| 2010 8月5日(木) 「論考」にもの申したし…… 7月31日から8月1日にかけ、朝カル夏合宿が行われた。課題はヴィトゲンシュタインの「論理哲学論考」。 論理空間の中にある(「真」「偽」を明確に判定できる)諸事実のみが、この「私」(人間)にとって(確たる思考対象となりうる)世界である。価値や倫理などの問題は、その外部にあり、「私」が語ることのできる対象ではない。また、論理的思考はすでに(アプリオリに)与えられてしまっているもので、「私」はただそれを展開していくことができるだけ、そのありようをとらえかすことは不可能だ。……ということが書かれている本だと思うが(まったく違っていたらごめんなさい)……リリカルな表現を散りばめつつ数式のオンパレードが続く、という感じで、数学がだめ、詩的センスもなし、という個人的な資質のため思考可能な対象世界が(語りうる世界が)ごく狭い管理人にとっては、読むのに大変つらい本です。これまで、斜めに読み飛ばして通り過ぎてきました。 今回の講座は、竹田さん・西さんの完全解読レジュメ、他の受講生の方たちの的確なレポートに支えられ、理解を深めるためには絶好の機会だった。いや絶好の機会だったことには間違いないのだが、どちらかというと、(「論考」での)ヴィトゲンシュタインの「独我論」と、現象学の発想の根本的な違いを考えさせられる機会になりました。 「このわたしにとっての世界」を思考の足場にすえる、ということでは、両者は一見似ているように感じられる。 だが、現象学の場合、このわたし自身が、どれほどある対象、あるものごとの意味や価値を自明なものととらえていようと、「それはあくまでこのわたしにとっての『確信』である」という視点に立ち、その確信が成立している条件をとらえなおしていく視座を確保することによって成り立つ。それは、(それぞれの「わたし」がそれぞれの「生」を展開する「自由」によって立つ、近代社会が必定産み落とす信念対立、価値対立の場面において)共有可能な価値や意味を、他者との関係のなかで(それが具体的に必要とされる局面に即して)構築するための思考方法といえる。 それに対して、ヴィトゲンシュタイン的独我論は、(自分の思い通りにならない、他者とともに生きる現実という項を一切遮断して)ピュアな事実(実在)に立ち会える、ピュアな場所として主観が立てられてしまっているように感じられる。 また、ヴィトゲンシュタインの、「そこにおいて思考の真理が展開されるが、それ自身は人間の思考を超越している」という「論理」に対する考え方にも、まるで共鳴できない。論理的・概念的思考にしても、その成立の背景には、生活世界における具体的な要請があるはずだし、むしろそう考えることで、それらの意義や価値を開かれた形で共有化できる道が拓かれていくのではないか……と思えてしまう。 そもそも、『「真」「偽」の範疇で確かに語れることは(こうして論証したように)限られたものだ。語りえぬことには沈黙しなければならない」という『論考』のスタンスそのものが承服しがたい。人が何かを語ろうとするのは、(そもそも「真」「偽」の範疇に収斂しない・他者と生きる現実世界の中で)、何かしらのコミュニケーションギャップを架橋していく必要に駆られてのことではないか。 講座の最後に、温厚な西さんが珍しく少し強めの語気で、「ともに考え合う」ための足場を一切なくしてしまう「論考」の思想的立脚点を、「これではまるでだめだ」と、きっぱりと否定した。たしかに「哲学的思考」の本質にかかわること。うやむやにはできないと思う。 朝カル・ヴィトゲンシュタイン講座、後期からは「哲学的探究」の購読に取り組む。後期ヴィトゲンシュタインに「哲学的思考」の展開があるのか。確かめてみたいと思います。 講師、ほっとひと息 傍目からすると、「筋道だった思考力の鉄人」に見える竹田さんだが、実は(主観的には)数学はあまり得意ではないそうだ。それでも講師としての責任を果たすため、この間、西さんとヴィトゲンシュタイン研究会を立ち上げ、数学・論理学的な部分も含め「論考・完全解読」に努めてきた(論理的思考が機能的に弱い管理人は同席しているだけで泡を吹いて失神しそうなほど執拗な、いや綿密な解読作業の場でした)。講座終了後の帰り道、雲ひとつない真夏の青空に向かって、「ああ……これで論考から解放される……」と、晴れやかに伸びをしていた竹田さん。「探究」は純粋に楽しんで取り組めるテクストだということ。後期から、ますます刺激的な講座が展開していきそうです。 2010 5月23日(日) 本気のフッサールと出会えるのかも…… 5月22日は現象学研究会。課題図書はフッサール「イデーンU−1」 主に事物知覚の場面から現象学の基本的な発想を解き明かしてきたイデーンTに対して、「構成についての現象学的諸研究」と題されたこのイデーンUでは、心や身体へと考察の舞台が展開されていく(ちなみに「構成」というタームについては、「確信形成のありよう」と理解すると分かりやすい、と竹田さんからのアドバイスあり)。この日の購読箇所は、第一篇「物理的自然の構成」。まず出発点として、(価値的な側面を抜きにして)自然科学的(物理学的)対象世界(としての実在物)を構成する意識の様相の記述からはじめよう、という感じで、やっぱり「事物知覚」なんですよね。執拗に周到な人だ。感想として、ここのところ、ごく一般的な(普遍的な)意識体験に還元して本質観取しようとしているのか、自然科学一般におけるものの見方を記述しているのか、ちょっと区別がつかなうような印象を受ける(もちろん前者なんだろうけど)、という意見が出された。確かに。自然科学的な対象性というのは、そもそも利用可能性(あるいは対処可能性?)という動機との連関のもとで構成されてきている、というように思うし、そうした動機(=欲望)の側にたっての了解もこみにしないと、なんかすっきり落ちてこない気がしてしまう。 それはさておき、次回購読箇所は「有心的自然の構成」。価値の問題や意味の問題に対して本気に臨むフッサールの姿に出会えるのかもしれない、と思うと楽しみ(で、ついレジュメ担当を受けてしまった)。きちんと読み込んで報告できるようにしたいです。 ウィトゲンシュタインにも本気です…… 5月に開講された朝カル新宿の「ウィトゲンシュタイン」講座。なんと100人近くの(ひょっとして越えている?)受講者が参加している。これは朝カル竹田・西講座史上最多だと思う。この人気は、ウィトゲンシュタインのせいなのだろうか。それとも、「完全解読シリーズ」込みで、もうブレーク寸前なのだろうか。前者だとしたら、なんでウィトゲンシュタイン、そんなに人気があるのだろう(個人的には読むのに相当つらいテクストだけど)。後者だとしたら、……めでたいことです。 それはそれとして、22日現研帰り道の小田急線。管理人は打ち上げの食事会でおいしくいただいた紹興酒のおかげで、ほとんど眠ってましたが、隣の竹田さんは「論理哲学論考」(ちなみにウィトゲンシュタインの本です。)寸暇を惜しんで、ライン引きながら読み込んでました。なにごとにも本気な竹田さんです。 2010年 3月21日(日) 「世界初のこころみ」です 3月10日、「完全解読 カント『純粋理性批判』」が刊行された。 「世界初のこころみ 超難解哲学を原典に忠実に、かつ平易に解読」というのが帯に付された言葉である。(なかなかすごいフレーズだけど、編集担当の山崎さんが考えたんだろうか?) この「完全解読」シリーズ、原著の一語・一文に寄り添って筆者の「意」を汲みあげ、なるべく平易な言語表現でそれを再構成する、という作業のもとに成り立っている。それを考えてみると、たしかに他に例をみないような「読み」(と「表現」)の作業だということに間違いはない、と思います。 「純粋理性批判」のポイントは、(ものごとの究極原因がある/ないという証明が、論理のうえではともに成立してしまうという)アンチノミーの議論によって、(究極の真理を解明するという)伝統的な「形而上学」にピリオドを打ち、そうした「問い」と(二様に分かれてしまうような)「(世界)説明」事体が、(その)人間自身の「世界へのかかわりかた」と不即不離なものであることをとらえだし、それをふまえたうえで、(人間にとって、みんなで)とことん考えることができる問題、それだけの意味のある対象はなんなのかということをはっきりさせたことにある。「完全解読」を通してそのエッセンスを広く共有していくことが、哲学を未来への可能性を考えあうための思考技術として再生するためには欠かせない……という思いが、たぶん竹田さんをこの労作に向かわせたのだと思う。ちがってたらごめんなさいね。いずれにしても、10余年の研鑽の成果がこうして形になったことを記して、「純粋理性批判」もう一度読み返してみようかなと思います。(この本があると、まちがいなくそれがラクになる。) ![]() ヘーゲル国家論に、リンゴの出番なし 上の写真は、朝日カルチャー合宿で、発売まじかの「完全解読 純粋理性批判」を手にする竹田さん(右)です。(左は西研さん) というわけで、3月6日7日は恒例の朝カル・箱根合宿。雨模様で霧も深く(快晴なら富士山がきれいにみえるのに)景色すら何も見えず、こもって勉学に励むにはもってこいの天候でした。 課題はヘーゲル法哲学の「国家」。直前の「市民社会」までは、近代社会への原理的な考察が展開されているのに対して、「ここはちょっと……」という感じ。国家はひとつの有機体のようなもので、それを統合する頭のような存在が君主だ、というイメージ。もちろん、「一人ひとりが自分の可能性を展開して生きられる」ことへの(ヘーゲルらしい)目配りはあるものの、「一人ひとり」はあくまでも全体がよりよく機能するためのパーツ、というのが基本的な構え方になっている。 その点、「一人ひとり」の判断と納得にもとづく「一般意志」を、法や統治権力を正当化する唯一のよりどころとしたルソーのほうが、近代国家への考察においてはより本質的かも……という話になった。 ちなみに、「(共通了解の道筋をひらくため)客観的対象を前提にせず、(一人ひとりの)意識のうちでその「確信成立の様相」をとらえかえしていく」という現象学→近代主観哲学の発想を説明する必須アイテム、「現象学リンゴ」(写真卓上にあるやつです)、そんな国家論が話題の主だったせいか、今回は登板機会がありませんでした。 完全解読のスタミナ源 3月19日は、久しぶりのドイツ語研。フッサール「現象学の理念」の続きに取り組む。自分の文法的知識が甘いためか、講義調で文章としては推敲されていないためか、そもそもフッサールの言葉遣いがヘンなせいなのか、理由はさておきどうみても破格としか思えない表現から意を汲み上げていく作業にも、回を重ねるごとに慣れてきた(自虐的に楽しめるようになってきた)ように思える。 で、研究会が終わった後の毎回の楽しみがこれ。 ![]() 近くにある中華料理屋「ゆうゆう」さんの「薬膳なべ」です。 漢方薬のような香辛料が何種類も入った塩味スープ(左)とピリカラスープ(右)で、たくさんの野菜とラム肉をいただく。 ビールや紹興酒との相性も抜群で、疲弊した脳を震撼させるおいしさです。 オーナーの「がえい」さんの温かい人柄も加え、竹田さんの「完全解読」を支える栄養源になっているように思います。 19日は、独研メンバーWさんの誕生(前)日ということで、それを知った竹田さんが機転を利かせてデコレーションケーキを調達してくれる。 スパイシーな鍋のあとのケーキが、たいへんにおいしゅうございました…… 2010年 1月24日(日) 次はNHKホール? 1月16日(土)は、NHK文化センター町田教室、フッサール「現象学の理念」購読講座の最終回。4時間の長丁場にわたり残りの箇所全てを読みきった。最終回から初参加した受講者の方もおり、教室は超満室。しかも、講義開始10分前には多くの席が埋められ、黙々と予習をしている姿が。その熱意、さすが「メッカ」ならではだと思います。 「現象学の理念」。難渋な言葉を解きほぐしていくと、だれもが、それぞれの場所から、ものごとの意味や価値を深く納得できるようにとらえ直していける思考方法を打ち出そうとするモチーフがうかびあがってくる、ように思う。だが、全体の「見取り図」がつかめるようになって、はじめて細部のニュアンスが分かってくる、というような代物。ミスリーディングな言葉の障壁も多く、いきなり挑戦すると「入れない」まま出てきてしまうか、迷路に入り込んで「なにがなんだか分からない」状態になってしまうような本だと(自分自身の体験を振り返ってみても)思います。