看護にいかす現象学の知 【講演】「看護実践と現象学」

(『看護研究』vol.41 No.6 (2008年10月)に掲載されたものです。)


竹田青嗣早稲田大学国際教養学部教授
【構成】愛甲修子帝京平成大学現代ライフ学部講師,前千葉県医療技術大学校

≠ヘ極めてわかりづらかったといいます。はじめ多かった講義を聴く学生も最終的には数人にまでなってしまったともいわれている。言葉遣いが難解すぎたためのようです。
 私は30歳くらいのときにはじめてフッサールの『現象学の理念』(1907)という本を読んだのですが,そのときに,「ああ,この人の方法の中心はこういう考え方なのだな」という,ある「芯」をつかんだ覚えがあります。その後,フッサールのさまざまな著作を読みましたが,フッサールの考える方法,思考方法は,そのはじめの芯がどんどん展開されていくという感じをずっともっていました。まず大事なことは,考え方のいちばんの芯をつかむことなのです。これがつかめれば,フッサールの著作も読解できるし,それに関連する本も読めてくる。幸いなことに,考え方の芯自体はそれほどややこしくはありません。いい方がずいぶん難しいのです。フッサールの用語があまりに難しいため,その解釈にさまざまな異論があり,私からみると誤解されている点がたくさんあります。しかしフッサールの考え方のいちばんの芯については,それをつかもうと意欲をもっている人であればまず間違えることはないだろうという,とてもシンプルなものだといえます。皆さんのなかには,はじめて現象学を学ぶ方もいれば,すでにいくつか本は読んでいてもう少し考えを広めたいという方もいらっしゃるでしょう。そこでまず,「現象学とは何か」というところから考えてみたいと思います。

◆現象学とは何か
「信念対立」と「確信成立の条件」
 私の整理の仕方では,現象学の芯を理解するには,「信念対立」「確信成立の条件」という2つの言葉が重要なキーワードになります。これはフッサール自身の言葉ではなく,そのポイントを理解する上で私が仮においたキーワードです。つまり,「信念対立」の問題を解決あるいは解明するための方法,というものが現象学の第1の眼目であり,そのための方法が「確信成立の条件」を解明すること,つまり「還元」という方法です。
 先ほどお話したように,アカデミズムの世界ではフッサールの現象学についてさまざまな理解があり,なかなか厄介です。
 特に近年,フランスからポストモダン思想というものが出てきて,現象学は「真理の学」「あらゆる真理の基礎づけを行なうような考え方」などと批判されてきました。「真理」や「絶対的な認識」を批判する考え方が現代思想の流れであって,現象学はそのような「絶対的真理」の考え方に落ち込んでいる,という批判です。しかし実際はそうではなく,逆なのです。そのポイントが「信念対立」と「確信成立の条件」というキーワードで,つまり現象学にはむしろ,「絶対的真理」という観念をどのようにうまく相対化するか,という考え方が含まれているのです。

◆主観と客観は一致するのか?
 少し角度を変えていうと,現象学の基本テーマは,認識問題です。認識問題とは「主観と客観は一致するのかしないのか」という問いの解明がテーマです。なぜ認識問題を解明する必要があるのか。なぜそれがヨーロッパ哲学の根本問題になったのか。それは,信念対立を克服するためだった。
 近代のはじめ,ヨーロッパでは宗教対立があり、カトリックとプロテスタントが対立していました。対立は100年以上続き,その間にたくさんの議論が起こり,たくさんの論文が書かれました。でも決着がつかず,ヨーロッパ中に戦争が起こった。それでも決着はつかず,ヨーロッパ人は非常に困った。当初はどちらかが世界認識として正しいはずだと思っていたのが,やがて,どうやらどちらも正しくないようだ,ということに気づくようになります。近代哲学は,そこから出てきました。基本的に現象学の考え方とは,近代哲学のテーマのなかの,この認識問題を純化したものなのです。世界についていろいろな考え方があり、完全に対立してしまう。その場合どう考えればよいのか。これに本質的な解明を与えるものが,現象学である。これがフッサールのいい分です。そしてそのための方法が,「現象学的還元」です。「現象学的還元」とは,「確信成立の構造を解明する」ための方法的な考え方なのです。

図示しながら説明します。



《図1》は認識論の基本図式です。
 まず,ここにリンゴがあるとします。私は,〈リンゴ〉をみている。つまり客観的にみて〈赤くて,丸くて,つやつや〉したものをみている。この私がみている〈リンゴ〉と,客観としての〈リンゴ〉が一致していれば,私の認識は正しいわけです。いまこの〈リンゴ〉を〈世界〉に置き換えてみると,そのまま世界認識の問題になります。私が考えている〈世界像〉(主観)と,客観=それ自体としての〈世界像〉(客観)が一致していれば,私の認識は正しいということになります。

◆信念対立の克服
ヨーロッパでは,伝統的にこの「主観と客観が一致すること」が,真理概念だといわれています。《図2》にヨーロッパの信念対立の図式を示します。



カトリックとプロテスタントでは,〈カトリック的世界像〉と〈プロテスタント的世界像〉があり,それぞれ世界像が異なるのですね。100年以上,どちらが正しいのかといい争い,さらにそのうち,もう1つ,〈自然科学的世界像〉という考え方が出てきました(《図3》)。



 最初はカトリックとプロテスタントだけでせめぎあっていたところに,今度は〈キリスト教的世界像〉と〈自然科学的世界像〉とが信念対立を起こすようになったわけです。自分は「正しい世界像はこうだ」と思っていたのに,別の考え方がまた出てきた。こうしてヨーロッパ人たちは,先ほどお話したように,正しい考え方(認識)に達する方法は何だろうかと真剣に考えざるを得なくなったのです。このために認識問題はヨーロッパの哲学の大きな中心問題となったのですが,フッサールは現象学の考えで,この間題をはっきり解けると考えたのです。
 先ほどの信念対立の問題を,現象学の考え方を知らないまま「これはこう考えればよい」とわかった人がいるとしたら,その人は極めて優れた哲学者たる資格がある,といえます。哲学というものは一種の難解なパズルになっていて,何百年も多くの人がそれを解こうとして,しかしどうしても解けなかった。今でも同じ状況です。「現象学的還元」は,その唯一の解き方だとフッサールはいうのです。

