現象学研究会活動報告

フッサール『ブリタニカ草稿』を読む(2011 12/10 Sat.)

報告者:小井沼広嗣


講読箇所とレジュメ担当

第四草稿(完成稿):(苫野一徳)

第一草稿: (野口勝三)

第二草稿: (枡岡大輔)

第三草稿&資料:(小井沼広嗣)


報告

今回の講読テキストはフッサールの『ブリタニカ草稿』(谷徹訳、ちくま学芸文庫)。イギリスの百科事典『ブリタニカ』が「現象学」という項目を加えるにあたり、その学の創始者たるフッサールに執筆依頼したものである。本書は現象学の理念と方法が非常にコンパクトに、かつ整理された形で書かれているので、フッサール現象学のエッセンスを把握するうえで非常に有益だ。また、この原稿が書かれる過程にはよく知られたドラマがある――フッサールは当初、本稿をハイデガーと共同して執筆する予定だったのだが、お互いの考えのちがいが露わになってしまい、結局、最終的にはフッサールが一人で書き下ろすことになった、というものだ。そういうわけで、本書には、フッサールとハイデガーの師弟関係の亀裂という思想史上の(ある意味、とても不幸な)重大事件の痕跡が垣間みられるのだが、この点は両者の哲学上の立場の相違を考えるうえでたいへん興味深い。というわけで、本書はいわば一品で二つのおいしさを味わえる著作だった。

 研究会では様々な議論が交わされたが、本報告では以下、<純粋心理学と超越論的現象学の関係>、<フッサールとハイデガーの相違>という二つのトピックを取り上げることにしたい。

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 まずは純粋心理学と超越論的現象学の関係について。この草稿の特徴は、最初に「純粋心理学」ないし「現象学的心理学」と呼ばれるものを説明し、そのうえで「超越論的現象学」の動機と課題を論じる、という順序で構成されていることである。

 純粋心理学とは、物的なものとは異なる、「心的なもの」の独自のあり方を探究する学問のこと。それは、実験や観察といった経験科学的方法は用いず、「反省」を介して純粋に体験に内在しつつ、心的体験の特質を記述するという方法をとる。

 フッサールによれば、純粋心理学は「心」に関する「本質学」として、実証的な心理学の基礎づけをなすという意義をもつ。しかし他方で、それは、超越論的現象学の理解を手助けする「予備学」ともなりえる。超越論的現象学は私たちの自然的態度全体の変更を要求するという新奇さのせいで、一般には理解されにくい。これに対し、現象学的心理学は、心的体験に内在するという方法が新しいとはいえ、実証的学問にたずさわる人々にも比較的近づきやすい。そして、現象学的心理学の理念が明確にされたならば、超越論的現象学の真の意味を理解することはより容易になろう。こうフッサールは述べる。

 そこでフッサールは、現象学的還元を「現象学的−心理学的還元」、「超越論的還元」という二段階で説明する。還元は、それが「現象学的−心理学的還元」であるかぎりでは、実在的な世界のなかにある心的なものの意味本質を入手するにとどまる。つまり、現象学的心理学は、純粋に心的な主観性に定位するとはいえ、この主観は依然として“世界の内部に現存するもの”と想定されている。これに対し、「超越論的還元」は、心理学的還元のうえに積み上げられた、「エポケー」のさらなる徹底化として導入される。世界の実在性を自明視する自然的態度を「遮断し」、まなざしを主観的な生へと向け換える。この視線変更を徹底するならば、世界に関するおよそ一切の事柄は、我々の主観的な生のなかで形成される「意味」としてのみ妥当することとなる。「世界の内部に心がある」という事態も例外ではなく、それは意識がつくりだしている信憑だと考えねばならない。かくして、「心理学的に純粋な主観性」は「超越論的に純粋な主観性」へと還元されるのである。

 フッサールによれば、超越論的問題――いかにして世界の存在確信は主観性のうちで成立しているのか、という問題――は、世界と世界を探求する一切の諸学問を問いに付す以上、もっとも普遍的な問いである。それゆえ、諸学の基礎づけという現象学の理念を完遂するうえでは、心理学的還元では不十分であり、どうしても超越論的還元が必要となるのである。

 さて、以上のような<純粋心理学から超越論的現象学へ>という本稿の道筋は、「記述心理学」的な方法(⇒『論理学研究』)から出発して「超越論的現象学」(⇒『イデーン』)を確立していったフッサール自身の思索の軌跡とも符合する。しかし、こうした道筋を提示するに至ったフッサールの動機は、直接的にはこのことと関係はなく、むしろそれは『イデーンT』の不評に由来すると思われる。『イデーンT』ではじめて公表された「超越論的還元」の方法は、当時の学問界はおろか、フッサール自身の弟子たちからさえほとんど理解されず、あたかも独我論であるかのように論難されることとなった(*)。そこで、フッサールは自然的態度から超越論的態度へいきなり移行してしまうのではなく、両者のあいだに「現象学的−心理学的還元」を導入することで、超越論的還元の意図をより明瞭にしようとするとともに、純粋心理学の立場にとどまる弟子たちへ反批判を試みたのだろう(**)。

(*)この事情はフッサール自身が後年、「イデーンへのあとがき」で書いている。

(**)この点についての考察は、西さんの著作『哲学的思考』の第三章を参照。

 ただし、今回の研究会では、こうした二段階の還元という理路は読者側からするとかえって分かりづらい、という意見も出された。たしかに、超越論的還元による視線変更の意味を十分に理解してしまったあとでは、世界や心の実在性はとどめるという「心理学的還元」は、かえって中途半端で分かりにくい面もある。また、フッサールは一方で、純粋心理学を「アプリオリな学」(=本質学)と位置づけつつも、他方では、それが世界や心の実在性を不問にしているかぎりで「実証的学問」(=事実学)だとも言っているが、こうした言い方は混乱を招きかねない。むしろ、(フッサールのせっかくのアイディアに水を差すことになってしまうが、)超越論的現象学というものの意義をはじめに明瞭にしてしまい、そのあとでその一部門として現象学的心理学を位置づけてくれたほうが、より明快だったのかもしれない。(なお、フッサールの“体系上”の構想では、両者の位置関係はそういうふうになっていると思われる。)いずれにせよ、両者の関係を適切に捉えるうえでは、フッサール自身が注意しているように、純粋心理学的な主観性と超越論的な主観性とはまったく別個のものではなく、両者の相違は「態度の違い」にすぎないということを銘記しておくことが重要だと思われる。

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 次に、フッサールとハイデガーの関係という問題に移ろう。一般的には、フッサールが諸学の基礎づけというモチーフに固執したのに対し、ハイデガーは存在論を西洋哲学史上の根本問題としてこだわり抜いたという点で、両者の哲学的関心はかなり隔たりのあるものであったと解されやすい。けれども、今回の研究会では、(師弟関係を結んでいただけあって)両者の哲学にはかなり近接した一面もあったことも確認された。

 一つにはフッサールが本稿で、自分の現象学を「普遍的存在論」と規定している点にある。こうした言い方は、『イデーン』の時期においてはまだ見られなかったものだ(*)。フッサールの現象学が、もともとは「存在論」よりも、主観・客観一致のアポリアといった「認識論」の諸問題の解消を目的として練り上げられた方法論であることは、彼の思想形成の展開に即しても、まちがいない(**)。けれども、現象学がここにきて「普遍的存在論」だと主張されるに至ったことは、彼が『イデーンT』で「超越論的現象学」を提唱したかぎりで、その必然的な帰結だとも解せる。というのも、超越論的還元によって開かれる「超越論的主観性」という領野は、ありとあらゆる存在者の存在意味と存在妥当とがそこにおいて構成される場であるからだ。

(*)『イデーン』では、超越論的主観性は「存在一般の根元カテゴリー」であるとか(⇒『イデーンT』76節)、超越論的現象学は一切の存在論(=存在者の学)を根拠づける(⇒『イデーンV』第三章)、といった言い方はなされていても、<超越論的現象学それ自体が存在論だ>、とまでは主張されていなかった。

(**)たとえば、現象学的還元の方法がはじめて提示される『現象学の理念』では、カントにならった仕方で、現象学は「認識批判学」だと規定されている。

 他方、ハイデガー存在論にはフッサールと同様の学問論的な問題認識が含まれていることも確認された。ハイデガーは『存在と時間』の序論(3節)でおよそ次のように述べている。「存在者」の全体を区分すると、歴史、自然、生命、言語など、様々な「事象領域」が成立し、それとともにその各々を主題的に探究する「実証的諸科学」が成り立つ。しかし、それらは、それぞれの事象を単に「存在的(ontisch)」に探究するにすぎず、当該領域の「根本概念」を深く反省するものではない。そのために実証諸科学は、その「根本概念」をときに大きく修正しなければならなくなる。こうした「危機」に直面して当該領域の根本概念を基礎づけ直そうとすれば、どうしてもその事象領域の存在者を「存在論的(ontologisch)」に解釈し直さなければならず、こうした課題を導くものこそが「存在論」にほかならない、と。こうした事情をハイデガーは「存在問題の存在論的優位」と呼ぶが、この主張は、フッサールが「事実学」を「本質学」によって基礎づけようとしたことと重なりあうと言えよう(*)。

(*)ただし、ハイデガーが諸学の基礎づけという課題を果たそうとした具体的な形跡はどの著作にもみられない。それゆえ、ここでの主張はもしかしたら、<自分の存在論は師匠の問題関心をもとうぜん包含しえるものなのだ>、ということを一種のパフォーマンスとして示しているだけなのかもしれない。

 けれども、どこに探究の土台を求めるかをめぐって、両者の相違が露わとなる。ハイデガーは、この時期フッサールへと送った手紙の添付文書のなかで、「超越論的主観性」という場を根源とみることに対して異議を唱えている。ハイデガーの言い分はこうだ――フッサールは、超越論的主観性という場において一切の存在者が構成される、と主張する。けれども、その場合、その当の構成する主体の身分はどうなるのか。それは無ではない以上、それもまた何らかの意味で「存在者」だというほかないのではないか。そうであるならば、<そのなかで世界が構成されてくるところの存在者の「存在様式」はどのようなものか>、ということが主題化できるはずだ。これこそ、『存在と時間』で扱ったテーマであり、つまりは「基礎的存在論」としての「現存在の実存論的分析論」なのだ、と。かくしてハイデガーは、世界の実在性をエポケーしたのちに開かれる「超越論的主観性」という場に定位するのではなく、むしろ、“つねにすでに世界と関わってしまっている”日常的・平均的な「現存在」の存在了解から出発するべきだ、と言う(⇒「超越論的現象学」から「解釈学的現象学」への転換)。彼によれば、フッサールの言う超越論的還元も、現存在のとりうる実存的可能性の一つに他ならないのである。

 さて、こうしたハイデガーのフッサールに対する異議申し立ては、どのように解すればいいのだろうか。これは単純に、超越論的主観性に対する無理解、フッサール現象学からの逸脱、といった仕方で片づけられる問題ではない。というのも、ハイデガーの立場にも一定の利があるように思われるからだ。

 ハイデガーの現存在分析の意義は、端的に言えば、認識の“欲望相関性”を鮮明にし、実存についての現象学を切り開いた、という点に見出させる。たしかにフッサールも、すでに「志向性」という概念を建てていた。認識主観というものは、諸々の対象を単に受動的に受け入れる容器のようなものでは決してなく、そこには、何らかの対象性をめがける“志向”がつねに働いている。認識対象はあくまでも、認識する主体の作用との“相関において”体験される。しかし、フッサールの問題構成においては、(諸学の基礎づけの前提となる)「客観的世界の妥当の成立条件」という点に力点が置かれており、また、その妥当根拠として、「知覚」体験がもっとも原的な確信成立の基層とされているため、人間の欲望ないし関心のつかみが弱い。

 これに対し、ハイデガーの考えでは、実存としての現存在はつねにすでに世界と関わりつつ、自己を了解し、またおのれの存在可能を気遣っている。この実存の観点からすれば、人々の通常の生のなかで「世界」がいかに現われ、経験されるかがより明瞭となる。このことは実存論としての展開可能性のみならず、諸学の基礎づけという問題にも大きく関わってくる。なるほど、自然科学の基礎を考える上でならば、フッサールのように、知覚体験に基礎をおくことにも一定の妥当性があるかもしれない。しかし、人間の心理や社会関係を問題とする人間諸科学の原理的基礎を考えうる上では、そうした知覚モデルでは不十分となってくる。というのも、ひとが他者や社会を対象化したり、関わるときには、つねにそこには一定の関心や自己了解にもとづく視点が組み込まれているからだ。実際、フッサールも晩年の『危機』において、「生活世界の存在論」の重要性を説くにいたるが、こうした経緯にはハイデガーの実存論の果たした成果からの影響をうかがうことができよう(*)。

(*)もっとも、フッサールは『イデーンU』の「精神世界の構成」において、こうした方向性をハイデガーに先立ってうちだしていた。とはいえ、そこでの「人格主義的な諸関係」の議論は十分には展開されていない以上、ハイデガーの実存論が果たした功績はやはり大きいとみなければならない。

 では、ハイデガーの勝ちで、「超越論的主観性」という領野の設定は不要なのか、というと、断じてそうではない。ハイデガーからすれば、ある対象の意味の受け取りを単に“原的な直観”に求めるだけでは不十分なのであるが、それというのも、その対象の与えられかた(=意味)を規定するおおもとは、現存在の側の“存在可能性”であり、それは「情状性」や「気遣い」、およびそれの「了解」として明らかにされてくるからだ。この点はたしかにハイデガーの言うとおりである。しかしながら、ではその了解をどうやって取り出すのかというと、やはり意識に直接与えられるものを観取するしかない。現象学的には、意識領野はみずからの確信根拠をとりだす“底板”である点で、その特権性は揺らぎようがないのだ。これに反し、もしも意識を“可能にしているもの”を問題化するといった方向にむかうならば、それは「先構成」に陥らざるをえない。

 その点、「解釈学的」現象学だと、確信成立の“底板”としての意識主観の特権性が曖昧となってしまう危惧がある。たしかに、ハイデガーは『存在と時間』のなかで、「道具存在」の分析、「気遣い」の分析、「死」の分析など、師匠のフッサールを凌駕しかねない、数々の見事な本質観取をおこなっている。またそのさいに彼が依拠する「現存在の存在了解」というのは、(当人はけっして明記しないのだが、)実のところは、意識主観に他ならないこともまちがいない。にもかかわらず、ハイデガーの分析では、だれもが本質観取しうる確実なことと、仮説の域にとどまる事柄とのあいだの線引きが次第に不明瞭になっている面がある(*)。また、ここでは取り上げられないが、「本来性−非本来性」という概念の区別立て、存在解釈に関する「循環」の問題など、現象学的観点からは問題がのこる議論もある。

(*)『存在と時間』の後半部は、<「気遣い」 ⇒ 根源的な情状性としての「不安」 ⇒ 「死」への「先駆」 ⇒ 「良心」の「責めあり」 ⇒ (本来的な生に向かっての)「先駆的決意性」 ⇒(本来的な可能性としての)他者と共なる共存在(=「民族」「歴史」)>といった仕方で展開されていくが、こうした議論の推移は、(一部のひとには実存の本来性の「物語」として説得力をもつかもしれないが、)誰しもが共通して自分の実存体験から取り出せる本質洞察とはなっていない。(ただし、私(小井沼)個人の実存の感触を言わせてもらえば、<死の自覚が自分の本来的な生への欲望を目覚めさせる>、というハイデガーの考えにはかなり共感できるものがある。)

 このように見てくると、あらためてフッサールとハイデガーの基本的立脚点のちがい、ということが気になってくる。つまり、一方のフッサールにとっては、超越論的現象学“イコール”(普遍的)存在論であり、認識の原理論と存在論とは同等、不可分であるのに対し、ハイデガーでは、現象学はあくまでも「存在問題」を開陳させるための「方法」に位置づけられている、という点だ。つまり、ハイデガーではあくまでも存在論のほうが根源的な問題なのであり、現存在の実存分析はそのための導入をなすにすぎない。では、ハイデガーの言う存在問題の意味とは何なのか、これはまた別途、再検討すべき大きな課題である。

 ただ、竹田さんは今回の研究会の最後で、非常に示唆的なことをコメントされていた。フッサールをとるかハイデガーをとるかはある意味、哲学のあり方の進路を決定する分かれ道だ、と。一方は共通了解を生みだすための原理論、他方は(後期ハイデガーで顕著となるように)存在をめぐる形而上学であり、ある種の「超越項」の再興となる。たしかに、ニーチェが予見したように、二十世紀は人間の生の意味や価値が不透明になり、深刻なニヒリズムの危機に陥った時代。その点、ハイデガーの「存在」思想とは、二十世紀の超越の危機を救済しようとする試みだった、と理解しえる。けれども、この方向に進むかぎり、哲学の精神は死ぬことになる、と。――このご指摘は、両哲学の特色を超え、哲学一般の可能性を考えるうえでも、深く受け止めるべき事柄だと思った。

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 はなはだ長い報告となってしまったが、今回は研究会そのものも実に長かった(午後3時過ぎにはじまり、終わったのはなんと10時)。ことのほか疲れたが、会では熱く濃密な議論が交わされ、知的刺激を存分に味わえた。今後に向けて、ますますの探究意欲も湧いてきたのだった。

 近年は、とことんフッサールのテキストを読みついできたが、それも今回でいったんの区切り。次回からはドゥルーズ=ガダリを読む予定だ。


現象学研究会活動報告

フッサール『イデーンV』を読む(2011 7/2 Sat.)

報告者:小井沼広嗣 


講読箇所とレジュメ担当

第一章 実在のさまざまな諸領域(小井沼広嗣)

第二章 心理学と現象学との間に成り立つ関係(苫野一徳)

第三章 現象学と存在論との関わり(野口勝三)

第四章 解明の方法(目代亘)


報告

去る七月に行われた研究会では、フッサールの『イデーンV』(みすず書房)を講読した。

 前巻『イデーンU』では「諸対象の構成」が扱われたが、本書ではその成果を踏まえつつ、「諸学問の基礎づけ」という現象学の中心モチーフが論じられる。したがって、副題も「現象学と諸学問の基礎」となっている(*)。本書は『イデーンU』と同様、未完に終わった草稿であるがゆえに、非常に読みづらく、内容や構成の面でも粗さが目立つ。とはいえ、「諸学問の基礎づけ」という現象学の理念をフッサールがどのように構想していたのかを考える上では、興味深いテキストであった。本報告では、以下、第二章と第三章の内容を中心に見ていくことで、フッサールが考える学問体系の構想に迫ってみたい。

*ちなみに、『イデーンT』「緒論」に記されている計画によると、第三巻では「哲学の理念」が論究されるはずであったが、本書ではその主題は扱われていない。本書の位置づけは、当初の計画のうえでは第二巻の第二部にあたるようだ。ただし、本書が『イデーンT』のすぐ後に執筆されたものであるのに対し、今ある『イデーンU』のほうは後年に書かれたもののようなので、後で指摘するように、両巻には構想のずれも若干みうけられる。

第二章では、<形相的学問(=本質学)は、経験的な諸対象の本質をあらかじめ“アプリオリに”規定する以上、経験科学(=事実学)に先立ち、それを基礎づける>、という主張がなされている。これに関して、フッサールはおおよそ次のような議論を展開している。

 経験科学の研究者が探究するのは、経験に由来する諸々の事実認識である以上、そうした経験的な真理や言明は、つねに「未規定な」部分を残しているばかりか、経験の進展によっては、その妥当性が変更されたり、廃棄されたりする余地もある。ゆえに、事実学が追究するのは、偶然的な真理にとどまる。

 他方、現象学は、諸学問の領域区分やその各々の方法の特質を確定するような、諸々の根本概念や本質真理を「アプリオリに」導き出すことを課題とする。アプリオリなものの典型は数学や論理学だが、そうした「形式的な」(=事象内容を含まない)概念のみならず、事象内容にかかわる概念でも、アプリオリなものがある。たとえば、「事物」といった、学問領域を指定する「類」概念がそれだ。想像変容(空想)を介して“本質直観”をしてみよう。「空間のうちで一定の拡がりと位置をもつ」、「移動が可能である」、「幾何学的図形と同様に変形が可能である」、などといった特性は、およそいかなる「事物」にも当てはまる。それらは「事物」の本質規定であるから、経験において反証される、といったことはありえない。それどころか、むしろ、こうした本質規定は私たちの実際の「事物」経験の可能性を条件づけている、ということが分かる(たとえば、私たちは拡がりをもたないようなものを「事物」として経験できない)。つまり、「事物」といった最上の「類」概念は、たとえば「一塊の黄金」などといった、経験に由来する事物対象とは異なり、経験可能なひとつの領域的な枠組みをあらかじめ規定しているのだ。このようにして、「物質的事物」という対象領域、およびそれを探究する自然科学というものを確定できる(*)。

*また、本章でフッサールは、心的なものの本質学として、経験科学的な心理学とは異なる「合理的心理学」なるものの必要性を主張する。「合理的心理学」という述語はほかの著作では見られないものだが、それは「諸体験の本質論」とも言い換えられているので、おそらく、『ブリタニカ草稿』以降の述語でいえば、「現象学的心理学」あるいは「純粋心理学」に当たるものと考えられる。経験的心理学(⇒実験心理学など)は、心を一種の「実在的なもの」と捉えて、人間のもろもろの心理状態を観察や実験によって確定しようとするが、これに対し、合理的心理学では、「形相的還元」を遂行し、知覚、想起、空想、意欲といった諸体験の「本質」を捉えることが目指されるわけである。

つづく第三章では、<諸「存在論」は現象学へと組み込まれる>、と主張される。フッサールの言う「存在論」とは、諸々の存在者の「本質」探究のことを指していると考えてよい(たとえば、自然的事物の本質論、心的なものの本質論など)。ただし、フッサールは「存在者」ということで、およそあらゆる諸学問の対象性を考えているので注意が必要だ。そこには、自然的事物、身体、心、社会や文化的事象といった実在的なもののみならず、数学や幾何学、論理学といった理念的なもの、形式的なものも含まれる。(ちなみに、「諸々の存在者を可能にしている存在そのものの探究」といったハイデガー的なニュアンスは、フッサールにはない。)

さて、フッサールの主張にもどると、おおよそ次のようになる。諸存在論は経験科学の基礎となるような諸対象の本質規定を試みるわけだが、その当の対象自体には「独断的な」態度をとどめている。これに対し、現象学は諸々の存在者を所与の客観とは見なさず、それらを意識との相関関係(=「ノエシス‐ノエマ」関係)において捉える。それゆえ、一切の存在論は現象学へと「解消される」、と。――このあたりのフッサールの書き方は分かりずらいが、その趣旨は次のようなことだと思われる。すなわち、諸対象の本質論(=諸存在論)を展開するためには、おのずと、認識一般の本質学たる現象学の方法にのっとらなければならなくなる。言い換えれば、諸々の対象の「本質」観取(=形相的還元)を遂行するためには、「超越論的還元」によって存在者の実在性をエポケーし、それを意識における構成の問題(=確信成立の問題)として展開する必要がある、ということだ。

さて、以上の議論を踏まえると、『イデーン』の時期に考えられていた「学問の基礎づけ」の構想は、だいたい次のようなものだったということが見通せるだろう。まずは、認識一般の本質学ともいえる(いわば狭義の)「現象学」がもっとも基礎となる。そうした認識の原理論にもとづいて、諸々の対象性のアプリオリな本質を探究する諸「存在論」が展開される。存在論は「形式的存在論」と「領域的存在論」とに区分されるが、論理的な意味・無意味を確定する形式的存在論(⇒論理学)がより基礎となり、そのうえに実質的な事象内容を規定とする領域的存在論が成り立つ(これらも本質学として展開されるかぎりでは(いわば広義の)現象学に組み込まれる)。さらにそうした諸々の対象の本質学を基礎として、それに対応した諸々の「事実学」(経験科学)が成り立つ、と。

ところで、このようにフッサールは、あらゆる学問を包括する“一つの”体系が描ける(理念としてではあれ)、という構えをとるわけだが、これについては研究会のなかで問題も指摘された。それは、諸々の概念(とりわけ最も普遍的な「類」概念)の語義本質を探究すれば、そこから学問体系が描けるような体裁をとっている、という点に対してである。しかし、学問というのはもとをたどれば、私たちの生活上の関心や必要に由来したものではないのか、そうした私たち主体の側の関心や観点をぬきに、諸学問の枠組みを規定できるというのはいかがなものか、と。