それを考えると、今回の講座での詳細なテクスト購読は、「フッサールの言葉」を通して現象学の基本的な発想をつかまえるためのよい機会になったのではないか、と感じる。 NHK文化センターのフッサール講座は今後も継続。竹田さんによると、次回はフッサールの主著、「イデーン」を視野に入れているとのこと。フッサールと付き合い始めて苦節10余年、ようやく「フッサールの言葉」を通して「フッサールの意図」が少々見えてくるようになった気がしなくもない管理人としても、今後の展開が楽しみです。 次回の講座、もっと人数が増えるようなら、いっそNHKホールで?……などといいつつも、清濁併せ呑む文化都市?「町田」に、「考え合い、語り合うことの喜び」をさらに広めていこうとする講座企画担当者・榎本さんでした。 変なところが似ているのかも 「現象学の理念」は「完全解読本」の刊行も計画されている。「メッカ」まで足を運べない人、フッサールに10余年も付き合いきれない人も、世の中にはいる(というかほとんど)でしょうし、意義深い本になること、間違いない。(ちなみに、「完全解読 カント純粋理性批判」のほうは、近々脱稿だそうですよ。書店に並ぶ日も近い?) ……というわけで、今年から、「ドイツ語研」でも「現象学の理念」の原典購読に励んでいる。ドイツ語で読んでみると、同じようなことをちょこっとずつ角度を変えての説明が、それはもう執拗なほど細かく。それが、趣旨としては明瞭なはずのことを逆に曇らせてしまうこともしばしば。ということを尚更に実感。(竹田さんに言わせると、「イデーンの1−U」になると、さらにヤバイそうです)。フッサールが好きだったはずのI氏からして、「ちょっと病気なのかも」とこぼすほど。でも、わたし的には、遅々と読み進める中で分かってくることもけっこうあるし、「これでは十分伝わらないかも」という不安から、つい言葉を重ね、なおさらどつぼにはまってしまうような不器用さにも、少々共感してしまったりする。要するに、変なところが似ているのかもしれない。(その点、竹田さんは、「そこは抜き」で、グレードアップして生まれ変わっている気がする。いいな。) ドイツ語研では、「平明なテクストを文法を抑えながら読んで、読解力を高めていく練習をしよう」という竹田さんからの提案で、吉本ばなな「キッチン」ドイツ語訳を並行して読んでいる。思い切り口語調で破格な原文(日本語)が、けっこう整ったドイツ語に訳されているところが妙に面白い。そんなこんなで、硬軟あわせて楽しめるドイツ語研なのでした……。 /管理人 2009年 12月13日(日) ヘーゲル、やっぱりすごいやつだ…… 12月12日は朝日カルチャーセンターでの、ヘーゲル「法の哲学」の講義。この日は、第3部第2章「市民社会」の購読。 「市民社会」において、人間は自らの意志で職を選び、それぞれの(生産)活動を展開し、各々の(自己表現の)「欲求」を満たしていく「自由」を得る。しかし、その一方で、自分のつくり出したものが、社会一般から価値を認められ(承認され)ない限り、その活動は実を結ばない。たとえば、市場のルールに即してその要求に応える水準以上のものを生産しない限り、売れることはない。つまり、普遍的な価値に向けて、自らの活動(表現)を陶冶していくことが求められる。そこでは、「自由に生きる」ことと、「(人とともに織り成す)社会システムの網目のもとに生きる」ことの二側面が相俟って、「可能性」と「条件」が形成されている。また、この「市民社会」においては、「他人と同等でありたい」「際立つことで幅を利かせたい」という承認欲求が、多種多様な商品生み出し、消費社会、経済活動を展開させていく……。そうした記述が、近(現)代社会に生きる人間存在の様相を鮮烈にとらえていて、決して古びた感じがしない。 こうした「市民社会」は、ときには自己のほんとうを表現できない不全感や、(初期条件の違いなどによる)格差の問題を引き起こす。だが、この社会が「自由」(よりよく自分を生きることへの可能性)を開放する方向性において形成されていることを踏まえれば、諸問題の解決・改善への方向も、「自由の相互承認」を基本線としたルール設定・ルール改編のもとに見出していけるのではないか。そうした、シンプルかつ力強いメッセージが伝わってくるような気がする。 やはりヘーゲル、ただ者ではないな……ということをあらためて実感できた講座でした。 次回は3月、合宿講座で「国家」の章を主に購読する。竹田さん・西さんにいわせると、「市民社会」の章では原理的な考察が貫かれているのに対して、この章はヘーゲルの生きた時代状況や現実が影を落とし、「問題あり」のところだそうだ。そういわれると、また興味が沸いてくる。どんな問題があるのか、確かめてみたいなと思います。 ここ、本当にメッカなのかも 12月7日はNHK文化センター町田教室で、フッサール「現象学の理念」第3回購読講座。この講座で初めて現象学の扉を叩いたという受講者の方も多い。そんなこともあってか、竹田さんは、「ものごとの意味や価値を洞察し、共有する思考方法」である「現象学還元」の発想を、図説をもちいて繰り返し解説してくれている。フッサールのいわんとするのは、意識に還元すれば絶対的真理を見出すことができる、というようなことでは決してなく、「自分がそうとらえて(しまって)いる」場面(意識体験)にのみ徹底して寄り添い、ものごとの「確信」が成立する際の共通構造を取り出し(確かめ合えるようにし)ていこう、ということ。事物知覚というシンプルな場面でその原理が繰り返し解説されるが、この方法は意味(や価値)に対しても展開できる(むしろ、価値対立が生まれがちな、そうした場面でこそ効力を発揮する)。……ということが、「絶対的所与性」などなど難渋な言葉の一つ一つを丹念に解きほぐす「テクストの完全解読」に併せて、「完全解説されていく。 町田での講座は、現象学の本質に迫る、内容深い哲学講座へとだんだんと「成長」している。それとともに、受講者数が減り……ということには決してならず、逆にどんどん増えていることをうれしく、たのもしく思う。「町田は現象学のメッカ」が、冗談抜きの現実になる日がそこまできている……のかもしれません。いずれにしても、担当の榎本さん、今度ともよろしくお願いします。 俊英のデビューを祝って 12月5日は、現象学研究会の俊英、石川輝吉さんの『カント信じるための哲学』の出版記念会。石川さんはこの本で、「ひとそれぞれ」という場所にたちながら「普遍性」につながる考察を導き出す……という近代主観哲学の要諦ともいえる発想を、カント三批判書から明快に読み解いてくれている。同時に、そのことが、ともすると寄る辺ない孤独に晒されがちなそれぞれの生を営む現代人、特に若い世代の人たちが、可能性を見出していく道標ともなるメッセージにもつながっている。 出版の企画を立ち上げてくださったのは、竹田さん、西さんをはじめ、菅野仁さん、金泰明さん、山竹伸二さんなど、現象学研究会メンバーの本を数多く送り出してくださった、NHK出版・ベテラン編集者Sさんだが、直接担当して仕上げてくださったのは、石川さんとほぼ同世代のIさん。ご自身よりさらに若い世代の人たちの心に届く本を、と心を込めて取り組んでくれたことが伝わる一冊となっている。 出版記念会では、「力量を存分に発揮して、さらに本格的な哲学書を」「サブカルの素養も生かしたポップな一冊」をなどと、他方向への期待を込めたメッセージが寄せられる。 さまざまな引き出しをもった、石川輝吉氏の今後に乞うご期待、です。 /管理人 2009年 10月25日(日) 哲学の秋 10月17日朝日カルチャーセンター新宿で、西研さんとのジョイント講座、ヘーゲル「法哲学」の後期授業が始まった。 初日はまず講師二人の「マイブーム」(この言葉、まだ生きてますか?)のお話。 竹田さんの最近の「趣味」は、「哲学完全解読」、直近ではカントの『純粋理性批判』の刊行が予定されており、毎朝早起きして取り組んでいるそうです。竹田さんは、(有名な「カラオケ」をはじめ、テニスやオーディオなど)多彩な特技や趣味をもった人なのだが(10年ほど前までは、ファミコンにも相当はまっていたそうです)、いまは諸々の欲望が「哲学」に収斂しているとの話。イチローの「野球」、石川遼の「ゴルフ」、のような感じですね。好きこそ物の上手なれの世界水準。 西さんも、ほぼ同様に「哲学」に浸る毎日だそうです。二人の共著となる『ポケット版・ヘーゲル精神現象学』が、来春の刊行をめざして、着々と進行中。一昨年デビューした『完全解読・ヘーゲル精神現象学』(講談社メチエ)が、かなり本格的な内容だったので、今回はさらに噛み砕いて「ほんとうに寝ながら読めるヘーゲル」にしたいな(竹田さんのコメント)、ということです。西さん自身の単著としても、社会学者で現象学研究会のメンバー、菅野仁さんとの対談本がもうじき刊行の予定。さらに『哲学のモノサシ』(NHK出版)に続く「哲学絵本」も進行中で、これからの西さんの哲学の展開を伝えてくれる内容になる、というお話でした。楽しみです。 その他、西さんは勤め先の和光大学で、「ジャズ」の講義もしているそうです。これも「趣味」かな―、とのことです。そういえば、マイルス・デイビスの自伝はとても面白いよ、という話をごく最近西さんがしていた。どんな講座なんだろう。きいてみたい。もし、受講した方で奇跡的にこれを読んでおられる方がいらっしゃったら、ちょこっと教えてもらえませんか。 いま、社会のさまざまな現場で(職場にしろ私的な場面にしろ)、それぞれの居場所から現状をよく見つめ、問題を共有化しあい、「この先」を見渡していくことを可能にする思考方法の確立が、希求されていると思います。「哲学」を、その「思考の原理」として再構築することの意義もそれだけ大きい。で、竹田さん、西さんはそうした仕事を(「趣味」と言っていいほど)「楽しみながら」「集中して」展開している様子。「哲学完全解読」は(そのための労は傍目からみるとすごいものなのですが)、いってみれば「わかる喜びを共有する(その思想の本質的なよさを広く共有しあう)」ものですし、それを考えると「楽しい」仕事なのかもしれません。 初日の「法哲学講座」は、ヘーゲル哲学の今日的価値の解説。ヘーゲル哲学の最大の意義は、人間の欲望の本質を「自己価値への欲望」「承認欲求」として(的確に)とらえ、その展開のもと社会や倫理のありようを見取ろうとしたこと。そして、近代(社会)の本質を、誰もがそうした生の与件(自己価値への欲望)に即して生きられるという「自由」の展開において描き出したことにある。さらに、ヘーゲルは、その近代が必定生み出す、「幸福への自由競争」による社会格差の問題、「善の自由競争」による思想対立の問題を視野に入れ、(「事そのもの」「良心」という概念において)その解決への方向性を示した。「批判」のみに終始する、現代思想の「反哲学的」言説とは一線を画する、本質的な思想への志が息づいている。「自由」であることは、同時にとても孤独なことでもある。多くの人々が今、抱え込んでいる「寄る辺ない苦しみ」をくみ上げていく視点がヘーゲル哲学に内包されている……そんなことを竹田さん・西さんのお話を通して再確認させてもらう(間違っていたすみません)。難解なテクストにまたチャレンジしていくモチーフをいただいた感じです。 西さんによると、後期講座で購読する、「法哲学」の後半部分(家族・市民社会・国家)については、ヘーゲル思想のエッセンスに基づきつつ、「リニューアル」する必要がある、とのことです。それ、どんなことなんだろう。ますます楽しみになってしまいました。 だって,ここが「メッカ」ですから。 10月5日(月)、町田NHK文化センターで、フッサール「現象学の理念」購読講座がはじまった。町田講座で、竹田さんの本格的哲学購読講座が開かれるのはこれがはじめて。「人が集まるのかしら……」という懸念があったそうだが、いざふたを開ければほぼ満席状態。しかも「竹田さんの講座は今回がはじめて」という方もたくさん参加された。 でも、小田急線町田界隈は竹田さんと西さんの住まいのほど近く。いってみれば現象学のメッカです。やはり界隈に住み学生時代バイトをしていたこともありこの地に愛着を持つところの(カントのドイツ語並に長い冠飾句だ……)管理人としては、講座の盛況、何にも不思議はないはず、だと思います。 