◆現象学的還元
 次に,《図4》は主観一客観の図式です。




 主観と客観とは簡単に一致するような気がしますが,哲学的にいえば一致しません。それは,歴史も証明しています。「世界とは何か」についてたくさんの考え方が現われますが,それは,決して統一できないものです。例えば政治的イデオロギーの対立は,今でもあります。自然科学は比較的一致がありますが,人文科学,例えば歴史学でも心理学でも言語学でも民族学でも,必ずさまざまな意見の対立がみられます。人文科学には,お互いに「自分の考えが正しい」と思っていて,「こう考えれば必ず,正しい認識に達することができる」というようなスタンダードはないのです。人文科学は人間や社会の問題について考える学問ですが,現状では正しい唯一の認識に達するような方法はありません。これについてフッサールは,「私はこの問題を解明する方法をみつけた」といったのです。でもあまりに難解すぎて,うまく理解されていないという状態だと思います。
 フッサールの著作『イデーン』は,『イデーンT−1』『イデーンT−2』『イデーンU』と翻訳が出ており,まだまだ延々と続きますが,現象学的還元の方法の核心は『イデーンT−1』のなかに,ほとんどすべて出てきます。そのポイントは,文章としては1冊分ですが,あえていえば,図にすると数枚で終わってしまうほどシンプルなのです。

 ではまず《図4》をみながら「現象学的還元」を用いて信念対立の問題が解けるかどうか考えてみましょう。〈リンゴ〉がここに存在する。だから私に〈リンゴ〉の姿がみえている。これはわかりやすい。〈リンゴ〉があって,私の視覚を通して,私の脳に入ってくるわけです。〈リンゴ〉が客観,あるいは対象(object)です。そして〈赤くて・丸くて・つやつや〉は主観です。この場合,因果関係は〈リンゴ〉が原因で,〈赤くて・丸くて・つやつや〉が結果です。これは普通の考え方で,誰もがもっている自然な考えです。フッサールはこれを自然的世界像といいます。
 ところで,ここで信念対立の問題を考えるとどうなるでしょうか。つまり,〈リンゴ〉の代わりに〈世界〉をおいて,〈世界〉とは何かについて,○○のように考える人と××のように考える人とがいるということです。認識がそれぞれ皆,分かれてくる。だから喧嘩になったり,ときには戦争になったりするわけです。
 このように信念対立が起こった場合,適切な考え方は1つです。今みたような自然な考え方の視点をひっくり返すのです。それが,「現象学的還元」という方法のポイントです。ひっくり返してみましょう(《図5》)。



「還元の遂行」(現象学的還元) を行なうと…,つまり〈赤くて・丸くて・つやつや〉が原因で,〈リンゴ〉が結果となります。すなわち,〈赤くて・丸くて・つやつや〉としたものをみるから,私は〈リンゴ〉がここに存在するという確信をもつ,ということになります。「〈リンゴ〉が存在するから,私は〈赤くて・丸くて・つやつや〉としたものをみている」,をひっくり返して,「私はいま〈赤くて・丸くて・つやつや〉としたものをみているので,ここに〈リンゴ〉がある」という確信をもつ,ということになる。わかりますね。もしこれがわからなければ,現象学とは何かを理解することはできません。逆にこれが分かれば,看護とは何かというような問題についても,しっかりと言葉を使って,現象学的に考えることができるようになります。

 次はもう1度〈世界〉でやってみましょう。普通の考えでは,〈世界〉がこういうものとしてあるので,私は〈世界〉についてこういう考え方をもつのだ,となりますね。〈世界〉が原因で,〈世界についての認識〉が結果です(《図6》)。



 ところがここで信念対立が起こると,〈世界〉について何人もの人の認識が現われ,お互いが異なる認識をもつことになります。このとき現象学は,「はじめに〈世界〉を前提するな。なぜ自分がこういう世界認識をもつのかを検証せよ」と考えるのです。理に適っているでしょう。〈自分の認識〉から出発するのです。〈世界〉が原因で,〈自分の認識〉が結果,すなわち,「世界がかくかくのものとして存在するので,私は世界をかくかくのものとして経験する」という普通の考えに対して,現象学的還元を行なう。つまり原因と結果をひっくり返し(私の意識に還元し),「私は世界をかくかくのものとして経験するので,私は世界をかくかくのものとして信ずる」となるのです(《図7》)。



 では私が例えばある宗教を信じているとしましょう。とすると私は,世界は神がつくったと思うことになります。次に,私が科学者だとしましょう。私は世界には神は存在しないと思っているわけです。するとお互いに論争になりますね。
 この場合,世界がどうなっているのかについて客観から出発すると,この間題は解けません。なぜ私は〈神的世界像〉を信じているのか,なぜ私は,神は存在しないという〈科学的世界像〉をもっているのか,それぞれを検証しなければならないのです。私が「世界はこうだと確信している」,その基本条件を吟味して,はじめて何かがみえてくる。
 何がみえてくるかは後でもっと詳しくお話しますが,ともあれこれが,「現象学的還元」という方法の最大のポイントです。『イデーン』などを読むと, 難解すぎて,読めば読むほど分からなくなってきますが,この考えがいちばん中心をなすものです。これは誰にも理解できる考えのはずです。「リンゴがあるからこうみえるのだ」と考えるのを1度やめて,「こうみえるからリンゴがあるという確信をもつ」,という順序で考える。そういうふうに確信の根拠を確かめる方法なのです。

