仲良くなっていった、という経験をもっている。うまくいかなかった親となんとかなったという経験をもっている。このとき、なぜそういうことが生じたのかについて、その本質を取り出すことができる。つまりある条件が満たされて徐々にそうなっているわけですね。そうしたことをいったん取り出して自覚的に理解できると、今度自分が似た問題にぶつかったときに、それを非常に有効に使えるようになります。それはつまり、われわれが無意識にやっていることを意識化するということであって、ある特定の理想から創り出した特定の人間術ではないわけです。

 現象学は、よく事象自身に立ち返る、という言い方がされていますが、ミスリーディングな言葉です。本質観取とは経験のありのままを観て取る方法なのではなく、われわれが経験を反省できるその可能性の原理を確定するのです。そこから、われわれの生にとって必要なものを適切に意識化する技術であり、またそれを、相互了解が可能性であるような仕方で意識化する技術です。だから、はじめに本質観取の基本的な方法の順序をはっきり理解することがとても重要です。


西
 そうですね。そのことは非常に重要なことだと思います。


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