初日の講座は、フッサール現象学の本質的な価値について。「反哲学(反形而上学)」の潮流のなか、現象学は絶対的、客観的な真理を基礎付けようとする(古い)「哲学」の典型として誤解を受けてきた。しかし、その真意は、むしろ、絶対的客観、絶対的真理という前提を禁じ手にしたうえで、「普遍的」な認識を、「共通了解」によってとらえだす思考の原理の確立をめざしたことにある。(この思考方法の現実的問題に対する射程は大きい。)……ということを、パワーポイントを駆使して解説してくださった。竹田さんの図説はとてもわかりやすくかつ、ユーモアがあり(漫画家の藤野美奈子さんも、その画力を高く評価している)、パワーポイントはとても効果的なツールとなっています。 講座の後は、近くの居酒屋で懇親会。新しい方との出会いもあり、「HP見てますよ」「でも更新とまってますね」などとお声がけいただいたりもして、たいへん幸せな時間をすごさせていただく。懇親会の場も含めご配慮いただいた、講座ご担当の榎本さん、毎回ありがとうございます。 ドイツ語研、いよいよフッサールへと…… 10月6日は研究室でドイツ語研。長らく購読したカント「純粋理性批判」もこの日が最終日。あまりに構文が難解で、文法的に???ということがあり、苦労させられたが、竹田さんのテキストに向き合う入念で真摯な姿勢に触れられたことは収穫かも。文意はとれても、構文的にきちんと腑に落ちないと先に進まない、という感じのこだわりです。そして、この購読の間も、「(完全解読の原稿の)ここは少しなおさくちゃ」と、チェックを重ねていた。『完全解読・純粋理性』。程なく形になるはずです。 次回からは、フッサールの『現象学の理念』にチャレンジ。がんばりたいと思います。 2009 年 9月13日(日) 新刊ゾクゾクと…… 9月10日、社会学者橋爪大三郎さんとの対談本『低炭素革命と地球の未来』(ポット出版) これに先立ち、8月21日には監修をされた『面白くてよく分かる!フロイト精神分析』(アスペクト) 研究室の灯は消えず…… で、夏休みも集中して勉強する竹田さん。8月14日、世間的に盆休みの時期に、研究室では「ドイツ語研」が開かれた。カント『純粋理性批判』の第3アンチノミーと「格闘」。でも、ドイツ語に堪能な西研さんが参加するようになって、読後の「スキッと感」が倍増した感じだ。西さんは、文法にも照らし合わせ、痒いところに手が届くような解説をしてくれる。とてもとても充実した時間になっています。 聞くところによると、竹田さんはこの盆休み期間、みずから研究室に缶詰になって(?なんか変な日本語ですね)フッサール『現象学の理念』完全解読の英訳に取り組まれていたそうだ。(英語の勉強にもなるので、とおっしゃる。頭が下がります……)現象学の本質を、広く世界へと発信していくというプラン、実現はそう遠くなさそうだ。 『純粋理性批判』の完全解読本、朝カルの講座がベースとなった『精神現象学・ポケット版完全解読』のプランも着々と進行しているご様子。今後もゾクゾクと竹田さんの本が楽しめると思います。 『経験と判断』、まだ5合目です…… 9月5日は「現象学研究会」 「論理学」の本質を(「このわたし」という主観をモデルとした)世界の受け止め方、とらえ方という様相に立ち返り、つかみ取ってこう、というモチーフに共感しつつ、読み進めようとするのだが、とくにここのあたりの分析・記述が、それはもう細かく。かつ、(明晰な判断のよりどころとして)「客観的事物の知覚」をまずもっての起点にしていること、(だれにとってもそうみえるはずだという確信のもとにある)「客観世界」を「根源的時間」なるものとの関係のもとにとらえようとする記述など、「ちょっと違和感」のところも。ものごとをそのように対象化したり、共通の価値として(客観的なものとして)何かを見出そうとしたりする「欲望」の展開に照射したほうが、ずっとすっきりするのに……と思えてならない。 「これ、『論理学』から「巻き戻し」て、経験や判断をとらえようとしているのかも?」という感想なども出される。だが、「こうして『(事物)知覚』にこだわるのは、『論理学』の確かなよりどころを見出そうとする動機があるからではないか」という意見も。なるほど、と納得。しかし、「そもそも、なぜ『論理学』の根拠を問おうとするのか、ということ自体を明確にしておく必要があるんじゃないのかな……」という、石川テルキチ氏 険しい道のり、まだまだ5合目という感じですが、竹田さん、西さんの的確な読みや、メンバーとの語り合いに励まされつつ、なんとか上りきり、ちゃんと報告できるようにしたいな、と思います。 /管理人 2009年 8月2日(日) これが終わると、夏休み 毎年8月最初の週末に開かれる朝日カルチャーセンター(新宿)の合宿講座は、竹田さんにとって「これが終わるとようやく一段落(夏休み)」という感じになるそうだ。それだけ気合を入れて取り組んでおられる。 8月1日から2日にかけて、その講座が開かれた。 題材はヘーゲルの『法の哲学』。「道徳」の章を中心に購読を進めた。 竹田さん・西さんの解釈は、(毎回のことではあるが)主張のポイントを明快かつシンプルに取り出すだけでなく、「なぜこの話題がここで取り上げられているのか」という詳細なレベルに至るまで疑問を氷解してくれる、「凄み」のあるものだった。『法の哲学』は「完全解読本」刊行のプランも進んでおり、竹田さんはこの間「けっこう大変だよ……」といいながら、集中して完全解読レジュメ作成に取り組まれていた。 それでも竹田さんは、ご自身でも腑に落ちていないことがあれば、講座の場で実直に告げる。西さんがその点に関してご自身の考えを出される。西さんとの対話を通して、解釈の輪郭がよりはっきりしてくる。受講生の質問からも、考察を深めていく糸口を見つけ出されているようだ。(一受講生として)充実した楽しい講座であるだけでなく、そういう竹田さんの真剣勝負の場に立ち会っているという昂揚感もわいてくる。 合宿恒例・夜のフリー質問会では、竹田さんの現象学の位置づけと評価をたずねる(なかなか)スリリングな内容のものがあった。これについては、西さんが「現象学(者)」をめぐる現況を瞬時のうちに素描してくださった。そのうえで(確信成立の条件をとらえ、たずねあうという)「現象学」の可能性を明快にとらえだしたのは、竹田さんならではのことで、今後その射程は大きい……と整理してくださった。西さんの「ミニ竹田青嗣論」。思わぬごちそうという感じでした。質問してくださった方、ありがとうございます。 また、7月30日に東工大で開かれた、橋爪大三郎さんとのジョイント講座「地球の危機と市民の行動」の内容も、竹田さんご自身が報告してくださった。(仕事の都合で出席できなかったので)ありがたかったです。 二日間とことん考え、語り合った本当に充実した合宿でした。 細かな配慮で支えてくれた担当の石井さん、どうもありがとうございました。 うなぎの「現象学」? 知力体力を振り絞った合宿の後、近くにあるおいしいうなぎ屋さんでスタミナをつける竹田さん。ご一緒させていただく。 席上、それぞれおすすめのうなぎ屋さんが話題になる。名古屋在住のみなっち(藤野美奈子)さんは、名物「ひつまぶし」について語る。 「『ひつまぶし』って、同じ一匹のうなぎでも、ごはんたくさん食べられていいですよね」と、アホな管理人。 「それ、どういうこと? うなぎって一匹から何人分もつくるわけだから、関係ないでしょう」と竹田さんに問いただされる。 そういえばそうかも。でも…… 「注文を受けて、裂くところから始めるうなぎ屋さんもあるんですよね(行ったことないけど)。だから、基本は一匹一人前じゃないのかな。」 「なるほど、それもそうだね……。そういえば、いまみんなが食べてるうな丼、それぞれ尻尾が入っているよね。考えるに値するテーマかも。」 「でも、うなぎって、これよりずっと長いですよ。一匹で一人前とは思えないな。」と助手のM岡氏。 「焼くと縮むのかな。 うなぎの減少学?」と竹田さん。 ……何が言いたいのかといいますと @竹田さんは普段から腑に落ちない発言は見逃さない。だが、その発言の背景に一定の根拠と動機を認めれば、きちんと受け止める人である。 A竹田さんは駄洒落を愛する人である。その傑作は枚挙に暇がない。 以上でした。 /管理人 2009年 6月28日(日) ご無沙汰してすみません…… 管理人日記、ながらく更新できずにすみませんでした。冬眠を通り越し春がすぎてもまだ起きられず……という感じでしたが、一念発起して再開いたします、ので、よろしくお願いいたします。 「世界への第一歩」、まずノルウェーから 管理人が眠りに堕ちている間も、(当然)竹田さんは大活躍。この6月は、西研さんをはじめ、現象学研究会メンバーのI岡さん、I甲さん、T野さんとともに、ノルウェーで開かれた、現象学をテーマとした国際的な学会に参加。竹田さんは、「確信成立の条件を探る」という現象学の発想の核心について、西さんは、現象学のエッセンスをどうとらえ、社会への考察にどうつなげていくかということ、ほかの方たちも「救急医療」(I岡さん)、「カウンセリング」(I甲さん)、「教育(学)」(T野さん)という、各専門分野から、現象学に基づいた原理の構築や実践の可能性について発表なさったそうです。 医療や看護で、(この人に対して、どうすればよりよい医療を行うことができるか、というような)実証科学だけでは太刀打ちできない問題に日々直面する方たちが、人間的価値の問題を考察する手がかりを求め、現象学に関心を寄せていることは、国を超えて共通している様子。 でも、その現象学の発想の「キモ」が、(フッサールの超煩雑難解な言い回しのせいか)うまく理解されていない……ということも国を超えて共通した事態のようです。 一人ひとりの実存に寄り添いながら、ものごとの普遍的な価値を見出していくための思考の原理を掘り起こした、竹田さん・西さんの現象学解釈は、(きちんと伝えることさえできれば)きっと今後多くの方たちに(それぞれの現実に根ざした)可能性をひらいていくことになると思う。 ちなみに竹田さんは、今回の学会で「フッサール完全解読」のプランを伝え、多くの人が興味を示したそうです。「世界が完全解読をまっている」のだと、わたしは思います。(それにしても英語の勉強がこわいほど生きていますね。) で、フッサールを読む。 6月27日は現象学研究会。冬眠春眠からさめ(?)た管理人は半年振りの参加(だが、(この間活動報告 課題図書はフッサールの『経験と判断』。竹田さんにいわせると、これは「難解がゆえに乗り越えること自体に快感がある山」のような本でだそうです。もちろんご自身は何度も乗り越えた山で、今回は、若いメンバーたちと一緒にもう一度道筋を確かめなおしてみる、という感じなのだと思う。ちなみに管理人は、何度か途中下山して今日にいたっています。 本の要諦は、「論理学」の本質を現象学的にとらえなおすこと。『緒論』では、(言語の)論理形式(による判断)のもとになっている、「ものごとのうけとめかた・とらえかたの様相」を、「知覚」という最もコアだと思える場面からまず見取っていこう、というような方法論が示され、なかなか興味をそそられる。ミスリーディングな術語である「超越論的主観性」についても、(決して真理が生成する特別な場というようなことでなく)もともとの客観を一切前提にせず、(だれにとってもそうであるはずだ、という客観的世界への信憑をナシにしたうえで)「わたし」にとってという場面からものごとのありよう、意味や価値が形づくられてきた(沈殿の)をとらえなおしていこう、という目的・方法に即してのものだということがけっこうわかりやすく語られていて、共感を受ける。 ただし、その後の「知覚」の分析が、それはもう執拗に細かく細かく……やはり先の道はけわしそうです。(ちなみに、こうして「知覚」から出発して、際限なく顕微鏡の確度を上げていくより、欲望相関的な世界構成という場からストレートにとらえていったほうがいいんじゃないかな……という竹田さんの意見もありました。) 以降2回に分けて「登山」の予定です。がんばって上りきり、フッサールの意図(なんでこんなふうに「論理学」の本質にこだわったのかということ自体を含めて)を見渡せたらいいな、と思っています。 /管理人 2008 年 10月19日(日) ヘーゲル、聞くたびに新鮮だ 10月18日、今期朝カル講座の後期が始まった。