◆信念対立と共通了解
 さらにわかりやすい理解のために,もう1つ話をしましょう。思考方法(ものの考え方)というものには,2つあると考えてください。いろいろなことを考えるとき,それは自分自身で考えていると思っているかもしれませんが,物事を自分自身で考えることは,非常に難しいのです。例えば,「臓器移植はいいか悪いか」は,それぞれ意見が異なります。たいていの場合,物事には常に,すでにいろいろな意見,主張があります。そしてそれにはそれぞれの論拠もあって,自分としてはなんとなくこの意見がフィットする,というように各人のフィーリング(感度)で分かれてくる。
 また,死んだらどうなるか,ということを考える場合も,あの世のようなものがあると思う人と,死んだら無であって,あの世のようなものは存在しないと思う人に分かれる。そして,あの世があると信じる人に対して,これをもっと勉強して確かめなさいというとどうなるか。その人は きっと,自分のその感度,直感を補強してくれるような本を探してたくさん読もうとするでしょう。するとますます,あの世のようなものがある,という強い信念をもつようになる。ところが,あの世なんか存在しない,と思う人も同様です。私はこういう考え方を「直観(信念)補強型」の思考,と呼んでいます。この考えをとる限り,対立は永遠に解けないことがわかるでしょう。
 つまり,この例のように,自分の直感を他のさまざまな学問や知識によって補強する信念補強型の思考と,これに対して,自分はなぜこのような直感をもっているのかということを内的に検証する信念検証型の考え方があるのです。もうおわかりかと思いますが,現象学は後者です。というより後者の方法の原理論なのです。一般的に,自分の信念や直感を検証することのほうがはるかに難しい。難しいから「方法」が必要なのです。直感を補強するだけであれば,本をたくさん読むなどして,自分の考えを補強してくれるようなものを集めればよいわけですね。
 先のカトリックとプロテスタントとの対立のような「信念対立」,現象学はこの問題を考えます。
 そして,そういう場合まず,客観はかくかくだという前提を取り払って,内的な確信の根拠から,なぜ自分がそういう確信をもっているのかというところから出発します。このように,まずかくかくの客観的な〈世界〉があるという前提を,いったん棚上げしておくことを「エポケー」(判断中止)といいます。「判断停止」という人もいますが,「判断停止」ではありませんよ(笑)。「判断中止」ですね。「判断中止」を行なって,自分の認識の構造を吟味します。自分の認識を検証するということは,私があることがらを信じているその理由,その構造や条件を検証するということです。これが「確信成立の構造」を考えるということであり,その方法が「現象学的還元」なのです。

◆共通了解が成立する領域と共通了解不成立の領域



 《図8》は,まず,さまざまな人が,世界観T,世界観U,世界観Vなど,お互いに異なる世界観を もっていることを示しています。
 通常私たちは,このうちどれかが正しいはずだと考えます。Tさん,Uさん,Vさん,それぞれの意見が違うとき,「私はこうだ」「あなたの考えは違うわ」などといい合いますね。そのとき,実はたいてい「自分の考えが正しいはずだ」と考えている。そのような考え方をやめるのです。そして自分の考えが正しいと思うのはなぜなのかを考えるのです。すると,確信の構造がわかってきます。
 図にはT,U,Vそれぞれに「C」とあります。これは「コモン;common」のCです。つまり「共通了解の領域」です。歴史的にみて,どんな人間あるいは共同体の世界像にもこのような共通了解の領域があります。そしてそれは自然科学や数学,基礎的論理学などの領域です。実は,これは近代に入ってからですが,文化や宗教などが異なっていても,この領域では世界中で共通了解が成立しています。自然科学は世界を席捲し,例えば雷というものは雷神が剣を振っていてそこから雷が出てくるのではなく,電気の現象だということを,今では誰もが認めます。数学では1+1=2とか 5×5=25とか,一定の公式をつくってそれを教えると,必ず同じ答えが出てくる。高等数学は別にして,普通の数学のレベルでは,厳密な共通了解領域というものが必ず成立します。つまりここでは客観性が成立するのです。また,こういうところで客観性が成立するために,私たちは暗黙のうちに世界全体についても何かの真理があるはずだと考えてしまうのです。ところが,認識の構造を吟味してみると,そう簡単ではないことがわかります。
 《図9》をみると,「C」の上にそれぞれ「]1」「]2」「]3」があります。ここが「共通了解不成立の領域」です。すなわちそれは,感受性,審美性,価値観,宗教,人間観などの領域です。自然科学や数学の領域とは違って,この領域では,人によって考え方が異なり,厳密な共通了解は現われません。このように確信の構造を取り出してみると,重要なことがわかってきます。
 なぜ宗教対立が起こるのか。なぜ宗教対立には統一的な世界像が見いだせないのか。理由は明白です。宗教は教義で成り立ち,宗教の教義は基本的に「物語」でできています。物語である以上,「世界は最初に神様が6日で創った」のか「世界は永遠に輪廻している」のか検証できないのです。これは典型的な共通了解不成立の領域です。実証的に証明できないと同時に,それはまた人間に対する価値観を含んでいる。宗教の世界像の違いの理由を大きく表現すると,風土の違い,生活様式の違い,そして歴史の違いがあり,ここから人間観が異なってきて,宗教の教義も段々異なってくることがわかります。こうした理由から,]1,]2,]3に絶対的な一致を見いだすことは原理的に不可能なのです。
 このことは,現象学的に考え方をひっくり返して(還元してみて)はじめてわかってくることです。「世界はこういうものだ」という客観の前提から出発すると,信念対立を解くことができません。「なぜ私たちはこういう確信をもつのか」から出発する考え方をとらないと,認識問題は解けない。この点で,フッサールの哲学の第1の眼目は,信念対立をいかに解くか,また信念対立をいかに克服するかについての原理論だという点にあるのです。

 宗教対立の問題やイデオロギー対立の問題ばかりでなく,皆さんが家で母親と喧嘩したり,結婚して旦那さんと喧嘩したりすることも一種の信念対立で,基本は皆同じです。この考えが適用できる。それが原理ということですね。世界観T,世界観V,あるいは考え方T,考え方Uはむしろそれぞれ違うということが原理であり,そこには共通了解可能な領域と,共通了解不可能な領域とが必ずある,と考えるのがよい。「厳密な一致はありえないことがわかる」ということが大事なのです。なぜならこの納得によってはじめて,互いの違いを認め合う「相互承認」ということが可能になるからです。そしてまたそのことで,世界観Tと世界観Uの間に,共通ルール]を設定することが可能になります(《図10》)。自分の感受性は正しいはずと思い込んでいると,決して先に進めないのです。



