(というか,せめて月記には……)| 2011 年9月10日 足柄山のハイデッガー 9月3〜4日は、神奈川県足柄山ほど近くの温泉付き宿泊施設で、NHK文化センター・ハイデッガー『存在と時間』講読講座の合宿。第3章「世界の世界性」の適所性と有意義性、第5章「内存在そのもの」から第6章「現存在の存在としての気遣い」にかけての箇所を精読した。 ![]() ここは、『存在と時間』での、ハイデッガーの実存論的発想を伝える要のようなところ。「自分がおかれている状況」を、「(それが)気になっている自分自身の気持」をよく踏まえたうえでとらえ、言葉にしてみる。「(そう)とらえようとする」ことは、「(それでは)自分はどうしたいのか」という意志・目的意識と表裏一体のものだし、「言葉にしてみる」ことは、自己の状況理解を確かにすることと同時に、「他者との世界」を生きていることが自分のなかで前提とされていて、その理解を分かち合おうとしている事態を如実に示している。……このように、それぞれの人間(「現存在」)が、(それぞれの生の営みを問題にしながら)それぞれの世界を生きているありよう(「世界内存在」)を、「情状性」「了解」「語り」の概念によって輪郭付けていくところは、何度読んでも深く納得させられる。 人間という存在が関心(欲望)相関的に世界を生きており、気分・情状が今の自分のありかたをとらえる契機となること。(社会や歴史などの)関係性の網目のなかで生を展開することを条件づけられはいるが、(個々人が)それぞれの生のありかたを見つめなおし、展開しようとする営みのなかに、その関係性の網の目を刷新する可能性も含まれているということ。(ハイデガーの問題意識の根底にある「存在への問い」の内実が今一つ定かではない、というそもそもの問題はあるのだが、それにしても)人間にとっての「意味」や「価値」の問題を考察するためには、まずこうした人間存在そのもの本質的洞察が基盤になる、ということをあらためて考えさせられたりもする。 ちょっと茫洋とした言い方になっているものの、ハイデッガーが、「陳述」「事物的存在者」(いわば「ラング」)を媒介に意を尋ねあおうとする人間自身の営み(「道具的存在性」、いわば「パロール」)を、「言語」の本質とみなそうとしていることが十分伝わる。その基本的な構想は、竹田さんが『言語的思考へ』で示した言語観、すなわち「一般言語表象」を介した「企投的意味」の信憑形成の場として言語行為をとらえる発想にも符合している。ハイデッガーが、やはり実論的・本質学的考察に優れた思想家であるということを、再認識する機会にもなった。 とはいうものの、この「語り」においても、後期思想につながるハイデガー的問題(点)をほうふつとさせるところがあった。ハイデガーは「語り」における枢要な契機として「沈黙」を取り上げている。ほんとうに大切なことであれば、(多)言を弄さずとも、一様な形で人々に聞き取られていく(受け止められる)はずだ、という感じである。 この点に関して、ハイデガーには、ヘーゲルのような、それぞれの自我の欲望を前提とした相互承認のもと「ほんとう」を尋ねあっていく、という(近代人の生の基本条件に定位した)「関係論」的視座が欠けているのではないか、という意見が(講座に参加した現象学研究会の金泰明さんから)出されたのだが、「なるほどなあ」と考えさせられた。 といいつも、ハイデッガーは、近代社会の構造的問題に対する何かしらの実存的問題意識を背景に、こんな語り方をしているのかもしれないな……という気がしないわけでもない。また、今回第6章40節「現存在の際立った開示性としての不安という根本情状性」で触れた、人は(死の)「不安」を契機に、安らぎを得ながら過ごしている日常的(非本来的)世界の自明性を剥奪され、自己の固有な存在可能性へと向き合される……という以降の展開を支える基本的構図にしても(日常世界の外側に生きること自体が不可能なんじゃないか、という思いはあるものの)、宗教的な世界観のうちに生の意味や意義を決着させることができず、自らの実存を自らのもと引き取って生きていかなければならない近代人の生の基本条件を正視したうえで、こうした問題意識が出てきているのに違いない、と思わせる説得力がある。 竹田さんからは、人間が自己のありようを根本的に見つめなおす契機は、死への不安だけではなく、倫理の問題もあるのではないか、という意見が出された。たしかに。以降の「死の本質観取」「良心の呼び声」などの箇所の講読を通して、そのことも考えてみたいな、と思います。 竹田さん、イギリスで動いています。 先回の管理人日記で報告した、IHSRC(国際人間科学学会)での竹田さんのプレゼンテーション「An Attempt of Complete Decoding of “The idea of phenomenology ”」を動画で公開しました。その場の雰囲気など含めて堪能していただければと思います。 ちなみに竹田さんは、先述の「ハイデガー足柄合宿」で、(夜の特別講義として)このときの報告を(パワーポイント含め)日本語バージョンで行ってくれた。英語力が乏しい管理人的にも、あの日の発表内容があらためてよくわかり、たいへんありがたい企画でした。 8月27日は鶴川経済学研究会、略して鶴研。課題はケインズ『説得論集』。ケインズ入門としては格好の一冊ではないか、という主催者・K野さんの推薦による。 たしかに、ケインズ自身がめざそうとする「生活様式」(ライフスタイル?)が明快に打ち出されており、モチーフがつかみやすい。とくに(講読対象ではなかったが)1930年に書かれた「孫の世代の経済的可能性」という論文は非常に面白い。財が多くの人に行き渡り、蓄財への強迫観念から人々が解放されマネーゲムが終焉し、文化のゲームを人々が享受できる社会。そうした、いわば経済学が用を為さない社会をケインズ自身は理想としていたことがわかる。竹田さんが『人間の未来』で提唱する社会像に符合するところも多い。 (こちらは講読範囲だった)「自由放任の終わり」(という論文)では、「資本主義は賢明に管理すれば、どの制度よりも経済的目標を効率的に達成するうえで有効だ」としたうえで、資本主義に内包された「嫌悪すべき性格」を指摘し、「効率性を最大限に確保しながら、満足できる生活様式に抵触しない社会組織を作り上げる」ことの重要性をうたっている。要するに、「自由」の創発性にねざしながらも、「公共性(一般福祉)」を念頭に置いた調整に取り組んでいくことが必要……ということを言わんとしているのだろうか。また、時代的にはハイデガーの『存在と時間』に近く、(表現の方向性は違うけれども)なにかしら通底する問題意識があるのかもしれないな、などと思ったりもした。 経済学の実効的な側面についてはまだよくわからないが、経済を勉強することへのモチベーションは高まったように思う。K野さんありがとうございました。次回もよろしくお願いいたします……。 2011年8月21日 完全解読完全対訳 7月27日〜30日、竹田さんはイギリスのオックスフォードで開かれたIHSRC(国際人間科学学会)に参加。