『完全解読 ヘーゲル「精神現象学」』(講談社)をさらに完全解読し、その成果を「ポケット版完全解読」に反映しようという「プロジェクト」の一貫でもある講座である。第一回目は、西研さんがはじめて受講する人たちにも分かりやすいようにと、精神現象学の基本的な発想と、前期までの意識→理性章までの流れを端的にまとめてくださった。……「ものごとを確認するための共通のステージ」としての意識によりそいながら、さまざまなレベルでの事象の意味本質をとらえかえしていく。そうしたフッサールの「現象学」に共通する視点(「観念論」という発想)が、ヘーゲル思想にもある。「精神現象学」は、意味の生成過程をたどり直し明らかにしていく(フッサールの)「発生的現象学」と同様の発想に基づくものであり、その要諦は「バラバラな知や対立する思想的立場と見えるものを、意識経験というところから理解しなおし、相互関係を明確にしてつなごうとする」ことにある……ということを、西さんならではの平明かつ丁寧な語り口で伝えてくださった。 竹田さんは、個々の人間の「自由」の相互承認に立脚する「近代社会」の成立を、「精神」→歴史の必然的展開のもとにあるとみなす、ヘーゲルの思想体系そのものには問題がある……ということを明確に指摘された。さまざまな国の歴史を冷静にとらえかえしてみると、それは必ずしもヘーゲルが必然性と名指すような道のりをたどっているわけではない。むしろ「人間は条件が整えば自由を求めるもの」と考えるべきではないか。……たしかに(『精神現象学』が一面としてもつように)世界の究極的な説明体系を構築しようとすることよりも、竹田さんのいうように(かつ実践しているように)「人間的自由の条件」が成立し、よりよく展開していく可能性を模索すること(そう目的を自覚化できること)が、人の生きる現実に届く思想を紡ぎ出すためには不可欠ではないか……と考えさえられた。 毎回、受講するたびに新鮮な感動のある竹田さん西さんのヘーゲル講座です。(担当の石井さん、もろもろお世話になりありがとうございました。後期もよろしくお願いいたします。) 純粋理性批判も「完全解読だ」! 10月8日は久しぶりのドイツ語研。いよいよカント『純粋理性批判』のクライマックス(アンチノミー)にトライする。ちなみに、竹田さんは『純粋理性批判』の詳細なレジュメをまとめておられる。言葉の並びだけではどうしても理解できないところに差し掛かると、「ヘルプ」としてそれを提示してくださる。すると、「あ、なるほどねー」ということになる。面白いのはその場でご本人も、「あ、なるほどねー」と納得していること。レジュメをつくったとき精読した集中力の水準は、それだけ尋常ではないレベルのものだっだのだろう、と思う。原典原語講読というハードルを越えることで、その領域に近づけているんじゃないかと思うと妙にうれしくもある。 『純粋理性批判』は『精神現象学』に続く「完全解読シリーズ」第2弾として、遠からずの出版が視野におかれている。(と講談社・担当編集の山崎さんも言っていました)。 その「過程稿」を、ウェブ上で少しずつ公開してくことになった。みなさんも竹田さんと「一緒」に『純粋理性批判』、完全解読しませんか。一息ついたときのお菓子が、とってもおいしいですよ。 /管理人 2008年 9月15日(土) うっかり夏休みを…… ごぶさたしてしまいました。うっかり管理人的夏休みをとってしまったようすです。 竹田ゼミもこの間夏休みであったのだが、竹田さんは学校が休みの間は執筆のお仕事が忙しくなる。この夏は、ヘーゲルについての新しい本の仕上げに取りくんでおられたそうです。ヘーゲル思想のエッセンスを現代社会に展開していく可能性を示す一冊になるようだ。刊行はまじか。楽しみです。 町田では実存の哲学 9月6日、NHK文化センター町田教室で講座「恋愛を哲学する」が開かれた。「町田教室」は小田急線の駅からほどちかい商店街?の一角をしめるビルの中にある。まちの活気が伝わるとってもポピューラーな環境です。講座の内容は、3月の「井上陽水論」に続き、竹田さんの「実存論」的側面に照射したもの。 ……「恋愛」は他にかえられない自己肯定感、「真」「善」「美」への確かな感触を得る契機となるが(逆に失恋は深い自己喪失感を生む)、基本的には「自己幻想」であることを了解し、互いの幻想のズレを認識しながら調整の努力を重ねていけることがたいせつ……という、話などには深く納得させられた。 町田は竹田さんのおうちからも近く、沿線すぐそばの駅にすむ管理人としても、「ほぼ地元」でこうした講座が開かれていることがとてもありがたい。でも、千葉県から東京湾をくるりとまわってこられたかたや、さらにもっと遠方からはるばる参加されたかたなどもいたご様子。ホームページを見てますよ、などというお話も聞けてうれしく思いました。 担当の榎本さん毎回の企画をありがとうございます。これからも「町田では実存哲学」をよろしくお願いいたします。 小学校社会科の先生 管理人は参加できなかったのだが、竹田さんは8月末に都内の図書館で,小学生に「社会科」の授業をしたそうです。「学校」の本質観取をしたり、「大貧民ゲーム」を通じてルールの本質を伝えたりなど……お話を聞くだにおもしろそう。ルールにもとづいて多様な関係を(楽しく)展開できること、よりよくそれを展開していくためにそれを改変していくことの意味をまず知ることが、たしかに基本となるように思う。 竹田ゼミには教育学を専攻しているかたもいるし、竹田さんの哲学がこの方面にも展開していけばいいなあ、と思います。 /管理人 2008年 7月27日(日) 著作リスト、更新しました。 「久しぶりだけど……」と、竹田さんからデーターをいただき、昨年5月から現時点までの著作目録を追加しました。 でも、夏場になると好きなテニスでちゃんと健康的に日焼けしている竹田さんでもあります。けっこうすごいなと思います。 ちなみに、「ちくま新書」からまもなく、ヘーゲル思想のエッセンスを現代社会へと活かす可能性を考察した新著が刊行される予定です。楽しみにおまちくださいね。ライフワークである「エロス論」も遠からず形にしてくプランが具体化しているそうです。 山竹さんの顔色が…… 7月19日、HPでもご案内を出していた、竹田さんと山竹伸二さんとのジョイント講座、「『心』はどこへ向かうのか」が開かれた。ちなみに、管理人は山竹さんと10年来の知己である。知り合ったきっかけは竹田さんの朝カルの(ハイデガーの)講座。それ以来、(ときには3,4人くらいの)プライベートの勉強会(→飲み会)で頻繁に顔を合わせている。「哲学の原理を心の問題に(精神医療の原理として)活かしたい」というモチーフをずっと抱き続けている人である。毎回の勉強会では丹念に課題図書を読み解き、緻密なレジュメをつくり、穏やかな落ち着いた口調で自分自身の考えを語る。そうした姿勢がそのまま朝カル講座でも展開されていることを、うれしく思う。 ……人間というものは、「思いのままにはならない自分」という場所を生きる。つまり、感情や好みや癖など、「なぜかそう感じている・そうしてしまっている」自己の身体性のもとで生きることを条件づけられている。そして、挫折したり、人との関係がうまくとれずに悩んでいるときなどは、往々ネガティブな気持ちで「思いのままにならない自己の身体性」に立ち会わされる。しかしこの「自己の身体性」というものは、これまでの自分自身の関係と行為の集積から知らず知らず形作られてきたものであり、原点には幼少期の親との関係がある。その形成過程は「想像的」にたどり直していけるものだし、それを自覚化することが、いま不具合を感じている自分のあり方を刷新する契機ともなる。(フロイト思想の最良のエッセンスもここにある。)ただし、大切なのは、この「自己の(過去への)考察」が、「事実的な(不調の根本)原因探し」であってはならないし、それは原理的にも不可能なことだということ(このへん、フロイト自身の考察にはちょっと問題がある?)。「この先」に向け、生の肯定感をどう見出していくか、自分なりの「ほんとう」への感触をどう維持していくか、ということに繋げて考えられたとき、それははじめて意義をもつものになる……ということが、自分なりに竹田さんと山竹さんの共同作業から得てきたものなのだが、今回の講義はそのことを再確認しつつ聞かせていただいた(ように思う)。 特に面白かったのは、竹田さんが「自己の身体性」を、「自己ルール」という観点からとらえ、しかもそれを「よい・わるい」「美醜」「ほんとう・いつわり」という三つの契機からとらえたこと。「自己ルール」である以上、それは客観的な正当性を主張できるものではないが、それでも自分の中で「ほんとう」の感覚が死んでしまわないように、他者との関係を展開していくこと(「調整」の努力を重ねていくこと)が、よく生きられているという実感を得るうえで欠かせないのではないか。そもそも「真・善・美」というもの自体、関係をよく生きるために考案されたアイテムなのだから……という話に深く納得させられました。 講義の内容を詳細にお伝えできなくて残念だが、二人の共著『フロイト思想を読む』には今回の講座のエッセンスがつまっているので、まだの方はぜひ、読んでみてくださいね。 ちなみに、あとから聞いたところ、山竹伸二さんはこの日ウィルス性の風邪でむちゃくちゃ体調が悪かったそうである。でも、全然そんなことを感じさせず、4時間以上の「マラソン講座」を完走していた。ただ、後から気がついたことがひとつ。山竹さんはふだんとても顔ツヤがよく、いつもの講座の場合、穏やかでありながら毅然とした表情のうえに、蛍光灯のかたちがそのまま反映(反射ではなく)している。講座が終了するころには蛍光灯の残像が瞼に残される……のだが、今回はそれがなかった。きっと、そうとう苦しい中で(顔色も本来の調子とは程遠い中で)の講義だったのだろう。それでも、多くの人の心に届く言葉を(竹田さんとともに)一生懸命語ってくれた山竹さんに感謝です。お大事にね。 お菓子とビールとカント 7月22日は夏休み前最後の(竹田研究室での)ドイツ語研。カント『純粋理性批判』の講読を続けている。今回から現研(現象学研究会)の若手エース、小井沼氏も参加。「先験的論理学」という難所を通っているのだが、みんなちゃんと予習してくるし(時間かけて予習しないと歯が立たないし)、翻訳家・磯部さんの「基礎単語帳サポート」と深い文法理解、竹田さんの的確な哲学解説に助けられつつ、けっこうサクサクと進んでいる。筆者の意を汲み取りつつ読み進める作業がだんだん楽しくなってきた。(これがなんで「先験的」といえるのかなあ、と腑に落ちてこないことなども自分にはありますが。) いやというほど脳を使うせいか、休憩のあいまにつまむお菓子がめちゃくちゃおいしい。それに加え、カントがドイツ人のためか、終了後に流し込むビールが脳髄を震撼させる。 お菓子とビール込みで、はまってしまうドイツ語研なのでした。 /管理人 2008年 6月15日(日) 現象学研究会の本、いよいよ出ます。 昨年10月の管理人日記からたびたび話題にしてきた、竹田さん+現象学研究会の新著が6月25日いよいよ発売になる。タイトルは『知識ゼロからの哲学入門』(幻冬舎 1300+税)。目玉はなんといっても、哲学史上のビッグネーム30人、それぞれの思想の核心を鮮やかに(かつ平明に)とらえ、自らの経験も折り重ねながらそれと「対話しあう」竹田さんの書き下ろしエッセー。現研メンバーが執筆した各哲学者の「人となり」「思想のポイント」と巧みに連結し、その思想の今日的価値をとらえる糸口を与えるとともに、最初から通して読むと哲学的思考そのものの本質が見えてくるような展開にもなっている。 藤野美奈子さんの挿絵マンガも充実。ポイントを的確にイメージ化しているだけでなく、笑える作品に仕上げている。 現象学研究会の共著は、前作『はじめての哲学史』(有斐閣)から約10年ぶりとなる。ロングセラーとなり哲学入門書のスタンダードともなった前作と比べ、今回はポップなステージで勝負、という感じ? ただ、形はポップであるが(ポップなだけに?)吟味しつくした内容だし、研究会としてのその後の足跡も些少なり形にできているのではないかしら、と思う。面白い本ですからぜひ読んでみてくださいね。 今回の本を企画・編集したS氏はまだ20代のヤング。働き者で土日に校正・事務連絡のメールを出すと、ほぼ間違いなく即座に応答がある。