 カトリックとプロテスタントの戦いは,あるとき,ある王様が,両方の信仰を認めよう,信仰は自分の内部の問題にし,信仰によってお互いを差別せず,お互い市民として認め合おうという原則をつくったことを契機に,克服の道が現われました。ヨーロッパでは,政教分離が可能になってゆきました。お互いに相手の自由を承認し合う,これが市民社会の原理です。共通ルール]を設定して,はじめて信念対立というものをヨーロッパは乗り越えてきた。ここでは暗黙のうちに現象学的方法がとられたのです。共通ルール]が設定されれば,はじめて共存可能性が現われます。また,新しい人々が入ってきても,これまでの共通ルール]と新しい人の世界観との間にまた共通ルールをみつけていけばよい…あとは以下同様ですね。これが,信念対立克服の現象学的図式です(《図11》)。

 以上のことから現象学とは,これまでの大方の批判とは正反対で,「絶対的な真理というものは存在しない。価値観,審美性,人間観には必ずズレがあり,すべてを一致させることはできない」という考え方であることがわかります。これが1つ。しかしまた,経験のうちに同一構造があるものについては,普遍的認識,客観性というものを取り出すことができることがわかります。信念対立の問題は,認識の一致,つまり「同じ認識,同じ考え方,同じ世界像があるはずだ」ではなく,人々が「多様な人間観や世界像をもつ」ことを承認し,その間に共通ルールを立てていくという考え方以外にこれを克服する道はない,ということになります。これは人間関係というものを信憑構造の網の目として考えることであり,またそのことから,現象学は人間関係の原理論になる,ということが出てきます。このことが,看護学について考えるときに,はじめの重要な土台になると思います。

◆本質観取
 では次に「本質観取」という考え方を説明します。「現象学的還元」は,最初から事実や真理があると前提せず,自分の確信から出発してその構造を検証してゆく方法ですが,そこから派生したもう1つの重要な方法が「本質観取」で,現象学的還元の方法を応用して,概念やことがらの本質的な意味を取り出す方法です。といっても絶対的な答えを見いだすというより,より広範な共通了解を取り出す方法というのが適切です。
 先のリンゴの例を用いて考えてみましょう。〈リンゴ〉が原因で,〈赤くて,丸くて,つやつや〉が結果,これは普通の考え。〈リンゴ〉がここにあるので〈赤くて,丸くて,つやつや〉としたものがみえる。これを現象学的に還元してひっくり返します。つまり,ここに客観〈リンゴ〉があるのだということをエポケーします。私はいま〈赤くて,丸くて,つやつや〉しているものをみているので〈リンゴ〉が存在するという確信をもっている。そしてさらに,私は〈リンゴ〉がここに存在しているという確信を一体どういう仕組みでもっているのかを調べる。確信成立の構造を調べるわけですね。
 フッサールはこれを,知覚体験の構造一般の分析として『イデーン』で詳しく記述しています。その要点を簡単にまとめてみます。
 まず,知覚体験には必ず「知覚像」というものがある。知覚像は,ありありとしていて,想起や想像の像とは違います。向こうから勝手にやってきて,こっちが目を閉じるか顔を動かすかしないと,その像はなくならないという性質をもっている。また,「射映」(しゃえい)という言葉があります。〈リンゴ〉を例にとると,〈リンゴ〉の全体像は一挙にはみえない。くるくる回したりして,はじめて全体像がみえるのですが,しかし,ある一面しかみていないが,そこに常に全体として〈リンゴ〉だという確信を同様にもっている。これが射映です。知覚はその対象の全体を一挙には与えず,常に一面ずつ与えるということです。
 さて本質観取は,今みたような体験の構造や要素の取り出しを,ことがらや意味に応用してみようとするのです。とりあえずごく簡単な例で説明しましょう。

 ●「失恋」の本質観取
 「失恋」を例に考えてみます。「失恋」とは何か。これは実は私の大学のゼミで,学生たちに試みてもらった例です。まず,「失恋」ということがらの,なるべくいちばんの中心をなすようなものを考えて,それを言葉にしてください,と学生にいいます。するとたくさんあがってくるので,それを整理しつつ抽出してみる。「失恋」というものの核心 点が段々絞られていきます。つまり「失恋」という経験を内省し,そこから「失恋」という経験の最も重要な共通項を取り出すというわけです。以下が,学生たちが出した答えです。


 @「耐え難い苦痛」「悲しみの感情」
  これはわかりますね。全然耐え難くないのは大した失恋ではありません。別れてしまったけど全 然平気という場合は,失恋とはいえませんから。

 A「自己価値下落」「自己哀惜」
  失恋すると自分の価値がなくなったような感じがします。なぜなら恋愛には独自の承認の契機があるからです。自己価値の下落がない場合は,失恋ではなく単に振っただけかもしれない。そこでまた自己哀惜,つまり私はなんてかわいそうなのだろうという感情も必ず起こります。

C「世界喪失」「意味喪失」
 ひどい失恋になればなるほど,生きる意味を失い,もう生きていたくないという感情を招きます。激しい恋愛であるほどその相手の存在の意味はとても大きいので,失恋は生きる意味の大きな喪失ということを伴います。これが世界喪失・意味喪失ですね。


 まずざっとこんな感じで,「失恋」の本質を取り出すことができます。「失恋とはこういうものだ」と決め込まずに経験から取り出し,それを交換し合って,多くの人の失恋の経験に共通する最も重要な点(共通本質)をつかみ出していく。単なる共通項ではなく,共通の「本質」を取り出していくという方法です。これはもっともわかりやすいモデルなので,実際はなかなか簡単ではなく,かなり練習が必要です。そこで次に,哲学者が行なった「本質観取」の代表的な例をあげましょう。