また、<本質学によって事実学が扱う対象の本質をあらかじめアプリオリに規制できる>、とか、<経験科学(=事実学)は、現象学が探究するアプリオリな概念やそれらの諸連関の「個別的な」事実を扱うものである以上、現象学の成果の「たんなる応用」だ>といった表現(*)にも、疑問が寄せられた。経験科学は現象学の単なる応用という言い方はまずいのではないか。むしろ、(人間科学が扱うような)意味や価値の問題を考えるうえでは現象学の方法がもっとも原理的だ、と言うほうが、より適切なのではないか、と。

*また、私見によれば、こうした本書のフッサールの構えは、<経験に先立つ、認識主観の先験的な(アプリオリな)構造が私たちの経験的認識の一切を条件づけている>という、カント哲学の構えに似ているように思った。もっとも、フッサールの言うアプリオリは、カントのように、認識の枠組みとして私たちの主観にあらかじめ具わったものといった意味合いはなく、あくまでも意識体験のなかから観取されるもの、という姿勢は堅持されているが。

私自身、このような疑問に駆られたのだが、この報告を書く過程で気がついたことがある。それは、本書には、後の『危機』で展開されるような「生活世界」の重要性が、まだフッサールに自覚されていなかったということだ。

晩年の『危機』では、学問的な“世界の客観的認識”という試みは、もともとは生活世界に生きる私たちの具体的実践や目的と結びついて生じてきたものであり、また、ある学問理論の客観的妥当性というのは、そもそも生活世界における具体的経験の明証性に端を発している、ということが説かれている。さらには、実証科学が排除してきた「意味」や「価値」の問題を原理的に考えるうえでは、生活世界の存在論が必須であることが言われる。ということは、逆に言えば、「意味」や「価値」の問題にこそ現象学(あるいは本質学)の真価が発揮されるということは、この『イデーン』の時期にはまだあまりフッサールに自覚されていなかったのではないかと思われるのである(*)。

*フッサールは本書(8節)で、事実学に対する本質学の意義に関して、近代科学に対して数学が果たした役割を論じている。すなわち、近代における自然科学の発展を決定づけたのは、経験的・帰納的方法であったわけではなく、むしろ合理的な数学・幾何学であった、と(⇒同様の指摘は『イデーンT』9節にも見られる)。もちろん、数学が「演繹的な」方法をとるのに対し、現象学は「記述的な」方法をとる点で、両者の違いをフッサールは明白に意識してはいるのだが(⇒『イデーンT』72〜75節参照)、本質学の典型を数学に見ているあたりは、数学者から出発したフッサールの立場が垣間みられるところではあるものの、彼が本質学の意義を人文諸科学が扱う意味や価値の領野にあまり見いだしてはいなかった傍証になるのではないかと思う。

また、『イデーンV』では、<本質認識は経験的事実に依存しない>、<経験はあくまでもアポステオリなものだ>、ということがたびたび強調されているが、このとき、「経験」という語の意味合いは、経験科学が扱う偶然的な“事実”領域といったニュアンスが強い(現象学が定位する超越論的主観性の領野については、「体験」という言葉があてられる)。他方、『危機』にいたっては、「アプリオリ」の意味合いが「客観的‐論理的アプリオリ」と、「生活世界的アプリオリ」とに区別立てされており、“経験”的な生活世界のうちにも一定の普遍的(アプリオリな)構造がみてとれること、また「客観的アプリオリ」は「生活世界的アプリオリ」のなかから理念的に抽出されるものだ、という洞察がなされるに及んでいる(36節)。つまり、ここでは、「経験」の意味合いも、科学的態度(=「自然主義的態度」)におけるのそれと日常的態度(=「自然的態度」)におけるそれとが区別され、後者は学問的認識を支えるものとして積極的な意義を帯びるようになるのである(*)。

*なお、この考えが明確化してくるのは、『イデーンU』における「自然主義的な世界に対する精神的世界の存在論的優位」という主張においてだと思われる。その意味で、『イデーンU』「精神世界の構成」には、『イデーンT、V』から晩年の立場への過渡的な論考を見て取れる。『イデーンV』ではまだ、実在性の諸領域のうちに「精神的世界」がしっかり位置づけられていない(⇒第一章参照)。 

以上のように、『イデーンV』の段階における「諸学問の基礎づけ」の構想は、晩年の著作に比べると見劣りする部分があるように思われる。現象学の可能性を主に<異なる世界像やさまざまな学説間の信念対立の克服>、ならびに<人間諸科学の原理論としての展開>のうちに見出したいと思っている私たちとしては、やはり晩年の学問論のほうに多くの魅力を感じる。とはいえ、フッサールの思索の発展過程を省みるうえでは、本書は依然、重要かつ興味深いものであることはたしかだ。また、あらゆる学問を包括する“一個の”学問体系を描くというフッサールの企ては、今日そのままでは支持しがたい面があるが、「学問の基礎づけ」という彼の構想自体は決して廃棄されるべきものではない、ということも今回の研究会を通じて確認できたのは有益であった。



現象学研究会活動報告

フッサール『イデーンU-2』を読む(2011 3/28,5/7)

報告者:犬端 渉


購読箇所

第3編 精神世界の構成

第1章 自然主義的な世界と人格主義的な世界との対立

第2章 精神的世界の基本法則としての動機づけ

第3章 自然主義的な世界に対する精神的世界の存在論的優位

レジュメ報告

序論/第1章  小井沼広嗣

第2章 5456節 目代 亘 (以上 328日開催)

 5761節 小林孝史

第3章 6264節 平原 卓 (以上 57日開催)


報告

現象学研究会では、2010年5月より「イデーン2 構成についての現象学的諸研究」の講読に取り組んでいる。ここでのテーマは、「物理的自然」「有心的自然」そして「精神世界」と、(人間にとっての)対象世界を階層的に仕分け、それぞれの対象性の本質と相互の関係を現象学的にとらえていこうとする「領域的存在論」である。約1年間をかけて、ようやく最後のステージ「精神世界」にたどり着いた。

これまでの「物理的自然」「有心的自然」をめぐる考察は、(物理学の対象となるような)「物体」そのものを、そしてそれを成り立たせしめている「身体」「心」を、(価値的な視点を敢えて禁じ手にしたような)「自然主義的」(自然科学的)視点のもとに展開されており、「(イデーンTで論じ尽くしたはずなのに)また『事物(知覚)』から始めるのか……」というような感じだった。

だが、この「精神世界」に至り、「いよいよ本格的な現象学的考察に着手する」というようなコメントのもと、意味や価値のもと環境世界を生きている人間のありようが(ようやく)考察の中心に据えられることになる。そして、「精神世界」≒「(日常的な)生活世界」における人の営みを見取って行くためには、「自然主義的態度」が機軸とする「因果律的」思考では用を成さないことが明言され、「動機づけ」というキーワードが立てられる。これは、いわば「(自らの目的性や価値づけのもと)何かを対象化し、それとかかわろうとする」人間のありよう(とそれに基づく意味連関性)を意味するもので、「欲望相関的」な世界構成をとらえていくことにもつながる視点といえる。この「動機づけ」のありかたを具体的経験に即してとらえていこう、という方向性のもとに論が進められ、
328日「イデーン2-2」前半講読では、「期待やおら高まる」という感じになった。

続く5月7日の研究会で後半を講読。報告者も「第2章 精神的世界の基本法則としての動機づけ」第57節〜61節のレジュメを担当させていただく。

ここではまず、「純粋自我」と(精神的世界の担い手となる)「個人的な自我」の「違い」「関係」について述べられる。

「純粋自我」は、いわば「(自然科学的考察対象ともなる、客観世界も含みこんだ)世界(そのもの)」を,意識に還元してとらえるうえでの概念といえるが、人間はその「世界」の中で「このわたし」という独自の存在(性格・傾向性)を形成しつつ生きていく。こうした「(世界の中で)『自分自身』を生きる人間のありよう」を現象学的に考察するために概念化されたのが、「個人的な自我」(=経験的自我)」という感じである。

そして、この「個人的自我」「経験的自我」の展開をとらえる中心的概念として、《わたしはできる Ich Kan》=「能力」が掲げられる。人間は「客観的(普遍的・一般的)な事物知覚」を可能にする(受動的かつ一義的に対象とかかわる)「身体」としてだけではなく、自らに固有な、それぞれの中に潜在化された能力を介して世界とかかわっている。この、個々に潜在化された能力が、個々の「動機づけ」(=世界とのかかわりかた)の中軸にもなる。(欲望相関性にも通底する、いわば「能力相関性」のもとで、人のありよう・人の生きる世界をとらえようとしている点が興味深い。)

また、人間はこうした自己の「能力」に対して、受動的なだけの存在ではない。「これができるようになりたい」という思いをもち修練を積めば、新たな(これまでと違った・これまで以上の)能力が獲得される。また、こうした「能力」と、それに呼応して展開される「動機づけ」が、具体的な行為を通して形成されてきているものである以上、それは「開かれた理解可能なもの」であり、必要に応じてその形成過程を辿り直し、編み変えていくことも可能になる。

この、「自らの判断のもとで、よりよい自分自身のありかたを形成し、精神的世界≒生活世界を生きる個人的自我」のありようが、「『理性』の諸作用の主体としての『自由な自我』としての人格」として表現されている。この表現については、「理性中心主義」的な印象を与えてしまうのでは、という指摘が研究会で出された。確かに(諸々のフッサールの用語同様に?)ちょっとミスリィーディングな表現ではあるが、ここでは(むろん)「所与の理性が倫理的なありようを形成する」ということを言おうとしているわけではなく、むしろこうした表現のもと、「自我への欲望をもち、自己価値を求め生きる」人間のありようを現象学にとらえようとしていることが、(文脈に照らし合わせて読むと)伝わってくるようには思えた。

また、こうしたそれぞれの「個人的自我→人格的自我」「動機づけ」を軸とした他者(社会)との関係についても、ちらとではあるが、以下のように延べられている。

この「わたし」という「自我」は、人との関係のなかで自分自身に見出され、形成されていく。ふだん人間は自然界の諸対象や、生活世界の中での諸道具(ハイデガーの「道具存在」に極めて違いニュアンスである)と、自分なりの動機づけに即したかかわりのもと(とくに意識もせず)接しているが、そうした自分のありようが「自我」として自覚されるのは、互いの主観(「それぞれのありよう」→「それぞれの自我」)を意識しあえる他者との関係においてである。

また、個々の「人格」は、他者、文化・伝統、社会からの要請という諸々の影響のもとで形成されていくものであるが、それだけでなく、そうした影響を自覚化し、自分で納得できるように価値を選び取っていく「自由」が、「人格的自我」の要諦としてある……ということも語られている。


こうした、「動機づけ」「能力相関性」において展開される「精神的世界」への考察を踏まえ、第3章「自然主義的な世界に対する精神的世界の存在論的優位」が展開される。

(第1章、第2章で考察してきた)「自然主義的な世界(物理的自然、有心的自然)」も「精神的世界」も、基本的には(前者が「感性」、後者が「理性」と名指されるような)人間自身の(世界の)対象化のありように即したものである、ということをまず踏まえたうえで、結論としては、(タイトル通りですけと)「精神的世界の優位性」が強調されている。

論旨の大枠としては、確かに「自然主義的な世界」を基盤にしつつ「精神的世界」は形成されてはいるが、「(意義づけ、価値付けをしつつ)それをとらえる精神的世界(ひとりひとりのわたしの意識)」があってこそ、「自然主義的な世界」は成り立つ。従って存在論的には後者が優位性をもつ、という感じである。


だが、「自然主義的な世界」という「対象性」にしても、「そうしたとらえかたの必要性(=自然的事象の利用可能性を、間主観的に共有化する目的性)」があってこそ形成されているはずであり(ということがそもそもフッサール自身の主張でもあるはずだが)、それを「精神世界の優位性」という言葉で結論づけしようとすることには、やや違和感をもった。むしろ「(よりよくありたいという)自我への欲望」のもと主体的に世界とかかわり、他者や社会とかかわりつつ「精神的世界」≒「生活世界」を生きる(日常的)人間(存在)にとって、「自然主義的世界」がどのような局面で、どんな意義をもつものか具体的に考察していくことの意味のほうが大きいのでは? と思えてしまうふしはあった。

今回の講読箇所へのメンバーの感想は、「いよいよ現象学的考察が価値的世界へと展開されるのか! と期待して読んだわりにはいまひとつ食い足りなかった」というものがほとんどだった。

報告者としては、「精神世界」のステージで展開される、(日常的な)人間存在への本質観取はとても的確で、「さすが現象学の人」と(当たり前なのかもしれませんけど)感心・納得させられることが多かった(「イデーン2
-1」の「物理的自然」「有心的自然」よりは、断然おもしろく読めました)。しかし、このステージではポイントとなるはずの、「他者(関係)」「社会」への考察についてはいまひとつ具体性と広がりがなく、その点は残念なように感じた。

次回の課題は「イデーン3」。「現象学」という秀逸な思考の原理を、フッサール自身はどのように展開しているのか、見取っていきたいと思う。


現象学研究会活動報告

フッサール『イデーンU』を読む(第一回)(2010 5/22 Sat.

報告者:小井沼広嗣
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講読箇所
 第一篇 物質的自然の構成
 第一章 自然一般の理念 (一節〜十一節)
 第二章 直観される事物そのものの存在的な意味の諸層 (十二節〜十七節)
レジュメ担当  
 一節〜八節  (野口勝三)
 九節〜十四節 (石川伸晃)
 十五節〜十七節 (山竹伸二)
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報告

今回の研究会から、フッサールの『イデーン』第二巻を講読していくこととなった。

本書では、三つの異なる存在領域――〈物質的自然〉〈心的自然〉〈精神世界〉の“構成”の問題が扱われている。フッサールはこの研究分野を「領域的存在論」と呼ぶ。それは、自然科学や心理学や人文科学など、各々の「事実学」が所与の〈客観〉として扱っている対象性の意味本質を、現象学的な立場(=「本質学」の立場)から、“意識経験における確信成立の条件の問題”として把握しなおす、という壮大かつ野心的な試みだといえる。本書は、〈諸科学の基礎づけ〉というフッサール現象学の根本モチーフの具体的な実践だという意味でも、また、ハイデガーの道具分析やメルロ=ポンティの身体論など、後続する現象学研究へ与えた影響という意味でも、たいへん興味深い。(⇒本書は未完に終わり、フッサールの生前には刊行されなかったが、フッサールの愛弟子だったハイデガーは、本書の草稿を閲読する許可を得ていたとされるし、後にポンティもフッサールの遺稿群が保管されているフッサール文庫を訪れ、この草稿を閲読したとされる。)

今回の研究会では、「第一篇:物質的自然の構成」の途中までを講読した。まずは、本箇所でのフッサールの基本的な立脚点を確認しよう。

本箇所では、〈自然科学の対象としての自然〉についての構成の問題を扱う。ここで言われる「構成」とは、自然科学が扱う〈物質的自然〉を、客観的に自存するものとは捉えず、あくまでも主観の側の“理論的(=科学的)な態度との相関において”経験される対象性として捉えることだと解してよい。それゆえ、フッサールは言う。このような「構成」という観点から〈自然〉の本質を捉えるためには、〈理論的な態度〉以外のすべての態度や関心は“括弧にくくらなければ”ならない(=エポケー、還元)。たとえば、私たちは自然を、「美しい」「心地よい」とかいった〈評価的な態度〉、「役立ちうるかどうか」といった〈実践的な態度〉において、捉えることもできる。むしろ日常的な意味ではそうした態度で自然と係わることのほうが普通だといえる。だが、ここではそうした態度はさしあたりすべて除外されねばならない。ここでの自然は、美や快や実用性などの精神的意義をまったく含まない「単なる自然」なのだ、と。

さて、ここで興味深いのは、ここでなされている「還元」が、『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』で展開されている〈諸学問の生活世界への還元〉とは、反対向きだということだ。後期フッサールの代表作である『危機』では、おおよそ次のような主張が展開されている。〈自然科学的な意味での合理的な自然観というのは、実は、私たちが普段生きている「生活世界」を基盤にしつつ生じてきたものである。だから、こうした科学的な自然観の本質を現象学的に解明するためには、一旦、生活世界という、具体的経験の明証性の場面に立ち戻らなければならない〉、と。一方、本箇所では逆に、こうしたいわゆる日常的な生活態度が遮断され、自然科学的な態度、すなわち純粋に理論的な関心のみに基づいて、物質的自然というものを捉えてみよう、とされるのである。では、そのような態度において捉えられた物質的自然(=物体)とは、いかなる“本質”を有するのか。フッサールの分析を大ざっぱにまとめてみよう

@ 物体は、諸々の性質で充たされた空間的延長(=拡がり)としてある。その際、私たちの諸感官を通じて把握される諸性質は多様だが、物体はあくまでもそれらの諸性質を綜合した一つのものとして把握される。(たとえば、リンゴは、赤くつるつるした視覚像、すべすべした手触り等々〔⇒フッサールはこれらを感覚的な「図式」と呼ぶ〕と感覚されつつも、それらを通じて一つの物体として捉えられる。)
A 物体は、周囲の状況や他の物体との“因果的な”相関関係のもとにあり、そうした因果関係を通じてはじめてその物体の「実在性」が確証される。
B 物体は諸状況の変化にともなって、その諸性質を変化させるが、そうした変化においても“同一性”は保たれる。(ここでは、「物質の三体」といったことが念頭におかれている。たとえば、水(H20)は、固体⇔液体⇔気体、と変化しても水(H20)のままだ。)
(※ちなみに、次回読む箇所では、物体は私たちの〈身体〉を介して知覚されるのだから、物体の現れは身体に依存する、という議論が続く。)

さて、以上がフッサールが本箇所で展開した〈物質的自然〉の本質観取だ。しかし、これに対しては、研究会のメンバーから次のような疑問やコメントがよせられた。
「フッサールの書き方では、どこまでが一般的な物理学的知見で、どこまでが現象学的な本質として取り出した部分なのかが、よく分からない。」
「フッサールは〈こういう風に(=上述の@ABのように)言われているものが物体の実在性の条件だ〉、と言いたいのか、それとも〈我々の経験のなかで実在的な物体だと確信されるのはいかなる主観的条件によってなのか〉、という観点で議論しているのか。もし、後者でなければ、現象学的な記述(=本質観取)としては非常にまずいのではないか。」
「本質観取を遂行するうえでここで想定されている主体のモデルは、科学者なのか、それとも、一般的な人々なのか。」

これらの疑問を集約すると、問題は次のようになる。すなわち、現象学的な記述の基本は、〈“誰しもが”自分の意識経験を内省すれば確証することできる、事柄の“共通”本質だけを取り出す〉という点にあるはずだが、本箇所のフッサールの記述(とりわけ、AやB)は、この原則に忠実なのかどうかが定かではない、ということだ。

これに関連して、本箇所を読んでいて私自身、気になったことがある。それは、〈理論的(=自然科学的)な態度〉というのがいかなるものなのかが判然と語られないままに、つまり、本質観取する際の“観点”ないし“動機”が不明瞭なままに、物体にかんする細かな記述だけが展開されていることだ。仮に、フッサールがここで、自然科学的な態度(ないし理論的な態度)の本質というものを先に明らかにし、その上で、その相関項としての物質的自然を論じていたならば、より判然とした本質分析になっていたのではないだろうか。

たとえば、前述した後期フッサールの生活世界論には、〈自然科学的態度〉というのがいかなる本質をもち、いかなる動機から成立したものなのかが、明瞭に示されている。それによれば、自然を合理的・因果的な体系として捉える近代科学とは、もともとは、生活世界における相互主観的な共通了解の必要から生じてきたものなのである。また、竹田先生の考えによれば、「自然科学の認識方法の公準は、自然事物を人間世界にとっての“利用可能性、対処可能性一般”として体系的に記述する点にある」とされるが、これはまさしくフッサールの生活世界論(ないしハイデガーの実存分析)のエッセンスから導き出された洞察だといえる。ちなみに、竹田先生は『フロイト思想を読む』のなかで「認識対象の本質論」(=<自然事物><社会的事象><>と、三つに大別される認識対象の本質論)を展開しているが、これは、フッサールの「領域存在論」のモチーフを受け継ぎつつそれを欲望論的に刷新したものだ、と理解することもできると思う。

とはいえ、『イデーンU』の執筆時のフッサールもすでに、〈精神世界〉における「人格主義的」態度のほうが「自然主義的(=自然科学的)」態度に先行する、ということを考えてはいたらしい。その点では『危機』の立場とすでに一致している。だが、少なくとも、今回読んだ箇所では、そうした見解はまったく示されておらず、〈理論的な態度〉は〈評価的な態度〉や〈実践的な態度〉と平行したもの、ないし置き換え可能なもの、と指摘されているだけである。本箇所の読みにくさは、この辺のフッサールの説明の足りなさに起因しているのかもしれない。

何にせよ、本書の講読ははじまったばかり。次回以降も、フッサールの議論を丹念にたどっていきたい



現象学研究会活動報告

フッサール『経験と判断』を読む(第二回2009 9/5、第三回2009 11/7

報告者:小井沼広嗣


講読箇所とレジュメ担当
2009 9/5

第一篇 前述語的(受容的)経験
 第三章 関係把握、および受動性のなかにある関係把握の基礎 (小林孝史)

第二篇 述語思考と悟性対象
 第一章 述語作用の一般構造と最重要なカテゴリー形式の生成 (枡岡大輔)
 第二章 悟性対象、および述語行為に発するその起源 (斎藤隆一)
2009 11/7
 第三章 判断のさまざまな様態の起源 (野口勝三)

第三篇 一般対象性の構成と一般判断の形式
 第一章 経験的一般性の構成 (小井沼広嗣)
 第二章 本質洞視の方法による純粋な一般性の獲得 (枡岡大輔)
 第三章 ・・・・・・一般という様相の判断 (石川伸晃)


報告

先回と今回の研究会では、先々回に引き続き、フッサールの『経験と判断』を講読した。これら三回の研究会で一書をすべて読み終えることができたので、本報告ではこの書物の主題と論述構成をあらためて確認し、その後で、研究会で論議された幾つかのトピックを紹介することとしたい。

フッサールによれば、本書の課題は(「SPである」という形式を基本とする)「述語判断」の起源とその本質を、“発生論的現象学”の方法を用いて明らかにすることである。さまざまな判断や命題形式がもつ諸々の規則(例:矛盾律とか三段論法とか)を明らかにするというのは、従来、形式論理学が課題としてきたことだった。けれども、形式論理学は純粋に判断の“形式”だけを問題とするので、その実質的な“内容”のほうは度外視する。(たとえば、矛盾律は、「SPである」と「SPではない」とが同じ観点において同時に妥当性をもつことはないことを教えるが、その際、SPにいかなる内容が適用されるかは不問とされる。)しかし、判断というのは認識活動の一環であり、およそ認識活動というものは“真理”を目指すものである以上、真理を獲得するにはこうした形式的規則の解明だけでは片手落ちであって、さらには、その内容の明証性が問題とされねばならないはずだ(注1)。そして、この判断内容の明証性を最終的に保証するのは、“経験”である。たとえば、「リンゴは赤い」という判断の明証性の根拠をなすのは、リンゴが赤いことを自分の目で見るという知覚経験にある、といったふうに。フッサールによれば、もっとも根源的な明証性が与える経験とは何かを追求すると、結局は個物(=「このこれ!」)の知覚へと行き着くのである。

 (注1)「真理」といっても現象学の場合に問題となるのは、伝統的な認識論で問題とされていたような“主観と客観の一致”ではなく、主観のうちで生
  ずる(或る認識なり判断なりの)“不可疑性”のことである。


こうしてフッサールは、“経験”(この場合は“知覚経験”)のうちに与えられる最も根源的な明証性に立ち返り、そこから出発して、いかにして明証的な“判断”というものが生じてくるのか、さらには、経験的な判断から経験に依存しないような(=普遍妥当的な)高次の判断というものがいかに生じてくるのか、という問題を解明すべく、その発生的なプロセスを跡づけようとする。したがって、本書の論述の進みゆきは以下のようになっている。

1)受容性(=知覚的経験)の構造: 述語的な判断を形成する以前の、知覚の明証性のあり方
2)述語活動の構造: 述語的な判断によって、知覚によって与えられた対象にかんして“確定的な”認識を得ようとするそのあり方
3)一般的対象性の構成: 個々の事物に依存しない事物一般(例:“個々の”リンゴから独立した“概念としての”リンゴ)や幾何学などの“理念的な”対象(例:円とか三角形とか)の認識の成り立ち