ためしに、「たまにはちゃんと休んだほうがいいですよ」と(日曜日の夜8時に)「余計なお世話メール」を入れてみると(やはり間髪いれずに)「気をつけつつ(仕事に)邁進いたします!」と返信がある(すみません)。 温和だが粘り腰が強く、30人書き下ろしの偉業を達成して脱力中の竹田先生に、間髪いれずに「次は、前書きですが……」と仕事をお願いした「武勇伝」を漏れ聞く。すごいです。その気合もあって、これだけの短期間で内容・全体構成とも完成度の高い本ができたのだと思う。執筆者のはしくれとしても、短い言葉で意を尽くして表現するトレーニングの機会をいただいたことに感謝している。ありがとうございます。坂上さん。 今度はバタイユ、普遍経済。 6月7日は現象学研究会。「バタイユ・シリーズ」第一弾として『呪われた部分』(1〜3部)を講読した。 「太陽エネルギー」という原的な力を展開させるためには、自らのもとに蓄えられた過剰なエネルギーを消尽させていくことが生命体としては求められる。経済に関しても、単に生産、富の蓄積ではなく(それらを)「蕩尽」すること、すなわち「普遍経済」がその本来的姿としてある。世界大戦という悲劇的な形で「蕩尽」が行われることを回避するためにも、こうした観点を自覚化することが必要だ……という論調である。「太陽エネルギーの展開」という仮説から、社会関係、人間関係を直接語ろうとする発想自体には無理を感じる。人間の問題を考察するのであれば、単純に「生命体」というアナロジーだけではなく、「(文化的な意味や価値を繰り込み展開するという)幻想的身体性」の観点が必要ではないか、という興味深い指摘がメンバーの行岡さんからも出された。 しかし、一般生活水準の向上による格差の是正(一般消費の拡大?)が、暴力的な形で蕩尽エネルギーが発露する危機を軽減させることになる、というバタイユの直観そのものは的確だと思う。今後の講読を通して、バタイユ思想の今日的な価値を見出していければいいな、と思う。 今回の現研のレポート、レジュメも担当してくれた20代の精鋭・S氏にお願いしています。この場でプレッシャーかけてすみませんが、楽しみにしてます。杉田くん。 2008年 4月29日(火) 『完全解読』、完全解読します 4月19日(土)、今期の朝日カルチャーが開講した。テーマは、昨年末に刊行した『完全解読 ヘーゲル「精神現象学」』に基づき、受講生とともにヘーゲル哲学をさらに精査していこう、というものである。『完全解読』、当初は「通勤電車でも読めるヘーゲル思想」というコンセプトだったが、竹田さんご自身は刊行直後から「やっぱりこれ、そんな簡単には読めないかも」とつぶやき続けておられた。「精神現象学」かじってみたら歯が折れた、という経験をもつ身としては、よくぞここまで読み解いてくださった……と、つくづく感謝の一冊なのだが、「進化する超人」はすでに次の課題へと視点が向かっている。思想は、誰もが深く納得でき、それぞれの切実な生の問題に生かせてこそはじめて意義をもつものだ、思想が「議論のための議論」「言葉遊び」に陥り元気を失わないためにも、それを徹底していくことが必要だ、というのが竹田さん、西さんの持論である(と理解している)。たしかにフラットに見れば『完全解読』、決して平易な読み物ではない。『完全解読』の作業で掴み取ったヘーゲル思想最良のエッセンスを、ほんとうに誰にでも共有できるように伝えきる一冊を、この講座をもとに完成させていくことをめざしておられるようだ。 なお、初回の講座をほとんど再現しているといっていいほどの圧巻な報告と感想を、受講生の方からお寄せいただいた。「まるテーブル」のほうに早速掲載させていただいたので、ぜひご一読くださいまし。 がんばれ,みなっち ここしばらく報告を続けている現象学研究会の共著だが、竹田さんが(この本の「目玉」ともいえる)哲学者30人分の「まとめ」を書き上げられ、いよいよ大詰めとなった。竹田さんが書かれた内容は、実はまだ管理人も読んでいない。しかし、挿絵のためゲラを精読した漫画家・藤野美奈子(みなっち)さんによれば、期待通りのもののようだ。藤野さんは、メンバー執筆分の挿絵は完成したご様子。編集Sさんからお送りいただいた担当分の校正用ゲラにはすでに挿絵が。ふだんのホンワカ風とちょっと違ったシャープな感じの画風である。また、自分を出すのではなく、あくまで書き手の内容をフォローしようという気構えが伝わってくる。さすがプロ、いろんな引き出しをもっておられる。藤野さんは目下竹田さんの原稿と「格闘中」のご様子。みなっちさん、がんばってね。ゴールのテープを切るのはあなたです。 /管理人 2008年 4月13日(日) 現研でレヴィ=ストロース 4月5日(日)は現象学研究会。昨年より4回重ねてきたレヴィ=ストロース講読の最終回である。 課題は、レヴィ=ストロースのモチーフを端的に表現した小編『人種と歴史』と、『構造人類学』より、それぞれ「構造」「(一般)交換」という基本概念の骨子を伝える「民族学における構造の観念」「双分組織は実在するか」。 研究会の報告を、現研ホームページに俊英・K氏がまとめてくれているのでご一覧ください。 レヴィ=ストロースの主要論文は、執拗な事例の取り上げ方、丹念に筋を追っていかないと(追っていこうとしても)迷路にはまってしまう論理構成など、そうとうハードなものだ。また、「主観哲学」のともすると情緒的かつ(それこそ)主観的に見えがちな思惟とは一線を画そうと意図してのことか(と勝手に決めつけてますが)、(客観主義的とも思えるほど)クールで科学的、悪く言えばモチーフのとらえにいく語り口となっている(ように思う)。しかし、その後「構造主義」「ポストモダン思想」が陥ったような相対主義的発想は彼の中には微塵もない。人間存在の普遍性への「信」が思想の軸となっている。 さらに、「構造」を実体としてではなく、社会関係をとらえるうえでのモデルとして自覚的に取り出そうとしていることが、特に今回の講読を通してよく分かった。 竹田さんは『プラトン入門』(ちくま新書)の中で、(現象学でいう)「本質」は決して実体的な意味内容ではなく、その言葉で人々が世界を呼び分けて秩序をつくりだしている仕方であり、「本質観取」はその世界分節の構造を取り出すことだ、という趣旨のことを述べているが、こうした「本質学」への感度が、構造主義の開祖レヴィ=ストロースからは伝わってきた。 その成果、はや新刊に…… ちなみに竹田さんは、レヴィ=ストロースへの考察の成果を、3月末に刊行された『フロイト思想を読む』 自己や社会のありかたを根底で支えるものを「無意識」「構造」として見出そうとすること自体に、それまでの自己や社会関係への理解では立ち行かなくなった現状が背景としてあるはずだ。新たな自己了解(社会関係の了解)への希求が、「無意識」「構造」を(沈殿し)身体化したルールの束としてとらえ、その成り立ちの経緯を解析することで「刷新」への可能性を模索させる。そうした、(いま何を求め、何をそこから取り出そうとするのかという)「視点の自覚化」が、「無意識」(ないしは「構造」)への考察を内実あるものとするためには欠かせない……わたし的にはそんな示唆を与えられた一冊です。現研の「フロイト職人」山竹伸二さんの、研鑽を積んだフロイト解釈も圧巻です。ぜひご一読のほどを。 30人の哲学、一挙書き下ろし中です。 以前からこの日記で紹介している竹田さんと現研メンバーで取り組む「哲学入門本」、着々進行中です。哲学史上のビッグネームを30人ほど取り上げ、各々の「人となり」「思想の要諦」をみんなで分担して執筆(これはほぼ完成しました)、竹田さんが30人分の「まとめ」を一挙に書き下ろしする。竹田さんは目下その執筆に集中。限られた紙面で何をどう表現するのかということに試行錯誤を重ねられている。今までにない執筆の形式なのだと思う。ご自身は、「ちゃんと書けるかなあ……」と口にされてはいるが、(集中して)「ゾーン」に入っている感じが伝わってくる。こうなったときの竹田さんはすごい。どんな形に仕上がっていくか、非常に楽しみである。 /管理人 2008年 3月9日(日) 町田で陽水 3月1日、NHK文化センター町田教室で講座「陽水の快楽」が開かれた。 NHK文化センター青山教室で竹田さんの講座を企画していた榎本さんが昨年より町田教室に移られ、「町田に哲学の灯火を」という熱意のもとに実現した講座である。 講座は、竹田さんがセレクトした陽水のナンバーをまず実際に聴いたうえで、竹田さんの解説を聞く、という形で行われた。陽水の世界には正直明るくない管理人などにとってはありがたい内容だった。 竹田さんは、哲学講義での明晰で歯切れのよい語り口とはやや違い、「これは自分だけの思いかもしれないけれども……」というややシャイな前置きを加えながら、それぞれの作品(各曲)が語り出しているもの、作風の変遷が意味しているものを鮮やかにとらえ出していった。 「自分自身がものごとを感受している場所を徹底的に掘り下げていくことから、人々の琴線に触れる言葉を紡ぎ出す」という竹田さんの批評スタイルは、「内在に定位しつつ普遍的な本質を取り出していく」という哲学の方法と基本では重なりながら、やはりそれ独自の表現の魅力をもっているように思う。NHK文化センターの講座は(青山時代から)竹田さんのそうした「文芸評論家」として資質にも照射した企画に独特のセンスを感じる。 私事だが町田は管理人の生家から比較的近くにあり、『陽水の快楽』は(20数年前、当時)町田ジョルナの4Fにあった書店で新刊を購入したことを記憶している。不思議な縁を(勝手に)感じて嬉しくもあった一日だった。 /管理人 2008年 2月24日(日) 箱根でメルロポンティー 2月16日、17と朝日カルチャーセンター新宿のメルロポンティー講読講座の合宿があった。場所は箱根のホテル「花月園」。竹田さん、西さんの朝カル講座・冬合宿では恒例の会場となっている。 温泉施設が充実してゆったりとくつろげる環境ではあるのだが、講読のレジュメ発表や深夜まで続く質問会、さらに明け方まで続く「飲み会」とスケジュールが充実しているため、温泉につかっているのももったいない……という感じになる。 それでも、翌早朝に浴びる温泉はとても爽快、楽しみの一つではある。前夜のお酒も抜けるし。そして受講生のレジュメ発表は二日目の午前中いっぱい続くのです。なかなかすごいでしょう。 今回の課題図書は『知覚の現象学』の第2巻。実存の場所に徹底して知覚という経験を見取っていこう、という姿勢そのものはよいと思うが、ポンティの場合、世界を受け止める(世界が生成される)根源的な場所として身体をとらえだそうという基本的な構えがあるようで、そこに違和感を抱いてしまう。 フッサールに対する批判も、知覚経験を記述するために「意識」を起点にするようではだめだ、その底板にある「身体」という場からはじめないと……という感じである。「何かを意識する」ことに先立ち、まず「そのようにものごとを感受している体験」があるということについては、確かにその通りだと思う。だが、フッサールの「現象学」は、そもそも「意識」が先か「身体」が先か(「現象」の基盤にあるものはなにか)ということを問題にしているのではなく、ものごとの確信成立の様相を問うプラットフォームとして意識経験に照射した、というのがその真意であると自分的には理解している。 竹田さんは、人間の身体は独自の態勢をもつもので、そこに着目したのはメルロポンティの功績といえるが、「ではそこから何を取り出していくか」という視点が明確でない、とおっしゃった。さらに……人間にとっての身体は(欲望の展開に即して)時間の中で編まれ、編みかえられていくという弁証法的な(かつ文化的な)ものである。直接的な知覚経験にも、すでにそのことは織り込まれている(かつ、時間・経験を通して変化していく)。しかし、メルロポンティの論は、「身体」をある種客観的前提のようにしてとらえてしまっているふしがある。フッサールのほうが、むしろ「発生論的現象学」を通して、弁証法的に「身体」という現象をとらえようとする発想をもっていた、……というように、問題点を明快に整理してくださった。 これに関連して西さんも、メルロポンティの身体論には「エロス性」という発想がない。(世界の)「身体化」というとらえかたにしても、「新しいエロスの獲得」という切り口からみたほうが、それを考察する観点がよりはっきりする。その点、竹田さんが(昔から提唱している)「幻想的身体性」というタームは人間の身体の本質を的確にとらえていると思う……とおっしゃった。 