●「死」の本質観取
 ハイデガーが『存在と時間』(1927)のなかで,人間の存在本質とは何かという,人間の実存論,現存在分析を行なっています。人間の存在本質を取り出すためには人間の存在にとって最も大事な契機を分析する必要がありますが,ハイデガーによると,何より大事なことは,人間は「死」の観念をもっているということです。「死」というものが人間にとってもつ意味,その本質を取り出さないと,人間の本質に近づくことができないという発想ですね。そこで彼は「死」の本質観取を行ないます。

@経験不可能
 まずはじめに彼は「死は経験不可能だ」といいます。これはおもしろいですね。通常,恋愛の本質や失恋の本質などは,恋愛や失恋を経験していないと取り出せません。ところが「死」は誰も経験していない。少なくとも生きている人は経験できない。経験できないものから本質を取り出すことはできないはずですが,これができるのです。つま り,その「経験不可能」ということが,共通項です。死は経験不可能だが,私たちは観念としてだけ,それをもっている。これが「死」の本質としてまず はじめにあげなければならない点です。

A"存在できない"という恐ろしい可能性についての観念
 さて次に,この死の観念は,人間として存在することができないという,恐怖や不安を常にもたらす,恐ろしい可能性の観念です。そういう死の観念を,誰もがもっています。宗教をもっている人でも,一定のこの感じをもっている。次に,死の観念は自分の存在を脅かすものとして,人間は必ずこの死の観念を隠蔽する。これは大昔からのことで,旧人類の時代に屈葬の形がとられていた りしていることなどから,人間は大昔から死について恐れの観念をもっていたといわれています。

B馴致(じゆんち)
 これは,人間は死の観念というものを,必ずなんらかの仕方で飼い慣らして扱いやすい形にしておかざるを得ないということです。ハイデガーを敷桁すると,宗教などもそういうことの1つの役割を果たしていることになります。

C単独化
 次に,死に直面する,あるいは死が近くまで迫ってくると,人間は単独化されます。人間は.世のなか,共同体のなか,あるいは社会のなかでさまざまな人間関係をもっています。その関係が,人間が生きているという実質ですが,死に直面すると,そういう関係から切り離されて独りになってしまう。誰にでもそういうことが起こる。つまり単独化は,実存の自覚の契機です。実存の自覚,すなわち私は1回しか生きられないのだというその感度,自覚を強く引き起こすとハイデガーはいいます。

D一回性,交換不可能性
 この自覚は,自分の生は1度きりであり,また取り替えられないという交換不可能性の自覚です。生きることの一回性と交換不可能性の感度ですね。こういう感度は誰でも思春期から青年期にかけて,大なり小なりもつのではないでしょうか。死とはそういう役割を果たしているわけです。

 以上がハイデガーの死の「本質観取」の大すじです。死の問題はいろいろなイメージがつきまとうので,人によってはピンとこない人もいるかもしれませんが,かなり納得される方も多いのではないでしょうか。
 ともあれ,「本質観取」という言葉はぜひ覚えてください。なぜなら「本質観取」の方法は,これから皆さんが看護の問題を現象学的に考えていく上で非常に大事な方法だからです。

◆「哲学のテーブル」と「宗教のテーブル」



 《図12》は,私が大学の講義「哲学入門」で用いているものです。右が「哲学のテーブル」,左が「宗教のテーブル」です。宗教のテーブルの,頭がボサボサの人が教祖ですね。
 哲学とは何かを教えるとき,私はよく宗教の方法と比較します。宗教も哲学も「世界とは何か」「私とは何か」「自分の生とは何か」について考える方法だからです。哲学は,中国でもインドでもヨーロッパでも,宗教が誕生した後,期せずして大体紀元前500年前後頃に現われています。それまでは宗教の時代だった。では哲学とはどういう新しい方法だったのでしょうか。

◆宗教のテーブル
 まず宗教の方法とは何でしょうか。キリスト教を例に考えます。『創世記』にこうあります。神は6日で世界を創って,大地から男性を創り,そのあばら骨から女性を創り,2人を楽園に住ませた。しかし女性が禁断の木の実を食べ,それを男性にも食べさせた。そこで人間は堕落したといいます。もともと人間は不死として創られたが,禁を犯した罰として,人間は死ぬ運命を与えられた。また,男性には労働の苦しみが,女性には産みの苦しみが与えられた,云々と書かれています。
 この聖書の物語は何を意味するか。大昔から人間というものは,なぜそもそも世界があるのだろうか,なぜ人間は生きて苦しむのだろうか,なぜ死ななくてはいけないのか,死んだらどうなるのだろうか等々の,生をめぐる大きな問いをもってきました。人間なら誰もがもつ問いですね。
 すぐわかると思いますが,宗教の「物語」はこれに対する答えになっているのです。しかしその中味は宗教によって異なります。インドの宗教では,人間は生きて苦しむが,それは因果応報というものであり,昔悪いことをしたからだと説明されます。頑張って生きても業(ごう)が吹っ切れないので,虫けらに生まれ変わったり,けものに生まれ変わったりする。こうした輪廻の円環を断ち切るためには,世界についての悟りを開き,仏になるしかない。これがインドの宗教の「物語」です。
 さて宗教はこのように物語でできていますが,たいていの場合,この物語の語り手として,教祖がいます。教祖とはたいてい,ちょっと変な人です。いうこともやることも変なので,目立ちます。だが,決してバカではない。「この人は人間が生きる上でとても大事なこと,本当のことをいっているのではないか」と思わせる。それが人を惹きつけるわけです。
 こうして「宗教のテーブル」に信奉者たちが座る。教祖は何か難しそうな言葉を使う。しかし信奉者たちに,この人はきっと"真理"を知っているに違いない,という共通の確信を与える。原始仏敦でも原始キリスト教でも,こうした世界宗教には,必ずはじめにそういう優れた人が現われ,生き方の"真理"を知っているに違いないという確信を与えたのです。
 図のテーブルの上に乗っている十字架は,いわば教祖の言葉です。ここに言葉を置いておくと,教祖が死んでも言葉は残る。しかしこの言葉が,あまりわかりやすくない。宗教の場合,あまりわかりやすいとダメなのです。どちらかというと呪文のようなワケのわからないようなのがいい。この言葉のうちに,世界について,あるいは人間の生についての"真理"があるに違いない,そう皆が思うからです。こうして信奉者たちは,教祖の残した言葉をめぐって,さまざまな解釈をしてゆく。そしてそういう仕方で皆で生き方の「ほんとう」を求め合うところに,宗教の大事な本質があるわけです。これが「宗教のテーブル」です。「宗教のテーブル」を,私は「"真理"をめぐる言語ゲーム」と呼びます。

