(というか,せめて隔月記くらいには……)| 2012年3月24日 ハイデガー。「本来性」がどうしても気にかかる…… 3月10日から11日にかけてNHK文化センター、ハイデガー「存在と時間」講読講座の合宿が行われた。今回の講座が「完全解読・『存在と時間』』シリーズの最終回で、後半のクライマックスともいえる、「良心」論から現存在の本来的な先駆的決意性をとらえ「時間」「歴史性」の考察へと展開する箇所を精読した。 全体的には……「存在」≒「真理」への信憑と、その信憑を背景とする(「死」の不安を隠蔽して日常性に埋没した)「非本来性」から(「死」の不安を直視して「自らの最も固有な生」に目覚め、「ほんとう」を生きようとする)「本来性」への覚醒というモチーフが、素地として優れた実存思想家であるハイデガーをして、現象学的普遍洞察性を曇らせてしまっているのでは?(「実存的現象学」ではなく「実存的形而上学」になってしまっている?)……という印象をもった。 まず「良心」について。平素ひとが現実の中で抱く「良心の呵責」というようなものは、あくまでも「非本来的」で、そのおおもとには人間の根源的な「非性」(人の生というのは究極的には「存在」あってこそのもの、というような感じ?)とそこからくる「責めあり」の意識がある。良心は現実関係の中で築かれたり、努力して持てたりするようなものではなく、(周囲への顧慮の中に埋没し)頽落した日常生活を脱して、「自らに最も固有な(一度きりの)生」を「本来性≒存在の開示性に即した、もともとあるべきほんとう」のもと「先駆的決意性」をもって生きることができる、可能性の証(あかし)なのだ……というようなことが言われる。 良心が日ごろの自らのありようやふるまいを、「よりほんとうでありたい」という自己への配慮のもとに見つめなおさせる契機になっている……ということであれば、だれしもが「共構造」として認められることだろう。自己や他者との関係のなかに、「ほんとう」への期待がもてなくなると、生きていくことはかなりつらいものになる。ハイデガーの論にしても、こうした実存的問題意識に根差したものだ(ろう)ということは感じられる。だが、ハイデガーのように、(ちょっと酷い言い方だが)「存在」≒「真理」に支えられた形而上学的世界観を前提にできない限り、「良心」が日常世界と異層にあるような「本来性」へ誘ってくれるという、「そこから先」の考察をともにすることはできない。現実的諸関係のなかで「ほんとう」の内実を得ていくこと以外に、「ほんとう」への「信」が絶えてしまわないようにする道はないのではないか、と思えてしまう。 「時間論」にしてもそう。「これからのありようを思いつつ(到来)いままでをとらえ(既往性)今を生きる(現在)」というように、現存在(人)自身の生の展開に即して時間をみとろうとする視点は、実存思想としての白眉という感じ。竹田さんも……「持続的な自我による存在可能性」への配慮という実存の構造(→「わたし」という一貫したストーリーのもと世界を生きようとする人間の生のありかた?)が時間性を形成しているが、ハイデガーの「時間論」は、こうした時間の本質を踏まえた出色なものだ、とコメント。 だが、ここにもきっちり「(対人関係に埋没して生きてしまっている)非本来的時間性(=「予期/期待」「現生化」「忘却/想起」)」と、それに対峙する「(「死」を見すえ、この自分自身の本来的な生を自覚的に生きようとする)本来的時間性(=「先駆」「瞬視」「取り返し」)」という仕分けが入れられる。 たしかに、「周囲に波長を併せているだけで自分自身を生きられていない(退屈な時間がゆっくり過ぎる)」「何かに熱中しているうちに意識せずに時間が経過している」などというように、生の状況に呼応して時間体験の質も異なってくる。だが、(現実的諸関係を超えた「存在」≒「真理」への信憑を前提にできない限り)、こうした経験を「本来性」「非本来性」という構図のもとに考えることに、意味があるとは思えない。 