なんとなく「感じ」はよいのだが、いざ読み込んでみると芯が見えてこず、かなりとらえにくいメルロポンティ思想の輪郭(と問題点)が見えてきた感じのする箱根合宿でした。 /管理人 2008年 2月11日(月) 08年も竹田研究室は熱く…… 今年もはや一月以上経過してしまった。 なのに。ようやく今年初めての「日記」です。 管理人がかように怠惰な人間である一方、早稲田大学竹田研究室は1月からフル回転している。 竹田さんが『完全解読 ヘーゲル完全解読』の仕上げに集中なさるため、しばらくお休みだった「ドイツ語ゼミ」「経済学ゼミ」も再び稼動し始めた。 ドイツ語ゼミには、新しく学部生のIくんが参加。ドイツでの生活経験が豊富で、流麗にドイツ語を操る。昨年より継続して『純粋理性批判』を講読しているのだが、I君が音読をすると無味乾燥なカントのドイツ語がほとんど詩的といっていいほど美しく響く。思わずうなってしまうほどだ。いかにいままで自分が我流のいい加減な読み方(発音)をしてきたかがよくわかっておもしろい。発音の勉強までできてしまうドイツ語ゼミ。なんてすばらしいんだ。 竹田さんの圧倒的な根気と集中力には相変わらず感心させられる。ざっとした文意だけではなく、文の構造が細部に渡り完全に腑に落ちるまで疑問を呈し続ける。いかに自分が大雑把でいい加減な読み方(解釈)をしているかがよくわかっておもしろい。頭がオーバーヒートしそうなほどの集中力を要する2時間だが、終わったあとのビールがうまいんだな、これが。(というようなオチをつけてしまいがちな自分がちょっと悲しくもあるけど。) 「これ(ドイツ語の原典)がいちおう底板となるわけだし、読み解いていく充実感はあるよね」と竹田さんはおっしゃる。 『純粋理性批判』は「完全解読」のプランにも入っているご様子。こうした地道な作業がきっとそこにも結実していくに違いない。 「経済学ゼミ」も熱い。講師として参加しているHさんは、国政の場で経済学を実践するプロ中のプロである。しかし、この「ゼミ」では初学者のために、経済学の基本やワルラス、ケインズなどビッグネームの学説の要点を懇切丁寧に説明してくださっている。ただし、英語で。基礎学力のない管理人には試練の場であるが、哲学の原理的思考を社会生活の現場で展開しようとする竹田教授、Hさんの真摯な思いは伝わってくる。がんばって理解しなくちゃ、と思うのだが、つい目線が宙をさまよってしまうことがある。竹田さんは「普遍交換」「普遍分業」、加えて「普遍消費」というキーワードを立て、資本主義経済が一般福祉へと結びついていくための原理を模索しておられるのだな、ということが漠然と見えつつもあるのだが、きちんとした報告ができるようになるにはもう少し時間がかかりそうです。 新刊もゾクゾクと…… 昨年末発売になった『完全解読 ヘーゲル現象学』。刊行後「だれにでも簡単に読めるつもりだったけど、やっぱりそんなに簡単な内容とはいえないよね……」としばしば口にしている竹田さんであるが、すでに3刷りを重ね出足すこぶる快調、うれしい限りである。 以降も新刊の予定が目白押しである。『人間的自由の条件』(講談社)の内容を噛み砕いた『予言するヘーゲル』が「ちくま新書」から、山竹伸二さんとの共著、フロイトの解読本が「NHKブックス」から今春(?)刊行される。 現象学研究会の共著である「哲学入門本」がこれに続く。「哲学入門本」は、研究会メンバーの執筆箇所が(竹田さんのアドバイスのおかげで)ほぼ完了。これまでディレクター役に集中していた竹田さんもようやくご自身の担当分(全体の3分の1以上)にとりかかることができる。イラストは漫画家の藤野美奈子さん。『不美人論』(径書房)など西研さんとの共著でも知られる実存ギャグ漫画家である。期待してますよ「みなっち」。ふふ。 学業に加え、ご執筆のほうでも超・多忙な竹田さんである。 写真更新しました。 すでにお気づきの方もいるかもしれないが(いるといいのですが)、「自己紹介」の欄の竹田さんの写真をリニューアルしています。 /管理人 2007年12月29日(土) 「完全解読」いよいよデビュー 12月10日、『完全解読 ヘーゲル精神現象学』がいよいよ刊行! 当日諸々の書店で平積みにされているのを確認して、おもわずうれしくなる。 さすが講談社メチエシリーズですね。 12日には、朝カル新宿で、この本に関連した西研さんとの講座「ヘーゲル『精神現象学』と近代の可能性」が開かれた。参加者は80名ほど? 大教室がほぼ満員でたいへんな盛況でした。 竹田さんと西さんとの出会いは、故・小阪修平さん主催で西さんもメンバーだったヘーゲル講読勉強会に、竹田さんがお呼ばれしたことがきっかけだという。それを考えると、この新作、二人の長年の共同作業の集大成といえそうです。講座では、そうした二人のなれそめの話にはじまり、精神現象学を読み味わうためのポイントを示していただいた。 『完全解読』は、ヘーゲル独特の論理のうねりも含めて『精神現象学』を「再現」したものなので、決して平易にスラスラ読み進められるものではない。(竹田さんも「『通勤電車でも読める』というキャッチフレーズはちょっと言い過ぎだったかも」と言ってます。いや、ラッシュアワーを外せば十分読めますよ>竹田さん) しかし。「本格的な哲学書ははじめて」という人でも、(要所要所に付された丁寧な解説の力も借りつつ)根気よく言葉をたどり、自分自身の生活経験に照らし合わせてその意味を咀嚼していけば、必ず理解できるようにすべてのことが吟味されて翻訳されている。ヘーゲルという思想家の息吹のようなものも含めて伝わってくる。ちょっといままでにないタイプの本だなあと思う。 ちなみに、西研さんのHPでも、このHP同様『完全解読』の(ご担当箇所の)未定稿と「あとがき」を公開しています。 現象学研究会ではレヴィ=ストロース 12月8日は現象学研究会。課題図書はレヴィ=ストロース『野生の思考』である。講読会の後には、先に報告した「共著」の原稿検討会も行ったので、かなりタイトなスケジュールとなり、わたし頭の回線がショート! 来年1月の研究会でも『野生の思考』の購読は継続することになったので、内容のご報告はその際にまとめてさせていただこうかと思う。(スミマセン>現研のみなさん。) 原稿検討会のほうは、今回はそれぞれ担当箇所の第2稿を持ち寄った。「だいたいこんなところかな」と主観的には思っていても、「言われてみたら、なるほどその通り」という指摘が出てくる出てくる……。共同作業の面白さってこういうところにあるんだな、と思う。それぞれの個性を重視しながら、全体の内容と書きぶりを丹念にチェックする竹田さんのお仕事はたいへん……だとは思うのだが、とても楽しそうにやっておられるところがなおさら凄い。できるだけよい内容に仕上げて応えたいな、と思います。担当編集者のSさんも、毎回長時間の立会い、ご苦労様です。 2007年11月25日(日) 平成のルター トップページですでに表紙のご案内をしている『完全解読 ヘーゲル精神現象学』。発売(12月10日)間近です。とはいうものの、脱稿したのはようやく先週半ばだそうです。最後の仕上げにそれだけ「念」を入れられたのだと思う。 (このサイトで一部公開している未改定稿 この仕事、それまで一部の聖職者のみに解釈が可能だった「聖書」を、ラテン語からドイツ語へと翻訳することで多くの人にアクセス可能なものとした、かのマルティン・ルターの偉業になぞらえてしまおうかと思う。(なぞらえられて迷惑だったら許してください>竹田さん、西さん) 「完全解読」のプランは、今後、フッサール、カント、ハイデッガーなどの主要テキストを視野に納めているそうだ。「哲学」はなにがなんだかさっぱりなんだけど、(より開かれた言葉で表現された)小説やエッセーなどの読書体験を自分を見つめるきっかけにしている、という読者にとって、この(『精神現象学』を端緒とする)「完全解読」のプランが進んでいけば、「哲学」が読書の魅力ある選択肢の一つになっていくように思う。これからの展開が楽しみです。 現象学研究会、再び動き出した…… 先回の報告で触れた、竹田さん&現象学研のメンバーで取り組む新しい著作の企画が始動した。哲学史上のビックネームを哲学の素養がなくても楽しく読めるように解説し、かつ自分自身の生活に生かしていくヒントも加えてみよう、というのがおおよそのコンセプトである。 11月23日、第一回目の編集会議が行われた。それぞれ担当箇所の原案(第一稿)を持ち寄り、読み合い批評し合うなかで、全体の書きぶりや基本的な方向性の確認をした。「限られた文字数でできるだけ平易に」「しかも面白く」というハードルは、いざ取り組んでみるとめちゃくちゃ高い。それぞれの哲学の核心にあるものをつかんでおくことが前提となるし、かつ表現にも工夫が求められる。(内容自体はよいとしても)哲学をまったく読んだことのない人でも興味をもてる書きぶりになっているか、という観点から、お互いに厳しく意見を出し合った。 竹田さんは、ご多忙な中、一つ一つの原稿を詳細に読み込み、文章の構成や表現の詳細に至るまで的確なアドバイスをくださった。仕事に対する真摯な姿勢にはいつも頭が下がる。 みんなでよい本をつくりたいなー、と思います。 還元ケーキ 10月30日。「社会人英語ゼミ」のメンバーなどで、竹田さんの60回目の誕生日のお祝いをした。 贈り物の主役は、英語ゼミメンバーのIさんが特注してくださった「還暦」ならぬ「還元ケーキ」。 あまりに見事なできばえにご本人も思わず携帯カメラに手が……。 見た目のインパクトだけでなく、食べてみてもとってもおいしいケーキでした。(リンゴは入っていなかったけど。) 「完全解読プロジェクト」やライフワークである「欲望論」の完成など、これからますます忙しそうになりそうな竹田さん。 でも、たまにはゆっくりお休みもとって、ずっと元気でいてくださいね。 /管理人 2007年10月28日(日) 現象学研究会、ふたたび動きす…… 10月6日、約2ヶ月半ぶりの「現象学研究会」が開かれた。課題図書はハイデガー後期思想から『ニーチェの言葉「神は死せり」』と『世界像の時代』の2編。後期思想については「何がなんだかわからない」という印象があり、敬遠していたのだが(食わずぎらいですね。)『存在と時間』を繰り返し読むうちに「ハイデガーターム」に慣れてきたせいか、けっこう読めてしまった。でも、思想的にはやはりちょっと問題ありだなあ、という感じがぬぐえない。それでも読ませてしまう表現力はすごいものだな、とは思いましたけど(なんかすごく偉そうですが)。現研のホームページで簡単な報告をしていますので、よろしければのぞいてみてください。 竹田さんと現象学研究会のメンバーで新しい著書を、という企画が動き始めている。実現すれば『はじめての哲学史』以来10余年ぶりのこととなる。『はじめての……』は、いまでは哲学入門の一つのスタンダードとなり着実に版を重ねている。現象学研究会は、専門の研究者だけでなく、いろいろな場所に実生活の拠点をおく人が集うということもあって、「哲学の意義を開かれた言葉で語り合う」ということにおいてはそうとう徹底した場になっていると思う。『はじめての……』の場合、分かりやすくかつ本質的な言葉が、多くの人たちにだんだんと届いていったのではないか。新著が実現し、その後の現研での成果が、さまざまな人たちの生きる場面に少しでも役に立つようであればいいなと思います。企画が具体化してきたら、また報告しますね。 ヘーゲル完全解読、12月10日にデビューします。 竹田さん、西さんが長年取り組んできたヘーゲル『完全解読 精神現象学』(講談社メチエ)が12月10日、いよいよ発売になる。最後の総仕上げにおふたりとも集中して取り組まれている。哲学に興味のある人ならば、電車のなかでスラスラ読める、というのがコンセプトだそうだ。思えば『精神現象学』、それでも電車の中で読んでしまっていましたね。レジュメ報告などを担当した暁には。それはもう、眼と精神と腕の筋肉にこたえるものだった。寿命も縮まったのではないかとすら思えます。それでもサラリーマンにとっては行き帰りの通勤が、貴重な読書時間なんですよね。ショートカットでヘーゲル思想の本質に入っていくことができれば、それはもうありがたいことではないでしょうか。あともう少し。期待してまちましょう。なお、この著書に関連する竹田さんと西さんの対談講座が12月12日、新宿朝カルで開かれます。こちらのほうもお楽しみに メルロ・ポンティにも向き合ってみましょう。 