ところで、そもそもなぜこのような述語判断(ないし命題論理学)の発生論を探究する必要があるのか、その意義はどこにあるのか、こうした根本のモチーフについて、フッサールは本書でしっかりとした説明をしていない。けれども、本書が『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』と同時期(つまりフッサールの最晩年)の論考であるということから、そのモチーフはある程度、『危機』と重ねてとらえることができるだろう。つまりは、《学問の成り立ちとその妥当性を生活世界から基礎づける》、というモチーフだ。フッサールは『危機』において、次のような論を展開している。近代になって登場した自然科学は、自然世界全体を厳密な数学的法則性によって説明しようとし、そしてその試みがあまりにも成功してきたため、自然科学が解明する世界こそ真の“客観的”世界であり、私たちが現実に生きている具体的な日常の世界(=生活世界)というのは、“主観的で”相対的な世界にすぎないと見なされることとなった。けれども、自然科学がめざす“世界の客観的認識”という試みは、もともとは生活世界に生きる私たちのもろもろの具体的実践や目的と結びついて生じてきたものであり、また、科学の諸理論の客観的妥当性というのは、そもそも生活世界における具体的経験の明証性に端を発しているのだ、と。このようにして、『危機』では諸科学の探究の動機やその諸理論の妥当性の根拠が生活世界に求められたのと同様に、『経験と判断』においては論理学の妥当性の根拠が問われるわけである。

もう一つのモチーフは、幾何学的図形や数や論理法則といった、“理念的な”対象の成立根拠を発生論的に解明する、という点に求められるだろう。これら理念的対象物をどのように理解すればよいのかという問いは、フッサールが哲学的思索をはじめた当初からのテーマでもあったからだ(⇒『算術の哲学』『論理学研究』など)。フッサールは、こうした理念的なものが成り立つ根拠を、プラトンの「イデア」のように認識主観とは切り離された実体的なものにあるとは考えないし、またカントのように、認識主観のうちにアプリオリに(=“経験以前に”)備わった形式(=「感性」と「悟性」という一種の認識装置)にあるとも考えない。むしろ、フッサールによれば、こうした理念的なものは、認識主観の志向的な“経験のうちで”「本質」(ないし「意味」)として観取されるものなのである。

さて、本書でフッサールがなしている分析は、あまりにも緻密すぎて少々ついていけない箇所もあったが、きわめて興味ぶかい議論も見られた。たとえば、フッサールは否定判断(「SPではない」)、可能や蓋然性の判断(「SPでありうる/Pかもしれない」)が生じる根拠として、“確信の変容”という経験を論じているが、こうした分析は“確信成立の根拠の解明”という私たちの現象学理解のスタンスからして、とても興味深く読めた。だが他方で、本書のフッサールの探究に対しては、釈然としないものを感じたメンバーも多く、幾つかの疑問も寄せられた。なかでも最も本質的と思われる問題は以下の二つだ。

一つは、(本書だけに限られたことではないが、)総じてフッサールには“欲望相関性”の観点が欠けているという点である。フッサールによれば、個々の経験の対象が「類型的なもの」・「一般的なもの」として知られうる根拠は、「連合」にあるという。連合とは、同等なもの同士が結びつき、異なるものと対照をなす、という仕方で対象を把握する受動的な認識作用のことだ。たとえば、白い背景のうえに幾つかの赤い斑点があるという場合、斑点同士は背景とは対照をなしつつ結びつき、一緒になって浮かび上がってくる。けれども、個々の対象を類型的・一般的なものとして把握しうる根拠は、連合という単なる受動的作用よりも、認識主体の欲望や関心から考えたほうがより適切ではないだろうか。たとえば、私たちの生活世界は種々の類型的に分節化された事物や事象(例:食物・道具・住まいなど)から成り立っているが、それらの分節は、食べられるもの/食べられないもの、役立つもの/役に立たないもの、身を守るもの/危険なものなど、我々の欲望・関心に由来していると考えられる。(ちなみに、このような観点で事物の一般的本質を分析したのが、ハイデガーである。『存在と時間』での論述によれば、事物は人間の実存的な「気遣い」に相関してその意味が了解されるかぎりにおいて、「道具的存在者」という根本性格をもつ。)もちろん、受動的な連合という観点からの分節化ということもありうるとは思うが、そうした事態で説明がつく一般的事物(ないし事象)は限られてくるように思われる。

もう一つは、いま述べた知覚モデルとも密接に関わるが、フッサールが発生論的な探究を進める際の“場面設定”の問題である。フッサールはここで、意識主体が他者との相互主観的な関係のなかで何かを経験したり判断したりする場面を慎重に排除し、判断行為の伝達機能をも捨象し、あたかも世界には“ただ一つの”認識主体しか存在しないかのような場面設定のもとで分析を進めている。その理由について、フッサールは「最も端的な経験」から出発することは、より高次の諸経験を考える上でも範例的な意味をもつから、と述べている。けれども、人と人との相互主観的なコミュニケーションという場面を捨象したうえで、“確定的な認識”(注2)といったことを探求するのはどうも不自然な感がいなめない。というのも、およそ判断を“言明する”という行為には、単にその主体自身の認識の確証というのみならず、他者への伝達という契機が伴っていると考えられるからだ。それに、論理学が扱う確定的な判断様式(ないし言葉の厳密なルール)というのは、人間のもつ広大な言葉の世界のなかのごく一部を占めるものであり(注3)、それは、日常言語から抽象してできたものだと考える方が理に適っている。となると、論理学が対象とするような厳密な判断様式が問題となるのは、すでに“相互主観的な”生活世界が成立したうえで、さらに学問的な確定的認識を目指す場合と考えたほうがよいのではないだろうか。(少なくとも哲学史を顧みるかぎり、論理学の成立は、言語的コミュニケーションの危機という問題に深く関わっていたと言える。命題論理学を最初に確立したのは古代ギリシャのアリストテレスだが、彼のモチーフは、白を黒と言いくるめる当時のソフィストたちのレトリカルな言語使用を禁じて、なんとか言葉の厳密ルールを打ち立てたいという点にあったからだ。)
 (注2)上述したように、フッサールにおいては、“述語活動”の本質は対象の絶対的な「確定」を目指す認識活動だとされる。
 (注3)たとえば言葉のうちには、詩的言語やアイロニーの言語といったものもある。

とはいえ、フッサールが“コミュニケーション”の場面ではなく、あくまでも“知覚”の場面に論理学(ないし述語判断)の基礎を見いだそうとしたことには、それなりの理由があったのだとも考えられる。上述したように、フッサールのモチーフは、科学や学問の客観性の根拠を基礎づけるという点にあった。そして、論理学とは、そうした諸学の基礎となるような明証的な判断の様式を求める学問である。そうなると、通常のコミュニケーションの場面から出発するのではやはり具合が悪いことが予想される。たとえば、本書でのフッサールの分析とは対照的に、後期のヴィトゲンシュタインは、言語の意味の妥当性を人と人とのコミュニケーションの場面から考え、いわゆる「言語ゲーム」論を構想した。けれども、そうした発想をとった場合、《言語の規則はいわば“慣習的な”ルールの束によって成り立っている》という帰結に行き着くことになる。そうなると、論理学が一般に目指している“言語の厳密な規則の構築”という目標に対しては、たしかに都合が悪い。そのかぎりでは、知覚にこだわるフッサールにも理がある。しかし、“知覚から出発する厳密な認識”という理路からは、人間のおこなう種々の判断様式や言語的な認識活動すべてを包括することはできない。その辺、フッサールが自分の分析の特殊性をどこまで自覚していたのか、いまいち定かではない。本書を読んだ後の釈然としない感覚というのは、そうしたところにあるのかもしれないと思った。



現象学研究会活動記録(2009 6/29)
                         目代 亘
フッサール「経験と判断」を読む

レジュメ担当
緒論   小井沼広嗣
第1篇 
第一章  石川伸輝
第二章  野口勝三 


レジュメ発表と質疑応答


諸論(担当 小井沼)

○第一節:論理学の発生論における中心主題としての述語判断(p3〜)
本書の目的は、述語判断の起源とその本質を明らかにすることである。論理的なものの現象学的な解明に当たり、予備考察が必要となる。


○第二節:述語判断の伝統的規定と優位性、およびその問題点(p5〜)


形式論理学の伝統において、「基体」と「述語」の二分節性こそが、述語判断の普遍的な性格であるとされる。こうした判断の伝統的規定に対し、様々な問いが生じるが、本書において重要性を持つ問題点を二つ挙げる。

(1)アリストテレス以来“S ist P”という繋辞的判断が判断の基本形式であるとされ、動詞形は繋辞的結合にしうることとなっているが、この前提は事実にあっているのか。(「人間は死ぬ」⇒「人間は死すべきものである」)
(2)繋辞的図式では主語が三人称の形式をとるのが基本とされているが、その背後には一人称および二人称形式の判断が、三人称の図式のうちに表現される意味作用と背反することはないという前提が含まれている。だが、この前提ははたして妥当か。


○第三節:論理的問題設定の二面性。主題に向けられた問いかけの出発点としての明証性の問題、およびその伝統的な転移(p8〜)

形式論理学で扱われる判断の諸法則は、純粋に判断の形式にかかわるものである。認識活動が真理という目標に到達するためには、形式的条件以上に何が必要か。
その条件とは明証性を獲得する主観的条件にかかわるものである。

論理学には本来、(1)形式化とその法則性に関する問い、(2)明証性を獲得するための主観条件に関する問いという、二つの問いがある。

○第四節:明証性問題の諸段階。可能な明証判断の予備条件としての対象的明証性(p11〜)

明証性の問題とは、“実物の与えられかた”の問題に他ならない。述語的明証性は、前述語的明証性に基礎づけられる。
それゆえ、対象の与えられ方こそが、認識が的を得ているかどうかを決定する条件となる。

だとすると、明証性の問題圏には以下の二つの問いが生じる。
(1)“前もって与えられる対象自身の明証性”、ないし、対象の与えられかたの条件に関するもの
(2)対象の明証性に基づいて完成される“明証的な述語判断”に関するもの


○第五節:判断の明証性から対象的明証性への機関(p14〜)

(a)明証判断の志向的変様としての名目判断
意識において、低次のものから高次の認識が成立してくる、その移り行きにおいて名目判断は生まれる。

(b)間接的明証性と直接的明証性、および、端的に直接的な認識に帰還する必要性

(c)最終的な主題的対象(最終的基体)たる個物に関係した、直接的「最終的」判断

判断対象「青森産のリンゴ」と、根源的な基体「“この”リンゴ」とを区別しなければならない。最終的な基体とは、まだまったくカテゴリー的な判断形式を受け取ったことのない基体である。すると、最終的な基体とは、“個別的な対象”でしかあり得ない。考え得る全ての判断は最終的には個別的対象に関係する。


○第六節:個別的対象の明証性としての経験。発生論的判断論の第一項としての前述語的経験(p19〜)

個物に関する第一の判断は“経験判断”である。
経験の明証性は最も根源的な明証性であり、述語判断の起源を解明するにあたっての出発点である。


○第七節:個別的対象にかんするあらゆる経験に対して、前もって与えられる普遍的信念基盤としての世界(p20〜)

一切の認識活動に先んじて、“世界”が普遍的基盤として存在する。そしてその基盤とは、個々の認識活動の前提となる普遍的受動的存在信念の基盤に他ならない。


○第八節:経験の地平構造。経験のあらゆる個別的対象の類型的既知性(p23〜)

世界認識はかならず何らかの類型的な“既知性”(ないし「アプリオリ」)を前提としつつ、その上でいまだ無規定的な“未知性”へ向かう。どんな規定も最終的なものではなく、現実に経験されるものは無限に開かれた“可能的経験の地平”を有する。

個別的事物に関するあらゆる経験は“帰納推理”としての“内部地平”を持つ。
また、同時に個別手的事物に対する経験は、それを可能にする普遍な枠組みとしての“外部地平”を持つ。


○第九節:すべての可能な判断基体の地平としての世界。それに規定された伝統的論理学の世界論理学としての性格(p31〜)

基体に代入され得るものはすべて、経験の統一に属するものであり、世界存在者の基本類型に遡り得るものである。
この基本前提が明らかにされる限りで、論理学はまさしく“世界存在者の論理学”になる。


○第十節:生活世界への帰還としての経験の明証性への帰還。生活世界を覆い隠す理念化の構造(p33〜)

述語判断の起源を解明する為には、「生活世界」へ帰還しなければならない。
しかし、我々の経験世界には近代的自然科学による存在者の規定の一切が含まれており、観念の覆いが被さっている為、観念化される以前の根源的な前述語経験へ帰還する必要がある。


○第十一節:判断の起源解明と、超越論的かつ現象学的構成的問題領域の全体地平での論理学の発生論(p38〜)

同様の理由から、心理学によっては経験の最も根源的な明証性への必然的な帰還はされない。
最も根源的な明証性への帰還とは、超越論的主観への帰還である。この帰還は以下の二つの段階を含んでいる。

(1)科学的規定のみならず、一切の意味沈殿を伴った目の前に与えられる世界から、根源的な生活世界へ帰還すること
(2)生活世界からこの世界自身を生み出した主観的行為へ帰還すること


○第十二節:個別分析の出発点。端的な経験と基礎づけられた経験の区別、および、もっとも端的な経験にかえっていく必要性。

経験を問題とする場合には“端的な経験”と“基礎づけられた経験”とを区別しなければならない。
端的な経験とは感性的な経験であり、基礎づけられた表現とは精神的な意味でのものである。
根源的な前述語判断の明証性に達する為には、後者から前者へと還らなければならない。


○第十三節:判断および対象の一般概念。確定としての判断(p49〜)

存在者に前述語的に注目する場合には、どんな場合もすでにそこに最も広い意味での判断が成立していることを確認する。
この判断は対象化の全体であり、能動的行為である。


○第十四節:外的知覚および知覚判断の分析から出発する必要性。研究の限定(p54〜)

我々は、感性的基体の経験、すなわち、外的物体の知覚に基づく判断を探究の出発点とする。
また、我々は前述語的領域を探究するに際して、さしあたり、感性的な基体に対する“純粋に観察的な関心”を前提とする。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

【質問・コメント】

西――
〈第四節について〉
明晰判断の「予備条件」というのは、「前提条件」と訳すべきところである。
ここで言われる「実物の与えられ方」とは、『現象学の理念』では「自己所与性」「自体所与性」という語で示される
ものであり、「それ自身が与えられているというあり方」のことである。

〈第五節について〉
「名目判断」とは、ただの判断、つまり、何らかの明証性に基づいていない判断のことである。
「間接的明証」「直接的明証」という区別は、僕のイメージでは次のようなものである。
この部屋に椅子が五個あり(「直接明証性」)、向こうの部屋に四つあるということから、合計九個であるという判断が導かれる。
この明証性は合成された判断であり、間接的な明証性があると言える。
この間接的明証性には、レジュメに書かれている様な「一般化された判断」も入れても良いかも知れない。

小井沼――
フッサールは自己所与性がある意識を明証意識といっているが、「与えられ方が十全でなくても構わない」という記述について説明をお願いしたい。

西――
「十全的」・・・全てが現れていて地平がない。予測が成り立たない。数などの理念的なもの。
「非十全的」・・・事物知覚は裏側が見えていない。つまり、予測を裏切られる可能性がある。
「必当然的」・・・不可疑的であるということ。(ex:「我思う故に我あり」)

現象学の研究は完全に十全ではなくても、常に必当然的な明証性の地盤において進められなければならない、ということである。
自己所与性とは、「selbst gegebenheit」(=self givenness)である。


小井沼――
緒論のポイントは、遡及して考察していっているという所にある。
「命題」「記述」→「対象の明晰性」→「明晰性の諸段階」→「生活世界」→「私だけの領域」(※十一節 p41)


西――
生活世界では実践的な関心そのものも「信憑」なので超越論的主観性に戻らなければならない。


竹田――
「観念的な客観性の世界」→「生活世界」→「主観的な経験」と遡及している。
本書は論理学を現象学的に基礎づけようとするもの。
レジュメの一番最後のところで、「この研究が現象学の構成体系の全体にはめこまれたとき、そのなかで完全な基体層をなすというわけではない」と書いてあるが、ヘーゲルが既に指摘している通り、どんなものも根元的には与えられていない。

「確信」として根元的に与えられているものはあるが、意識の中に根元的に与えられているものはない。

フッサールは述語判断の一番の基礎が書けると考えるのだが、それならば、知覚判断のモデルではなく、人間関係のモデルから考えた方が良いのではないだろうか。

規定を知覚経験から取り出そうとすると、顕微鏡を拡大し続けて最小単位が取り出せなくなるというふうになってしまう。

芹川――
レジュメ十四節の上から4行目の「純粋に観察的な態度」という語について、
そして、「観察的知覚的関心は、あらゆる具体的な経験の根底をなす能動化である限りで、他に優越している」という記述について説明して頂きたい。

西――
フッサールは「元ドクサの能動化」という言い方をしている。
人間は価値評価をする場合でも、知覚を前提している。
その知覚を能動化して捉え直そうとするのが、判断というものである。
「捉え直す」という意味において「優越」という言葉を使っているのだ。

芹川――
レジュメ十四節9行目の「仮構する」とはどういうことか?

竹田――
これは「措定する」ということ。
フッサールは「論理学は学の基礎である」と考えており、まず、知覚において何かを確かめるということを規定においたらどうかと考えている。

小井沼――
「純粋に観察的な態度」というのが引っかかる。
共同的な意味や価値を取り払った純粋な観察とは何か。

西――
純粋な観察という言葉で彼が想定しているのは、「丸い」、「赤い」などの観察である。
しかし、関心がなければこうした観察は起こらない。
フッサールは判断を作り、蓄えるのは、自己保存の為であると言っている。

確かに、こうした語用はある不自然さを持っていると言える。
フッサールは知覚を範例として、発生論を扱うのには成功しているが、「何故、それをやるのか」ということを考えれば、やはり欲望論的な構成にしなければならない。
関心も自己保存だけではなく、共同的な関心を考慮しなければならない。


竹田――
ただ、一般論理学の基礎付けとしては優れている。


苫野――
知覚を範例をした論理の発生論は、社会的構築主義に対する反論になりうるのではないか。

竹田――
それは微妙かも知れない。

西――
その場合、「知覚や感覚も構築されている」と言われれば、反論出来ない。

竹田――
構築主義は観点を隠している。
ポストモダンは特定の場所に立たないように、無限の立ち位置を持とうとするが、
これは無限に批判をするという目的、観点を持っていると言える。一切は観点である。

西――
社会理念として、我々が採用し得る社会の理念を立て、合意を作る必要があるということ、そしてそれが形成される可能性があるということを示し得れば、「採用され得る構築」、が成立するのだと思う。

野口――
僕は一徳君の言っていることが解る。正当化の条件を探ることが必要である。
例えば、性別は構築されているものであり、解体すべきであるという意見がある。
しかし、その人も性別を自己規定としていると言える。

竹田――
「理念を立てると市民社会が正当化される」というのが私の考えである。
性別の問題の場合も、それを根拠付けなければならない。

小井沼――
この本において、論理学の本質を規定することはどういう射程を持つのかが語られていない。
どういう意味があるのかと問われれば、フッサールはどう答えるのか。

西――
フレーゲ以降の論理学は分析哲学になっていった。
分析哲学は論理の前提を問わずに形式論理だけを扱い、パラドックスを量産している。
この本における研究はそうした問題の解決には寄与するだろう。

竹田――
フッサールは論理学には根拠があるということを示そうとしている。
フレーゲの提案自身は、主観客観問題の変奏である。
論理学では、必ず事実を言い当てることが出来るという厳密論理主義がでると、その反対の懐疑論が出る。

西――
これが何に効くのかということは難しい問題である。
この考察は論理を絶対化する思考に対する反論になりうる。
フッサールは数学の根拠が言えるという所までやろうと思っていたのではないか。

竹田――
心理主義とは心理を自然科学的な観点でとらえようとするものだが、フッサールは心理学的なものをベースとした論理学を批判する。

中森――
十二節の「感性的な対象として見る」とはどういう意味か。

竹田――
感性的事物の直感的経験ということだろう。

西――
ここでの「感性」とは、表現的な「意味」を取り除いた感性を指している。
ここでは他者関係を捨象しているので、「一般意味」と、「感性」とを区別しているのである。

「端的な経験」と「基礎づけられた経験」(「基づけられた」とは、何かにすでに規定されているという意味)との区別が、感性と一般意味との区別なのである。


第一章 受容性の一般構造(担当 石川)

○第十五節 外的知覚の分析への移行

外的知覚行為をモデルとして前述語的経験行為の本質とは何か、述語的綜合はそれを基礎にしてどのように構築されるかを探る。
この場合、環境世界は度外視する。


○第十六節 受動的にまえもってあたえられる対象の場と連想構造

白い背景から浮かび上がってくる対象としての斑点相互は遠隔融合する。(互いに同じものとして一纏めにされる)
また、背景と斑点は視覚的なものとして類縁性を持っている。(聴覚に与えられるものとは異質である)
浮かび上がったものの綜合は、類縁性(同質性)と異縁性(異質性)による綜合である。
単純な知覚の場面には同質性と異質性が前提とされているのである。
「合同」ないし「類似」と呼ばれるものは、「連想作用」と呼ばれる重なり合いの産物である。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

竹田――
ここで言う連合作用とは、「観念連合」のことではない。
文字というのは黒い部分を繋げている、図の連合である。

西――
合同とは「ライヒハイト」、即ち「同等性」のことである。「合同」と言うと、ニュアンスが異なる。
これは、似たような物がくっつき合いながら図となって地から浮かび上がってくることを指す。
対象を見るときは関心で見ており、分節もそれによって起こる。

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○第十七節 刺激と自我の注視。自我活動の最低段階としての受容性

浮かび上がったものは「人目を引く」
気にならなかった赤い斑点が自我の対象物へと移行し、「注視」(これなんだろう)が起こる。
この「注視」は受容性であり、能動的かつ意識的な注視とは分けられている。

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竹田――
こうした考え方には無理がある。
欲望や関心があるものを同定し、分節するのである。
受容性が根元であると言えるかどうかとなると問題がある。

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○第十八節 自我の傾向としての注意

注意は実行を伴う「傾向」である。


○第十九節 経験対象への「関心」としての経験的自我傾向、および自我の「行為」のなかでの傾向の展開

注視とともに知覚対象への関心が目覚める。(持続的な把握)
把握の進展につれて対象そのものの豊富化への関心という努力も続けられる。
この傾向は同一物を次々と別のあり方の中で捉えようとし、新たな「像」を生み出そうとする。
そこで眼を動かしたり、頭を動かしたり、身体の位置を変えたりする。これを運動感覚と呼ぶ。

この「眺める」運動は、こちらからの、能動的な運動である。
この運動において、素朴な存在確信の上に価値が乗っかっていく。

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西――
自我の注視とは、「自我が向けられること」(「イッヒツーベンドゥング」)である。
これは、刺激されてはっと注意を向けてしまうということを指す。

竹田――
「意識を引かれる」位の意味である。これに対して、時間のうちでじっと関心を持っている観察は、「確かにある」という信念を形成する。

竹田――
「tendenz」(傾向)とはどう訳すべきか。

西――
「傾き」という感じだろう。カントが「傾向性」と言う場合には「好みに向かう」ということを指している。
自分の意識がそちらに傾いてしまうということである。

幸岡――
はっと意識が引かれ、注意となるという流れのことか。

竹田――
「志向」と言わないのは、恐らく強い意味になってしまう為だろう。「傾き」は弱めた表現である。
ここで言う「像」とは「写像」とは違う。

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○第二十節 狭義の関心と広義の関心

注視とともに呼びさまされる関心は、意図ないし意図的行為といったものを生み出す関心とは違う。


○第二十一節 傾向の阻止と確実性の様態化の起源

同じ対象を常に新たな与えられ方のもとに捕えようとする傾向は、阻止されることがある。
それには対象が消える場合、別の主題に意識が向く様になる場合がある。

ここでいう「様態」は「様相」と同じ意味だろう。つまり「在り方」のこと、「在る」の様態である。
「基体」というものの起源が「阻止」にある。

(a)否定の起源

期待志向が満たされないで失望が生まれる場合もある。(赤くて丸い物体の裏側が緑でくぼんでいる場合など)
ここに「〜でない」という判断が生まれる。

(b)懐疑の意識と可能性の意識

期待志向の当て外れだけではなく、「たんに疑わしい」という意識もある。
懐疑して、判断がつかない場合、正常な知覚が共通の核をめぐる二重の意味に分裂している。(遠くの対象が人間か人形かはっきりしない時)
自我の正常な知覚好意は、信念誘引と名付けられる行為に変様されるが、ここに「可能性」という概念の起源がある。