管理人も同行。この学会は、心理学の質的研究などをはじめ、哲学プロパーではないものの、現象学をそれぞれの専門領域に生かして考察を深めようとする問題意識をもつ諸氏の集う場である。 竹田さんの発表は29日。「(もともとの)客観」を自明視せず、諸対象の「確信成立の要件」を意識体験からみとっていくという現象学の発想の基本、それにより、「主観的確信」「共有可能な確信」「普遍的な確信」というように、(人間にとっての)対象性の違いをだれしもが自分のうちで明らかにできるようになり、(必要かつ有効な対象において)だれもが納得できるかたちで共通本質を見出していくための道筋がひらかれていく、という現象学の射程を、パワーポイントでの図説も駆使して説明した。 この学会での発表に併せ、ホームページに(程なく刊行が予定されている)「完全解読(フッサール)『現象学』の理念」の一部 ![]() 学会の全体的な様子をみると、人間的意味や価値の問題を考察するに際して現象学がもつ可能性に期待が集まっているのと同時に、思考の原理としての現象学の内実を、よりクリアーに共有化することが求められている……のではないかという印象を受けた。その点、今回の竹田さんの発表の意義は大きいし、かつ、フッサールのテキストによく向き合ってみると、一見難渋な言い回しの背後に、(「客観」という信憑を還元することで、だれしもがそれぞれの意識体験を通して、ものごとのありようを確かめ直し、確かめ合うことができる思考の原理を確立する)という(煎じ詰めればけっこうシンプルな)発想の基本が見えてくることを、完全対訳を通して広く共有化していくのも重要なことだと思う。 「完全解読・現象学の理念」の英訳版作成は、短期間でのとても集中した作業だったし(なでしこジャパンの活躍に励まされながらの作業の様子でした。現象研・独研のメンバーで、翻訳家磯部さんも活躍。)、竹田さんは行きの機内はもとより、本番直前まで発表原稿と資料の推敲を重ねていた。その成果もあり、「現象学がはじめて腑に落ちた」ということで、個別に質問に来られた方もいらっしゃった(竹田さんはいつも同様丁寧にいつもと違って英語で応接していた。)「真剣勝負」という感じの、とても充実した発表だったと思います。 でありながらも……「客観(への信仰)」というのは「最後の超越」として生き残っている感じがするし、現象学の発想を伝えるはそう簡単なことではなさそうだね……と、事態を楽観視していない竹田さんでした。 二日連続講義 8月6日、7日は朝カル新宿・ニーチェ『道徳の系譜学』講読の合宿講座。60名近くの方が参加した。今回のニーチェ講読シリーズで竹田さん西さんの講座に初めて参加した、という方もかなり多い。最近のニーチェブームも関係しているのかな(西さんもNHK教育テレビの100分de名著「ニーチェ」に出演したし)、と思ってうかがってみると、竹田さん西さんいずれかの著作を通して二人の哲学に関心をもった方が多く、それぞれの仕事(医療などケア関係の仕事がやはり多いようです)や生活のなかで抱えている問題をクリアーにする糸口を見出していきたい、などという参加の動機をおうかがいする。二人の哲学が着実な形で浸透している。という感じです。 自分の場合、単独でニーチェの本を読もうとすると、偽善欺瞞を糾弾するメリハリのあまりに強い言い方に気圧されてしまうことが多く、竹田さん西さんのニーチェ読みに、その思想の最良のエッセンスを引き出す視点を与えてもらっている。(根強く生き残っている)「真理・客観」図式を転換し、それぞれの実存(のみ)にたって意味や価値の問題をとらえ直そうとする方向性を切り開いた功績はなんといっても大きいと思う。また、他者との関係への配慮や気遣いが、ただ負担に感じられたり、偽善・欺瞞に思えてしまうのはどういう局面か、生への肯定感を失うことなく、よりよい価値を目指しあえる関係のもち方・社会の営みはどうすれば可能になるのか、など……まず「よりよい生を展開する」ということを念頭にしたうえで、諸問題を考察しようとする発想をもつきっかけを与えてくれる……ようにも思う。 ただし、『道徳の系譜学』は、どちらかといえばキリスト教とそれに立脚する倫理・道徳を論難することに終始しており、ニーチェ自身何を目指しているのか、ということは、次の講読課題『力への意志』でより明らかになる、ということです。 「ニーチェのモチーフ(肯定感をもってそれぞれが生を展開できること)を実現するために、ニーチェだけで足りないものは何か」、というテーマを併せて考えようとするのが、竹田さん・西さんのニーチェ論の魅力でもある(ように思う)。深夜の懇親会でも、(受講者との意見交換のもと)竹田さんは「未来への希望をつなぐための具体的な社会構想」、西さんは「『生への肯定感』には(ニーチェ自身の考察には欠けている)『承認』という契機が不可欠」など、それぞれの観点からニーチェ論をさらに展開。ときのたつのも忘れ、気づいたら午前4時……という感じでした。 翌日8月7日の12時でニーチェ講座は終了。場所を川崎から青山に変え、15時からNHK文化センター・ハイデガー『存在と時間』の講読(こちらは竹田さん単独での講座)。自分自身『存在と時間』は何度目かのトライではあるが、今回の講読では、現象学を実存的考察に展開する可能性とともに、ハイデガー「存在論」が内包する問題点などをよりクリアーにしたい、とそれなりの意気込みで臨んでいる。つもりなのだが、前夜の睡眠不足とイギリス旅行での蓄積疲労がたたり、どうも集中できず。現存在の実存論的分析など、キモと思われる箇所は9月初旬の合宿講座で講読するので、その際に仕切りなおして報告できるようにしたい。それにしても講座後の懇親会の席も含め、全然疲れの色を見せなかった竹田さん。いつもながらその気力の充実ぶりには圧倒されました。 2011年6月29日 怪しく素敵なハイデガー 6月26日、NHK文化センターでハイデガー「存在と時間」の講読講座がはじまる。初回の講座では、師匠であり現象学の提唱者であるフッサールとの対比を通して、(「存在と時間」での)ハイデガー思想の特長と問題点が浮き彫りにされた。 「みずからの(意識)経験を拠り所にしながら、諸対象の意味本質を取り出していく」という現象学の方法が、「存在と時間」での「現存在」(=人間の生の様相の)分析においてはきわめて的確に用いられており、その考察は優れた実存論となっている。人間的な「意味」や「価値」の問題の現象学的考察は、フッサール自身もめざしていたものだが、フッサールが(事物知覚というシンプルな場面に定位して)現象学の着想(の基本)を語ることに多くの労を費やしてしまったのに対して、それを十二分に展開しているところが「存在と時間」の白眉といえる。 だが、フッサールが、「あらかじめのほんとう」を置いてしまうことなく、それぞれが自分にひきつけながら確かめ合える、いわば「誰しもに開かれた確かめの仕組み」として「現象学」を確立し、そのうえで、自然科学的世界のように強固な一致が求められる(求めることに意味がある)対象性や、生の形成過程において「一定の共通性」と同時に、「それぞれの違い」も必然的に生じてしまうような(人格的・精神的世界と名指される)対象性の違いをとらえだしていこうとするのに対して、ハイデガーにはむしろ「存在」(=「あらかじめのほんとう」?)