10月20日、新宿朝カルでの西さんとのジョイント講座、「現象学枢要テキストを読む」後期が開講した。今回のお題はメルロ・ポンティである。初回の講義は、まずポンティに入る前に、フッサール、ハイデガーそれぞれの思想の要点、現象学理解の現状を整理していただいた。(これがとても面白かったです。) メルロ・ポンティについては、竹田さん西さんから見て、現在これが適切だと思える入門書がほとんどないそうだ。自分自身も、なんとなくポンティは読んではいるものの、芯がつかめているとはとても言えない。今回の購読をその機会にできればと思っている。新宿の朝カルのレベルはほんとうに高く、講師お二人のお話はもちろん、毎回のレジュメ発表にも学ばせていただくことが多い。次回以降が楽しみです。 自分が自分でなくなることって、こわいかも…… 10月26日、このHPでもご案内をしていた大阪経済法科大学「市民アカデミア」の講座「老いを哲学する」が開かれた。講座の内容は以前NHK文化センターで開かれた「死と向き合う」をベースにしたものだ。(よろしければ「4月15日」の日記をご覧ください 講座の最後に受講生の方が感想として述べられた、「自分の場合死がおそろしいという実感はないのだが、それまで得意だったことがしだいにできなくなったり、妙に依怙地になって人格が失われてしまったりするような、『自分が自分でなくなってしまう』老いへの恐怖がある」という言葉が心に残った。たしかにそれは……こわいことかもしれない。でも、幸いなことに、「よい」年齢の重ね方をしている人が身の回りに何人もいるので、その「よさ」の本質ってなにかな……ということを考えてみようかな、とも思っています。 ティッシュペーパーは2枚だった。 先回報告した「ティッシュペーパーの新しい活用法」についてである。その後、竹田研究室を訪れるとしっかり新しいコーヒーフィルターが補充されていた。だが、この間その方面に関しても研鑽は積まれていたそうで、結論としては2枚で十分だということである。なにごともおざなりにしない竹田教授、ゼミの重鎮I氏の姿勢に敬意を表しつつ、謹んで訂正させていただきたい。 /管理人 2007年9月30日(日) 「超人」は眠らない? というわけで、「管理人月記」です(もはや開き直っている)。 9月20日から3泊4日の日程で「沖縄哲学合宿」があった。この沖縄合宿は、ここ数年竹田さんにとっては恒例の行事となっている。昨年は(早稲田大学の研究室に集まる)「社会人英語ゼミ」のメンバーが主だったが、今年は新宿・朝日カルチャーの講座として20人の参加のもとに行われた。 この4日間沖縄はほぼ快晴。珊瑚の海の美しさを満喫した。 (撮影・磯部和子氏) そのいっぽう、「哲学」の「合宿講座」としても非常に中身の濃い内容だった。計6回の講義では、ギリシア哲学を端緒に、デカルト、カント、ヘーゲル、フッサール→現象学にいたるまでの(「『本質学』としての)哲学の歩み」を、パワーポイントでの「オリジナル新作図解」も駆使して一望していただいた。綿密に吟味された内容と展開に、聞くほうもぐんぐん引き込まれていく、という感じだった。(大学でのほぼ半期分の授業に相当する内容だそうだ。) 深夜まで続いた地元の居酒屋さんでの(おいしいおつまみとお酒を前にした)「懇親会」をも含め、早(朝)寝早起き、楽しさ満載の合宿だった。 沖縄通の竹田さんには、(公設市場の食堂での値引き交渉!を含め)ツアーコンダクター役まで勤めていただいてしまった。ほんとにありがとうございました……。 帰りの飛行機の中。管理人は疲れきって離陸と同時に眠ってしまったのだが、しばらくして眼を覚ますと隣の竹田さんは現象学研究会メンバーの原稿を読み込みながら朱入れをしている。「ちょっと専門用語が多いかな。もう少し分かりやすい表現にしたほうが……」。うわあすごいな、と思いながらもまたすぐ眠ってしまう。30分ほどしてまた眼を覚ますと、今度は「世界の歴史」を読みふけっておられる。「ここ、『普遍闘争』の原理がとてもよく出ているんだよね」。 思わず、「カラダとかだいじょうぶですか?(少し休んだほうがいいですよ)」と言ってしまったのだが、「でもまあこうやってずっとやってきているわけだし……」 「積んでいるエンジン」が違うようだ。 ティッシュペーパーの新しい活用法 新学期になって、(この管理人日記でも何度か触れている)竹田研究室での「ドイツ語ゼミ」が再開。頭の回線がほとんどショートしそうになりながら難解なカント「純粋理性批判」と格闘している。 10分ほどのコーヒーブレイクはまさに安らぎのひとときである。それなのに、コーヒーをろ過するフィルターが切れてしまっている…… 竹田ゼミIさん「(ごみ箱から一度使ったフィルターを見つけ出し)これ、使ってみましょうか?」 管理人「うーん。それはやめとかない?ティッシュペーパーとか代用できるんじゃないかな。」 竹田さん「3枚だな。3枚使えばきっとOKだと思う。」 というわけで、竹田さんの指示通り「ティッシュペーパー3枚」でI氏がトライしてみると…… たしかにまるで問題なし。おいしい淹れたてのコーヒーをみんなで堪能しました。 というわけで、みなさんも、コーヒーフィルターが切れたとき、コンビニエンスストアに走る前に、手元にあるティッシュペーパーを見直してみてはいかがでしょうか?ふだんは汚れ役ばかりを一身に担っているティッシペーパーとしても、この活用法はきっと誇らしいものに違いありません。 こつは「3枚使う」ことです。 /管理人 2007年8月26日(日) リンゴの気持ちもよく分かる…… またまたご無沙汰してしまいました。 7月いっぱいフル稼働していた早稲田・竹田ゼミも8月は夏休み。 でも、この間、朝日カルチャーセンターの合宿講座(フッサール「デカルト的省察」の購読)が開かれたので(遅まきながら)そのご報告をさせたいただきます。 8月4日、5日に行われた朝カルの合宿には、60余名もの参加があった。合宿での講座自体は竹田さんのアサカル講座では恒例のことだが、これほどの大人数が集まったのはおそらく例をみないのではないか、と思う。2日間にわたりフッサールの難解なテキストをみんなでみっちりと読み込んだ。 今回とくに興味深かったのは、夕食後に行われた「現象学・哲学フリー質問会」。初参加の方からも挙手での質問が積極的に出され、深夜近くまで、およそ二時間の時間があっというまに経過した。 「哲学は、(習慣や権威によって担保されてきた価値の自明性が疑問に付されるなかで)『それぞれがそれぞれの場所からとことん考え、話し合ってみる』というオープンな言語ゲームから『ほんとう』を見いだそうとする発想もとで展開していく。そして、『ここで求められるいちばんよい考え方にたどりつく』ためのもっとも確実かつ効率のよい思考の方法を原理として取り出していく。」 「そもそも哲学の意義はなんなのか」「真理を追究するために、フッサールのいうような『確信成立の条件』を探るだけで十分なのか」……そうした、質問者の切実な問いに応えるかたちで、竹田さん・西さんから「哲学の営みの本質」が、以上のように語り出されたことがとくに印象に残った。 だが、「『内在』から(自分自身の意識体験に基づきながら)確信成立の要件をみとっていく」という現象学の基本的方法を、「事物知覚」の場面から飽きることなく語ろうとするフッサールのテクストにやや辟易する声も…… 「『事物知覚』よりも、『ものごとをそのようにとらえている・受け止めている』人間の側のあり方(欲望)に眼を向けていくことのほうが、むしろ必要では?」 「リンゴもいいけど、その先のことを考えることが重要なのでは?」 (※ちなみに「リンゴ」は現象学の発想のポイントを説明するために竹田さんが使う例です。) 「竹田さん・西さんの(欲望論に立つ)現象学は、フッサールの視野にはなかったものを独自に打ち出したもの(オリジナルな価値をもつもの、)と言っていいのでは?」 という(鋭い)意見も出された。 これに対して竹田さんは、「現象学により、『確信成立の条件』という発想、つまりオープンな言語ゲームのもとに本質をみとっていこう、という哲学の方法を明確化したのはフッサールならではのこと」と、その功績をまず整理したうえで、 「事物の本質観取は、自然科学の基盤を問うという目的に即してなされるべきもので、その自然科学は、『人間にとっての利用可能性』という「対象性」「目的性」のもとに展開されていく。そして、「実存の問題」「社会の問題」はそれとはまた違った対象性をもっている。それぞれの対象性の本質をとらえていくことが必要だし、そのためには欲望論的観点が必要になる」とコメントなさった。 西研さんはこれを受けて、「(竹田さんのいうように)自然科学には人間にとっての利用可能性という目的があるし、心理学には自我を一定の連続性のもとに保つという目的が、社会科学ならば『調整の原理の構築』という目的がある。でも、いま社会学の多くが『社会は自律した一つのシステム』ということを前提にしてしまっている。社会を記述するときの目的、価値理念を明確にしていかないといけないし、そのために「社会の現象学」が求められていると思う」と述べられた。 「現象学≒哲学的思考の本質」、さらには「竹田さん・西さんの哲学の今後への展開」に触れることができた、とても充実した合宿でした。 (アサカル合宿にて) ※リンゴにこだわることにも理由があるんです。だから、オリジナルTシャツにもリンゴなんです(よね)。 /管理人 2007年7月22日(日) ご無沙汰してすみません。このページ、「日記」と銘打っているわりには、ほとんど「月記」になってしまってますよね。今後せめて「週記」となるように努力していきたい。 ではこの間の主なできごとなどを…… まず「竹田研究室」でのこと。 6月より「ドイツ語ゼミ」がはじまった。メンバーは院生と社会人有志。当座のテキストは、カント『純粋理性批判』。竹田さんは、この間、「英語修行」に打ち込んでいたため、ドイツ語での原書購読は久しぶりとのことである。とはいうものの、与えられた情報(単語の意味・文法・文脈・既存の哲学的知識)から「筆者の意図」に肉薄する「読み」の力量は圧巻としかいいようがない。管理人も、カントの難渋なドイツ語を少しずつ氷解させていくという、楽しみのような苦しみのような味わい深い経験をご相伴させていただいている。幸せだ。 これに並行して、「社会人英語ゼミ」も月一回のペースで継続している。最近竹田教授が話題にされるのは「経済」や「歴史」。「哲学」を現実社会の中で、ほんとうに生きた知として展開していくために研鑽を重ねておられる、のだと思う。先日のゼミでは専門家のH氏をお招きし、経済学の基本的な知識をレクチャーしていただいた。もちろん、英語で。英語経済二つあわせダメダメな管理人だが、それでも経済学の「本質」を明解に説明してくださったHさん、竹田さんの親切な解説を通じて、その意義の一端には触れられたような気がしなくもない。(でも、それについて何かを語ろうとする自信がまだわいてこないので、具体的な報告は今後の課題、ということで……) (先回の報告で触れた)「火曜哲研」での西研さんとのヘーゲル『精神現象学研究』購読は、次回(7月24日)「良心」「絶対知」まで到達して一段落。あとは年内刊行予定の「ヘーゲル完全解読本」が待たれる、という感じだ。西さんは最近ずっと体調が芳しくなくて心配なのだが、もろもろの研究会では相変わらずの鋭い発言で「優しい鬼神」ぶりを発揮なさっている。でも、どうか無理はしないでくださいね。 21日、その西さんも久しぶりに参加し、「現象学研究会」が開かれた。 課題は前回から引き続きハイデガーの「存在と時間」。「死の現存在分析」「良心」などの箇所を購読した。「世界内存在」としての人間=現存在のありようを実存論的に解析した前回の購読箇所と比べ、ここらあたりからは、(死の本質観取そのものはすぐれた現象学的考察だが)、現実的な社会生活とは異なった位相のもとに「本来的」なありかたを希求するという、自分としては受け入れ難い主張が展開されはじめる。ただし、今回の研究会では、こうした思想をハイデガーが展開するに至った動機は何か、というところにまで議論が及び、非常に興味深いものとなった。(詳細な報告は追って、現象学研究会HPでしますね /管理人 2007年6月17日(日) 昨日16(日)は朝日カルチャーの講座「フッサールとメルロポンティー」があった。 