◆哲学のテーブル
 次は「哲学のテーブル」です。ヨーロッパでは,ギリシャのタレスという人が最初の哲学者ということになっています。彼は「万物の原理は水である」といいました。これが,哲学のいちばんはじめの言葉ということになっています。タレスにはアナクシマンドロスという弟子がいて,弟子なのに師匠と異なる説を唱え,「万物の原理は無限なるものである」といいました。すると次にそのまた弟子のアナクシメネスが,「いや,自分は違うと思う。万物の原理は空気だ」といった。
 これが哲学のはじまりのシーンです。哲学とは何なのかをひとことでいうと,「普遍性をめぐる言語ゲーム」なのです。そしてそれは,世界を説明する方法の1つです。「万物の原理は水である」という考え方は,現在の科学の考え方の起源といえます。最も単純な元素は水素元素だというのは,現在の物理学の常識です。タレスは,「世界は森羅万象さまざま多様なものであるが,いちばんおおもとの単位があるはずだ。その単位を水と呼ぼう」と提案したのです。そしてアナクシマンドロスは「水だとあまりにも純粋すぎて,世界の多様性については説明できない。だから,無限なるものと呼ぼう。最小単位のなかにもともと無限な性質があるのだ,と考えたらどうか」というわけです。これに対してアナクシメネスはいいます。「無限なるもの」は誰もみたことがない。それは想像物ではないか,とまた違う言葉をおこうとしたのですね。「哲学のテーブル」では,こうやってテーブルの上に誰かがより適切と思える言葉をおいていくのです。この言葉を哲学では「原理」と呼びます。キーワードですね。誰かがある「原理」をおき,まずい点が出てくると,それを包括してまたもっとよい言葉に変えていくという仕方で,展開していく。これが,これまで哲学が行なってきたことです。

◆宗教のテーブルと哲学のテーブルの違い
 「宗教のテーブル」では,中心は「真理」を知る人(教祖)と,「真理」を隠した言葉(教祖の言葉)です。それを信じて集まってきた人々が,教祖の言葉をいろいろ解釈しながら「真理」を皆でみつけていこうとする。つまり「真理をめぐる言語ゲーム」です。
 一方「哲学のテーブル」は,一見,真理をめぐる言語ゲームのようですが,少し違います。今いったように,「原理」となる言葉をおいて,それを少しずつ普遍的ないい方に変えていくという,そういう「普遍性をめぐる言語ゲーム」になっているのです。
 「哲学のテーブル」は開かれていて,こんなものに寄りたくないとそっぽを向く人もいれば,おもしろいと思って寄ってくる人もいる。周りでみているうちに,「この人のいうことはおもしろい」と皆が思うと,その人は生き残る。ソクラテスは,ギリシャのアゴラというところで,若者が通ると,「君,私とちょっと議論をしよう」と声をかけ,「勇気の本質はなんだと思う」などと問いかけました。若者があれこれ答えるうちに人が集まってきて,ソフィストなども現われる。そのうちに,「この人のいうことはおもしろい」「この人の言葉は優れている」ということで,その哲学は生き残っていくことになるのです。
 「宗教のテーブル」では,ある象徴的な言葉をめぐって,ここに真理があるはずと考え,皆でそれを解釈し続けていく方法をとる一方,「哲学のテーブル」では,物語を使わずに言葉を鍛え,原理や概念を用いて展開し,普遍性を獲得していく。これが,哲学の方法の基本です。「真理」という言葉と「普遍性」という言葉に注意しておいてください。あとでもう1度出てきます。
 「宗教のテーブル」では,ここには必ず真理があるはずだということが暗黙の前提ですが,これは,ある場合には弱点にもなります。真理が絶対化され,しかもその解釈は誰でもやってもいいというわけではなくなる。宗教では権威が大事なので,特定の選ばれた人だけが解釈するようになり,そうなると言語ゲームとしては硬直化してきて,「権威のゲーム」になってくる。「宗教のテーブル」には,真理を知る人(教祖)がいて,その人の語る言葉は,単なる世俗的な欲望を超え,人間が生きる上で指針にすべき大事なもののはずであり,我々(信奉者)もそれを探しているのだという,そういう確信が皆にある。宗教が堕落しないうちは,このようなはじめの精神がしっかり生きているのです。権威が強くなって「権威のゲーム」になると,それは失われます。それが「宗教のテーブル」の固有の弱点です。
 「哲学のテーブル」は,宗教のように物語を用いず,概念と「原理」を使います。物語は共同体のなかに閉じられていますが,概念は共同体を超えることができます。概念というものはどんな文化でももっているからです。しかし,哲学にもやはり弱点がある。概念や原理を使うため段々複雑化してわかりにくくなり,普通の人にはなかなか理解できなくなってくる。またいろいろな屁理屈(詭弁論)が現われて,黒いものを白いものといいくるめるといった側面があります。
 「哲学のテーブル」と「宗教のテーブル」は,いわば,人々が皆で世界について考え合う2つの大きな枠組みですが,それぞれメリットとデメリットがあることを覚えておいてください。