のあらわれを、「現存在」(=人間の生の様相)の洞察を端緒に読み解いていこう……というような問題意識がふつふつと感じられる。そこが、「ハイデッガー、ちょっとどうなんだろう」と思ってしまうところなのだが、本講座では、そうした「功罪」を含めたうえで「存在と時間」を読み込んでいくとのこと。今後の展開が楽しみです。 講座の中では、先の現象学研究会での「イデーンU-2」の講読 50人ほどの参加者の中には、竹田さんの講座初参加の方が多く、また新たな出会いが生まれる機会にもなりそうな講座です。 「つるけん」。それが何かを申しますと…… 6月19日は第3回鶴川経済学研究会・略して「鶴研」。朝日カルチャーセンターの精鋭と竹田さんとで経済学を(熱く楽しく)勉強する会なのです。たぶん、名前的には竹田さん最寄り駅の「鶴川」に因んでいる……はずですが、実際は「新百合ヶ丘」をよく会場にしています。でも「百合研」よりは「鶴研」のほうが、響きがよい、と思います。 幹事は、もと科学者で現在は翻訳者、言語学に造詣が深いけど経済学にもとても詳しい、なんでもできちゃうKさん。講師は、現在銀行の一線でご活躍中、哲学講読に関してもいつも圧巻のレジメをまとめてくださる、やはりなんでもできちゃう(テニスまで名人の)Tさん。参加者には、経済の実践の場(企業)で活躍してこられた人も数多おられ、実のある話がきけてとても勉強になります。 この日の課題は、竹田さんおすすめの(『人間の未来』でもちょこと触れている)ハイルブローナー『入門 経済思想史 世俗の思想家たち』。管理人も最初の「経済の革命(市場経済の誕生)」「アダムスミス」のところをレジュメ担当させてもらいました。「個々の利益追求を自然にまかせておけば、最終的にうまく調整が図られる」という見解自体は現実と乖離してしまった部分も多いが、アダムスミスが基本線として、「国家の富」とは究極「一般福祉(の向上)」にあると考えていたこと(つまり経済活動を「一般福祉」の向上という側面から見取っていこうとする視点をもっていたこと)が分かって、とてもおもしろかったです。これって本質的に、竹田さんが経済学を追求しようとする動機と重なっているかも? 「普遍交換」「普遍分業」「普遍消費」による自由主義(資本主義)経済は、持続的に経済を成長させ、財の希少性を解消し、多くの人の生活条件を向上させる契機をもたらしている。だが、現実においては、個人間、国家間の格差などの諸問題も同時に産み落としている。希望ある未来の像を共有できるようにするため、経済に対する「学」を、一般福祉の向上、多くの人がよりよい生のありようを求められる社会の形成に結びつく方向で展開していけないか……、というのがそのモチーフなのでは、と理解しはじめている(全然違っていたらすみません)。 いずれにしても素人なりに、経済学の意味と内実を少しずつ噛み砕いでいく楽しみを味わわせてもらっています。鶴研の先達のみなさま、今後ともよろしくお願いいたします。 竹田さん動いています…… 6月3日、NHK文化センターでの東日本大震災復興支援チャリティー講座「価値の転換は可能か〜災後を考える〜」が開かれた。『人間の未来』での考察を踏まえ、資源・エネルギー問題に対する具体的な提案などが展開されている……のだが、こちらに関してはトップページにもご案内したように(講座担当・榎本氏の尽力で)動画が公開されています。公開期間は3ヶ月ほど(9月末まで)だそうなので、ぜひご覧になってくださいね 2011年3月20日(土) 東北関東大震災で、大切な人やものを失われた方たち、困難な状況の中で生活されている方たちに心よりお見舞い申し上げます。 多くの人が信仰の支えをもちえない近代というこの時代、それぞれの生の状況を踏まえたうえで、内実ある可能性の原理を語り合い、考え合い続けていくことが、希望への「信」を形成する、ということを感じています。「哲学」という「言語ゲーム」を、それぞれの実存へと届くように、また現実の中でのより適切な判断へと結びつくように展開し続けていきたい、と思っています。(管理人) 余震の中のヴィトゲンシュタイン 大地震の翌日の3月12日。朝カル「ヴィトゲンシュタイン購読・箱根合宿」を挙行していただいた。 課題図書は後期の代表作である「哲学的探究」。 前期「論考」の、「(あらかじめの)言葉の仕組み」が「(あらかじめの)対象世界」をどう正しく言い当てうるのかという(いわば「実在論的」に「主客一致の問題」の解明を試みような)視点が180度転換され、自分自身が実際に行っている言語行為を(いわば現象学的に還元し、内省しながら)見取っていこう、というモチーフがストレートに伝わってくる。 (相互関係での)文脈や、(発話に至るまでの)脈絡「抜き」にして、「言語表現(≒一般言語表象)だけ」から意味を決することはできない、という基本的な論点にも共感できる。 だが、「言語活動が実際に展開され、ある意味理解が成立している場面(≒言語ゲームの様相)」を、客観的視点から解析することに重きを置こうとするあまりか、この「わたしが思い、考えている」というような「私的言語」について、「それはあり得ない」的論調で否定していることには違和感。(「論考」での自らの独我論が採っていたように)認識装置のような言語システムが先見的に与えられている、という意味での「私的言語」であれば、それはたしかにあり得ないと思う。だが、(自分なりに内省してみると)多くの場合、「『自分にとって』の意味づけ・価値づけのもと、対象をとらえようとする」経験がまずあり、それを言葉にして(自分のうちで)確かめたり、ひとにそれを語って確かめ合ったりしようとするなかで「言語活動」を営んでいるように思う。この『自分にとって』という項を切り捨ててしまうと、言語への考察自体が意味をもたないようにすら感じる。 「探究」の中でも、理解し表現しようとする意志、相手の言葉や振る舞いから意図を読み取ろうとすること抜きに「意味」は成り立たないということも語られてはいる(一般言語表象を介した意味企投、了解企投のもとに言語活動を見取ろうとする基本的な姿勢がうかがえる)。そうでありながら、「主観の中にすべての根拠を求めてしまうこと」と「主観に定位して考えようとすること」が、えり分けられないまま否定されてしまっている印象を受けた。 とはいうものの今回の購読を通して、「探究」が優れて実存論的言語観に立つものであることを、よくよく実感できたように思う。日ごろ「ヴィトゲンシュタイン慣れ」していない者にとって、「探究」の語り口は、意を汲み取るのがそれはもう困難なしろものでしたが。 講座中に幾度か緊急地震速報が携帯から鳴り響き、余震が何度も続く状況ではあったが、語り合える仲間と過ごせることの僥倖を味あわせていただいた。被災され出席できなかった方には心からお見舞いを申し上げたい。 