当面の中心的課題は、フッサール『デカルト的省察』である。『省察』を読んでみると、現象学の発想の要諦を一生懸命に伝えようとしてるフッサールの真摯な動機が伝わってくる。しかし、記述自体には相当ミスリーディングなところも多い。 講座はテクストの詳細な読解を通して、「筆者のモチーフ」に深く鋭く切り込んでいく……という非常に刺激的なものになっている。西さんとのコラボレーションが非常に生きている。西さんが原典にもあたりながら、一つ一つの言葉の背後にある筆者の動機を掘り起こしていく。竹田さんが、現象学の本質的理解に即してそれを明快に整理していく。自力では読み込めなかった部分も、深い納得感のもと氷解していく。現象学の理解が深まる、ということのみならず、テクストを読むという行為の「楽しさ」と「本質」を実感させてもらっている、という感じである。 帰京した西さんとのコラボレーションは、早稲田の研究室においても展開中だ。月に2度ほど開かれている通称「火曜哲学研」では、いま、二人によるヘーゲル『精神現象学』の徹底解読が行われている。「一つ一つの表現を詳細に読み込み、筆者のモチーフをつかむ」「筆者の主張の意図や意義を、時代状況も鑑みて深くとらえていく」「哲学の本質に立ったうえで、その可能性・限界について考察する」。こうした思考の作業を、ふだんはそれぞれご自身のなかでやっておられるのだと思うが、二人の共同作業においては、その役割が(長年にわたり培われた阿吽の呼吸で)当意即妙という感じで分担され、威力倍増という感じである。 この共同作業の成果は、講談社より(年内には?)刊行される共著に結実していくことになる。(担当編集者の山崎さんもその作業に立ち会っておられます。) いまから刊行がとても楽しみです。 /管理人 2007年5月3日(木) @4月28日、竹田さん主催の現象学研究会があった。今回のテーマはハイデガー『存在と時間』。「本質観取」の「見本」のような実存論の展開は何度読んでも圧巻という感じだが、詳細に読んでみると後期思想に通底する「存在」≒超越への希求がそここにうかがえることに気づく。今回の購読を通してまた新たな発見があったように思う。現象学研究会HPに報告をまとめてみたので、よろしければご一読ください 今回は竹田ゼミの学生さんも参加。大会場での、マイクを使ったレジュメ報告と議論に最初のうちはとまどいを感じだが、しだいにその緊張感も消え、マイクを奪いあうような活発な議論が展開された。とても充実した会となった。 A4月15日の日記で「予告」したが、竹田ゼミの助手である「モカさん」より、NHK文化センターでの竹田さんの連続講座の感想を寄せていただいた。 学業で忙しいなか、時間を割いて一生懸命書いてくださったことに感謝。師匠のHPに寄稿するプレッシャーもあるのか、「脱稿」した今日は体調不良で寝込んでいる様子。どうもありがとう。早くよくなってね。M‐OKAくん。 /管理人 2007年4月23日(日) 22日より朝日カルチャーセンター(新宿)の講座、「フッサールとメルロポンティ」がスタートした。 受講人数は約80人!たいへんな盛況である。 まず、フッサールの『デカルト的省察』の精読から出発し、現象学の発想の核をとらえていく……ということである。 アサカルの講座は、受講生のレジュメ発表をふまえ、竹田・西両講師がテクストを詳細に解説していくという「参加型」かつ内容の濃いものである。 また、講義をきっかけにさまざまな人たちとの出会いがうまれる。管理人もこの場をきっかけに、(現在の)大切な友人たちと知己をえることができた。今回の講座がどのような出会いを生み出すか、ということも楽しみにしている。 /管理人 2007年4月21日(土) 15日の日記で報告したNHK文化センターでの講座「人生とどう向き合うか」をともに受講していた方から、管理人宛に感想を寄せていただいた。 これをきっかけに、「哲学の丸てーぶる」というコーナーを新設してみることにした。 竹田さんの著作や講演・講座の感想などを思い切って公募してみようかと思う。 ただ、なにしろキャパの少ない管理人なので 「返信できるとは限らない」ことはあらかじめご理解いただきたい。 (ただ、掲載させていただくものについては、もちろんその旨を事前にご連絡します。) 「丸テーブル(での議論)」というのは、開かれた言語ゲームの中でものごとの本質、原理を取り出していこうする哲学のありかたを示すものとして、竹田さんが常々いっている言葉です。 このページがそういう場として展開されることを祈念する。 /管理人 2007年4月15日(日) HPでご案内をしていた講座が、先週立て続けに二つ開かれたました。そのご報告を。 まず一つ。NHK文化センターの連続講座「人生とどう向き合うか」の最終回が4月11日(水)にあった。 この講座では、キルケゴール、ハイデガーらの実存哲学に、ドストエフスキーなど文学者の視点を織り交ぜながら、「生への絶望」「死への不安」など人生の一大事をどう受け止め、どう乗り越えていくかが論じられている。竹田さんの文芸批評家としての側面にも照射した、たいへんおもしろい企画である。(その分毎回の準備がすごくたいへん、とご本人はおっしゃってました。) 最終回のテーマは「死とどう向き合うか」。作家としてはトルストイ、晩年の代表作『イワン・イリッチの生涯』などが取り上げられた。 トルストイは自我理想が非常に高く、作家として功なり名を遂げたのちも、自分の作品、ひいては自分自身の人生ははたして意義あるもなのかという不安、絶望に苛まされ続けていたそうだ。『イワン……』にはそうしたトルストイ自身の姿が投影されている。社会的には安定した身分をたもちながら、「ほんとう」の生き方ができているという感触がもてない、家族とも心の絆をえることができないという実存的不安に苛まれる主人公。あるとき病に侵され、忍び寄る死の不安に脅かされることになる。作品はこの主人公が、いかに自己肯定感へと開かれ、そのなかで死を受け入れることができるようになるかをテーマとしている(そうだ。実はまだ読んでない。お話を聞いて読んでみたくなりました―)。 ハイデガーの場合、死という不可避な宿命を正視すれば、世事に惑わされることのないほんとうの生き方へと向き合っていくことができるはずだ、と説く。たしかに、「死」に向き合うことが、自分自身の生き方を見つめ直す契機になることはあると思う。しかし、常に「死」を意識して「生きる」ことが現実に可能だとは思えない。「具体的な目標のもとに、未来への期待を抱ける」ことが生きることの意欲を得るうえでは基本になるし、それがうまくいかないときでも、些細なできごとから得ている(人との)関係の喜びが生への感触を維持してくれる。いずれにしても、生きることへの力は、自分自身が日常生活のなかで、どのように自己肯定感、生の悦びを得ているかを自己了解していくこと以外には見いだせないように思う。……というのはこれまで竹田さんの哲学に触れながら自分なりに考えてきたことであるが、そんなことを確認しつつ聞かせていただいた。 死の不安にしても、それが「生」の側から組み立てられた「意味」としてあり、それが絶え難いほど恐ろしいイメージのもとに表象されているのだとしたら、その恐怖の本質を自己了解することで、受け入れることが可能なイメージへと転換するしかない。……今回の講座では、そんな視点も新たにいただいた。(深夜帰宅する際、お墓の横を通るのがいまだに恐怖なわたしです。あんまり関係ないすね。) 「死については、いったん突き詰めて考えてから、『忘れる』ことが大事」「自分は目的地に向かうバスに乗っている。結果としてはすぐに降りることになるかもしれないけど(気持ちとしてはなにかへと向かって生きている……)」という竹田さんのコメントがとくに心に残った。とても納得。そんなふうに生きてみようと思います。 この講座、ラジオで放送するんですよ。4月22日と29日(日)、夜8時から、NHK第2ラジオです。(でも竹田さんは、自分では聞かないかも、といってました。照れ屋さんですね。) このシリーズの講座は今回で終わり。講座を担当しているNHK文化センター青山教室・榎本さんの企画力と交渉力(?)に感謝です。また、たのしい竹田さんの講座、企画してくださいね。 ちなみに、この連続講座のレポートを竹田ゼミの助手・Mさんにお願いしてます。よろしくね! もう一つ。4月14日(土)には淑徳大学池袋キャンパスで、「現象学と現代思想」があった。 「確信成立の条件を問う」「主観にたずねあう開かれた言語ゲームのもと普遍性を拡大していく」という、現象学の発想と方法の要諦をおさえたのち(おい!なにをいっているのかわからないぞ!という方。すみません。言葉が足らなくて。こちらのほうなどをお読みいただけると、そこらへんのこと竹田さんがわかりやすく解説してくれてます。 竹田さん、二つの講座。ほんとうにお疲れ様でした。 /管理人 2007年3月27日(火) いけない。竹田さんに「ひとりごと」を言わせてしまった。(いや、むしろHPの読者の方にしてみたらうれしいことかもしれませんが) 何代目なのだろうか。昨年末より竹田HP管理人を引き受けることになった。しかし、長年このページの読者だったこともあり、「管理人日記はいつ更新するのかな……」と心愉しみにしながら日々を過ごしていた。でも管理人は、自分だったんだ。 閑話休題。 前管理人さんも書いておられたが、竹田研究室にはほんとうにいろいろな人が集まってくる。 学部生、大学院生のみならず、竹田ゼミを巣立ったばかりの社会人1年生から、竹田さんの熱心な読者で、アサカルの講座にながーく通いつめているうち、いつしか研究室にまで足を運ぶようになった社会人何十年生まで。 トシやカタチはさまざまだが、おそらくそれぞれの仕事や生活のステージで、「哲学」を生かし、「哲学」に生かされつつ日々を送っている人たち……なのではないかと思う。 一昨日の25日(日)、そんな多様なメンバ-で構成される通称・「社会人英語ゼミ」の2006年度打ち上げ?が行われた。このゼミの目玉は「フィロトーク」。毎回一人の哲学者をテーマに、報告者が簡潔に(英語で)レポートしたのち、(もちろん英語で)竹田さんに質問をしたり、(これも英語で)感想を語りあったりする。だが、「英語ゼミ」とはいうものの、参加者は英語に堪能な人ばかりではない。(自分なんか、英語できない代わりに面の皮が厚いので参加してます。)でも、竹田さんの英語は非常に明快。日本語と同様、平易な言葉で本質的なことを的確に表現してくださる。だから、言っていることの大体は理解できる(つもりでいる。) 本年度最終ゼミのテーマは近代哲学の祖・デカルト。 2時間ほどの集中的な議論を通して、デカルト思想の要諦は、(神という超越項を失った近代人が)「信念対立」を超え、普遍的な考えを導き出そうとするのなら、「自分自身で考え・確かめる」(そしてそれを言葉にして語り合ってみる)というみんなに開かれた、それ自身普遍的な方法に定位していくしかない、ということを打ち出したことにある……ことをあらためて確認できた(ように思う)。 そして、このゼミ(の議論の場)自体が、そうした哲学の最良のエッセンスにたって展開しているのだということも。 哲学する意義や喜びを実感させてくれた一年間の英語ゼミと竹田さんに感謝です。 /管理人 2007年3月21日(水) 竹田の「ひとりごと」 諸事情あって、管理人日記がずいぶんとぎれているので、これから、管理人の代わりに、 竹田の「ひとりごと」をときどき載せることにしたい。 このごろは、何でも忘れる。存在的に、忘却の穴だ。60に近づいたので仕方ないが、日常生活に困ることもあり。ときどきいろんなニュースに感想をもつが、少しするとすぐ忘れるので、こんな場合に不便。 最近思ったことの一つ。私立中学や高校に子供をやるときには、その学校の理事長や学長(学園長)が長期政権で、ずーと居座っているか、ちゃんと選挙で交替しているか、基準にするのは一手かも。永久居座り、あるいは長期政権の私立校は、とうぜんのことながら、体質が腐ってくることが多い。ちょっと見聞したなかで、そういうことがよくあるという印象が残っている。 組織が権力ゲーム体質になると、「よいこと」や「合理的なこと」が生き残れないので、これは組織の基本原理かもしれない。 今日は、とりあえず、これだけ。 今年は花見できるといいけど。去年は、仲間で、川端の一等地に座って10分したら無情の雨が降ってきた。残念でした。 |