(c)未決の可能性と開かれた可能性

予期に対して空虚を想像的に埋め合わせるということがある。しかし、この確信は弱い。
想像による確実性の様相は「開かれた可能性」(ある枠にははまっているが、それ以外は不特定)であり、
対立する信念傾向を含む「未決の可能性」(実際に知覚し、確かめることを目指す)とは異なる。

(d)変様ということの二重の意味

懐疑が解決される時、現物として表れているものは「たしかなもの」、「現実的なもの」という様相の妥当性を獲得する。
ここには妥当の変様がある。この変様には以下の二重の意味がある。

(1)根源的な素朴な確信に対立するところの一切の妥当性の変化
(2)その確信が消滅するような妥当性格の変化

懐疑を潜り抜けて決定が生じると確信も再建される。その際に意識が変化し、「ほんとうに」、「じっさいに」、「現実に」という言葉で表現される様な性格が与えられる。

最も端的な確信は原形式であり、否定、可能意識、肯定・否定による確信の再建などはこの原形式の変様を通じて初めて現れる。

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【質問・コメント】

竹田――
フッサールは論理形式における否定がここにあると言いたいのだが、日常的な経験では「好き嫌い」や欲望的な期待がある。

「可能性」という概念も欲望相関なので、この捉え方はおかしい。「蓋然性」はニュートラルな概念だが。

「こうだと思っていたらじつはこうだった」というのは、存在妥当の変様である。

「ほんとうに」とは「吟味した」ということではなく、単なる知覚経験で良くあることだ。

小林――
「前述語的な与えられ方」とはどのようなことを指しているのか。

石川――
「素朴な対象意識のもとに」という意味ではないか。
伝統的な論理学には、そうした与えられ方は先天的なものだという考えがあるが、フッサールは知覚の中にある構造を明らかにしようとしている。

齋藤――
言語構造を下支えしているものは前述語的なものである、ということ。

竹田――
知覚をモデルにする理由は、知覚というものがあらゆる認識の基礎にあるからである。
しかし、ニュートラルに注視しようとするのは、なるべく客観的にみようという欲望相関的な行為である。

芹川――
孫が生後二ヶ月頃には焦点が定まらなかったが、成長するにつれて能動的に目を向けていることが解る。そのことを思い出した。

竹田――
ただ、このモデルは幼児には当てはまらない。
幼児は「これは何であろうか」という客観的な注意を向けることはない。
このモデルは純粋な知覚。言語の世界を持っている人にのみ当てはまる。
子供の時の体験には立ち戻れないため、今の体験を本質観取するしかない。

野口――
ぼーっと座っている場合は、完全なるカオスではない。
「前述語的な体験」とはそういうことであり、受動的だと言えるのではないか。
我々は意味の世界を積み上げている。

竹田――
カオスという言葉の意味は、意識がある時に茫漠たる世界意識を持っているが、
それが織りなすものとしてのカオスということ。
そういう物の中から、在る対象が中心的に浮かび上がる。

野口――
その場合、前述語的な知覚体験とはどのような記述に変えることが出来るのか。

竹田――
それを記述する為には一種の仮構が必要である。一番最初に自分と世界とのエロス的関係というものを仮構して、分節しなければならない。私が知覚体験という場合、それは世界体験のことである。
「快―不快」の分節から、「良い―悪い」の分節への移り変わりということを仮構的に考えなければならない。

数を現象学的にどのように根拠づけるかという問題がある。数は分割する必要から生まれた。知覚それ自体から数は出て来ない。
例えば、そこには等分に分けなくてはいけないという必要があったのである。

枡岡――
在る事柄の規定が成立する「妥当」は、確信にある。この確信自体は知覚を反省することで取り出せる。
ハイデガーの様に実存論的原理としての欲望を置くのも良いが、フッサールは、判断命題の規定性が成立する「妥当」は知覚に根付くと考える。
形式的命題論と形式的存在論の両者の分離は立場の違いなのではないか。

竹田――
欲望相関の考えの基本にはフッサールの考え方がある。
ハイデガーはフッサールの超越論的主観を否定的に見ている。
しかし、基本的に我々がそういう世界文節を確信として持っており、それは反省からしか取り出せないということ、そのこと自体は揺るがない。

苫野――
欲望相関の射程は知覚だけではなく、広い。
本書での知覚の分析は個別的なことを扱っているが、「欲望をあまり意識しないで見えてしまっている」ということに興味がある。

竹田――
フッサールは全学問の基礎付けをしたい、生の意味を対象にしたいと考える。
それをやるためには、自然科学から始めなければならない。自然科学の方法の上に社会科学の方法論を据える展望がなければならない。


第二章 端的な把握と解明(担当 野口)

○第二十二節 以下の分析の主題となる観察的知覚の諸段階

《研究対象》

展開の中断によって変様や阻止があらわれることのない知覚だけを問題にする。

(1)あらゆる解明以前の観察的直観、つまり「全体としての」対象にむけられた直観。この「端的な把握」及び観察は、低次の客観化活動の最低段階であり、知覚関心の阻止されない展開の最低段階である。

(2)「解明的な観察」は関心が展開した高次の段階のものである。解明とは知覚関心の方向が対象の内的地平に入り込むことである。

(3)知覚行為のさらに進んだ段階では、関心は対象の内的地平に解明的に入り込むだけではなく、外的地平に共存する対象、知覚の場に同時に存在し、刺激を与える対象をともに主題にし、もともとの対象をそれらとの連関のもとに観察するようになる。
(例:鉛筆はインクつぼのそばにある。それはペン軸より長い)
外的関係の規定が生じる為には、現在の場に他の対象が共に与えられ、互いに立ち現われたり、消えさったりする必要がある。


○第二十三節 端的な把握および解明

(a)内在的時間的統一としての知覚。把握の能動性における受動性としての把持作用(いまだつかんだままという状態)

《端的な把握》

@それは単純な所与ではなく、さまざまな構造をうちに含んでいて、その構造のなかで内在的時間的統一として構成される。

A端的な把握の単純な例:たえまなく鳴り響く音を聴くという行為。音は過去と未来の地平を伴っており、持続の統一として受動的に前もって与えられる。

Bなりひびく音を能動的(受容的)に把握する段になると、把握そのものが「聴き取れる限り」持続するものとなる。
⇒我々は、この音を把握する時、現在の「変化」に目を向けているのではなく、その変化を通して「音という統一体」に目を向けている。
⇒把持は、新しい活動と結びついて活動の統一体をなす。

(b)把持作用の種々相、および、過去志向とのちがい

@自我が次々と繋がりのない関心を対象にむけるという場合にも、把持作用は成立しうる。

A把持作用には、対象が持続的にあたえられている間に生ずる印象的な作用と、対象が根源的にあたえられなくなったあとにもなお続く非印象的な作用とがある。

B非印象的な把持作用にも二種類ある。

(T)新しい対象に注視しながら、最早根元的には与えられない古い対象をいまだつかんでいる場合

(U)対象が与えられなくなったあとも、自我が過去志向的後退のなかでこの対象になお注意深く目を向けている場合

C「新鮮な記憶」とは、純粋な受動性の枠内での志向的変様であり、能動性の中の受動性としての把持作用とは、区別される。

Dどんな自我行為も、たとえば対象の端的な把握という行為でお、時間的に構成される所与として時間の場に現われる


○第二十四節 解明的観察と解明的解答

《解明の過程をたんなる端的な観察から区別する一般的本質をうちたてるべく試みる》

・対象をS、それの内的規定をα、β、・・・とあらわす。把握Sから把握α、β、・・・・へと
うつる個別的行為の全過程で、われわれはSをしるのである。(特性を把握することで対象を知る)

⇒主題Sは解明の展開の中で基体となる。
⇒「対象」が「基体」という意味形式のうちにあらわれるのは何故か。
⇒「基体としての対象」と「規定α、β、・・・」という二重の意味形成はどのように行われるか。
⇒ここに「論理的カテゴリー」の第一にくるものの発祥地がある。

(b)特殊な重層構造の総合としての解明的なかさなりあい

・解明の過程でSの把握からαの把握にうつる際に目に付くのは、二つの把握物のある精神的な重層構造。

⇒全ての把握物のそうした重層構造は、関心の結合統一の中で把握から把握に進んでいくあらゆる場合に共通して見られる為、解明の性格付けとしては満足ではない。
⇒重なり合いの総合において、同一視の総合が生じるか、生じないかという区別は本質的なものである。
⇒ひとつの色からひとつのにおいへと関心がうつる場合には重なり合いの総合は生じないが、一つの色から別の色にうつっていく場合には「似ている」とか「同じ」色
 という形で重なり合いの総合が生じている。
⇒解明的な重なり合いと名付けるこの重ないり合いは、対象的意味に関する総体的な同一性の重なり合いと混同されてはならない。 

(c)端的な把握のさいの把持作用と解明のさいの把持作用

・全体の能動的把握は志向的変様を受けてまさに把持作用として維持されている。

⇒解明のさいの把持作用は、端的な把握の場合に生じているものとは全くことなる。
⇒個々にとらえられた内容は、端的な観察や新たな対象への移行のさいの把持とは異なり、個別的に把持されるのではなく、全体把持を変様するもの、もしくは全体把握の内容を豊かにする。
⇒能動的な重なり合いの志向性を通じて、次々にあらわれるすべての解明項は規定要素としてSのうちにとりこまれる。

(d)解明と多数把握

・解明の過程と、多数把握の総合(例:星の集団や色の斑点など)との違いは容易に見てとれる。

⇒多数把握の場合、個々の要素がそれぞれ関心を呼び起こし、個別な主題となる。
⇒その一つ一つは主題的に連結されているが、多数の統一形状は能動的活動の目標ではなく、経験的知識の目標でもない。
⇒個別的把握のうちには、解明的な重なり合いがあらわれないのである。
⇒多数把握の場合は、活動の統一は能動的ではなく、受動性に発する結合によって打ち立てられている。


○第二十五節 解明の習慣的沈澱。刻印。

・解明の過程はつねにすでに予測を絡み合っていて、現実的に直観的に与えられる以上のものを統覚的に含んでいる。
あらゆる対象はつねにすでに類型的に親しまれ知られている地平のうちにある対象である。

⇒そこに構成されたものは習慣として所有されていて、いつでもあらたに連想的によびおこされる。
⇒対象は解明行為のうちで根源的に構成された意味形態を習慣的知識として自分のうちに取り込んでいる。
⇒認識関心がこの習慣性の樹立に向かって努力することもある。
⇒解明のなかでうかびあがった特性は目印となり、対象全体は目印の統一体として把握され保持される(猫背、斜視など)。


○第二十六節 地平的に予測されたものを明確なものにする解明、およびそれと分析的明確化とのちがい

・この習慣性は対象特性だけに関わるものではない。特性と類型が示されると、統覚的な転移を通じて同種の他の対象も、この類型に属するものとして前もって親しみあるものの様に現象し、予測される。

⇒さきどりされる意味が絶対的に規定されることはあり得ない。
⇒意味の明晰化はつねに残存地平を残す、部分的なものである。
⇒解明は他方で、空虚な地平の充足的明晰化である。


○第二十七節 解明の根源的な行われかたと非根源的なおこなわれかた。予測における解明と想起における解明

《解明の行なわれかたに関する区別》

(1)出発点は根源的直観。予測されたものと今直観のうちに与えられる解明項との間には様々な総合的な重なり合い(確認、的外れ)が生じてくる。

(2)対象そのものが与えられる以前に、空想のなかで直観的描写に基づいてその対象が予測的に解明されることもある。

(3)すでに解明された対象にかえっていくという場合

(a)すでに解明された対象が想起されて改めて解明され、外的対象ならば、同時に再び知覚される。

(b)解明された対象に記憶のなかで立ちかえっても、その対象が再び知覚的に与えられない場合もある。

@比較的曖昧な記憶の中で立ちかえっていく場合
A記憶の歩みが辿られる場合

(4)ある対象が根源的知覚のうちで一挙に与えられ、それがもはや実物として与えられなくなった時にはじめて解明への移行がおこる場合

この場合の変様:進行する解明の一定部分の間だけ対象が根源的知覚のうちに与えられ、それ以外の部分では対象が知覚的に与えられないままに解明が記憶のなかで進行していく。


○第二十八節 多層的な解明、および基体と規定の区別の相対化。

《分岐する解明》

・解明の分岐が生じるのは、この規定そのものが、ふたたびさらなる解明の基体の役割を果たすということがあるから。

(1)自我がもとの基体を把持しないで投げ捨て、代わりにさっきまで解明項の性質を持っていたものを能動的に把握し続ける場合
(2)規定が自立しても、もともとの基体が以前として主要な関心の対象であり、その更なる規定に入り込んでいく解明は、基体を間接的に豊かにする。

 
○第二十九節 絶対的基体と絶対的規定、およびこの区別の三種の意味

・基体と規定の相関関係には絶対的区分という三種類の限界がある

(1)特別な意味で絶対的な基体と言えるのは全自然、物体の宇宙である。
(2)物体知覚の個々の対象は、根源的に体験出来るという意味で絶対的な基体である。その対象の規定は絶対的な規定である。
(3)ゆるやかな意味では、端的に与えられ得る対象に基礎づけられた対象物も絶対的基体とよぶことが出来る。


○第三十節 自立的規定と非自立的規定。全体の概念。

@絶対的端的に把握される基体の規定は、自立的規定(並木道の樹木)と非自立的規定(対象の色)に二部される。
A最も広い全体概念は、基体対象なら、どんな対象にも適用出来る。
B狭義の全体概念は根源的な基体対象にしか適用出来ない。全体の部分をなす自立的部分を「断片」(灰皿の「足」)、非自立的部分を「非自立的契機」(灰皿の「色」)と名付ける。


○第三十一節 断片の把握と非自立的契機の把握

@断片の概念は全体のなかで他の部分と結合している。非自立的契機の概念には、自ら結合し得るような補足的契機を持たない。
Aあらゆる基体対象が「特性」をもち、「非自立的契機」を持つ。


○第三十二節 結合および特性としての非自立的契機

特性の精確な意味、特性と結合のちがい

@特性とは対象の非自立的な契機のなかで、断片の契機であったり、いくつかの断片の結合を示すものであったりしないもの。
A基体に可能な内的規定は、断片と結合と特性。
B特性は結合と共に非自立的契機であり、次の二つの区分がある。

(1)複合体、集合体の非自立的契機だが、その要素の非自立的契機ではないもの(結合の特性、形式上の特性)
(2)多数でない基体、単一対象の全体に属する非自立的契機で、その断片や集合体には属さないもの。

C結合は分解された全体の中ではじめてあたえられる非自立的契機

《特性の定義》

@全体の直接的非自立的契機
A全体の直接的部分のうち、「結合される」ような他の部分の並存を許さないもの

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【質問・コメント】

中森――
ここで展開されているのは認識の高度化の話か?

竹田――
ここでは、認識の高度化と述語形式が繋がって考えられている。
基体が解明されていくと、規定が出てきて基体がより豊かになっていく。
そして、その規定、性質自体もまた基体となり、更なる規定を持つ様になる。
自立的な要素は基体になり得るが、非自立的な要素は述語にしかならない。

磯部――
視覚モデルだと何となく解るが、絶え間なく鳴り響く音だと、こういう風に展開することは出来ないのではないか。

竹田――
確かにここでの記述は視覚モデルに基づいている。
音楽の場合は、根元的直観として与えられているのはメロディやリズムである。
基体はメロディやリズムだが、主語は常に音楽全体、技量になる。

磯部――
嗅覚や触覚の場合も記述は異なるのか?

竹田――
少しずつ異なる。視覚は個々の要素が全体を構成しているが、音楽の場合、喚起される感情が観察の動機になる。
根源的に与えられているのは感情的な喚起であり、いわばそれが基体であると言える。


参加者の感想


杉田――
知覚モデルは自分で確かめられるので、入り口としてはとても良い。
論理だけでは実感が得られない。

山竹――
論理学の話かと警戒していたが、
自分の経験に照らし合わせて考えることが出来る。
やはり、欲望相関の方が判断の本質を取り出せるのではないか。

林――
論理学を現象学的に考えると、同定作用にその本質があるということが解った。

竹田――
誰でも観察できることをフッサールは言っていると意識しながら読むと良い。

苫野――
フッサールの本の中では一番面白くない。
デューイの記述は近いものがあるが、やはりフッサールの方が上である。

佐藤――
オチがないまま、どこまでも続く、といった印象がある。
しかし、追体験が出来るところが面白い。

石川――
沈殿を志向の対象に出来ることに気づくと、そこに拘っていくという癖が見られる。
フッサール節健在、といった感じだ。

野口――
論理学を扱っているのに、『イデーン』の様な記述になっている。
この主題自体に興味がある。

枡岡――
ヘーゲルが意識論で展開したことを、認識論において自覚的に取り出して書こうとしているところが面白い。

小林――
超越論的主観性というのは、「自分の内部で確かめられる」という考え方なのだ。フッサールの思考スタイルの妥当性を再確認した。

中森――
『危機』の方が面白かった。
この本を読んで自分の現象学への理解があまり深まらなかった。
何故これをやっているのだろうか。論理学にも信念対立があるのか?

竹田――
論理学はこの時代においては大問題だった。
筋道としては必然的だった。

富澤――
皆のレジュメを読んでよくわかった。

大石――
最後まで読まないと解らないというのは、納得。


磯部――
皆さんが言うとおり、モチーフが解らなかった。

齋藤――
狙いが面白いと思ったが、読んでみると意外だった。

目代――
今、イデーンを読んでいるのだが、「範疇的本質」という考え方に興味がある。
論理形式やカテゴリーに本質があるということを、この本では前述語的に取り出そうとしているということがお話を聞いていて、理解できた。

竹田――
論理的な範疇自体がそれなりの構造的本質を持っていることをフッサールは指摘しているのである。

磯岡――
カントの「先験的」という考え方を説明してくれるのかなと思っていたが、そうではないと解った。

竹田――
区分がかなり恣意的である。

愛甲――
自然科学は主語が三人称の形式になっていることで失敗している。
心理学の方法が明証性の問題を捉えられていないという説明があったが、
その原因もそういうところにあるのではないか。

芹川――
フッサールの熱意が伝わってくる。
ニーチェは喜ばしい知識で、数学や論理学は人間を凡庸化すると書いていたが、フッサールは違うようだ。

竹田――
ニーチェは欲望論的な考え方の元祖だから、数学とは客観化の現れであり、近代の客観化は良くないと言っているが、数学自体が悪いとは考えていない。

鈴木――
この本の読み方がレジュメのおかげで解った。



現象学研究会活動報告

フッサール『現象学の理念』を読む(2009 3/14

報告者:小井沼広嗣

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レジュメ担当
講義の思索過程、講義一 (杉田宏平)

講義二、講義三 (野口勝三)

講義四、講義五 (齋藤隆一)

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報告

今回から、現象学の創始者フッサール自身のテキストをあらためて読み直すこととなった。今回のテキストは『現象学の理念』。比較的短い講義録ではあるものの、後の『イデーンT』(1913)において詳述される「超越論的現象学」への序説的な内容が論じられており、重要な論点がつまっている。ただ、初期の『論理学研究』(19012)から『イデーン』への移行期になされた講義(1907)であるため、フッサール自身の思索がまだまとまっておらず、使われている用語が『イデーン』とは若干異なっていたり、論述の進み行きもいまだ十分整理されていなかったり、決して読みやすいものとはいえなかった。けれども、いつものように、竹田先生と西先生が、テキストを詳細に解説してくださり、さらに参加メンバーのあいだで徹底的に意見・議論を重ねたので、不分明な箇所はほとんどなくなったように思う。


本書でフッサールが主張している中心的な論点は、以下の3つ。

a) 世界の客観的実在性を素朴に前提する諸学問は、真に“正しい”客観が何かをめぐって、解きがたい深刻な理論的対立に陥らざるをえない。現象学は、この問題を解消するため、《そもそも認識とは何か、(諸学問が前提する)客観的な世界というのはいかなる認識構造において確信されているのか》という問いを根本から解明することを目的とする。その意味で、現象学は「認識批判学」と呼ばれうる。

b) 認識問題は、突きつめれば、《主観はいかにして客観に一致しうるのか》という根本的な問いに帰着する。この問題を解くためには、あらかじめ客観的実在性を前提としている諸学問の理論を借用することは許されない。そこで現象学では、「現象学的還元」という独自の方法によって、世界が客観的に実在しているという前提を取り払う。そして、主観性のうちにこそ、認識の謎を解くための、絶対的な明証性の領域を見いだす。

c) 現象学は、私の意識体験において直接的に与えられる明証的な直観に足場をもつ。とはいえ、現象学は単に「今ここで私に直観されている“コレ”」といった個別的で感覚的な事象のみに携わるのではない。現象学は「本質学」であるから、その中心課題はむしろ、事柄の一般的な本質や、認識作用や認識対象の一般的構造を取り出す点にある。それゆえ、単に個別的・感覚的な事象のみならず、一般的な“意味”をも明証的に直観されることが確認されなければならない。

研究会では、現象学の核心的な狙いが、認識の成り立ちの“根源”(=大もとの元素)を探すことにではなく、確信を生じさせる認識条件の“底板”を取り出すことにある、という点があらためて確認された。そこで、今回の報告では、研究会のなかで特に取り沙汰された「内在と超越」というトピックを、b)c)の論点をさらに詳述する仕方で、論じることにしたい。

まず、さしあたって重要なのは、現象学では、<「内在」=主観的な体験/「超越」=客観的に実在するもの>、という風には決して考えないということだ。もしも、超越とは内在(=認識主観)とは切り離された別個のものだということをあらかじめ認めてしまうなら、結局のところ、超越者(=客観的に実在する対象や事象)の認識は不可能だという懐疑論的な結論に行き着いてしまう。というのも、認識というのは、あくまでも“私の”認識であるかぎり、主観(=内在)を離れた認識などというものはありえないからだ。そこで、現象学ではあえて、超越者が主観の外部に客観的に実在するという前提を“括弧にくくり”、徹底的に主観の立場に定位するという方法をとる。それが「現象学的還元」だ。すると、内在と超越の関係はどうなるのか。それは、内在と超越という関係構造それ自体が“主観の内部での区別”だということとなる。つまり、「私にとって認識されている対象」と「客観的に実在する対象」という区別自体が、私の主観の内部で立てられる構造だということである。ある対象や事象が客観的に存在しているということも、あくまで主観の内部で確信されたものなのだ。

以上のことを踏まえた上で、現象学的には内在と超越はどのように捉えられるかを確認しよう。「内在」とは、主観の認識や判断において、それ以上疑いようがないという確信が伴う“底板”である。フッサールは、この“疑えなさ”を「明証」とか「自己所与性」と呼んでいる。これにたいし、「超越」というのは、ある対象性が客観的に実在しているという、いわば“信憑”の領域であり、それはいつでも疑いうる余地を残している。

では、内在(⇒不可疑的)と超越(⇒可疑的)とは、一体どこで線引きできるのだろうか。そもそも、何が疑いようのない明証性と呼べるのか。この問題に答えるための補助線として、フッサールは本書で、<内在>という概念には二重の意味合いがある、と述べている。ここの議論がかなりややこしいのだが、ならべく簡潔に整理してみたい。

まず、内在の第一の意味は、意識体験のうちに与えられる“ありありとした感覚”のことで、「実的内在」と呼ばれる。これに対し、内在の第二の意味は、直観される対象性の“意味”のことで、「志向的内在」と呼ばれる。

たとえば、いま私がリンゴを見ているとしよう。その際、私は「赤い」(色彩)、「まるい」(形状)、「つやつやしている」(質感)、といった様々な感覚所与を受け取っている。これが「実的内在」で、明証的で疑いようのない認識の一源泉となるものだ。それが本当にリンゴであるのか、それは本当に実在しているといえるのか、といったことは疑いうる(⇒「超越」)。実際それは単なるレプリカかもしれないし、ひょっとすると、私はリンゴを見ている夢を見ているだけなのかもしれない。しかし、私が今ここで「赤さ」や「まるさ」や「つやつや」といった感覚を現に感じ取っていることだけは確かだし、そのことを疑うことには意味がない。(私は“実際にはそう感じていなかった”、などということはありえない。)