落ち着かない状況の中で綿密に準備して、「探究」の明快な「見取り図」を示してくれた竹田さん・西さん。 判断が難しい状況の中、責任をもって開催に踏み切っていただいた朝カルの石井課長。 どうもありがとうございました。 2011年 1月29日(日) 新百合ヶ丘で「言語的思考」 1月9日、竹田さんの朝カルやNHK講座などの常連メンバーが主体のサークル、「ワッチラス」の勉強会に参加させていただく。朝カルでのヴィトゲンシュタイン講座が導火線となり、昨秋から数回に渡りソシュールやチョムスキーなど言語論のビッグネームを読破してきた、という。そのシリーズの締めくくりとして、この日は竹田さんの『言語的思考へ』を取り上げられたそうである。竹田さん自身も参加。 思えばこの日の会場・小田急線新百合ヶ丘界隈が、駅構内に「箱根そば」すらなかった二十数年前、はじめてソシュールの言語論を(丸山圭三郎さんの本を通して)知ったように記憶している。「『言語」という認識の網の目を抜きにして人はものごとをとらえることはできない」という視点をそこから主に受け取り(「唯言論」?)、「それは確かにいえているな……」と考え込まされた。ただ、その後、「言語が思考そのものを可能にしている」「だからこそ、考えている(表現や理解を為そうとする)人間(主体)の側ではなく、『言語』のみが有効な考察の対象たりうるものだ」というような論に触れると、それはそれで実存的な感覚から乖離しているように思えてならなかった。そのモヤモヤがしばらく続いた後、この『言語的思考へ』を通して(2001年の刊行だからほぼ10年前)、言語(活動)は(共有化されており、体系的かつ構造的に記述しあっていくことも可能な)「一般言語(表象)」を介して、(それぞれの、その場での)「意」をたずねあい、より手ごたえのある表現や理解への「確信」を得ようとする「信憑構図」のもと展開される(「意味企投(表現)」「了解企投(理解)」を繰り広げる場としてあるものだ)……という考えに触れ(全然間違っていたらすみません)、自分としての思考の足場ができたような深い感動を(通勤途中の車内・井の頭線渋谷駅付近で)覚えたことを鮮明に記憶している。 「ワッチラス」の、敬愛する人生の諸先輩方の精緻なレジメ報告を通して、「あのときの感触」をまた味わうことができ、たいへん幸せな時間を持てました。会長のIさんはじめワッチラスのみなさん、今年もよろしくお願いいたします。 その後の懇親会(新年会)には、最寄の鶴川の、和光大学市民講座で講師を務める石川テルキチさんも合流。ワッチラスのメンバーにはこの講座の受講生も多く、若先生の登場に新年会はそれはもう盛り上がったのでした。二次会(カラオケ)では率先して幹事を務めてくれたテルキチ先生に感謝です。 独研で「イデーン」 1月13日は今年初めてのドイツ語研。独研では昨年末よりフッサール「イデーン」に取り組んでいる。この日の購読箇所は第1編2章31節。自然的定立(一般定立)の「遮断」「括弧入れ」について論じようとする箇所である。 デカルトの、あらゆる存在を疑ってみたうえで「これだけは疑いようのない」という確たる基点を得ようとする方法的懐疑に対し、フッサールは自らの方法をこんな言い方で説明している。……ものごとを確かにとらえていながら、同時にそれを「(実は)ない(のでは)」というように「懐疑」することはできない。そのような(ありありととらえている)対象を「懐疑」するとき、それは、(あえて「ない」ものと見なそうというわけではなく)「確かにとらえている」という事態を「括弧」入れして(「そうとらえている思考のありかた」を反省的にとらえかえせるように)「停止」(遮断)することを意味する……。「現象学」の発想の基本が分かっていれば、これが「確信成立の条件を問い直す」ための、「視線変更」のことを言おうとしているということがよく分かる。でも、同時に、それはもう相当に「分かりにくい」言い方になっているということも、非常によく分かる。……そんなことを少しずつ味わい?確かめつつ、読み進める購読がとても面白いです。 購読のあと、講談社担当編集Yさんたちを交えた『完全解読シリーズ』の打ち上げに、独研メンバーの一人としてご相伴させてもらう。自分なんぞ、ただ楽しく勉強させてもらっているだけ、という感じなので申し訳ないのだが……とてもありがたい。おなじみの中華料理屋「ゆうゆう」さんで、名物の「薬膳なべ」を久しぶりにいただく。特に寒い冬には、このなべは最高のごちそう。前にも書いたけど 横浜で「ケアの現象学」 2008 年 10月19日(日) ヘーゲル、聞くたびに新鮮だ 10月18日、今期朝カル講座の後期が始まった。『完全解読 ヘーゲル「精神現象学」』(講談社)をさらに完全解読し、その成果を「ポケット版完全解読」に反映しようという「プロジェクト」の一貫でもある講座である。第一回目は、西研さんがはじめて受講する人たちにも分かりやすいようにと、精神現象学の基本的な発想と、前期までの意識→理性章までの流れを端的にまとめてくださった。……「ものごとを確認するための共通のステージ」としての意識によりそいながら、さまざまなレベルでの事象の意味本質をとらえかえしていく。そうしたフッサールの「現象学」に共通する視点(「観念論」という発想)が、ヘーゲル思想にもある。「精神現象学」は、意味の生成過程をたどり直し明らかにしていく(フッサールの)「発生的現象学」と同様の発想に基づくものであり、その要諦は「バラバラな知や対立する思想的立場と見えるものを、意識経験というところから理解しなおし、相互関係を明確にしてつなごうとする」ことにある……ということを、西さんならではの平明かつ丁寧な語り口で伝えてくださった。 竹田さんは、個々の人間の「自由」の相互承認に立脚する「近代社会」の成立を、「精神」→歴史の必然的展開のもとにあるとみなす、ヘーゲルの思想体系そのものには問題がある……ということを明確に指摘された。さまざまな国の歴史を冷静にとらえかえしてみると、それは必ずしもヘーゲルが必然性と名指すような道のりをたどっているわけではない。むしろ「人間は条件が整えば自由を求めるもの」と考えるべきではないか。……たしかに(『精神現象学』が一面としてもつように)世界の究極的な説明体系を構築しようとすることよりも、竹田さんのいうように(かつ実践しているように)「人間的自由の条件」が成立し、よりよく展開していく可能性を模索すること(そう目的を自覚化できること)が、人の生きる現実に届く思想を紡ぎ出すためには不可欠ではないか……と考えさえられた。 毎回、受講するたびに新鮮な感動のある竹田さん西さんのヘーゲル講座です。(担当の石井さん、もろもろお世話になりありがとうございました。後期もよろしくお願いいたします。) 純粋理性批判も「完全解読だ」! 10月8日は久しぶりのドイツ語研。いよいよカント『純粋理性批判』のクライマックス(アンチノミー)にトライする。ちなみに、竹田さんは『純粋理性批判』の詳細なレジュメをまとめておられる。言葉の並びだけではどうしても理解できないところに差し掛かると、「ヘルプ」としてそれを提示してくださる。