◆「言語ゲーム」としての医療
 冒頭でお話したように,ここ最近,現象学を学びたいという看護関係・医療関係の方が増えてきているように思いますが,1つ,例をあげてみます。
 東京医科大学の医師,行岡哲男教授がいま,『医療哲学入門』(NHKブックス,近刊予定)という本を善かれています。この本は,医療を全体的な医療実践とみて,そこに現象学の概念を取り入れた,いわば「現象学的医療論」の本です。
 この本のなかで行岡さんは,2つの大事な概念 を示しています。1つは「目的=関心相関性」,もう1つは「確信妥当性」です。
 「目的=関心相関性」とは何でしょう。皆さんもご存知かと思いますが,ハイデガーに「気遣い」という概念があります。これを私は欲望論的に「欲望相関性」「関心相関性」という概念に変えているのですが,それをまた行岡さんが医学的に少し変えて「目的=関心相関性」という概念で使われています。
 それからフッサールは,現象学的還元のポイントを,この講演で私が用いている「確信成立」という言葉ではなく,「妥当」「定立」という言葉を用いるのですが,行岡さんは,いわば両方をつないで,「確信妥当性」(convincedvalidity)という概念で使っています。

◆「目的=関心相関性」
 行岡さんは,伝統的な治療は唯一の体系になっていたことをまず述べています。これまでの治療の考え方の基本は,要するに,いかに病気を治して健康な身体にするか,ということでした。行岡さんは「魔弾の射手」というおもしろい表現をされています。19世紀中頃から,実証科学によってさまざまな病原菌の実体がはっきりしてきて,病気の原因が局所的に,明確に区分ができるようになってきた。それに応じて,このウイルスに効くのはこれ,この病原菌に効くのはこれ,などと治療法が大きく進歩していった。つまり,医師は「魔弾の射手」になったというわけです。この病気に対して,この弾で狙って撃てば,病原菌は死んで患者は治る。これが近代医学の基本的な体系でした。もちろんこれは本質的には間違っているわけではありません。このような考えから医学は大きく展開したわけですが,しかしこの体系を絶対唯一の体系とする必要はないのです。医学全体をみると,もう少し多様な「関心相関」のあり方があって,その「関心相関」のあり方に応じて,体系というものがフレキシブルにつくられなくてはいけない。これが「目的=関心相関性」という概念です。

●治療と養生
 この例の1つとして行岡さんが示しているのは,「治療」と「養生」という概念です。M.フーコーという哲学者は『性の歴史』(1976,1984)のなかで,ギリシャの医師は,「治療」するとけむたがられて,むしろ「養生」という形で診察するほうが嫌がられなかった,と述べています。ギリシャの医療では,「治療」ではなく,むしろ「養生」という概念が強かったと。ヒポクラテスの本を読むと,確かにそのようなことが書かれています。
 「治療」が,患者を完全治癒させて,もとの元気な体に戻し,しっかり働けるようにすることだとすれば,「養生」は,その人の病気や,体質に合わせて,いわばゆるやかに生きられるようにする,というほどの意味です。治療の目標を高くするほど,完全に治らなくてはいけないことになりますが,例えば,事故で腕を1本失った場合,どういう考え方をとるのが妥当でしょうか。片腕がない形で社会に適応しなくてはならない以上 普通の社会人と全く同じ形ではなく,その人ができることの範囲を少しゆるめて考えたほうがいい。定期的治療を受けなくてはいけない人の場合も同じです。「養生」とは,患者その人の状況に合わせて.このくらいできればよいのではないか,という形で生きて,その人の生活のあり方に応じて,治療の方向を考える,つまり常に完全治癒を目標とする必要はないということです。調子が万全でなくとも長生きして,それで何かができることがあるのなら,それでよいという考え方がとれるわけです。そして,もう1つ重要なのが「生活の質の向上」という考えです。つまり完全には治らないが.そのなかで生活をどう維持するか,あるいは病状に合わせて生活のあり方や質をいかによりよいものにするかということです。ここではこのこと自体がまた1つの医療の目的になりえます。

◆確信妥当性
 もう1つの概念「確信妥当性」も,非常に興味深い考え方です。行岡さんは,18世紀,19世紀の医学では,基本的に,正しい診断と正しい治療があるというデカルト的二元論に立つ真理主義的考え方があったといいます。絶対的に正しい考えがあるはずという考え方は,経験則に基づいて,豊富なデータと,こういう診断の場合にはこれが正しい治療法だという体系がつくりあげられてきた結果です。これは,一定の領域では確かに有効ですが,医学全体からみると硬直化を起こす可能性があります。現象学的にははじめに客観世界を前提しませんが,同じように,ある症状をみたとき,これには絶対に正しい診断があり,絶対に正しい診察があるはずだと,はじめから考えないほうがよいということです。
 近年はインフォームドコンセントが一般的になり,医師と患者との関係がかなり開かれたものになっています。そこで,医師の診察と治療が悪い結果を引き起こすと,すぐ訴訟になる。悪い結果は誤った判断と治療のせいだ,と暗黙のうちに考えてしまうからです。しかし結果が悪かったから全部間違いだということではなく,「この時点でこういう診断が妥当であったかどうか」ということを基準にしたほうがよい。それが「確信妥当性」という概念のポイントです。ある時点でこのような確信が成立するのは妥当であるかどうかを,言語ゲームとして,もちろん1人ではなく皆で判定し,「このケースの場合はたまたま結果は悪かったが,こう診断するのは間違いではなかった(あるいは間違いだった)」というように,「確信妥当性」を検証してゆくことが,診断の基準になったほうがいい。結果だけをみて診断は間違っていたという考え方をとると,医師は,間違った結果といわれないことだけに専心し,一歩踏み込んだ治療から引いてどんどん防衛的になってゆきます。そうなってゆくとすれば,それは医師が悪いので も,患者が悪いのでもなく,考え方に問題があるのです。現象学の考え方を適用すれば,どれが真理か,どの考え方が絶対に正しいかではなく,ある時点で成立している確信の妥当性ということを基準にすることができるようになります。