けれども、かりにこうした「実的内在」のみが確実な認識の源泉であるならば、「私が今ここで、現に感じ取っている“コレ”」といったそのつどの“個別的な”感覚体験のみが確実であり、それ以上は一歩も前進できなくなるだろう。そうなると、認識の“一般的”かつ“本質的な”構造を明らかにしたい、という現象学の目論見も頓挫してしまう。けれども意識体験を反省してみると、明証的に与えられるものは、単に個別的な“感覚”だけではなく、そこには一般的な“意味”も含まれる、ということが理解されるはずだ。たとえば、赤くてまるくてつやつやしている“個別的な”「このこれ」は、「リンゴ」であり、それはどのリンゴにも当てはめられる一般的な意味本質である。また、私はリンゴ特有の“個別的な”「赤」の感覚を受け取っているが、その際、同時にまた、私は(夕日、郵便ポスト、Jリーグ浦和レッズのユニフォームといった)赤いもの“一般”に通じる「赤」の意味をも受け取っている。フッサールが「志向的内在」と呼ぶのは、こうした個的で感覚的な体験から必ず得ている何らかの「意味」「本質」一般のことである。重要なのは、「それが何であるか」という対象の意味や本質も、感覚所与と同様に、“対象それ自体が自らを告げ知らせるような仕方で”直観されるのであって、決して意識の恣意的な自発性によらないということである。(たとえば、人は「赤い」ものを見て、「青い」だなどと勝手に確信することはできない。)

もちろん、疑いえない明証的な“意味”の受け取りはどの範囲にまで及ぶのか、という問題は残る。実際、「赤い」、「リンゴ」といった意味の受け取りがなされる場面は、必ず何かしらの空間的・時間的な「地平」(=背景ないしは文脈)を伴っているからだ。だが本書では、この問題については課題が提示されているだけだ。本格的な考察は『イデーン』で、ということになる。ちなみに、いままで述べてきた二つの「内在」という問題も、『イデーン』においては「個的直観」と「本質直観」という用語で、ずっと整理された仕方で語られることとなる。

さて最後に、上述したこと以外に、研究会で取り上げられて興味深かった論点を二つばかり紹介したい。


@フッサールは本書で、認識問題に対する現象学の課題は「<認識(作用)><認識の意味><認識の客観>との相互関係」を明らかにすることだと述べているが、西先生によれば、<認識の意味><認識の客観(=対象それ自体)>を区別するこうした三項図式には、『論理学研究』のなごりが見て取れるという。『論理学研究』の段階ではまだ、「現象学的還元」という方法はまだ確立されていなかった。けれども、この方法を徹底すれば、客観的な対象性もまた、意識主観において内在的に確信される“ある種の意味”であることには変わりがないことになる。そこで、『イデーン』では、こうした三項図式は<ノエシス(=意識の志向的な働き)−ノエマ(=その相関者)>という二項図式に置き換えられることになったようだ。

A本書(『現象学の理念』)では、世界の諸事象に対して確信が生ずる底板について、「“十全な”明証性」という言い方が用いられているが、西先生によれば、後の『デカルト的省察』では、フッサールは「“十全な”明証性」と「“不可疑性”としての明証性」とを分けて考察しているという。そのことを受けて、竹田先生は、「十全」という表現は、何をもって“十全”とするかという点で曖昧さが残るので、明証性の根拠としては「不可疑性」に収斂させたほうがよい、とのことをおっしゃていた。確かに「十全」という表現は、対象そのものを完全に、かつ正しく認識したという、いわゆる“真理”主義的なニュアンスがあるように思う。それに対して、「不可疑性」という言い方は、〈疑う−確かめる〉という仕方で、人間のそのつどの“欲望(=関心)”との相関性において対象が確信されるニュアンスがうまく表現されている、と筆者は思った。

『現象学の理念』は小著だったので、今回の研究会はわりと早く終われるかなと思いきや、結局は五時間半にも及ぶ長丁場となった。(といっても、いつものことではあるが・・・。)次回からは数回かけて、フッサールの最晩年の思索が叙述されている『経験と判断』を読んでいく予定だ。



現象学研究会活動報告

ダン・ザハヴィ『フッサールの現象学』(晃洋書房)を読む (2008 12/13 )

報告者 小井沼広嗣


レジュメ担当

第一章 初期フッサール:論理学・認識論・志向性 (杉田宏平)

第二章 フッサールの超越論哲学への転回:エポケー・還元・超越論的観念論 (野口勝三)

第三章 後期フッサール:時間・身体・相互主観性・生世界 (石川伸晃)


報告

今回取り上げた本の著者ダン・ザハヴィ氏は、デンマークの出身、現在アメリカで活躍中の、「新世代を代表する新進気鋭の現象学者」だという(「訳者あとがき」より)。そんなわけで、今回の研究会は、世界最前線のフッサール研究がどの程度の水準なのかを把握する良い機会となった。

本書はオーソドックスなタイトルがつけられているものの、いわゆる初学者向けの入門書ではない。(入門書として読むには難解。)ザハヴィの主眼は、これまでの現象学に対する誤解や批判をしりぞけつつ、フッサール現象学が今日においてなおアクチュアリティーをもつことを立証しようという点に置かれている。その心意気は、私たちが現象学に取り組む姿勢と合致するものであり、深く賛同することができる。また、一読するかぎり、ザハヴィの現象学理解は、一昔前の代表的な現象学者や現象学批判者(K・ヘルトやデリダなど)に比べて、相当レベルが高いといえる。とはいえ、今回の研究会を通じて明らかとなったのは、彼の反批判は、間違っているとはいえないものの、現象学の核心的モチーフを十分理解した上での語り方にはなっていないということだ。

竹田先生、西先生がこれまでご著書のなかで主張されてきたように、(また本研究会のこれまでの活動のなかでも確認されてきたように、)現象学の根本モチーフは、近代以降の歴史において深刻化してきた、異なる世界像や多様な学説をめぐる信念対立の問題を克服することにある。その際、フッサールの画期性は、この課題を解決するためには原理的に、主観性に定位するという観念論的方法を徹底するしかない、と洞察した点にある。すなわち、現象学の発想の根幹は、《どれが“客観的に”正しい世界像・学説なのか》、という世界の実在性を前提した問題設定を棄却し、《ある世界像・学説の妥当性は“主観”のうちでの信憑構造にある》と見極めた上で、その確信成立の構造と条件を自らの“意識体験”のうちで踏査しよう、という点にある。「現象学的還元」という方法的な視線変更や、「超越論的主観性」という場の設定の意義は、こうしたモチーフを踏まえることでのみ明らかとなる。

これに対し、ザハヴィの現象学理解はどうか。彼の論述は一方で、とても的確な指摘を含んでいる。たとえば、ザハヴィによれば、フッサールの言う超越論的観念論は、実在論と対立する意味での形而上学的な観念論(=主観が世界を構成するという立場)とはまったく異なる。超越論的還元は、実在論の拠りどころともなっている“自然的態度”(=素朴に世界の唯一性と実在を信じている立場)を、内在的に理解し説明するものであり、その点で、フッサールは実在論と観念論の間の古い対立を克服したのだ、と。またザハヴィは、《現象学の探究は主観性に定位するものだが、その研究領域は、単にこの私にのみ当てはまる“私秘的な”思考にかかわるのではなく、どの主観にとっても接近可能な現象の諸様態にかかわる》、とも述べている。こうした論述を読むかぎり、現象学が主観の共通構造を確認しようという“開かれた言語ゲーム”だという点が押さえられているようにも見受けられる。

けれども、現象学批判に対するザハヴィの反批判の仕方は、「独我論」、「主観主義」、「基礎づけ主義」といった批判的レッテルを(その否定的意味をそのまま受け入れた上で)“相対化”しようという方向に向いており、結果的に「還元」や「超越論主観性」という“観念論”的方法の積極的意義をかえって不透明にしてしまっているような観がする。彼の論じているトピックは多岐にわたるが、以下、@「構成」の問題、A「現前の形而上学」の問題の二点に絞ってみていきたい。

@《主観性が世界“構成的”である》というフッサールの立言は、しばしば、主観が世界を産出したり、創造したりする形而上学的な起点であるかのように受けとられてきた。これに対し、ザハヴィは以下のように、フッサールの「構成」の概念を擁護している。

フッサールのいう「構成」とは、《主観(=原因)が対象(=結果)を生み出す》という事実的な因果関係を意味しない。「構成」とは、構成されたもの(=対象)がそれ自体あるがままに、意識主観に対して有意味なものとして現れ、展開される過程として理解されるべきである。・・・ここまでの主張は非常に納得のいくものである。だが、ザハヴィは続けて次のような言及をしている。・・・フッサールは最終的に、“主観性”と“世界”とが相補的であるのみならず、“相互主観性”をも欠くことのできない要素として、これら三重の構造が連動していると捉えるに至った。世界の構成、自己の展開、相互主観性の確立は、すべて相互に関係した同時的な過程であり、三つのうちのどれを開始点と捉えるかは問題ではないのだ、と。

たしかに、私、他者(および我々)、世界という三つの視点は、“発生的”に捉えるかぎり、等しく根源的であるといえる。だが、こうしたとらえ方は、構成の問題を《世界生成の始原的な過程》として捉える、従来の現象学の“形而上学的”解釈をなお引きずっているように思われる。ザハヴィの本意は、形而上学的なものではなく、現象学のもつ“主観”主義的性格を緩和させようという点にあるのだとは思う。けれども、その結果、上述した、主観性に定位することの根本モチーフを不明瞭にしまっているように思われる。「構成」の問題が、世界や諸対象を確証する条件や、客観性の意味と根拠を内在的に理解しようとする作業であるかぎり、やはり(この私の)“主観”という場には“相互主観性”や“世界”には置き換えられない優位性があるように思う。

A次のトピックに移ろう。フッサールの現象学は“直観”に特権的な地位を与えたがゆえに、「現前の形而上学」だとう批判を招いた。つまり、《フッサールは正しい認識の基礎を、主観のうちで直観的・無媒介的に与えられる“現前”(=ありありとした現在の明証性)に見いだそうとしている、けれども、そもそも「現前」というのはなんら直接的なものではなく、すでに差異や不在といった“複合性”を前提としているのではないか》という批判だ。

これに対してザハヴィは言う。重要なのは、フッサールが知覚される対象の「超越」をつねに強調していることだ。たとえば、私たちがリンゴの木を直観するとき、現前的に与えられるのはある一面的な“相”(=射映)だけだが、その際、私たちはリンゴの木それ自体の知覚を受けとっている。それは、まだ現前的には与えられていない多様な射映という、対象の「地平」についての志向的な意識が常に伴っているからだ(⇒向きを変えれば同一の対象についてのちがう側面が見えるだろう、という暗々裏の意識)。また、ありありとした“現在”という原印象は、つねに“過去把持”(ちょっと前)・“未来把持”(ちょっと後)という時間地平の中に位置づけられている。(たとえば、私たちはメロディーを瞬間瞬間の音としてではなく、連続的な流れとして把握している。)それゆえ、孤立した原印象などはないし、純粋な自己現前などはないのだ、と。

要するに、ザハヴィの言い分は、《直観はすでに(「超越」・「地平」という仕方で)“差異”や“不在”を含みこんでいる以上、主観性を純粋な現前と捉えることはできない、それゆえ、フッサールが現前の素朴な哲学を提唱しているという主張は誤りである》、というものだ。だが、こうしたザハヴィの言い方は、《認識の基礎づけ主義》だという批判者側の現象学理解はそのまま受け入れつつ、それをいわば“解毒”するような仕方になっている。しかし、そもそも、フッサールが「現前」を重視する意図は、認識の基礎づけの試みなどではない。フッサールが、「認識の正当性の源泉」として直観に特権的な地位を与えた所以は、直観に“正しい”認識のための基礎(=主観と客観とが一致する現場)を見いだしたからではなく、ただそれを疑うことが無意味であるような“確信”が生じることの根拠(=確かめを行いうる最終的な底板)を見いだしたからだ。その際、着目すべきは、知覚直観の“内在性”にこそ不可疑性の根拠があるという点なのに、ザハヴィは直観にともなう「超越」や「地平」という不確実な側面だけを照射して、《フッサールは「現前の形而上学」ではない》と述べている。これでは、批判に真っ向から答えたことにはならないだろう。

今回の研究会を通じて、竹田先生・西先生は自分たちの現象学理解を世界に広めなければいけないと意欲を再燃されたようだった。次回からは、フッサール自身のテキストに立ち返って(『現象学の理念』『経験と判断』)、現象学のモチーフと方法の意義を確認していくこととなった。


現象学研究会活動報告

ジョルジュ・バタイユを読むA (『エロティシズム』) (2008 10/8 )

報告者 富澤滋


講読箇所とレジュメ担当

序論から第1章/富澤滋
第3章から第9章/杉田宏平
第10章から第13章/山竹伸二


 今回のテキストから重要な部分を取り出すと次のようになる。

 エロティシズムとは、死におけるまで生を称えることだ。
 人間だけが性活動をエロティックな活動にした。
 死も存在の連続性も,ともに魅惑するものだからだ。そしてこの双方の魅惑こそがエロティシズムを支配している。
 本質的にエロティシズムの領域は暴力の領域であり、侵犯の領域である。

  恋人には、この世でただ愛する相手だけが、私たちの限界が禁止しているものを、二つの存在の完全なる融合を、二つの不連続な存在の連続性を、実現できるように思える。恋人にとって愛する相手は存在の真実に匹敵する。
 エロティックな行為は供犠に似ている。エロティックな行為は、これに関わる者たちを溶解し、彼らの連続性を顕現させる。…まさしく聖なるものとは、厳粛な儀式の場で不連続な存在の死に注意を向ける者たちに顕現する存在の連続性のことなのである。
 美の追究には、連続性に近づこうとする努力があると同時に、これを逃れようとする努力がある。美は動物性を排除するが、美が熱烈に望まれているのは、美の所有が動物的な穢れを生みだすからだ。美は穢されるために望まれる。美を冒涜する確信のなかで、喜びは味わわれるのである。「醜さは穢すことができないという意味で、エロティシズムの本質は穢すことだという意味で、美はこの上もなく重要である。禁止を意味する人間性は、エロティシズムのなかで違犯される。違犯され、冒涜され、穢される。美が大きければ大きいほど、それだけ穢すことも熱烈になる。」


             ※  ※  ※

 恋愛について今まで、きちんと考えているのは、プラトンとバタイユだけということである。人間のもっとも根本的な情動であるエロティシズム。しかし、これまで人間は、このことについて深く考えてはこなかった。まともに目を向けることを、バタイユにいわせるなら、恐れていたからだ。バタイユは、人間のエロティシズムが動物のそれとは違って、きわめて独自なものであり、精神的なものであることに注目する。
 その核心を取り出すなら、「エロティシズムとは、禁止に対する侵犯である」ということだ。美に対する侵犯である。美を穢すということが、エロティシズムなのだ。人間は禁止の線を超えるときに、エロティシズムを感じる。簡単に言えば、わくわくドキドキするということだ。これはきわめて生が昂揚する感覚である。 
 人間は、労働することによって、そして自分が死に向かっていることを理解することによって、さらには恥じらいのない性活動が羞恥心のともなった性活動――エロティシズムはこれから生まれた――へ移ってゆくことによって、根本的な動物性から抜け出たのだった
 バタイユはこう書いている。「恋愛だけが二つの存在の完全なる融合を、二つの不連続な存在の連続性を、実現できるように思える。恋人にとって愛する相手は存在の真実に匹敵する。」
 連続性・不連続性(非連続性)といった独特な用語で語っているので、つかみにくいところだが、人間の生が、恋愛によって聖的なものに憧れ、人生のもっとも大切なものに触れようとすることだということが語られている。


 研究会では、バタイユのエロティシズムが、本質的なものになっていることについて、多くが語られた。男女のエロティシズムの非対称性についても論議が深まって、大変に興味深いものになった。


現象学研究会活動報告

ジョルジュ・バタイユを読む@ (『呪われた部分』) (2008 6/7 )

報告者 杉田宏平


講読箇所とレジュメ担当

「第1部 基礎理論」/石川伸輝
「第2部 歴史的資料(1)消費社会」/小林孝史
「第3部 歴史的資料(2)軍事企業社会と宗教企業社会」/杉田宏平


『呪われた部分』は、バタイユによる社会科学的著述であり、もともと三部作として構想されていた著作の、第一部にあたる。この三部作の第三部にあたるものが、主著として有名な『エロティシズム』であり、第二部は、『至高性』という題を冠され、未完の断章の集積という形で刊行されている。

『呪われた部分』におけるバタイユの主張は終始一貫していてシンプルである。それは、「普遍経済」と呼ばれる原理である。「普遍経済」とは、バタイユの言葉を借りれば、富の消費(「蕩尽」)が、生産や蓄積に比して第一目標となるような原理の事だ。この理論のポイントは以下の三つ。

@すべての過剰なエネルギーは、蕩尽される運命にある
「蕩尽」の重要性は、まず地球上のエネルギー流動から説明される。このエネルギーのイメージは、「太陽」から来ており、そしてこの太陽の光を受け取りつつ生きる生物全般にとって、エネルギーは常に生命の維持に要するよりも多く、過剰である。この過剰エネルギーは生物の成長に利用されるのだが、もしその生物がそれ以上成長し得ないか、もしくは過剰が成長のために摂取されえないなら、そのエネルギーは利潤抜きに損耗されねばならない。こうして、すべての剰余エネルギーは蕩尽される運命にあり、これは宇宙の運動なのだ、とバタイユは言う。

A戦争は、過剰なエネルギーがうまく消費しきれないことから起こる
バタイユは、この「過剰」なエネルギーに、戦争の原因を見る。産業活動の成長は、資源の増殖をもたらし、先進諸国の急速な人口増加を可能にした。近代の産業は、成長によって生まれた剰余を「生産、蓄積重視」による拡大に充てる事で発展してきた。しかし、最終的にはこの成長自体が増大する剰余の産出者となり、この剰余を消費する事ができなくなる事で二つの大戦が生まれた。

B蓄積、生産ではなく、過剰の消費を重視する思考へとシフトする必要がある
こうして戦争が過剰なエネルギーをうまく消費しきれないことから生まれるのならば、今までの「生産、蓄積重視」の考え方を、過剰なエネルギーをいかにして、破壊的でない形で消費するか、といういわば「消費(蕩尽)重視」の考え方に転換することが必要である。この、「消費(蕩尽)重視」の実例を、バタイユは「歴史的資料」として、アステカ族、イスラム教、ラマ教などの社会に見る。『呪われた部分』の後半では、これらの社会における消費形態の具体的な記述を通して、現代における「消費」の可能性が模索される。

研究会では、このバタイユのいわば「戦争の根本原因の本質」についての考察の妥当性に論点が集まった。ここには、通常の近視眼的観点からの転換があり、戦争と富の蓄積との連関を取り出していることは注目に値する。

一方で、バタイユの、近代において戦争が多くなったのは、蕩尽の形態が少ないからであり、蕩尽形態をもっと増やせば戦争が少なくなる筈だ、という論理は怪しい、という疑問も出た。戦争には戦争の論理があり、その原理論としては、ホッブズの「富の蓄積による相互不安」のほうが優れている、という竹田先生の指摘もあった。

しかしながら、「蕩尽」が人類にとって大切なものである、というバタイユの直観には、やはり説得力がある、という意見が多く出た。ここには人間の欲望についての本質論があり、人間の欲望は、常に「必要」「有用性」を超え出るようなものである、ということを含意している。バタイユのこうした考え方は、我々の生活世界における実感に迫る、ある迫力がある。

研究会の終盤に披露された、竹田先生の「普遍消費」に関する話が興味深かった。近代社会の経済は、「普遍交換」と「普遍分業」によって特徴づけられ、そのことで産業は発展することが可能になったのだが、そこには大切な契機が抜けていて、それが「普遍消費」である。「普遍消費」とは、みんなが消費できるようになるということであり、資本主義的な分配の偏差をなくすことである。現代においては、普遍交換と普遍分業は、かならず普遍消費とセットである必要がある。

歴史的資料の曖昧さや、戦争の論理についての考察など、様々な疑問の余地が残るが、しかし、バタイユの「蕩尽」の論理を欲望論として捉え返すことの重要性を確認できたことが、今研究会における最大の発見であった。次回、『エロティシズム』においてその点をさらにつきつめてゆければよいと思う。


現象学研究会活動報告

レヴィ=ストロースの講読
(『野生の思考』『構造人類学』『人種と歴史』)
2007 12/82008 1/122/94/5

                      報告者:小井沼広嗣


講読箇所とレジュメ担当

2007 12/8 『野生の思考』
「第一章 具体の科学」:小井沼広嗣
「第三章 変換の体系」:石川伸晃
「第四章 トーテムとタブー」:能智正博

2008 1/12『野生の思考』A
「第六章 普遍化と特殊化」:小林孝史
「第八章 再び見出された時」:小井沼広嗣
「第九章 歴史と弁証法」:山竹伸二

2008 2/9
『構造人類学』
「第二章 言語学と人類学における構造分析」:斎藤隆一
「第九章 呪術師とその呪術」「第十章 象徴的効果」:苫野一徳
「第十一章 神話の構造」:小林孝史

2008 4/5
『人種と歴史』:富澤滋
『構造人類学』
「第八章 双分組織は実在するか」:小井沼広嗣
「第十五章 民族学における構造の観念」:石川伸晃


報告


昨年末から計四回にわたって、レヴィ=ストロースの著作を講読してきた(『野生の思考』の主要箇所、『構造人類学』の主要論文、および『人種と歴史』)。今回、彼の晩年のライフワークである神話論については立ち入ることはできなかったものの、それ以外の彼の主要な仕事である親族組織やトーテミズムの構造分析、また歴史観に関してはかなり踏み込んだ検討ができたように思う。ここでは主に、その最終日(4/5)に交わされた議論を中心に報告したい。


まずは『人種と歴史』。小著ながら、この本には、レヴィ=ストロース独自の歴史観が提示されており、また、そこからは彼の「構造」研究のモチーフをも垣間見ることができる点で大変興味深かった。その主要な論点は以下の二つ。
@ 文化接触説の提示・・・歴史の進歩なるものは、諸々の人類文化の交流・提携・融合によって成されてきたのであって、ある特定の人種や民族が歴史を動かす主体となるわけではない。
A 単線的な発展段階説の否定・・・歴史の進展というのは決して一方向的ではなく、多方向的である。ある文化の歴史を停滞的とみなすか、累積的(前進的)とみなすかは、それを評価する者の立ち位置によって決まる相対的なものである。それゆえ、西洋文明を進歩の一義的尺度とするのは誤りである。(⇒この指摘は、『野生の思考』の最終章でなされているサルトル批判に通じる。)

西欧中心主義を否定するこうした相対的な歴史観は、今日でこそ常識的となりつつあるが、戦後まもない当時の時代状況下においては、やはり相当意味ある発言だったのではないか。当時の思想界では、アンガージュマン(政治的参与)を呼ぶかけるサルトルの実存主義思想が全盛であった。だが、戦後の歴史動向を見る限り、先見性という意味ではレヴィ=ストロースに軍配があがる。というのも、その後、歴史主義の代表格であったマルクス主義は瓦解し、歴史それ自体に絶対的な意味を設定することは不可能な時代(ポスト・モダンの到来)となったからだ。けれども、より良い社会への見取り図を描き、時代の行く末を展望するためにも、私たちは依然、「近代」という時代の歴史的意味づけを必要とする。その点で、人間の(承認への)欲望を歴史の動因と見なし、その目的を自由の実現と見なすヘーゲルの歴史観は、(「精神の自己展開」という形而上学的枠組みさえ取り払ってみれば、)近代社会の意味を捉える際になお有効な見方を示してくれているように思う。

「双分組織は実在するか」は、レヴィ=ストロースの職人芸的な構造分析が延々と展開されている論文であり、理解できない点も所々あった。けれども、その要諦ははっきりしている。そなわち、一見、二元的に見える半族組織(⇒「限定交換」のみが成り立つ)によって構成されている部族社会も、その大部分では「一般交換」を可能とする三元以上の親族組織を内包している、というのが彼の主張だ。(その意味で、この論文は彼の『親族の基本構造』の主張を補強するためのものだと言える。ちなみに、その内容を一言でいってしまえば、インセスト・タブー、女性の交換、親族組織が成り立つこと、これらはまったく同義であるということ。)
 *限定交換:二組のグループの相互的な交換(AB
   一般交換:三組以上のグループが一方向的に贈与し、円環をなす。(ABCA

この点を確認したうえで、なぜ人間社会において、「内婚」や「限定交換」ではなく、「一般交換」がより普遍的に見られるのか、という問題について議論がなされた。竹田先生は、「部族間の交流がないとすると、そこでの緊張・対立が高まるからではないのか」、ということをご指摘された。つまり、女性の交換は部族間の緊張・対立を緩和する方途であったということだ。そして、こうした広範なネットワークの形成は、共同体を大きく、強くすることにもつながる。もちろん、ここでそれを「起源」論的な意味で検証することはできないが、「本質」論的な意味では、かなり妥当性がある考えではないだろうか。(ちなみに、竹田先生は最近、闘争史観に凝っているらしく、「農耕・定住蓄財がはじまって以来の人類の歴史は“普遍闘争”が基本」、と言われていた。)