すると、「あ、なるほどねー」ということになる。面白いのはその場でご本人も、「あ、なるほどねー」と納得していること。レジュメをつくったとき精読した集中力の水準は、それだけ尋常ではないレベルのものだっだのだろう、と思う。原典原語講読というハードルを越えることで、その領域に近づけているんじゃないかと思うと妙にうれしくもある。 『純粋理性批判』は『精神現象学』に続く「完全解読シリーズ」第2弾として、遠からずの出版が視野におかれている。(と講談社・担当編集の山崎さんも言っていました)。 その「過程稿」を、ウェブ上で少しずつ公開してくことになった。みなさんも竹田さんと「一緒」に『純粋理性批判』、完全解読しませんか。一息ついたときのお菓子が、とってもおいしいですよ。 /管理人 2008年 9月15日(土) うっかり夏休みを…… ごぶさたしてしまいました。うっかり管理人的夏休みをとってしまったようすです。 竹田ゼミもこの間夏休みであったのだが、竹田さんは学校が休みの間は執筆のお仕事が忙しくなる。この夏は、ヘーゲルについての新しい本の仕上げに取りくんでおられたそうです。ヘーゲル思想のエッセンスを現代社会に展開していく可能性を示す一冊になるようだ。刊行はまじか。楽しみです。 町田では実存の哲学 9月6日、NHK文化センター町田教室で講座「恋愛を哲学する」が開かれた。「町田教室」は小田急線の駅からほどちかい商店街?の一角をしめるビルの中にある。まちの活気が伝わるとってもポピューラーな環境です。講座の内容は、3月の「井上陽水論」に続き、竹田さんの「実存論」的側面に照射したもの。 ……「恋愛」は他にかえられない自己肯定感、「真」「善」「美」への確かな感触を得る契機となるが(逆に失恋は深い自己喪失感を生む)、基本的には「自己幻想」であることを了解し、互いの幻想のズレを認識しながら調整の努力を重ねていけることがたいせつ……という、話などには深く納得させられた。 町田は竹田さんのおうちからも近く、沿線すぐそばの駅にすむ管理人としても、「ほぼ地元」でこうした講座が開かれていることがとてもありがたい。でも、千葉県から東京湾をくるりとまわってこられたかたや、さらにもっと遠方からはるばる参加されたかたなどもいたご様子。ホームページを見てますよ、などというお話も聞けてうれしく思いました。 担当の榎本さん毎回の企画をありがとうございます。これからも「町田では実存哲学」をよろしくお願いいたします。 小学校社会科の先生 管理人は参加できなかったのだが、竹田さんは8月末に都内の図書館で,小学生に「社会科」の授業をしたそうです。「学校」の本質観取をしたり、「大貧民ゲーム」を通じてルールの本質を伝えたりなど……お話を聞くだにおもしろそう。ルールにもとづいて多様な関係を(楽しく)展開できること、よりよくそれを展開していくためにそれを改変していくことの意味をまず知ることが、たしかに基本となるように思う。 竹田ゼミには教育学を専攻しているかたもいるし、竹田さんの哲学がこの方面にも展開していけばいいなあ、と思います。 /管理人 2008年 7月27日(日) 著作リスト、更新しました。 「久しぶりだけど……」と、竹田さんからデーターをいただき、昨年5月から現時点までの著作目録を追加しました。 でも、夏場になると好きなテニスでちゃんと健康的に日焼けしている竹田さんでもあります。けっこうすごいなと思います。 ちなみに、「ちくま新書」からまもなく、ヘーゲル思想のエッセンスを現代社会へと活かす可能性を考察した新著が刊行される予定です。楽しみにおまちくださいね。ライフワークである「エロス論」も遠からず形にしてくプランが具体化しているそうです。 山竹さんの顔色が…… 7月19日、HPでもご案内を出していた、竹田さんと山竹伸二さんとのジョイント講座、「『心』はどこへ向かうのか」が開かれた。ちなみに、管理人は山竹さんと10年来の知己である。知り合ったきっかけは竹田さんの朝カルの(ハイデガーの)講座。それ以来、(ときには3,4人くらいの)プライベートの勉強会(→飲み会)で頻繁に顔を合わせている。「哲学の原理を心の問題に(精神医療の原理として)活かしたい」というモチーフをずっと抱き続けている人である。毎回の勉強会では丹念に課題図書を読み解き、緻密なレジュメをつくり、穏やかな落ち着いた口調で自分自身の考えを語る。そうした姿勢がそのまま朝カル講座でも展開されていることを、うれしく思う。 ……人間というものは、「思いのままにはならない自分」という場所を生きる。つまり、感情や好みや癖など、「なぜかそう感じている・そうしてしまっている」自己の身体性のもとで生きることを条件づけられている。そして、挫折したり、人との関係がうまくとれずに悩んでいるときなどは、往々ネガティブな気持ちで「思いのままにならない自己の身体性」に立ち会わされる。しかしこの「自己の身体性」というものは、これまでの自分自身の関係と行為の集積から知らず知らず形作られてきたものであり、原点には幼少期の親との関係がある。その形成過程は「想像的」にたどり直していけるものだし、それを自覚化することが、いま不具合を感じている自分のあり方を刷新する契機ともなる。(フロイト思想の最良のエッセンスもここにある。)ただし、大切なのは、この「自己の(過去への)考察」が、「事実的な(不調の根本)原因探し」であってはならないし、それは原理的にも不可能なことだということ(このへん、フロイト自身の考察にはちょっと問題がある?)。「この先」に向け、生の肯定感をどう見出していくか、自分なりの「ほんとう」への感触をどう維持していくか、ということに繋げて考えられたとき、それははじめて意義をもつものになる……ということが、自分なりに竹田さんと山竹さんの共同作業から得てきたものなのだが、今回の講義はそのことを再確認しつつ聞かせていただいた(ように思う)。 特に面白かったのは、竹田さんが「自己の身体性」を、「自己ルール」という観点からとらえ、しかもそれを「よい・わるい」「美醜」「ほんとう・いつわり」という三つの契機からとらえたこと。「自己ルール」である以上、それは客観的な正当性を主張できるものではないが、それでも自分の中で「ほんとう」の感覚が死んでしまわないように、他者との関係を展開していくこと(「調整」の努力を重ねていくこと)が、よく生きられているという実感を得るうえで欠かせないのではないか。そもそも「真・善・美」というもの自体、関係をよく生きるために考案されたアイテムなのだから……という話に深く納得させられました。 講義の内容を詳細にお伝えできなくて残念だが、二人の共著『フロイト思想を読む』には今回の講座のエッセンスがつまっているので、まだの方はぜひ、読んでみてくださいね。 ちなみに、あとから聞いたところ、山竹伸二さんはこの日ウィルス性の風邪でむちゃくちゃ体調が悪かったそうである。でも、全然そんなことを感じさせず、4時間以上の「マラソン講座」を完走していた。ただ、後から気がついたことがひとつ。