この点について、竹田さんが、(「本来性」「非本来性」ではなく)「共同的な時間」と「固有な時間」という質の違いが時間(という体験)にはあると考えたほうがよい、とコメント。……たしかに、(ハイデガーがそれ自体非本来的だとする)「客観的な時間(表象)」にしても、共同生活を営むうえでの必要と要請のもとに編み上げられてきているに違いないし、事実そのように機能もしている。こうした二つの時間性の往還のもとに「(個別的な)実存」と「関係」を生きている、ととらえたほうが、諸々の生の事態を考えるためには有効な糸口になる、思う。 「歴史」への考察も同様の構図のもと展開されている。「到来(未来)」「過去(既往)」「現在」という時間性において「自己のストーリー」を展開して生きる「現存在」自身のありかた(「生起」)そのものが、歴史性(共有のストーリーのもとに共同世界を生きようとすること)の底板となる……という優れた実存論的歴史観が展開される一方、「共同体的他者」と結ばれた民族の「運命」をめがけることこそが歴史性の本質である、という飛躍した主張がそこに連結される。さらに、(民族の)共同的な「善」のために「死」をも受け入れたうえで自らの可能性を見出せることこそが、本来的な実存可能性(自由)であり、ここにおいて「本来的歴史性」も成り立つという、もはや現象学的考察とは乖離した(予め用意されていたかのような)結論が付加されてしまう。(なぜ「市民社会」ではなく「民族」なのか、などの疑問が他の受講生からも出されていた。) ここには、二つの世界大戦の狭間という(『存在と時間』が執筆された背景にある)時代状況が深く影を落としている(のだろう)。国家の戦争が不可避な運命として感得され、そのうえで生の意義や価値を見出そうとするなかで、「死を賭して民族の共同的な『善』のために尽くすことこそが、本来的な生である」というストーリーが切実に希求されたのではないか。また、(「良心論」からも窺えるように)ハイデガー自身のうちでは、おそらく(「存在」という「超越」への「信」と同様)「民族の運命」「共同的な善」といったものが「内在化」=「了解」されており、「情状性」のもと(「良心」の呼び声のもと)に実感されていた(=自らの実存に根差した)ものだったのだろう。 竹田さんは……ハイデガーほど本質的洞察に優れた思想家が、「国家(間)において戦争は決して不可欠なものではない」という概念を持ち得ていれば、決してこうした結論には至らなかっただろう。(「自由」な、それと同時に「信仰」→「予めの善」を持ち得ない個々人が、それぞれの「了解」と「納得」に基づきつつ、よりよい「関係」を生き、よりよい生を営む一般条件を構想しようとした?)ヘーゲル・ルソーらの「近代(社会)哲学」のモチーフが受け止められていないし、普遍闘争状態を回避するために「国家」が形成されてきたという「歴史」への広い視野も剥落している……とコメント。 「情状性」「了解」(に基づく「内在的」な思考)は「思想」「哲学」にとって不可欠な契機だが、同時に「普遍性」を念頭においた吟味と検証も欠かせない、ということかもしれない。『存在と時間』での現存在分析が(近代的)人間の生の諸様相の本質を射当てている一方、「本来性(への先駆的決意)」「民族の運命」など「信念(直感)補強」的な内容が多分に含まれてしまってる理由は、そこにあるのではないか。 ……「内在」に定位したうえでかつ「広く」「確度の強い」普遍性へと行き届いた「概念」を紡ぎだす。その「概念」が、個々の自己了解を刷新し、新たな可能性を展望させるような力を与えていく。そうした営みこそが、「哲学」「思想」という言語ゲームの本質としてあるのではないか(その点、ハイデガーの「存在論」はかなり残念)、などということも考えさせられた。 いずれにしても、今回の講読講座、竹田さんの完全解読レジュメと刺激的なコメント、受講仲間の的確な読みにたくさん示唆を受けながら、かつてないほど『存在と時間』を読み深め、『存在と時間』から考えることができたように思う。 