また、上の問いに関連して、なぜ(一部の権力者を除いて)一夫一婦制が普遍的なのか、という問題についても意見が交わされた。女性を何人でも娶っていいとなると、女性をめぐっての争いが激化する。それゆえ、これについても、争いや対立を回避するためではないか、ということが言われた。また、「子育てという観点からすると、一夫一婦制が一番利に適っているからではないか」、という違う観点からの意見も出た。

「民族学における構造の観念」では、「構造」という曖昧な、それゆえ恣意的に受け取られがちな概念を、明確に規定しよう、という理論的な話がなされている。ここでレヴィ=ストロースは、「構造」を無意識的な規定としているが、実体的には捉えてはおらず、あくまで「モデル」として捉えようとしており、その点は、現象学の立場からも非常に賛同できると思った。

これに対し、「構造が主体を規定する」という通俗的な構造主義理解は問題をはらんでいる、ということが指摘された。というのも、構造を(ある種の)アプリオリなもの・実体的なものとして捉える限り、なぜ構造が変化するのかが解き得なくなってしまうからだ。(仮にそれを規定しようとすれば、当の構造を規定している上位概念・メタレベルを立てる以外になく、この仕方では無限後退を余儀なくさせられる。)構造とはいわばルールの束であり、それなしでは確かにわれわれの主体などはありえない。だが構造それ自体にはこれを変化させる動因はない。ルールの編み替えを可能にするのはあくまで人間の欲望・関心(=主体)である。換言すれば、私たちは親や社会から与えられたある規範・ルール(=構造)から出発せざるをえないが、そうした規範・ルールを不当と感じるとき、私たちはそれを刷新することができる。(もちろん、それは容易ではないが。けれども、その可能性を否定してしまっては、個々人の自由を基礎とする「市民社会」の理念は成り立たなくなる。)それゆえ、上述の命題は半分は正しいが、そこには、「主体が構造を規定する」という逆の命題が補われなければならない。

ちなみに、こうした「構造と主体」との動的・弁証法的関係は、ソシュール言語学の観点からすれば、「ラング(言語規則・文法体系)とパロール(個々の発話)」との関係に、精神分析の観点からすれば、「無意識(欲望や経験が沈殿し、<身体化>したもの)と意識」との関係に、相応するものだといえる。


最後に、「現象学」の研究会で、構造主義の思想家を取り上げることの有意義性についてコメントしておきたい。まず言えることは、現象学と構造主義とは相容れない方法だと一般的には考えられているが、むしろ両者は補い合えるような思考方法だということである。現象学は、私たちが普段それによって生きている自明な世界像を一旦カッコにいれ(エポケー)、自分の意識経験に定位しつつ、この確信を成り立たせている本質や条件を取り出そうとする。他方、構造主義は多様な現象や経験のなかから、それらを貫く普遍的な「構造」をモデル化する。いわば、現象学は「世界像」を“検証する”原理論だとすれば、構造主義は「世界像」を“構築する”原理論なのである。

その意味で、今回私たちが議論したことは、レヴィ=ストロースが構築した「構造」を、現象学的・本質学的な立場から吟味する作業だったといえる。そして、分かったことは、レヴィ=ストロースの「構造」研究は、社会や文化の「本質」を考察する上で、格好のモデルを提示してくれている、ということだ。

正直なところ、一人で読んでいるかぎり、レヴィ=ストロースの著作はひどく無味乾燥に感じられ、途中で何度もページをめくる手がとまってしまった。というのも、「構造を取り出したのはいいけど、この人はそれで何が言いたいのだろう」というのが、なかなか掴めなかったからだ。(「多様な現象形態を単純な構造として分かること自体に、ある種の快楽がある」、という指摘もなされたが。)だけれども、彼の取り出した構造の意味(=本質)を吟味する今回の議論は、実に内容が濃く、知的にスリリングだった。「フーコーの仕事が後世に残るかは疑わしい面もあるが、レヴィ=ストロースの仕事は思想史上の大きな一歩を示しており、間違いなく残るだろう」、という竹田先生のコメントが心に残った。


現象学研究会活動報告

ハイデガー「後期思想」の講読 (『世界像の時代』『ニーチェの言葉「神は死せり」』) (2007 10/6 )

報告者 犬端渉(HP管理人)


講読箇所とレジュメ担当

『ニーチェの言葉「神は死せり」』富澤滋/石川伸輝/野口勝三
『世界像の時代』/桝岡大輔


報告

前々回、前回と2度にわたる主著『存在と時間』の講読では、ハイデガーの実存思想家としての感度、すなわち「内在」に定位して人間の生の様相をつかみとっていく切り口の鋭さをあらためて実感した。しかし、それと同時に、「こうして人間が自らのもとに世界を構成しているのも、その背後に存在という根源的なステージがあってこそだ」というように、実存の外側に「ほんとう」を求めようとする基本的な姿勢がすでに見え隠れしていることを確認した。

だが、『存在と時間』でのハイデガーには、日常的・平均的生活を生きる人間のありかたを起点に、存在了解へとつながる道筋を見いだしていこうとする発想があった。しかし、その後の後期思想では、日常性における人々のもののみかた・とらえかたは「人間にとって」(の対象性・有用性)という視点に常に既にとらわれており、そこをさぐっても「存在」へとのぞむ可能性は見いだせない。むしろ、日常性の皮膜の奥から存在そのものがのぞきみえる瞬間を(ピュアな詩的感性のようなものから?)感受することが必要だ……という一種神秘的な方向へとシフトしていく。
今回の講読は、そうした、いわゆるケーレ(思想的転回)以降の、後期思想の要諦を伝えるものとして『ニーチェの言葉「神は死せり」』『世界像の時代』の2編に取り組んだ。


『ニーチェの言葉「神は死せり」』からは、ハイデッガーが「ニヒリズムの克服」というニーチェ思想の動機を的確にとらえていることが伝わる。また、超越性を封印するなかで(「神を殺すこと」によって)、自らの手のもとに社会を構成し諸価値を形成してきた(近代的)人間が(考えようによっては)喪失してしまった「ほんとう」なるものへの直截な手ごたえをいかに回復するか、という方向性において、自分自身と同根の問題意識を感じ取ろうとしている印象を受けた。

ニーチェの「力」→「価値」の概念を、(人間の生にとっての)「欲望相関性」から読み解こうとする視点がきわめてすぐれている。(もともと、人間=現存在にとっての有意義性、目的性のもとに世界をみとろうとする視点は、ハイデガー自身も『存在と時間』で研鑽をつんだはずのものだが。)しかし、ここでのハイデガーは、「だから、ニーチェの『力』の思想には問題があるのだ」という方向性からそれをとらえてしまう。
「力」はあくまでも人間によって展開されているものであり、その発想は「自分にとって」「主体にとって」という狭隘な視座から世界を切り取ってきった西欧近代思想の系譜につらなる。むしろニーチェ思想によって「主体の形而上学」が完成されたといえるのではないか、というのが結論である。

「これって、『力』の解釈自体は竹田さんと共通しているけど、そこからの結論が真逆ですね」というのが今回レジュメを担当した石川氏の感想である。
ニーチェ自身は「力」をやや実体的に語ってしまう傾向がある。しかしそこから、「まずもっての正しさ(=真理)があるというのではなく、実存が生の力(喜び)を得ていく場面に定位して諸価値のありようを見直していこう」というように、最良のエッセンスを汲みつくしたのが竹田さん・西さんのニーチェ解釈だと思う。だが、ハイデガーの場合、(そこに漂う「超越性への期待」のほうには共感を示しながら?)「力」は最終的には「人間の側」に立ったものにしかすぎない、そこを起点にするのではなく「存在」そのものに視点を向けなければだめだ、という感じでそれをとらえてしまっている。

『世界像の時代』は、近代の諸学問(知のありかた)の根底には、「企画」「企業」という「人間にとっての利用可能性」から展開されるステージがあることを解き明かす。(その後のフーコーの、「エピステーメ」の考え方を連想させる。)それは究極的には、人間にとっての対象、人間的主観にとっての「像」として世界をとらえるという、近代人のありかたそのものに根を下ろしたものである。近代文明が産み落とした諸問題(科学技術による自然の濫用など……今でいえば環境破壊などがその最たるものになるのだろう)の原因はそこにある。「存在」に傾聴するような(今とは違った)ありかたが人間には求められているのではないか……という論調である。

科学技術の誤用や行き過ぎた管理社会が人間性を阻害していることを痛感させる場面はたしかにある。ハイデガーの近代批判の動機にはそうした問題意識があるのかもしれない。しかし、仮に「近代の視点はすべて利用可能性に絡め取られている」のだとして、自分自身はその視点の外側に立つことができるという確信をハイデガーはどこから得ているのだろう。おそらく、それは「存在」(という超越性)への「信」に支えられたものなのだろうが、それ自体彼の中に形成された一つ「像」にしかすぎないことを否定できる正当性はないはずだ。

たとえば、環境問題が広く共有された課題となっている今日、「自然を利用するのではなく、自然に生かされているという自覚をもつことが大切だ」というような言葉が様々な機会に語られる。「表象」としては美しいと思うし、自分自身も共感を覚える(たまに口にしていることすらある。)。しかし、それを「思想」として現実に生かそうとするのなら、その正当性をはかる根拠は「人間一般にとっての有用性」=「一般福祉」を念頭においた検討と検証以外には見いだせないのではないか。そんなことを(関連して)考えさせられた。


現象学研究会活動報告

ハイデガー『存在と時間』を読むA 死の現存在分析と良心論 (2007 7/21 )

報告者 犬端渉(HP管理人)


講読箇所とレジュメ担当
48節 未済、終り、および全体性
49節 死の実存論的分析を、この現象について可能な他の学的諸解釈に対して限定すること
50節 死の実存論的存在論的構造の下図
51節 死へとかかわる存在と現存在の日常性
 (以上 解説 竹田青嗣)
52節 終わりへとかかわる日常的な存在と、死の完全な実存論的概念
53節 死へとかかわる本来的な存在の実存論的企投 
 (以上 磯部和子)
54節 本来的な実存的可能性の証しの問題
  (以上 解説 竹田青嗣) 
55節 良心の実存論的・存在論的な諸基礎  
56節 良心の呼び声の性格
  (以上 小林孝史)
57節 気遣いの呼び声としての良心 
58節 呼びかけの了解と責め
  (以上 山竹伸二)
59節 良心の実存論的な学的解釈と通俗的な良心解釈  (桝岡大輔)
60節 良心において証しされた本来的存在の実存論的構造 (斎藤隆一)


報告

前回に引き続き、ハイデガー『存在と時間』講読した。
今回の講読箇所は、「死」と「良心」についての考察から、現存在が「全体存在」しうる可能性、即ち「本来的」な生をまっとうしうる可能性を導き出そうとする件である。


人はだれしも、自分が死すべき運命にあることを知っている。だが、死への不安に正対できず、「いつかは死ぬかもしれないが、いますぐ死ぬわけではない」と考え、それを忘却しようとする。世間の些事に関心を委ねたり、社会的な成功をめざして人と争い汲々としたりしている。つまり「世人」としての自己に埋没している。また、「死という経験」を、いわば「ひとごと」に置き換えて(「死」という一般的なできごととして・生物学など既存の学問のうえにたって)考察しようとする。しかし、そうしたアプローチでは「死」の「本質」に迫ることはできない。

死は本来、自分自身にとって取り換えのきかない、「もっとも固有な」体験であり、それを正視することが「ほんとうの自分」「ほんとうの生き方」をとらえていく契機になるはずだ。そもそも人間には、「ほんとう」に向き合える可能性が内在的に与えられている。「良心」という心の動きがそれである。「良心」は一般的に、債務や公共ルールからの逸脱など、社会的関係をまず前提としたうえで(そこからの離反として)説明がなされる。しかし、それはあくまでも二次的なものである。「死」を回避し、自分自身の「ほんとう」に直面しようとしていないおのれの姿を直観し、「責め」を感じ、本来的なありかたへ駆り立てようとすることこそが良心の本質としてある。

この良心の呼び声を聞き取り、自らの死を正視し、自分のほんとうへと向き合おうと「決意」すること。そこに人間が「全体存在」しうる可能性がひらける。公共的な、世人どうしの関係では常である、人と争ったり人を利用したりというのではなく、民族・共同体の宿命のもとにそれぞれのよき生をまっとうしようとする共存在へと開かれていく可能性が生まれる。また、こうした、「先駆的決意性」に目覚めた現存在は、まず自ら範を示すように、そうした生き方を積極的に求めていくようになる。

……おおむねこのような論が展開されている。


今回の講読箇所からは、ハイデガー実存思想の優れた一面と同時に、後期思想にも通底する存在論的思考のあやうさがうかがえるように感じた。

「死」にしろ、「良心」にしろ、それを考察するためには、まず自分自身の内側にたずねてみることが出発点となる。既存の学問的知識や「神」(という超越)を後ろ立てにしないで、そのことを自分がどううけとめているか、どう感じているかということを吟味していかない限り、その考察は内実をもたない。……そうした実存に定位する思考態度が、ここには一貫している。

だが、ハイデガーには、個々の実存は本来的には「根源的なもの」=「存在」に即して展開されているものであり、その内実を正しく受け止めることができれば(良心の呼び声を聞き取るこができれば)、人間一般の本来的なありかたを理解することができるはずだ、という発想が基本的なかまえとしてあるようにうかがえる。
ひとびとが平素営んでいる日常生活、公共的な社会生活は、この「存在」に対する本質的理解を欠いた、世人としての価値観によって展開されているものであり、そこに拘泥している限り「ほんとう」はつかめない。「死」という、どんな名声や成功もその前では色あせてしまう自らの決定的な宿命を自覚することを契機に、世人としての生活から身を引き離し、みずからのほんとうをみずからのうちにとらえていくことが、本来的な生き方をつかみとるためには不可欠である、というのがその主張の要諦としてある。

自分自身の「死」を見つめていくことが、自分自身のこの限定された生をいかに生きていくかという考察に向かっていく契機になる、という局面にかぎっていえば、確かにそのとおりだと思う。
だが、「死」を正視し、おのれの固有な生に目覚めた人間は、日常生活の些事に紛れて生きる「世人」としてのあり方とはまったく異なった位相のもとに、「本来的な」生を展開していけるはずだ、とするハイデガーの主張は、彼のいう「存在」(という真理)への「信」を欠いたところでは共有不可能な理念だと思う。

たしかに、社会生活、社会的関係のなかで人は往々にして意に沿わない行為を強いられる。「これはなにか間違っている」という不全感、「本来はそうすべきではなかったのではないか」という良心の呵責に苛まれることもままある。しかし、そうした生活の外側に「ほんとう」への「信」をもてない限り、生活の内側から「ほんとう」(と思える体験)の内実を紡ぎだしていく以外に方途はない。「自己価値を表現しあう公共的なゲームの中でそれぞれの生を構成していく」ことが多くの人たちが生きる現実である以上、そのゲームの中から、それぞれが生きることの意義や価値を見いだす可能性を探っていくことが、思想のたどるべき道筋なのではないかと考える。

だがハイデガーの「存在論的」思考は、(「存在」という「超越」に真理を置くことで)人間の日常的・公共的なありかたそのものを本来的ではないもの、とみなそうとする。なるほど、ここでの考察は日常的な人間=現存在のありかたそのものを起点に展開されてはいるものの、そこに見いだされるのは、「存在」「本来的なもの」に端を発しながらも、公共性のなかで変質し、「頽落」した実存の諸様相である。

(今回レジュメを担当した磯部和子さんは、『存在と時間』はいわば「青年の思想」ではないか、という意見を述べられていた。確かに、社会に背を向け、「究極のよき生き方」を求めようとする「過激なロマンティシズム」が言葉の端々から伺える。自分自身もはじめてこの本を読んだとき、内容はほとんどわからないながら、その切実な言葉の響きに魅了されたことを思い出した。)

また、死への自覚が、「先駆的決意性」なるものを生み、それが「民族の宿命」をともに生きる共存在へと開かれていく契機になる、という主張には論理的な飛躍を感じる。「死」の本質的考察が「限りある命のもとにそれぞれの生を展開するという基本条件においてはみな同じなのだ」という実存一般への理解、共感へとつながることは確かにあると思う。しかし、なぜ、その対象が民族、共同体という枠に限定されるのかということについて、納得のいく説明は一切なされていない。

(竹田さんは、ここにはハイデガーの生きた時代状況が反映されているのではないか、とおっしゃっていた。第二次世界大戦以降、先進国は、戦闘状態を避けるための調整の原理を国家間において築いてきた。しかし、当時のように、国家の闘争が不可避なものとしてあり、その命運をともにしなければならない、という状況のもと生きることの意味を追求しようとしたとき、思想がこういう道筋をたどってしまうことの「動機」は理解できなくもない。戦時下の小林秀雄にもそれは共通する。しかし、ハイデガーの〔真の生き方へと〕誘導するような語り口には違和感を抱くし、その点が小林秀雄との大きな違いであり、「問題点」ではないか……ということである。)

さらに、ハイデガーは、人が「ほんとう」に目覚める契機として「良心」(の呵責)にのみ照射しているが、これも「日常生活=非本来的なもの」というまずもっての前提から導き出されているように思えてならない。自分自身のありかた、自分自身の行為に「ほんとう」を実感するためには、罪責感という負の感情だけでは十分ではない。おのれの行為やありようが、(真・善・美といった局面で)価値や意義をもつものだという確信(肯定感)に伴われてこそ、ひとは自分自身の「ほんとう」を感じることができるのではないだろうか。……そんなことを考えさせられた。


次回のテーマも、引き続きハイデガー。(西研さんからの提案で)「世界像の時代」「ニーチェの言葉『神は死せり』」の講読を通して、いわゆる「後期思想」の要諦を押さえてみよう、ということになった。


現象学研究会活動報告

ハイデガー『存在と時間』を読む(2007 4/28 )

報告者 犬端渉(HP管理人)


講読箇所とレジュメ担当

14節 世界一般の世界性の理念 (苫野一徳)
15節 環境世界のなかで出会われる存在者の存在
16節 世界内部的存在者に即しておのれを告げるところの、環境世界の世界適合性
    (以上 山竹伸二)
17節 指示と記号 (解説 竹田青嗣)
18節 適所性と有意義性 世界の世界性(枡岡大輔)
28節 内存在の主題的な分析の課題 (解説 竹田青嗣)
 A 現の実存論的構成
29節 情状性としての現にそこに開示されている現存在
30節 情状性の一つの様態としての恐れ
    (以上 斎藤隆一)
31節 了解としての現にそこに開示されている現存在
32節  了解と解釈
    (以上 小林孝史)


報告

昨年は主に、日本の現代思想の現況に触れてきた現象学研究会だが、2007年に入って、フッサールの『イデーン』、ハイデガーの『存在と時間』と、現象学の枢要テキストに向き合っている。創設当初からのメンバーたちは、きっと幾度となく手にしてきたテキストなのだろうが、次第に若い血も加わりつつあり、現象学の発想の核心をいまいちどみんなで確かめ直していく機会になっている。

1月23日に開かれた、今年第1回目の研究会では、フッサール『イデーン』中の、「還元」「内在」「超越」など現象学の基本タームが提示されている箇所を詳細に読み込んだ。「還元」=「客観的対象の存在を前提とせず、『意識の中での確信』としてそれらが構成されているありようを見取るための『視線変更』」、「内在」=「(知覚体験など)不可擬性の確度を生じさせる(《ありありとした》意識体験)」、「超越」=「あるものごとが信憑(≒確信)として受けとられているありよう」……というように、その概念の内実について、それこそ各自の「内在」に定位しながら確認しあうことができた(ように思う)。

現象学的発想からすれば当然であるが、「『内在』『超越』とは何か」(事実として正確には何を示しているのか)と問うのではなく、(ものごとを確認していくにあたり、あるいはものごとの共通了解を形成していくに際して、自分自身の)意識体験の質の違いをそのように仕分けていく意義をとらえ、かつ生活場面のなかで実際にそれを活かせること(=たしかなこと・ふたしかなことを意識化できること)が、その概念の本質的理解につながるのではないかと思う。メンバーたちとの議論や竹田さんの助言を通して、そのことをあらたに確認することができた。

今回の『存在と時間』についても、ハイデガー実存論の核となる部分を竹田さんが講読箇所として指定してくださった。

自然科学をはじめ、諸学問によって培われてきた既存の知識に依拠せず、自己の内在に定位して考察を進めていくこと。「自分自身の経験」に常に寄り添いつつ、そこから「誰にとっても」共有可能な意味を紡ぎ出していくこと。……ハイデガーの思想の方法は、そうした、現象学の要諦としてある本質観取の発想を的確につかみとったうえで展開されていることが、今回の講読を通してよく理解できた。

同時に、ハイデガーとフッサールの「違い」がどこにあるのかということも、かなりはっきりしてきたように思う。

まずハイデガーは、フッサール哲学を、「世界をとらえていく起点を事物知覚に置く」ものであるとみなし、それを乗り越えようとしている。人間にとって「もの」は、一切の価値づけをもたない純粋な事物としてではなく、「現」=「今生きている自分自身」にとっての目的性、用途性に即した「道具存在」としてあらわれる。事物の客観性は、こうした目的性、用途性が共同化されていくなかで形成されたものであり、人間にとっての世界は、まず関心相関としてある、とする。

また、ハイデッガーは、フッサール哲学のなかに「主観主義」を感じ取り、それとは一線を画そうとしている(ことが伺える)。フッサールは「世界を能動的・理性的に構成する主観」に重きを置いている。だが、人間はより受動的に、「世界の中にすでに置かれてしまっている」ものではないか。理性的にものごとを判断するに先立ち、情状性=気分によって自分自身の置かれている状況を、漠然と告げられている。それを事後的に了解していく(開示された世界を了解していく)。 人間のありようというのはそうしたものではないか。
人間にとって、すべてのものごとは、(自分自身の)目的、関心に応じて(自分の中に)浮かび上がってくる。しかし、その背景には、そうした意義をもつことを可能にしている「目的の連関性」がある。また、人間は「了解」=「状況への理解」を言葉にすることで、より確かなものとしていく。「世界」は自分にとっての「意味」としてある。しかし、やはりその背景には、そのように世界を分節可能なものにしている意味の網目があり、その中に人間は置かれている。人間は、企投するものとして被投されている。……そんな感じだろうか。

「実存にとっての世界」を考察するうえで、ハイデガーの提示する「関心相関性」は重要な観点を提示していると思う。また、「一つのものごとを、その地平・背景のなかで焦点化している」「自分の中にすでに内在化している意味の網目に即して、ものごとを受け止める」というとらえかたも、実存の様相を的確に言い当てたものである、とは思う。

しかし、「哲学的思考」という観点から見ると、むしろフッサールのほうがより原理的ではないだろうか……というのが今回の講読を通じての報告者の感想である。

「人間にとって(自己にとって)世界はまずどのようなものとしてあるか」という点に関していえば、それは「客観的事物の集積」ではなく、「関心(欲望)相関的にあらわれるもの」ということになるだろう。人間にとっての「価値」の問題を考察するためには、そこが「底板」となるだろうし、その点に(結果として?)照射したことにおいてハイデガーの功績は大きい。

しかし、フッサールが「事物知覚」に重きを置いたのは、「客観的な事物(≒事実)認識の底板」となるものを意識体験から取り出そうとする目的に即してのことであり、決してそれを、(人間にとっての)「世界の原点」とみなそうとしていたわけではないのではないか……というのが自分自身の理解としてはある。

また、ハイデガーが(おそらく)問題視している、「意識=主観による世界の構成」についても、「正しい・より根源的な」世界了解の根拠を外側=超越に求めるのではなく、あくまでも「信憑構造」として、「確信成立の条件」として意識の内側に定位して問うていくという発想に基づいてのものである、と思う。

その点ハイデガーはどうかといえば、そもそもの動機として、「現存在」(人間のありよう)を可能にしている「存在」という、「根源にある何か」を追究する目的のもとに思想を展開している。「(何かを背景・地平としながら)今、何かをとらえている」ということであれば、だれしもが内在的な了解から取り出せるものであるが、ハイデガーの場合、内在を踏み越えて、「(何か根源的なものがあるから)今、何かをとらえている(ということが可能になっている)」というとらえかたをしているように見受けられる。