山竹さんはふだんとても顔ツヤがよく、いつもの講座の場合、穏やかでありながら毅然とした表情のうえに、蛍光灯のかたちがそのまま反映(反射ではなく)している。講座が終了するころには蛍光灯の残像が瞼に残される……のだが、今回はそれがなかった。きっと、そうとう苦しい中で(顔色も本来の調子とは程遠い中で)の講義だったのだろう。それでも、多くの人の心に届く言葉を(竹田さんとともに)一生懸命語ってくれた山竹さんに感謝です。お大事にね。 お菓子とビールとカント 7月22日は夏休み前最後の(竹田研究室での)ドイツ語研。カント『純粋理性批判』の講読を続けている。今回から現研(現象学研究会)の若手エース、小井沼氏も参加。「先験的論理学」という難所を通っているのだが、みんなちゃんと予習してくるし(時間かけて予習しないと歯が立たないし)、翻訳家・磯部さんの「基礎単語帳サポート」と深い文法理解、竹田さんの的確な哲学解説に助けられつつ、けっこうサクサクと進んでいる。筆者の意を汲み取りつつ読み進める作業がだんだん楽しくなってきた。(これがなんで「先験的」といえるのかなあ、と腑に落ちてこないことなども自分にはありますが。) いやというほど脳を使うせいか、休憩のあいまにつまむお菓子がめちゃくちゃおいしい。それに加え、カントがドイツ人のためか、終了後に流し込むビールが脳髄を震撼させる。 お菓子とビール込みで、はまってしまうドイツ語研なのでした。 /管理人 2008年 6月15日(日) 現象学研究会の本、いよいよ出ます。 昨年10月の管理人日記からたびたび話題にしてきた、竹田さん+現象学研究会の新著が6月25日いよいよ発売になる。タイトルは『知識ゼロからの哲学入門』(幻冬舎 1300+税)。目玉はなんといっても、哲学史上のビッグネーム30人、それぞれの思想の核心を鮮やかに(かつ平明に)とらえ、自らの経験も折り重ねながらそれと「対話しあう」竹田さんの書き下ろしエッセー。現研メンバーが執筆した各哲学者の「人となり」「思想のポイント」と巧みに連結し、その思想の今日的価値をとらえる糸口を与えるとともに、最初から通して読むと哲学的思考そのものの本質が見えてくるような展開にもなっている。 藤野美奈子さんの挿絵マンガも充実。ポイントを的確にイメージ化しているだけでなく、笑える作品に仕上げている。 現象学研究会の共著は、前作『はじめての哲学史』(有斐閣)から約10年ぶりとなる。ロングセラーとなり哲学入門書のスタンダードともなった前作と比べ、今回はポップなステージで勝負、という感じ? ただ、形はポップであるが(ポップなだけに?)吟味しつくした内容だし、研究会としてのその後の足跡も些少なり形にできているのではないかしら、と思う。面白い本ですからぜひ読んでみてくださいね。 今回の本を企画・編集したS氏はまだ20代のヤング。働き者で土日に校正・事務連絡のメールを出すと、ほぼ間違いなく即座に応答がある。ためしに、「たまにはちゃんと休んだほうがいいですよ」と(日曜日の夜8時に)「余計なお世話メール」を入れてみると(やはり間髪いれずに)「気をつけつつ(仕事に)邁進いたします!」と返信がある(すみません)。 温和だが粘り腰が強く、30人書き下ろしの偉業を達成して脱力中の竹田先生に、間髪いれずに「次は、前書きですが……」と仕事をお願いした「武勇伝」を漏れ聞く。すごいです。その気合もあって、これだけの短期間で内容・全体構成とも完成度の高い本ができたのだと思う。執筆者のはしくれとしても、短い言葉で意を尽くして表現するトレーニングの機会をいただいたことに感謝している。ありがとうございます。坂上さん。 今度はバタイユ、普遍経済。 6月7日は現象学研究会。「バタイユ・シリーズ」第一弾として『呪われた部分』(1〜3部)を講読した。 「太陽エネルギー」という原的な力を展開させるためには、自らのもとに蓄えられた過剰なエネルギーを消尽させていくことが生命体としては求められる。経済に関しても、単に生産、富の蓄積ではなく(それらを)「蕩尽」すること、すなわち「普遍経済」がその本来的姿としてある。世界大戦という悲劇的な形で「蕩尽」が行われることを回避するためにも、こうした観点を自覚化することが必要だ……という論調である。「太陽エネルギーの展開」という仮説から、社会関係、人間関係を直接語ろうとする発想自体には無理を感じる。人間の問題を考察するのであれば、単純に「生命体」というアナロジーだけではなく、「(文化的な意味や価値を繰り込み展開するという)幻想的身体性」の観点が必要ではないか、という興味深い指摘がメンバーの行岡さんからも出された。 しかし、一般生活水準の向上による格差の是正(一般消費の拡大?)が、暴力的な形で蕩尽エネルギーが発露する危機を軽減させることになる、というバタイユの直観そのものは的確だと思う。今後の講読を通して、バタイユ思想の今日的な価値を見出していければいいな、と思う。 今回の現研のレポート、レジュメも担当してくれた20代の精鋭・S氏にお願いしています。この場でプレッシャーかけてすみませんが、楽しみにしてます。杉田くん。 2008年 4月29日(火) 『完全解読』、完全解読します 4月19日(土)、今期の朝日カルチャーが開講した。テーマは、昨年末に刊行した『完全解読 ヘーゲル「精神現象学」』に基づき、受講生とともにヘーゲル哲学をさらに精査していこう、というものである。『完全解読』、当初は「通勤電車でも読めるヘーゲル思想」というコンセプトだったが、竹田さんご自身は刊行直後から「やっぱりこれ、そんな簡単には読めないかも」とつぶやき続けておられた。「精神現象学」かじってみたら歯が折れた、という経験をもつ身としては、よくぞここまで読み解いてくださった……と、つくづく感謝の一冊なのだが、「進化する超人」はすでに次の課題へと視点が向かっている。思想は、誰もが深く納得でき、それぞれの切実な生の問題に生かせてこそはじめて意義をもつものだ、思想が「議論のための議論」「言葉遊び」に陥り元気を失わないためにも、それを徹底していくことが必要だ、というのが竹田さん、西さんの持論である(と理解している)。たしかにフラットに見れば『完全解読』、決して平易な読み物ではない。『完全解読』の作業で掴み取ったヘーゲル思想最良のエッセンスを、ほんとうに誰にでも共有できるように伝えきる一冊を、この講座をもとに完成させていくことをめざしておられるようだ。 なお、初回の講座をほとんど再現しているといっていいほどの圧巻な報告と感想を、受講生の方からお寄せいただいた。「まるテーブル」のほうに早速掲載させていただいたので、ぜひご一読くださいまし。 がんばれ,みなっち ここしばらく報告を続けている現象学研究会の共著だが、竹田さんが(この本の「目玉」ともいえる)哲学者30人分の「まとめ」を書き上げられ、いよいよ大詰めとなった。竹田さんが書かれた内容は、実はまだ管理人も読んでいない。しかし、挿絵のためゲラを精読した漫画家・藤野美奈子(みなっち)さんによれば、期待通りのもののようだ。藤野さんは、メンバー執筆分の挿絵は完成したご様子。編集Sさんからお送りいただいた担当分の校正用ゲラにはすでに挿絵が。