ニーチェ。付き合うための糸口がようやく? 3月3日から4日にかけては、朝日カルチャー新宿、ニーチェ『力の意志』講読講座の合宿。こちらのほうもシリーズ最終回の講座である。 形而上学的世界・あらかじめの客観世界への信憑を排し、欲望相関的な認識論の視座を打ち立てたことが、やはりニーチェ哲学の大きな功績だということを確認。「超越」への信仰を心性として担保したうえで思想を展開している?ハイデガーと比較してみると、ヨーロッパ近代人として、これは相当な力技だったのではないか……という気がする。 「超人」というモチーフにしても、「神」という超越と同時に「ほんとう」への信が潰えてしまいそうな時代状況のなか、それぞれの生の場所から「ほんとう」を表現し、内実ある形で育て合っていけることをめざしてのものではないかと思うと、共感できるように思える。こちらも、「あらゆる物語を排して」ということを口にしておきながら、最終的には「民族の運命」「共同的な善」という「物語」(としか思えないようなものを)を持ち込んでしまっている『存在と時間』でのハイデガーと比べてみると、その徹底ぶりがよく分かる。 「永遠回帰」説などで提示された、なんかよくわからない物理学的な?世界観にしても、決して実体としてそれを考えていたわけではなく、(それまでの)キリスト教的な物語に支えられていた世界観を転換し……世界そのものの側に何か道理があるとしてもこうした無機的なものにすぎない。人の生きる世界に意味や価値を与えるのは、あくまでも人間自身の生の側にある……ということをいわんがためのものと考えると、「全然あり」に思えてくる。 さらに、今回の講読箇所にはニーチェのこれまで(自分には)見えていなかった一面を窺わせる箇所があった。キリスト教的価値観において軽視されてきたような(心を癒し元気を与えてくれる)ささやかな小さな世界を愛でようとするニーチェである(第1016節)。心が疲弊しているときに、美しいと思えるもの、愉しい記憶とともにある小さな事物が、生への肯定感を取り戻すきっかけになる、ということは自分の場合よくある。ニーチェにしても、なんかそうして一生懸命生きてきた人なんだなあ、というような親近感を感じられた(ここに注目させてくれたのは西さんです)。 (弱者の)偽善・欺瞞を糾弾するような論調に気圧されてしまい、どうもニーチェは……という思いがずっとを尾をひいていたが、今回の講座を通して、自分なりにニーチェと付き合うための糸口が遅まきながらようや見えてきたことが実感できました。(以前から、「まず『ツアラトストラ』を読んでみれば?」と竹田さん、西さんには言ってもらっていたのだが、ようやくひも解く気になり……のぞいてみると、たしかに、ここには、生の肯定観を自らの手で打ち立てようとする真摯で切実な思いが満ち溢れている感じです。) フッサール。やはりたいしたものではないでしょうか。 だが、そんなニーチェにしても、(『権力への意志』でも再三語られている)「力のせめぎあいそのものが世界を形成している」というような「生物学主義的?力そのもの図式」は、哲学的な認識論として不要なものじゃないか……という思いは残った。その点、「もともとの世界」という観点を一切もたず、それぞれの生の現場(実存)に定位したうえで、誰しもにひらかれた形で普遍的な意義や価値を追求しあえる思考の原理(=現象学)を確立しようとしたフッサールのモチーフというのは、相当すごいものではないか……ということをあらためて感じたりもする(しかも淡々とかつ執拗にそれに取り組んでいるし)。 で、先日、『完全解読 フッサール「現象学の理念」』がいよいよ刊行されました。フッサール自身の読みにくういテキストから、そのモチーフを掴みだしていくには相当な根気と労力が必要とされる(と思う)が、この一冊は間違いなく最善の導き手となってくれます。 「フッサール」と「現象学」に、一人でも多くの人が出会ってほしいな、と思います。 /管理人 |