詳細には触れられてはいないが、人間にとっての世界の開示(要するに人間のありかた)を「本来性」「非・本来性」という言い方で呼び分けようとする記述が、今回の講読箇所(第31節)にも登場する。何が「本来」的であるかということの本質観取をふまえず、彼の想定する「存在」に即したありかたをもって本来性とみなそうとする……という感じである。竹田さんも、「そこが問題」と指摘していた。

『存在と時間』の講読は次回も、「死の現存在分析」を中心に継続することになった。今回の研究会でかなり輪郭のみえてきたハイデガー哲学の「可能性」と「問題」について、より明確にできる機会になるだろう。



現象学研究会活動報告(2006 5/13 )

報告者 犬端渉(HP管理人)

T テーマ
「日本の現代思想を読む」


U 課題図書と発表者

@『文明の内なる衝突』(大澤真幸 /NHKブックス) 山竹伸二

A『動物化するポストモダン』(東浩紀 /講談社現代新書) 石川伸輝

B『日常・共同体・アイロニー』(宮台真司 仲正昌樹 /双風舎) 杉田宏平

C『自由とは何か』(佐伯啓思 /講談社現代新書)   斎藤隆一

D『ためらいの倫理学』(内田樹 /角川文庫)  小林孝史


V 報告


今回は発表者それぞれが、現在、日本の思想界で活躍する論者を選び報告しあった。

それぞれ見解は異なるものの、各著作には、「普遍的な価値観(大きな物語)を共有し得ない時代状況をどう受け止めるか」「『主体に定位する』思考態度(政治的な立場としては『自由な個人による自己決定』に立脚するリベラリズム)は、この時代状況において可能かつ有効なものか」という問題意識が通底しているように感じられた。


『文明の内なる衝突』の大澤氏と『動物化するポストモダン』の東氏は、「時代はもはや近代の枠組みではとらえられない状況にある」「(構造主義、ポストモダン思想を経た今)主体に定位する思考に素朴な信をおく発想のもとでは、時代状況の本質はつかめないし、現実社会の諸問題に対処はできない」とする基本的な立脚点を共にしているように感じた。

『文明の内なる衝突』から報告者が辛うじて理解できたのは以下のようなことである。……「資本主義」「民主主義」という自らの社会システム・価値尺度を世界的に蔓延さえることで延命をはかろうとする「近代・西欧社会」の自覚なき共同体主義が「911」を引き起こしたのではないか。今求められるのは、「異文化」「他者」を独善的に取り込もうとする近代型の思考態度を脱却し、(「他者」の存在によって自らが生かされていることの自覚=「恥辱」にもとづく)「受動性」において「他者」へと開かれていこうとすること、「搾取の関係(資本主義の原理)」ではなく、「贈与」「許し」の関係を築いていくことではないか。

全体としては、資本主義社会が結果として招いている南北問題など現実的問題にどう処していくか、異文化との共存をどのような方向から見出していくかというような、まじめな問題意識があるようには感じられた。だが、結論として唯一示される「打開策」が、「他者」との邂逅のもとに「自己中心性」を脱却していこうとするような(個々人の?)倫理的姿勢のみということはどうなのだろう。「自己中心性を超え出て他者とのよりよい関係を構築する」ことは日常生活場面においてたしかに枢要なことだとは思う。しかし、そもそも、こうした「自然的倫理感」が共有不可能な「共同体」「国家」間の関係で、互いどうしの価値観をどう共存させられるかという問題に直面しつつ編まれてきたのが、近代社会における市民社会的ルールではなかったのだろうか。本書は、そうした「近代社会」、あるいは「資本主義」の本質をふまえたうえで、その先への展開を示したものであるとは思えなかった。


『動物化するポストモダン』は、筆者自身がその中に身をおいていることを自覚する「オタク文化」において、時代状況を克明に映し出す優れた作品が生み出されていることを伝える。

日本社会では、1970年代初頭、戦後の高度成長が終焉するなかで、それまで一定共有されていた「大きな物語」(共同体的な目的や価値)が失墜した。その後1980年代においては、ひとつの統一的な世界観を背景にした(つまり「失われた大きな物語」を幻想的に創出するような)名作がアニメなどで生み出されていった。しかし、(ポストモダン状況が浸透した)1990年代半ば以降、こうした、「大きな物語」を背景にしたうえで表現する、という構図自体が失われる。統一的な世界観を取り結ばない、順次生み出されていく作品によって順次蓄積され続ける「データーベース」的情報を巧みに組み合わせ表現しあうという創作世界がそこでは展開されている。そこには、ある統一的な世界観・自己像を自らのうちに構成し、刷新していくというような近代的主体(自我に固執し、他者との自我の相克に苦しむような近代的主体?)はもう存在していない。情報の組み合わせの妙味に感応するという、「動物的」な感性のもとで現代社会に適応しようとする新しい人間のありかたがある……こんな感じだろうか。

例示された作品の多くを自分自身は「知らない」ので、この著作の真価は「分からない」とは思う。それでも諸作品の背景にある同時代の実存状況を表現しようとする真摯な思いは伝わってきた。

だが、筆者のいう「動物化」という事態がはたして一般的な状況といえるのかどうかということには疑問が残る。

例えば、筆者がここで「データーベース」という呼び方をしている事態、つまりある作品どうしの間にモチーフの近似を感じ取ったり、一つの作品の何かから、別の作品の何かを想起させられたりするという読書経験、作品鑑賞体験は自分自身にもある。たしかにそのとき立ち働いている情動は、主体性の外部から作用してくる。

だが、いったん作品について語るという行為を試みるとなれば、(主観・意識の側から)その情動的体験になるべく的確かつ共有可能な言葉を与え、意味企投していくことをめざそうとする。そうした「実存を表現しあうゲーム」の快というものは、(背後に「大きな物語」を共有しているかどうかには関係なく)人間の生きる条件としてはかなり普遍的なものではないかと感じている。仮にそれが近代社会によって形成された特殊な自我の型であるとしても(であるとは思っていませんが)、そうした言語行為の外側で生きることは自分としては想定できない。

筆者は、主観による自己了解、間主観的了解の意義を認めないという前提があるせいか、「データーベース」という、主体性を越えたいわば無意識的な(情報集積の)層を特化してとらえている。もちろん筆者には、明確な形で意味づけをしようとするのではなく、(共有可能な情報群に基づきながら)感受・表現しあうというゲームが、自分自身が日常享受している表現世界のなかで展開されているという実感があるのだろう。

しかし、そうした実感を大局的な見地からとらえ、的確に表現し、その価値をより多くの人に共有可能なものにしようと試みるこの著作自体が、「実存を表現しあうゲーム」の外側には出られないことを示しているように思えてならない。


『日常・共同体・アイロニー』の宮台氏、仲正氏の場合、「『主体』は『共同体的価値』『社会的関係』と離れて自律的にあるものではない」ということを前提としながら、「主体」「自己決定」に定位することの不可避性・重要性を提唱している。両者とも、「自らのうちに構成されている共同体的価値や、自らがそこに位置づけられている社会的関係を自覚したうえで、必要に応じてそれを主体的に刷新していくというありかたが必要だ」(というか、近代社会を生きる人間にとってそれは不可避な生の条件だし、その基本的な構図はいまでも変わっていない)という認識が土台にあるように思われた。宮台氏の、「自分は(ほんとうにそう思っていることを語るのではなく)状況の中で最善の結果をもたらすことを予期しながら意図的にこういう発言をしている」という「アイロニカル」なスタイル、仲正氏の「自分は共同体的価値に安住することができないし、共同体の外部に真なる世界を見出すような『幻想』にイキイキとした昂揚感を見出しあおうとする『(倒錯した)共同体的関係』もきらいだ」という、「実存に定位した誠実な不機嫌さ」とでも呼ぶべき思想態度は、随所でややささくれだった言葉を展開させてはいるものの、言っていること自体はまともなように(自分としては)感じた。


『自由とは何か』は、「共同体」の積極的な意義を打ち出そうとする点において上記3冊とは立場を異にしている。

国家は個々人の自由を「抑圧」するものであるという一般表象があるが、近代市民国家の本質は、個々人の自由を保全するうえでの権力を市民の合意のうえで形成するということにある。いわば個々人の自由は国家権力と不離なものとしてある。しかし、近代市民社会における「自由」は「なにが善であるか」というような積極的な価値を打ち出そうとしない。個々人は、公的なルールに反しない限り、私利私欲を追求するだけでかまわない。そうした「自由」のありかたが、現代人に公共性、社会的責任、目的意識を失わせているのではないか。そもそも「市民社会」を形成するうえでも、「こうした社会のあり方がよい、望ましい」という「善」の内実があるはずだ。また、こうして社会(共同体)が成立し(そのなかで個々人の身が保全され)ているにあたっては、この社会(共同体)を守るために犠牲になった数多くの人がいる。社会(共同体)に生きる以上、そうした犠牲者に対する責務の念をもつことが求められる。さらに、われわれには、公共性のためにわが身をなげうつ姿勢に心打たれる「義」というような心情がある。こうした「義」にかなう行為を大切にし、公共に尽くす目的ある生のありかたを主体的に構築することが、今後求められるのではないか……そうした主張が展開されていく。

端的に言えば、「共同体的な価値」(大きな物語)が失墜しているという事実認識自体が非本来的である。共同体の中でこそ個々の生の「自由」は保全され、意義ある生を主体的に形作っていく可能性も見出される。そうした本来的なありかたを自覚すべきだ、という主張であると感じた。

だが、そうした「共同体の意義」を現実に実感できない人たちに、このような「正義」の言葉が果たして届くものだろうか。また、「閉じられた共同体」への責務において生きるという自覚が、価値観の異なるさまざまな共同体どうしの対立場面で果たして有効に機能するものなのだろうか。そもそも、佐伯氏がその限界を指摘している(ように思う)近代市民社会自体が、「共同体」間においては不可避な信念対立を乗り越える原理を模索しつつ構築されてきたのではないだろうか。そうした「ルール社会」と「心情的共同体」の関係をどうとらえようとしているのか。

佐伯氏の主張の本質をよくつかめていないせいかもしれないが、今回の研究会で本書に触れた限りでは、そうした疑問が残った。


『ためらいの倫理学』での内田氏は、「自分の正しさを雄弁に主張できる知性よりも、自分の愚かさを吟味できる知性のほうが私は好きだ。」という言葉で、本書に通底する自らの視点を端的に表現する。この言葉の通り自らの「可誤性」を常に念頭に置く一方で、自分自身の実存的感触に基づき「よし・あし」を吟味しよう姿勢が筆者からは一貫して伺える。

こうした視点のもとで、ポストモダン思想の展開する「他者論」の問題を的確にとらえていくところは、本書の白眉ではないかと思った。

現在、多くの現代思想が、レヴィナスの「他者論」を後ろ盾に、「弱者」としての「他者」に与することをもって(自らは例外者とし)、自らの属する社会の「不正」を厳しく糾弾するという同型の議論を繰り返している。内田氏はこうした、「他者」に罪責感をもって応答する感度の「ある」「なし」を指標に「正義」と「悪」を峻別し、(自らを「正義」の側に位置づけ)罪あるものを糾弾していくような「審問の語り口」には違和感をもつという。レヴィナスを「師」を仰ぐ内田氏は、そもそもレヴィナスの真意をきちんと汲み取れば、こうした「審問の語り口」はできなくなるはずだ、と指摘する。「他者」の「顔」を面前にし、取替えのきかない他者の実存に触れ、(世界を一方的に対象化しようとする主体としての自らのありかたに)躊躇し、毅然とした「正義」から逡巡する「愛」の語りへとシフトしていくこと。レヴィナスが表現するのはそうした事態ではないか。

自分自身も、多くの「ポストモダン的他者論」は、「他者」の「外部性」(主体に取り込むことのできない・理解しがたさ)のみを強調し、実際に「他者」と邂逅したときにどのようにコミュニケーションゲームを成立させていくのか、という現実的な問題を回避しているように感じる。そこでの「他者」は、主観的・共同体的価値を相対化していくために理論上要請された観念的なものにすぎず、「価値観のまったく異なった人との間にどのような関係を取り結んでいくか」という実存的な問題と一線を画したところで語られているように思えてならないことがある。

だが、『全体性と無限』を読むと、レヴィナス自身は、「世界を自らのもとに対象化し・取り込む」主観のありかたに批判的なまなざしを注ぐものの、同時にそうした「主体」として生きることの不可避性を鋭くとらえていることが伝わってくる。筆者も「師」であるレヴィナスのこの着想を受け継いでいる(ように思う)。「他者との邂逅を通して自らが安住する価値世界を越え出て行く」「相矛盾する視点を自らのうちに引き受け、ものごとをとらえようとする」ことを念頭に置きながらも、そうした「主体」の「外」(=超越的・特権的外部)に出ることはできないことに対する自己理解、「『主体』の場所に定位し『よりよい自分・よりよい関係』をめざしていくこと以外に生の目的は見出せるものではない」という透徹した近代的人間理解がうかがえるように思った。

表題となっている「ためらいの倫理学」は、カミユが描き出す「反抗的人間」から着想を得ている。「異邦人」の主人公に顕著なように、「反抗的人間」は自らの実存的感触にこだわるあまり、多くの際に「共同体的な価値」を受け入れがたいものとして見出す(例えば自分にとって取替えのきかない「母」の死を、通常のしきたりで弔うことに対する拒否感)。しかし、そうした「実存」どうしの公正な関係という「正義」にはこだわり、その正義のためには「死」をもいとわない。だが、いざ「正義」の名のもとに他者の命を奪おうとする局面に立ち、その際相手の「顔」をまのあたりにすると(相手の「実存」に再び触れると)逡巡してしまう(「異邦人」で殺人が行われたのは、太陽の光で「顔」が視界から遮られたからだ、とする)。そうした「ねじれ」を生きる(生きざるをえない)実存の様相を「文学」はつぶさに描き出す。そして、この文学的感性こそが「倫理」をつくりだす礎石になるのではないだろうか、ということを筆者は語る。

研究会に先立ち本書を一読した際、筆者のこうした言葉に感銘を受ける一方で、「ねじれを自らのうちに抱え込む」生き方を自覚できること自体、そこにはすでに高い倫理性が前提とされているのではないか、そこ(文学的感性)を起点に倫理を導き出すということが可能なのだろうか、という疑問を抱いた。研究会の報告の際にもそうした感想を述べさせていただいた。それに対して、中森さんから「文学的であるということは『問題』なのだろうか。自分の場合、文学性をそこに感じられない限り、対象への関心が湧いてこないのだが」というご指摘をいただいた。竹田さんからは、「ためらいの倫理学」という言葉そのものが「倫理」の本質を的確に表現しているのではないか、というご示唆をいただいた。

「ほんらいはこうすべきだ」という「一般的価値観」(「一般倫理表象」と言ってもいいのかもしれない)を意識しながらも、現実の場面においては「そうはできない」「この局面でそうしてよいのか確信がもてない」ことに立ち会わされる。そうしたときにこそ「倫理」の問題は人間にとってほんとうに切実なものとして浮かび上がってくる。そして「文学」は、(意識しようと意識しまいと)そうした「倫理」の問題に向き合い、言葉を与えようとしてきたのではないか。ここで筆者が語ろうとしているのはそういうことではないのか。お二人のご指摘から、こうした、本書の価値をより深く理解する視点を与えていただいたように思う。





現象学研究会活動報告(2006 2/18)
 

   報告者 犬端渉(HP管理人)

T テーマ
「ウィトゲンシュタインとウィトゲンシュタイン論を考える」


U 報告者と課題図書

@石川伸輝『哲学探究』
A神山睦美『哲学探究』と『探究T』(柄谷行人/講談社)
B山竹伸二『言語ゲームと社会理論』(橋爪大三郎/勁草書房)
C小林孝史 『ウィトゲンシュタイン』(飯田隆/講談社)
D斎藤隆一 『ウィトゲンシュタイン入門』(永井均/ちくま新書)
 


V 報告

今回のテーマはウィトゲンシュタイン。まず『哲学探究』を端緒にその思想の概要を確認し、続いて各自課題図書に基づいてウィトゲンシュタインがどのような方向で論じられているかを報告し合った。

『論理哲学論考』から『哲学探究』に至るまでのウィトゲンシュタインの思想の要諦は、客観主義的・科学的思考の限界と問題点を、「形式論理学」の方法を突き詰めていくなかで浮き彫りにさせていったことにあるのではないか……と(今回の研究会を通して)自分なりに理解した。

『論考』においてウィトゲンシュタインは、言語にしても、あるいは言語が言い当てようとする世界という対象にしても、科学的思考のもと分析的にとらえていくことが可能な規則性・法則性を背後にもっていることを想定した。そして、その両者が(「写像」関係において)ぴったり一致することをもって、ものごとの認識の正当性をみとっていくことを試みた。結果、そうした論理学的思考のもとでは、その真偽なりを語ることができる対象には限界があることを示すことになった。

しかし、『探究』では、こうした客観主義的な前提自体が棄却される。まず言語行為が実践されている現場そのものがある。たしかに、そこから一定の規則性を見出していくこともできる。しかし、その規則は、あくまでも事後的に考え出されたもの、想定されたものに過ぎない。こうした規則性を先験的に与えられているものであるかのようにみなして、実際の言語活動をそこから説明しつくそうと試みると、必ず論理的な矛盾が生じてしまう。日常的言語の「用法」に着眼し、人々が営んでいる「言語ゲーム」そのものに定位して考えることのみが可能かつ有効である。……そうした方向へと発想を転移していく。

つまり、ウィトゲンシュタインは『論考』から『探究』へと進んでいく道筋の中で、客観主義的・実在論的な世界像を前提とする科学的=事実学的思考の問題点を察知するに至ったといえる。だが、『探究』でのウィトゲンシュタインは、「本質学」的=現象学的な発想とは一線を画したところで思考を展開している(ように思う)。

今回『探究』について詳細なレジュメをまとめてくれた石川さんは、「言語名称観に代表される『対象』と『言語』の一致という問題の立て方、いわば『主観・客観図式』を前提とする思考そのものへの意義申し立ては鮮烈に伝わってくるのだが、ではそれを『壊した』後、どこへと向かっていくかということがみえてこない」という感想を述べていた。神山さんも、「むしろ『論考』のほうに筆者の『ひらめき』を感じる。『探究』は論理学的な専門的思考を展開している感じでモチーフをとらえにくい」とおっしゃっていた。

自分自身が違和感をもつのは、『探究』での「私的言語」に対する考え方である。
ウィトゲンシュタインは、『論考』において「世界」「言語」というそれぞれの「実在」の一致をみとっていく場として「哲学的主体」を想定していた。それ自体確固とした論理性をもった「哲学的主体」の(内省による)自律的な展開によって、この一致は確証しうるものだと考えた。だが、『探究』でのウィトゲンシュタインは、「世界」「言語」の「実在性」とともに、この「哲学的主体」という前提を「独我論的」なものであるとみなして棄却する。それはそれでよいと思う。たしかに、先験的な「哲学的主体」を「実体」として位置づけてしまう発想には問題があると思うからだ。

しかし、『探究』での、言語活動の現場に先行する一切の超越的な前提を認めまいとする徹底した姿勢は、「先験的・超越的な哲学的主体」と同時に、それを欠いては日常的な言語実践そのものが成り立たない「考え・内省している(わたし)」という「実存としての主体」も一緒くたに洗い流しているような気がしてしまう。

『探究』では、「私的言語」の意義……というか存在そのものが認められない。だが、それはあまりにわたしたちの平素の言語体験と乖離した考え方であると思う。「『このわたし自身の思い』というものは、それ自体が関係的な契機である言語によってしか表現できない。わたしたちは『言語』を通して互いのことを表現し、理解し合うしかない」ということであればなるほどその通りだとは思う。だが、それと同時に、(少なくともこの「わたし」には)表現することに先行して内在している(それゆえ、ときに言葉によっては十分に言いつくせていないという感触を突きつけられることもある)自分自身の思いのようなものが常に実感されている。また、他方、他者によって表現された言葉に対しては、その表現の向こう側にある相手の思いを想定しながら、それをなんとか理解しようと試みている。そういうものではないか。

竹田さんは、『言語的思考へ』で、言語は「信憑構造」であるということを打ち出している。わたしたちは、互いどうしに共有可能な言語表現≒一般言語表象を通して、その背後にある「意」を「理解」しあっている。もちろん、この「理解」は原理的にはそれぞれのうちでの「確信」≒「信憑」であるとしかいえない。しかしこうした「確信」をめがけて「意味企投」「了解企投」を試みる営みを欠いて言語行為は成り立たない。
(今回の研究会でも、竹田さんからこの「言語」=「信憑構造」の考え方をあらためて解説していただいたが、それはまさしく実存にとっての言語体験を正確に言い当てたもの、言語の本質を的確にとらえたものであると感じた。また、「私的言語」には対人的な言語とはまた違った本質があり、むしろそれを見取っていくことが大切だ……という趣旨のことをおっしゃったのだが、この一言で「合点がいった」ように思う。)

あらゆる超越項を廃棄し、日常言語の用法、「言語ゲーム」の現場に定位して考察を企てていこうとする『探究』の着想は優れたものであると思う。しかし言語=信憑構造という発想はそこからは伝わってこない。「言語の用法」=「一般言語表象」のみに着眼し、その背後にある「意」の「内在的な理解」という側面には目が向けられていない。『探究』を読みながら、「隔靴掻痒」という感じがしてしまうのは(もちろん自分自身の理解力のなさが要因だろうが)そんなところに起因するのかもしれない。

だが、逆に言うと、もし『探究』の着想を現象学に接続することができれば、それは大きな可能性をもつものだと思う。「本質」は決して「先験的」なものとしてあるのではなく、(超越的な主体に超越的に与えられているというものではなく)、それぞれの実存の内在的了解→相互理解というルートを踏まえた「確信」「信憑」として成立しているものだ。だが、先験的なものではないとしても、そのように成立している限り、それはかならず何がしかの意義をもつ。大切なのは、再び「実存」≒「内在」ルートに差し戻すことで、その意義・根拠をつかみ直していくことではないか。「ルール」「規則性」にしても同じことだ。たしかにそれは「日常的な言語行為」「言語ゲーム」に先行してあるものではない。しかし、事後的なものであるにせよ、そこに一定のルール・規則性が「見出せる」限り、そこにはなんらかの必然性があるはずだ。大切なのは、必要に応じてその意義を自覚化したり、あるいはそれを改編したりできるようにすることではないかと思う。(竹田さん自身が展開している「ルール社会論」は、そのように、後期ウィトゲンシュタイン思想の最良のエッセンスをくみ上げ、現象学的に「再生」したものであることを新たに認識させられた。)

個々の課題図書についてだが、まず、神山さんが『哲学探究』に関連して触れた『探究T』(柄谷行人)は、「現実に営まれている『言語ゲーム』に定位して考える」「『言語ゲーム』に先行する「ルール」を前提にしない」という後期ウィトゲンシュタインの発想を的確にとらえていると思った。だが、主眼は独我論=主観主義批判にあり、「他者」の背後に「このわたし」と共有可能な価値・ルールを見出そうとする発想を批判することに力点が置かれている。「世界は対象化できるが他者は対象化できるものではない」という直観そのものは至極正当なものだと思う。だが、実際に「他者」に対峙するとき、「価値を共有しえないことの自覚」よりも、互いの間に(コミュニケーションの)「ゲーム」を開始できるための条件を考えることのほうがよほど切実に求められるのではないだろうか(そのためにはやはり「言語=信憑構造」の発想は欠かせないと思う)。

『言語ゲームと社会理論』(橋爪大三郎)は、ウィトゲンシュタインの前期思想、後期思想それぞれの要諦が鮮やかに整理されている。後段の「言語ゲーム」の社会論的展開についても、(山竹さんがきちんと報告してくれたのに十分理解できていなくて申し訳ないが)基本的には「人間社会」を(相互承認による・改編可能な)「集合的な約定関係」のもとにとらえようとする竹田さんの「ルール社会論」に通底するものではないか?と思った。また、山竹さんは、「言語ゲーム」の発想を端的に伝えるものとして、(仏教は修行者どうしの悟りを訊ねあう言語ゲームのもとに成立しているとする)「仏教の言語戦略」の箇所に照射して報告してくださった。竹田さんも「ここは信憑構造が言語ゲームを支えていることを的確に言い表している」と評価されていた。

『ウィトゲンシュタイン』(飯田隆)は、史実や一つ一つの文献の紹介が丁寧にされている。また、『論考』から『探究』への道のりにおいて、ウィトゲンシュタインが客観主義的・実在論的(=科学的)発想の問題点を明確に意識するようになっていく過程が明快に描かれている。しかし、主観・内在に定位する哲学を批判的にとらえようとする「前提」が基本にあるためか、(これだけ)反実在論的視点が(きちんと取り出されているのに、不思議なことにそれが)実存論、本質学的考察へとは結びついていかないことを残念に思った(それはウィトゲンシュタイン自身の問題なのかもしれないが)。