ふだんのホンワカ風とちょっと違ったシャープな感じの画風である。また、自分を出すのではなく、あくまで書き手の内容をフォローしようという気構えが伝わってくる。さすがプロ、いろんな引き出しをもっておられる。藤野さんは目下竹田さんの原稿と「格闘中」のご様子。みなっちさん、がんばってね。ゴールのテープを切るのはあなたです。 /管理人 2008年 4月13日(日) 現研でレヴィ=ストロース 4月5日(日)は現象学研究会。昨年より4回重ねてきたレヴィ=ストロース講読の最終回である。 課題は、レヴィ=ストロースのモチーフを端的に表現した小編『人種と歴史』と、『構造人類学』より、それぞれ「構造」「(一般)交換」という基本概念の骨子を伝える「民族学における構造の観念」「双分組織は実在するか」。 研究会の報告を、現研ホームページに俊英・K氏がまとめてくれているのでご一覧ください。 レヴィ=ストロースの主要論文は、執拗な事例の取り上げ方、丹念に筋を追っていかないと(追っていこうとしても)迷路にはまってしまう論理構成など、そうとうハードなものだ。また、「主観哲学」のともすると情緒的かつ(それこそ)主観的に見えがちな思惟とは一線を画そうと意図してのことか(と勝手に決めつけてますが)、(客観主義的とも思えるほど)クールで科学的、悪く言えばモチーフのとらえにいく語り口となっている(ように思う)。しかし、その後「構造主義」「ポストモダン思想」が陥ったような相対主義的発想は彼の中には微塵もない。人間存在の普遍性への「信」が思想の軸となっている。 さらに、「構造」を実体としてではなく、社会関係をとらえるうえでのモデルとして自覚的に取り出そうとしていることが、特に今回の講読を通してよく分かった。 竹田さんは『プラトン入門』(ちくま新書)の中で、(現象学でいう)「本質」は決して実体的な意味内容ではなく、その言葉で人々が世界を呼び分けて秩序をつくりだしている仕方であり、「本質観取」はその世界分節の構造を取り出すことだ、という趣旨のことを述べているが、こうした「本質学」への感度が、構造主義の開祖レヴィ=ストロースからは伝わってきた。 その成果、はや新刊に…… ちなみに竹田さんは、レヴィ=ストロースへの考察の成果を、3月末に刊行された『フロイト思想を読む』 自己や社会のありかたを根底で支えるものを「無意識」「構造」として見出そうとすること自体に、それまでの自己や社会関係への理解では立ち行かなくなった現状が背景としてあるはずだ。新たな自己了解(社会関係の了解)への希求が、「無意識」「構造」を(沈殿し)身体化したルールの束としてとらえ、その成り立ちの経緯を解析することで「刷新」への可能性を模索させる。そうした、(いま何を求め、何をそこから取り出そうとするのかという)「視点の自覚化」が、「無意識」(ないしは「構造」)への考察を内実あるものとするためには欠かせない……わたし的にはそんな示唆を与えられた一冊です。現研の「フロイト職人」山竹伸二さんの、研鑽を積んだフロイト解釈も圧巻です。ぜひご一読のほどを。 30人の哲学、一挙書き下ろし中です。 以前からこの日記で紹介している竹田さんと現研メンバーで取り組む「哲学入門本」、着々進行中です。哲学史上のビッグネームを30人ほど取り上げ、各々の「人となり」「思想の要諦」をみんなで分担して執筆(これはほぼ完成しました)、竹田さんが30人分の「まとめ」を一挙に書き下ろしする。竹田さんは目下その執筆に集中。限られた紙面で何をどう表現するのかということに試行錯誤を重ねられている。今までにない執筆の形式なのだと思う。ご自身は、「ちゃんと書けるかなあ……」と口にされてはいるが、(集中して)「ゾーン」に入っている感じが伝わってくる。こうなったときの竹田さんはすごい。どんな形に仕上がっていくか、非常に楽しみである。 /管理人 2008年 3月9日(日) 町田で陽水 3月1日、NHK文化センター町田教室で講座「陽水の快楽」が開かれた。 NHK文化センター青山教室で竹田さんの講座を企画していた榎本さんが昨年より町田教室に移られ、「町田に哲学の灯火を」という熱意のもとに実現した講座である。 講座は、竹田さんがセレクトした陽水のナンバーをまず実際に聴いたうえで、竹田さんの解説を聞く、という形で行われた。陽水の世界には正直明るくない管理人などにとってはありがたい内容だった。 竹田さんは、哲学講義での明晰で歯切れのよい語り口とはやや違い、「これは自分だけの思いかもしれないけれども……」というややシャイな前置きを加えながら、それぞれの作品(各曲)が語り出しているもの、作風の変遷が意味しているものを鮮やかにとらえ出していった。 「自分自身がものごとを感受している場所を徹底的に掘り下げていくことから、人々の琴線に触れる言葉を紡ぎ出す」という竹田さんの批評スタイルは、「内在に定位しつつ普遍的な本質を取り出していく」という哲学の方法と基本では重なりながら、やはりそれ独自の表現の魅力をもっているように思う。NHK文化センターの講座は(青山時代から)竹田さんのそうした「文芸評論家」として資質にも照射した企画に独特のセンスを感じる。 私事だが町田は管理人の生家から比較的近くにあり、『陽水の快楽』は(20数年前、当時)町田ジョルナの4Fにあった書店で新刊を購入したことを記憶している。不思議な縁を(勝手に)感じて嬉しくもあった一日だった。 /管理人 2008年 2月24日(日) 箱根でメルロポンティー 2月16日、17と朝日カルチャーセンター新宿のメルロポンティー講読講座の合宿があった。場所は箱根のホテル「花月園」。竹田さん、西さんの朝カル講座・冬合宿では恒例の会場となっている。 温泉施設が充実してゆったりとくつろげる環境ではあるのだが、講読のレジュメ発表や深夜まで続く質問会、さらに明け方まで続く「飲み会」とスケジュールが充実しているため、温泉につかっているのももったいない……という感じになる。 それでも、翌早朝に浴びる温泉はとても爽快、楽しみの一つではある。前夜のお酒も抜けるし。そして受講生のレジュメ発表は二日目の午前中いっぱい続くのです。なかなかすごいでしょう。 今回の課題図書は『知覚の現象学』の第2巻。実存の場所に徹底して知覚という経験を見取っていこう、という姿勢そのものはよいと思うが、ポンティの場合、世界を受け止める(世界が生成される)根源的な場所として身体をとらえだそうという基本的な構えがあるようで、そこに違和感を抱いてしまう。 フッサールに対する批判も、知覚経験を記述するために「意識」を起点にするようではだめだ、その底板にある「身体」という場からはじめないと……という感じである。「何かを意識する」ことに先立ち、まず「そのようにものごとを感受している体験」があるということについては、確かにその通りだと思う。だが、フッサールの「現象学」は、そもそも「意識」が先か「身体」が先か(「現象」の基盤にあるものはなにか)ということを問題にしているのではなく、ものごとの確信成立の様相を問うプラットフォームとして意識経験に照射した、というのがその真意であると自分的には理解している。 