◆確信妥当性をめぐる言語ゲームとしての医療
 
今お話したことは医学全般にいえることで,どのような分野の医療でも,同じように診断や治療の基準を真理主義的に考えるのではなく,現象学的な考え方を適用して,そのつどの妥当性を規準にしていくと,治療の体系がずっと柔軟になる可能性があります。つまり,医療は真理をめぐる言語ゲームではなく,「確信妥当性をめぐる言語ゲーム」だと考えるのがよい,という提案なのです。
 これまで医学は,真理をめぐる言語ゲームに近かった。いったんそのような医学の体系ができて しまうと,すべての人がこれに合わせて行動の規準をとらなければならなくなった。正しい診断か どうかだけが問題になると,専門家である医師だ けが議論をして権威づけをする医師だけの言語 ゲームになっていく傾向がある。しかし医療全体 はもっと開かれた実践行為であり,さまざまな 人々が携わっています。医師だけではなく,看護 師,患者,さらにもっと外側でサポートする人々,
といった多様な人が医療に参加しています。どういう「生活の質」をつくっていくか,どういう「関係の質」をつくっていくかということが,実際の医療の場では重要な問題になっているわけです。医療を,常に開かれたテーブルにして,治療実践のプロセスのなかでそのつど,診断の目標,人間関係のあり方などを考えていくような,確信妥当性の言語ゲームというものがもっと展開されていく必要があるのではないか。
 「哲学のテーブル」は,真理ではなく共通了解をつくりだしていくゲームです。あらかじめ真理がどこかにあるはずという考えではなく,皆の考えがまず異なっていることが承認され,関係がフェアに開かれている。医療とは何かという問題についても,そこに参加する人間が,どのような治療がよい治療なのかについての考えを鍛え合うことによって,少しずつ大きな確信が成立してゆく。その確信は,時代や状況によって形が変わってゆきますが,真理のゲームという形で考えるのとは違う,開かれた言語ゲームになるわけです。

◆看護実践と現象学
 
最後に,『ベナ一看護論』について少し触れると,これを読んで,看護の世界がどのような具体的な問題点をもっているのかの全体像が少しわかった気がしました。そういう点だけとっても,この本はよい本だなと思いました。ただしフッサールや現象学の理論については十分展開されているわけではありません。ハイデガー,ガダマ一に触れられてはいるものの,私が普通に理解している存在論や解釈学とは少しすれ違っているように思います。しかし全体として考えると,ベナーの看護学に対する精神や考え方は,現象学的なものだといえます。象徴的な文章があるので,引用します。

 「看護とは自己解釈的主体(研究者)が自己解釈的主体(参加者)を研究する,しかも両者ともが研究結果によって変化し得る,ヒューマンサイエンスなのである」      (ベナー/井部俊子,2005,p.148)

 この言葉は,本書に底流する考えをよく象徴する言葉だと思います。「自己解釈的主体」が「自己解釈的主体」を問う,とは,研究者と参加者が単なる観察主体と観察対象という関係ではなく,いわば参加者のすべてが,どのような医療がよいのか,看護とはどうあるべきか,患者としてどう生きるべきかなど,自分自身のあり方を常に問うているような,そういう主体であるということです。研究する人もされる人も,常に自分自身と自分の関係を配慮しつつ対象化している,そういう学問的領域だということですね。
 そうである以上,医療の場・看護の場は,デカルト的な考え方に基づく「治る/治らない」という二元論的な場所ではなく,各人が自分をどう考えるかによって,全体の人間関係と認識のありようが編み変わっていくような場所だと考えたほうがいいということです。自然科学的,実証主義的な科学ではなく,人間科学として看護学を考えないといけないし,もちろん医療についてもそういえます。そういう点でこの本は,現象学的考えが基調になっていると思います。

◆「事実学」ではなく「本質学」としての看護学を

 
フッサールは,現象学は,「事実学」ではなくて「本質学」だと述べています。すでに存在している 対象について,これはかくかくこうなっているという事実ではなく,ものごとの本質に,つまり関係の意味や価値のありようを取り出すということです。現象学でいう「本質」とは,主に「意味」のことを指しますが,人間関係の場ではさまざまな意 味が成立していて,特にそこでは「人間が生きるとはどういうことか」についての意味が絶えず編み変えられているのですね。つまり欲望,目標,関係,努力,価値といった概念が重安になります。そういうものを扱うのが「本質学」です。
 看護実践の学としての研究を行なう上でも,これが正しい看護だというような絶対的な前提から考えるのではなく,まずは自分の経験から出発して,それを他人の経験と交換し合いつつ,「看護とは何か」といった問いをおいて,より深い共通了解を取り出していく。フッサールはもちろん看護学のことは知らなかったはずですが,人文科学というものは,このような「本質学」でなければならないということを強く提唱しました。看護学をもっと追求していきたいと強く思う方がおられれば,ぜひ現象学について踏み込んで研究されることを私は勧めたいと思います。実践の学としての看護学は,事実学ではなく,本質学でなくてはならないからです。
 最後に,私はいま,哲学書の完全解読という試みを行なっていて,フッサールの『イデーン』にも取り組んでいます。順番があるのですぐにというわけにいきませんが,数年後には出したいと思っています。もし現象学に取り組んで『イデーン』を読んでみようと思われたときには,「竹田が完全解読を出すといっていたな」と覚えておいてもらえるとありがたいです。



 ◆引用文献

・ベナー,P./井部俊子監訳(2005).ベナー看護論新訳版一 初心者から達人へ.医学書院,p.148.

 ◆参考文献
・竹田青嗣(1989).現象学入門.NHKブックス,日本放送  出版協会.・竹田青嗣(2004).現象学は〈思考の原理〉である.ちくま新  書,筑摩書房.・竹田青嗣(2001).言語的思考へ一脱構築と現象学.径書房.・竹田青嗣(1993).はじめての現象学.海鳥社.・竹田青嗣・西研(2007).ヘーゲル「精神現象学」完全解読.  講談社.・西研(2001).哲学的思考−フッサール現象学の核心.ちく  ま学芸文庫,筑摩書房.・竹田青嗣・山竹伸二(2008).フロイト思想を読む一無意識 の哲学.NHKブックス,日本放送出版協会.・行岡哲男(印刷中).医療哲学入門(仮).NHKブックス.

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