『ウィトゲンシュタイン入門』(永井均)も、基本的な文献の紹介のしかたが的確で、入門書として評価できる……と報告者の斎藤さんはおっしゃっていた。今回の報告は、「このわたしの唯一性をどのようにつかみとることができるか」という筆者独特のモチーフが展開されているところを重点的に取り上げてくれた。たしかに『論考』で「哲学的主体」の超越性に照射しているところなどは筆者のモチーフと符合しているようにも思えるが、『論考』での「独我論」を自ら批判し臨んでいる『探究』にもそれを読み込もうとするのは少し無理があるような気がした。





現象学研究会活動報告
(2005 10/30)
 

   報告者 犬端渉(HP管理人)

T テーマ
「さまざまなレヴィナス論読む」


U 報告者と課題図書
@山竹伸二  熊野純彦『レヴィナス入門』(ちくま新書)
A小林孝史  内田樹『レヴィナスと愛の現象学』(海鳥社)
B江本由美  竹田青嗣『ハイデガー入門』より(講談社)
C斎藤隆一  デリダ「暴力と形而上学」(『エクリチュールと差異』法政大学出版局 所収)


V 報告

前回のフッサール現象学、前々回のヘーゲルに引き続き、今回はレヴィナスをテーマにそれぞれ課題図書を選び報告しあった。


『ハイデガー入門』第5章「問題としてのハイデガー」では、レヴィナス思想の「可能性」と「問題点」が鮮やかに描き出されている。今回の研究会での江本さんの報告と竹田さんご自身のお話を通して、そのことが再認識できたように思う。

近代社会は、個々の人間に対して、自らの洞察と納得のもとに世界を意味づけ、それぞれの生を構成する自由を与えた。だが、それと同時に人々に、自己中心性を乗り越え(あるいは自己中心性を前提としながら?)他者や社会的関係へと開かれていく原理を、やはり自らのうちから掴み取っていくという思想的課題を架すことにもなった。レヴィナスはこの課題に実存の場所から正対した思想家といえる。

レヴィナス思想には、「世界は矛盾に満ちているが、人間存在はつねにこれに抗ってきた。そうであるなら人間の生活のうちに、何らかのかたちで『自己中心性』を乗り越えうる原理があるはずであり、またそうである以上、この原理を取り出すことができるはずである。」(『ハイデガー入門』P267)という実存的感度に満ちた発想が根底に感じられる。そして、「享受」というエロス的な関係(生の愛)へと照射するなかで、自己中心性から脱却して他者へと開かれていく原理をみとっていこうとする。また、その主著である『全体性と無限』においては主観性を擁護する姿勢が貫かれている。自らのうちに世界を取り込み同化していこうとする主体・主観のありようには厳しいまなざしを注ぐものの、そうした主体・主観として実存することの不可避性が正視されている。その直観もきわめてすぐれたものであると思うし、それが反近代・反主観哲学を標榜する他の現代思想家と一線を画しているところではないかと感じる。

しかしレヴィナスの思想全般を見渡してみると、「他者」を「主体」の外部に、いわば「超越項」として祖定し、そこから主観・主体のありかたを批正していくという型をとってしまっているように思う。自らの尺度ではかることのできない他者、自分自身の価値観のもとに同化できない他者との邂逅を通して、「非本来的」である自己中心的な主体としてのありようを脱却し、倫理性に開かれていくというような感じである。

たしかに、現実における人と人との関係には常に「格差」が存在する。そしてそのような「格差」にまつわる経験が(例えば親から多くの恩恵を受けていながらそれに報いることがなにひとつできていないという呵責などが)個々人のうちに倫理感を形成するうえでの地盤になることもある。しかし、それは相手が「自らの度量衡を共有しえないような他者」であるからというよりは、立場や状況は違えど自分と同じように一つの世界を形成し生きている同等な人間なのだということが感受されているからではないか。さらに、そうした現実における人との関係がどのように自分自身に感受され、どのような価値観を自らのうちに形成しているのかということを自己了解し、しかもそれが主観一般のありかたとして普遍性をもつものだという確信がもててこそはじめて、それは思想としてのかたちを成していくものではないか。

だがレヴィナスの場合、「世界に住まう」主体であることの必然性・不可避性に対しては鋭利な直観をもつものの、フッサール現象学への批判に顕著なように、世界を対象化し認識するという主観一般のありようを「観想的主観」ととらえ、それこそが自己中心性の根源にあるとする。そこから、「他者」を自分と同等の「他我」としてみなすことが批判の対象にされる。さらには他の多くの現代思想と同様、「内在に定位しつつ主観一般をめざし、普遍性をつかみとっていく」という主観哲学の方法も禁じ手にされてしまっている(ように思う)。

『全体性と無限』で描き出される、「世界から糧をあたえられつつ生を享受する」「他者の現前に震撼して自己中心性を超え出ていく」というあり方は、たしかにイメージとして美しい。しかし思想としての現実的な方向性を自分の中には取り結んでいかない。そんな印象をもってしまうのは、こうしたことに起因するのかもしれない。江本さんの報告、竹田さんはじめメンバーのみんなとの意見交流を通して、そんなことを考えさせられた。

山竹さんの報告した『レヴィナス入門』は、レヴィナスの全体像を理解していくうえでは非常によくまとまった一冊であるように思った。

斉藤さんからは、デリダからの『全体性との無限』への批判である、「暴力と形而上学―エマニュエル・レヴィナスの思考に関する試論」を精緻に解読していただいた。端的にいえば、レヴィナスの(他者の主体への)「現前」という発想のしかたそのものが西欧哲学の矩形にもとづいてしまっているのではないか、ということを批判しているようである。この批判はレヴィナスにはそうとうこたえたらしく、これを機により反ロゴス的な(?)思考を展開していくようになる(より難解でとらえどころのないものになってしまう。)論理上の矛盾をひたすら追及するようなデリダの批判が、実存哲学の感度をもつレヴィナスにそこまでヒットしてしまったということは不思議(かつ残念な)気がした。ただ「それだけ当時西欧近代哲学を乗り越えようとする潮流は強烈なものとしてあり、そのモチーフ自体はやはりレヴィナス自身にも共有されていたのではないか」と斎藤さんは捉えていた。

『レヴィナスと愛の現象学』では、「『師』との関係」に「他者経験」の縮図をみとろうとする観点が面白いと思った。自己のうちに凝着した価値観を基点に「世界」「他者」をとらえようとするありかたは貧しい。そうした姿勢からは、自分自身の似姿としてしか世界は見出されない。「師」≒「他者」との触れ合いをまずもっての基点としたい。自己理解を越えた「何か」に揺さぶられる体験を通して自己刷新、自己形成をしていくこと。それは動的な喜びに満ちたものであり、「倫理」の基盤にもなるものだ。筆者はレヴィナスのテクストを読む体験からそれを実感するととともに、そのこと自体をレヴィナス思想の核としてとらえているように思える。

自己の限界に対して自覚的であり、他者の視点を常に繰り込みながら自らの価値観を刷新できること。「よりよく」をめざす探求の中で「他者」(師)との昂揚感に溢れた関係に開かれていくこと。そうした筆者が念頭にしている(ように思われる)人間存在のありようは、「(望ましき)実存モデル」の素描としてみたとき、自分としても好ましいものとして思える。

しかし、哲学・思想という観点からみると、やはり違和感を抱く部分が多かった。

筆者がとらえるレヴィナスにおいては「師」の向こう側に「絶対的な知」のようなものが想定されている。「究極の絶対知」≒神への「信」をまず受け入れ、到達不可能なことを自覚しながら真摯にそこへと向かっていこうとする姿勢をもって「よし」とする。そして師は、こうした「絶対知」への迫り方へのモデルを指し示してくれるものとして「師」としての価値をもつ。そうした感じである。

筆者のいわんとするところは、「よきものを共通にめざしあう」という前提をともにしえない独善的な構えをもった個々人の間では、まともな議論も倫理的な関係も成り立たないのではないか、ということなのかもしれない。しかし、だからといって「絶対知」にまず信を置くという実存モデルが、現実社会において無理なく成立するとは思えない。成立したとしても、信念対立にともなう抗争を導いてしまうリスクのほうが大きいのではないか。むしろ、超越的な前提を極力排し、「それぞれが世界を構成しつつ生きることにおいては同等の主観である」という近代的人間理解を深化していくことこそが、「他者」性への感度をもちつつ「よりよく」をめざしあう生のゲームを展開していくうえでは不可欠のように思えてならない。そんなことを考えた。


現象学研究会活動報告(2005 8/7)
 

   報告者 犬端渉(HP管理人)

T テーマ
「さまざまなフッサール・現象学論を読む」


U 報告者と課題図書
@斎藤隆一  野家啓一『現代思想の源流 フッサール編』(講談社)
A小林孝史  内田樹『他者と死者』(海鳥社)
B山竹伸二  リクール『フロイトを読む』(新曜社)
C石川伸輝  新田義弘『現象学とは何か 』(講談社学術文庫)
D渡辺秀人  斉藤慶典『フッサール 起源への哲学』(講談社メチエ)
E神山睦美  「現象学に関するメモ」(オリジナル)


V 報告

今回の研究会は、現在、フッサール現象学がどのような形で受け止められているのかを、それぞれが選んできた「課題図書」を通して報告しあい、議論しあった。

個々の発表者の報告をここで再構成できるだけの力量を残念ながら自分はもちえていない。ただ、今回の研究会を通して、現在の現象学理解の一つの傾向性が自分なりに見えてきたように思った。
フッサール現象学の中心概念である「超越論的主観性」のとらえかたにそれは顕著にあらわれている。自分自身は、現象学研究会でのこれまでの議論から(そしてもちろん竹田さん西さんのこれまでのご著作から)この「超越論主観性」を、「世界(ないしは世界の生成なりという事態)が客観的に実在するという前提を棄却し、それが意識の中で構成されているありかたを(主観の同型性を前提とする開かれた言語ゲームの中で)みとっていこう、「確信」として成立するための条件を問いつめていこう、というように『視線変更』した主観・意識のありかた」として理解している。そしてそれは、個々人に自らの生を組み立てていく自由を解放した(近代)社会が、同時に招き入れることになった世界像の対立、信念対立(哲学の世界ではそれは主観・客観問題の形をとることになるのだが)をいかに乗り越え、共通了解を導き出していくかという切実な動機に裏付けられているものである。

ところが、今回報告された各フッサール(現象学)論は、ほぼ共通して「世界の始原・根源(ないしは『存在そのもの』)を開示する(あるいは構成する)場」として「超越論的主観性」をとらえている。そのうえで、(このわたしという)「主観」(意識)という場にそうした絶対の地位を与えてしまうことの問題点、「二元論」を克服しようとしながら結果的に主観哲学(近代哲学)という枠を超えられたなかったフッサールの限界を指摘したり、あるい「超越論的主観性」は究極的には「世界」(の生成の現場)そのものを実はいいあらわそうとしたものなのだとみなして評価しようとしたりしている。つまり、いずれもが、「始原・根源的な世界生成の現場にどう立ち会うか」「事実的な根拠関係において先行するものはなにか」という枠組みのなかで思考を企てている。「問題を問うている(ものごとをとらえている)のは常に個々の実存であり、そこからはなれて『事実的な根拠関係の先行性』を決定づけられる特権的な場所はない。個々の内在に定位してものごとのなりたちをたしかめ語り合い、普遍性=本質をつかみとっていくという方向においてのみ哲学的思考は内実をもつ。」(だから、「真理をとらえる」のではなく「(真理として感得されるような事態の)確信成立の条件」を問うというように『視線変更』していく。)という現象学の発想のそもそもの「核」をつかみそこなっているのではないか、と思えてならなかった。(そうした現象学の発想は、近代主観哲学の最良のエッセンスを汲み尽くしたものであると同時に、相対主義に陥ってしまった現代思想がおそらくその発端には切実に抱えていた問題意識=近代社会がもたらした現実的緒問題をどのように克服していくのかということ=を深く受け止め、今後への可能性を導き出したものであると感じている。)

個々の著作は、(自分自身はそれをきちんと評価できるだけの見識をもたないが)おそらく真摯な学問的探究に裏付けられたものだろう。また、課題図書の一つに取り上げられた『他者と死者』(内田樹)は、筆者の豊かな実存的感性をうかがわせる内容と表現をもつものだった。しかし、その背景となる「現象学理解」は、一様に上記のような「型」をなぞるものになっている。今回の研究会では、竹田さん西さんが日ごろから口にしている(このホームページの開設記念対談でも語られていたが)「現象学理解の残念な現実」を実感させられたように思う。


現象学研究会活動報告(2005 6/4)
 

   報告者 犬端渉(HP管理人)

T テーマ
「さまざまなヘーゲル論を読む」

ここしばらく現象学研究会は、「大論理学」「エンチクロペディー」などの講読を通して、ヘーゲル理解を深化していくという方向で進んでいた。今回はその「締め」ということで、昨今のヘーゲル論から興味をもったものをフリーエントリーで発表し合った。


U 報告者と題材

@石川伸輝  『ヘーゲルとドイツ・ロマン主義』(伊坂青司著/お茶の水書店)     

A斎藤隆一 『ヘーゲル 生きてゆく力としての弁証法』(栗原隆著/NHK出版)  

B小林孝史 『ヘーゲル 〈他なるもの〉をめぐる思考』(熊野純彦著/筑摩書房)   

C神山睦美 『若きヘーゲル』(ルカーチ著 生松敬三・元浜清海・木田元訳/白水社) 


V 各報告について

@『ヘーゲルとドイツ・ロマン主義』(報告者 石川伸輝)

本書は、ヘーゲルがドイツ・ロマン主義に多大な影響を受けながらも、それを批判的に乗り越えながら自らの哲学を構築していったことに照射する。

ドイツ・ロマン主義は「啓蒙主義批判」をその端緒とする。自由の理念を掲げ、人間の解放をめざしたフランス革命が結果として恐怖政治を招き入れてしまったという事実が、啓蒙主義がよりどころとしていた理性に対する信頼を揺らがせていく。そうしたなか、ドイツ・ロマン主義は、(カントによって)「人間にとっての・人間のための神」という位置に引き下ろされてしまった感のある「神」の観念を甦らせ、「自然」を生命ある有機体としてとらえなおし、個々人の主観による吟味や納得を超越する「真の世界像」を提供するものとして展開されていくことになった。

ヘーゲルにおいても、「自我中心性の脱却」「精神と自然との統一」「自然の自己産出」など、ドイツ・ロマン主義の基調となるモチーフは受け継がれている。しかし、ロマン主義が絶対的なものの直接的な開示を説くのに対して、ヘーゲルは現実的な人間の行為・関係に立脚したうえでその思想を展開していく。

『精神現象学』においても、ロマン主義の批判的克服という側面が色濃く出ている。シェリングの「同一哲学」における「絶対者」が「主観と客観の無差別な同一性」を打ち出すのに対して、ヘーゲルは「『絶対者』という全体が個別の要求という特殊な形態をもって実現化される、その媒介過程」に注目する。すなわち、「個々の人間の現実的なありかた」という契機を重視していく。「国家」に対する考察に関しても、ロマン主義が近代以前の共同体的集団(個と全体の直接的な一致)に対する思慕の念からそれをとらえようとするのに対して、ヘーゲルは(個々人の欲望の体系である)市民社会を媒介とし、個人の自立性を生かす共同性に地盤を置こうとしていることにも、そのことが顕著にうかがえる。

個々の自由に立脚して展開される近代社会は、ときに激しい信念対立の場面を生んだり、現実世界を一気に飛び越えてしまおうとする過激なロマン主義を呼び寄せたりすることもある。しかし、ひとたび自らの洞察と納得のもとに世界をとらえ、自らのありようを選択していくという生のステージに立った以上、そこから後戻りすることはできない。そんな近代的人間の生の条件を正視し、現実に届く思想を展開していったことがヘーゲル哲学の要諦としてあると思う。そのモチーフは、構造主義・ポストモダン思想の潮流の中で「考えるための足場」を洗い流されてしまった観のある思想・哲学をどのように再生していくかという今日的な課題にも通底していくように感じている。石川さんの報告から、本書はそうしたヘーゲルの思想的課題を的確にとらえているように感じた。

A『ヘーゲル 生きてゆく力としての弁証法』(報告者 斎藤隆一)

ヘーゲル哲学のエッセンスを「弁証法」の一点において語りだそうとする書である。「直接的な知」を「媒介された知」としてとらえ直していくことから(それぞれ無前提に正しいと思い込んでいることをあえて疑ってみることから)二律背反的な対立の場を乗り越え、新たな視座を獲得し(ながら絶対知へと向かっ)ていくという根底的原理=弁証法が世界≒精神の展開、人間存在のありかたそのものを支えている。それをよく理解していくことが生きるための知恵となり力なる……ということが述べられている。
価値観の対立や価値相対主義を乗り越え、よりよく生きていくことへの素直で前向きなメッセージがこめられているのだとは思う。それなのに、(たいへん失礼な言い方だが)なぜかあまり「染みてこない」。報告者の斎藤さんからも、弁証法という形式概念に現実の諸場面を「あてはめようとしてしまう」ところに問題があるのではないか、という指摘が出された。たしかに、「(より高いステージをめざしながら)いま自分が前提としている知を疑ってみる」という構図だけを前面に出すだけで、それではどのような形であらたな確信が得られていくのか、そのための要件をどのようにみとっていくのか、という思考の原理をより具体的に打ち出していかない限り、現実に届く思想とはならないように感じてしまった。

竹田さんから、「弁証法」を(空転させないためには、それを)実存論的に理解しなおしていくことが必要になるのではないか、という意見が出されたことが印象に残った。「弁証法」は確かに、「自らのなかに沈殿化した(身体化した)価値観のもとに世界を構成していくのだが、現実的な問題からその必要が生じたとき、その自分の身体性そのものに視点を向け直し、それを編み変えようとしていく」という実存の様相を言い当ててはいる。しかし、まずは実存のほうを足場に思考するようにしないと、「(弁証法を用いて)何とでもいえてしまう」ことになる。つまり、現実的な問題に弁証法をあてはめ理解することだけに終始してしまい、本質的な考察には結びついていかない。そういうご指摘だと理解した。

B『ヘーゲル 〈他なるもの〉をめぐる思考』(報告者 小林孝史)

近代哲学の完成者とみなされるヘーゲル自身の中に、実は近代の枠組をこえる発想が懐胎されていたことを掘り起こし、現代思想の文脈からヘーゲルを再評価していこうとする論である。
近代哲学は、個々の人間の主観を世界を構成する拠点とみなしてきた。しかし、主観は「他者」との関係性抜きには成り立ちようのないものである。また、主観に定位する近代哲学は世界・対象の意識への「(ありありとした)現前」をものごとの真偽などを判断するうえでの起点とするが、まず先にあるのは(主・客の分化に先立つ)根源的な差異化(「外部」としての生成する力)であり、「主観への現前」という事態は、それこそ(主観の側から)事後的に見とられているにすぎないものではないか。そうした「他者」「外部」によってこそ可能になる主観に絶対的な地位を与えてしまうことが、自らのうちの特殊な価値にしか過ぎないものを普遍的であると錯誤し、それに収斂しない他者・異文化を排斥するという問題を生んでいるのではないか。……そうしたポストモダン思想による近代批判の「型」を本論は踏襲しているように感じた。そして、ヘーゲル弁証法を支える「同一性と非同一性の同一性」という発想に着目することから、根源的な差異化という事態に対するヘーゲルの感度を読み取り、ヘーゲル思想に内包された(とされる)「他者性」「外部性」への問題意識に照射しようとしていく。

ポストモダン思想が生まれてきた背景には、(近代社会の)激しいイデオロギー対立と抗争、それがもたらした災禍を問題視しようとする動機があるのだろうし、本書からもそうした真摯な姿勢は伝わってくる。加えて、筆者には理性的な思考からは把握しきれないものごとに対する実存的な感度が感じられる。ただ、一連の考察の帰結としてもたらされるのは、「人は主体的にはコントロール不可能な『力』『運命』のもとに生かされているものであり、そうしたことを自覚することが必要だ」というようなことにとどまり、現実の諸問題に届く思想を提示することはできていない。

そもそもヘーゲル哲学の骨子には、自らの生を主体的に形成していく自由を人びとに解放した近代社会がその一面で生み出すことなったイデオロギー・価値対立を克服し、より望ましい社会関係を構築していくための原理を、「自我の欲望」のもとに生きる人間存在に対する深い洞察と理解のもとに導き出していくことがあるように思う。

特に、精神現象学の「ことそのもの」に対する考察は、自我の欲望のもとに展開する人間の行為を、社会全体にとってよい方向へ連結してくための可能性を示したものとして、意義深いものであるというようにとらえている。しかし、本書ではこの「ことそのもの」に対して、「個々の人間の行為は社会的関係のなかで、個々人の意図を超え出た結果を招き入れてしまうものだ(当人がよかれと思った行為が必ずしもその動機にみあった結果をもたらすとは限らないし、その逆もありうる)」ということのみに照射しようとする。つまり(「他者性」「外部性」を重視しようとする観点から)個人の主体的な行為の限界を示すものとしてそれをとらえようとしている。そのような読みは、ヘーゲル哲学に内包された今日的な可能性を、むしろ封印してしまうものではないかと感じた。

C『若きヘーゲル』(報告者 神山睦美)

『ヘーゲル―〈他なるものへの思考〉』とは対極的に、本書では「個体が社会と歴史の現実的性格をしだいに人間自身によって共同的に作られたものとして認識していく」こと、つまり社会とその発展を(個々人の主体的な実践からは手のつけられない)「運命」としてではなく、人間自身の活動、実践の所産として認識していくに至る過程をとらえだしたものとしてヘーゲル思想の可能性を見いだしている(ということを神山さんの報告から理解した)。そして「近代資本主義」をそうした社会的歴史的発展の成果とみなす。資本主義社会(市民社会)において展開される「事柄そのもの」(ことそのもの)についてのヘーゲルの考察に関しても、「人間を個人的労働において、交換という経済活動において、たんなる主観性を越えて社会的普遍性に高めていく弁証法の現われ」としてとらえようとしている(この点に関しても前書とは対照的であると感じた)。

しかし、ルカーチが「ヘーゲルは、後にマルクスが問題化したような、資本主義の過程で生じる『物神化』という事態に向けて充分な考察ができていなかった」とみなしていることに対して、神山さんは以下の観点から批判的に報告された(レジュメから引用させていただきます)。

「ルカーチのいう物神化や物神崇拝に当たる事態について、ヘーゲルもまた主人と奴隷の弁証法や、人倫の悲劇性といった主題において、展開しているからである。当時の社会における国家・家族・個人の問題、さらには他者との相互関係の問題として、この事態が大きな影を落としていることを、ヘーゲルは捉えている。しかし、それにもかかわらず、ルカーチのいうように、マルクスのいう『疎外』概念にヘーゲルには認められないリアリティーを見出すことができるのも事実なのだ。まさに『人間的本質が自己を非人間的に、自己自身と対立するようなかたちで対象化しているという点』にマルクスは、物神化や物神崇拝に当たる事態の起源を見出したのだが、しかし、ルカーチのように、これを悪として退けるのではなく、そういう事態を受苦することによって、むしろ情熱的に他者や対象にはたらきかけ、諸関係の総体的な繋留の中に類的といっていい普遍的な関係のあり方をのぞみ見ていたのがマルクスだったといえる。その意味で言うならば、『事柄そのもの』において個と普遍の総体的なあり方を見ていたヘーゲルにおいても、これは言いうることなのである。」

神山さんの報告に関連して、まず、竹田さんから、資本主義の本質は「普遍交換性」にあり、その契機を増やしていくことのみが個々人の自由な活動を可能にするものである。(たしかに貧富の格差など現実的な問題はあるが)まずその本質を踏まえて考察していく必要がある、という考えが示された。

菅野仁さんからは、近代化の進展によって疎外が生み出されていくという像がずっと語り継がれてきているが、むしろインパーソナルな連関のなかでパーソナルなものが可能になっているのだ、ということを前提にしなければいけないのではないか、という意見が出された。

石川さんからは、「ルカーチの『ことそのもの』への着眼のしかたは興味深い。近代社会・市民社会は、個々人がそれぞれの可能性を追求するゲームにおいて展開されていくべきものと自分は考えているが、そのゲームがときに頽落してしまうことがある。そうした事態を『物神化』と呼べばいいのではないかと自分なりに理解した」、という興味をひく発言があった。

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