竹田さんは、人間の身体は独自の態勢をもつもので、そこに着目したのはメルロポンティの功績といえるが、「ではそこから何を取り出していくか」という視点が明確でない、とおっしゃった。さらに……人間にとっての身体は(欲望の展開に即して)時間の中で編まれ、編みかえられていくという弁証法的な(かつ文化的な)ものである。直接的な知覚経験にも、すでにそのことは織り込まれている(かつ、時間・経験を通して変化していく)。しかし、メルロポンティの論は、「身体」をある種客観的前提のようにしてとらえてしまっているふしがある。フッサールのほうが、むしろ「発生論的現象学」を通して、弁証法的に「身体」という現象をとらえようとする発想をもっていた、……というように、問題点を明快に整理してくださった。 これに関連して西さんも、メルロポンティの身体論には「エロス性」という発想がない。(世界の)「身体化」というとらえかたにしても、「新しいエロスの獲得」という切り口からみたほうが、それを考察する観点がよりはっきりする。その点、竹田さんが(昔から提唱している)「幻想的身体性」というタームは人間の身体の本質を的確にとらえていると思う……とおっしゃった。 なんとなく「感じ」はよいのだが、いざ読み込んでみると芯が見えてこず、かなりとらえにくいメルロポンティ思想の輪郭(と問題点)が見えてきた感じのする箱根合宿でした。 /管理人 2008年 2月11日(月) 08年も竹田研究室は熱く…… 今年もはや一月以上経過してしまった。 なのに。ようやく今年初めての「日記」です。 管理人がかように怠惰な人間である一方、早稲田大学竹田研究室は1月からフル回転している。 竹田さんが『完全解読 ヘーゲル完全解読』の仕上げに集中なさるため、しばらくお休みだった「ドイツ語ゼミ」「経済学ゼミ」も再び稼動し始めた。 ドイツ語ゼミには、新しく学部生のIくんが参加。ドイツでの生活経験が豊富で、流麗にドイツ語を操る。昨年より継続して『純粋理性批判』を講読しているのだが、I君が音読をすると無味乾燥なカントのドイツ語がほとんど詩的といっていいほど美しく響く。思わずうなってしまうほどだ。いかにいままで自分が我流のいい加減な読み方(発音)をしてきたかがよくわかっておもしろい。発音の勉強までできてしまうドイツ語ゼミ。なんてすばらしいんだ。 竹田さんの圧倒的な根気と集中力には相変わらず感心させられる。ざっとした文意だけではなく、文の構造が細部に渡り完全に腑に落ちるまで疑問を呈し続ける。いかに自分が大雑把でいい加減な読み方(解釈)をしているかがよくわかっておもしろい。頭がオーバーヒートしそうなほどの集中力を要する2時間だが、終わったあとのビールがうまいんだな、これが。(というようなオチをつけてしまいがちな自分がちょっと悲しくもあるけど。) 「これ(ドイツ語の原典)がいちおう底板となるわけだし、読み解いていく充実感はあるよね」と竹田さんはおっしゃる。 『純粋理性批判』は「完全解読」のプランにも入っているご様子。こうした地道な作業がきっとそこにも結実していくに違いない。 「経済学ゼミ」も熱い。講師として参加しているHさんは、国政の場で経済学を実践するプロ中のプロである。しかし、この「ゼミ」では初学者のために、経済学の基本やワルラス、ケインズなどビッグネームの学説の要点を懇切丁寧に説明してくださっている。ただし、英語で。基礎学力のない管理人には試練の場であるが、哲学の原理的思考を社会生活の現場で展開しようとする竹田教授、Hさんの真摯な思いは伝わってくる。がんばって理解しなくちゃ、と思うのだが、つい目線が宙をさまよってしまうことがある。竹田さんは「普遍交換」「普遍分業」、加えて「普遍消費」というキーワードを立て、資本主義経済が一般福祉へと結びついていくための原理を模索しておられるのだな、ということが漠然と見えつつもあるのだが、きちんとした報告ができるようになるにはもう少し時間がかかりそうです。 新刊もゾクゾクと…… 昨年末発売になった『完全解読 ヘーゲル現象学』。刊行後「だれにでも簡単に読めるつもりだったけど、やっぱりそんなに簡単な内容とはいえないよね……」としばしば口にしている竹田さんであるが、すでに3刷りを重ね出足すこぶる快調、うれしい限りである。 以降も新刊の予定が目白押しである。『人間的自由の条件』(講談社)の内容を噛み砕いた『予言するヘーゲル』が「ちくま新書」から、山竹伸二さんとの共著、フロイトの解読本が「NHKブックス」から今春(?)刊行される。 現象学研究会の共著である「哲学入門本」がこれに続く。「哲学入門本」は、研究会メンバーの執筆箇所が(竹田さんのアドバイスのおかげで)ほぼ完了。これまでディレクター役に集中していた竹田さんもようやくご自身の担当分(全体の3分の1以上)にとりかかることができる。イラストは漫画家の藤野美奈子さん。『不美人論』(径書房)など西研さんとの共著でも知られる実存ギャグ漫画家である。期待してますよ「みなっち」。ふふ。 学業に加え、ご執筆のほうでも超・多忙な竹田さんである。 写真更新しました。 すでにお気づきの方もいるかもしれないが(いるといいのですが)、「自己紹介」の欄の竹田さんの写真をリニューアルしています。 /管理人 2007年12月29日(土) 「完全解読」いよいよデビュー 12月10日、『完全解読 ヘーゲル精神現象学』がいよいよ刊行! 当日諸々の書店で平積みにされているのを確認して、おもわずうれしくなる。 さすが講談社メチエシリーズですね。 12日には、朝カル新宿で、この本に関連した西研さんとの講座「ヘーゲル『精神現象学』と近代の可能性」が開かれた。参加者は80名ほど? 大教室がほぼ満員でたいへんな盛況でした。 竹田さんと西さんとの出会いは、故・小阪修平さん主催で西さんもメンバーだったヘーゲル講読勉強会に、竹田さんがお呼ばれしたことがきっかけだという。それを考えると、この新作、二人の長年の共同作業の集大成といえそうです。講座では、そうした二人のなれそめの話にはじまり、精神現象学を読み味わうためのポイントを示していただいた。 『完全解読』は、ヘーゲル独特の論理のうねりも含めて『精神現象学』を「再現」したものなので、決して平易にスラスラ読み進められるものではない。(竹田さんも「『通勤電車でも読める』というキャッチフレーズはちょっと言い過ぎだったかも」と言ってます。いや、ラッシュアワーを外せば十分読めますよ>竹田さん) しかし。「本格的な哲学書ははじめて」という人でも、(要所要所に付された丁寧な解説の力も借りつつ)根気よく言葉をたどり、自分自身の生活経験に照らし合わせてその意味を咀嚼していけば、必ず理解できるようにすべてのことが吟味されて翻訳されている。ヘーゲルという思想家の息吹のようなものも含めて伝わってくる。ちょっといままでにないタイプの本だなあと思う。 ちなみに、西研さんのHPでも、このHP同様『完全解読』の(ご担当箇所の)未定稿と「あとがき」を公開しています。 現象学研究会ではレヴィ=ストロース 12月8日は現象学研究会。課題図書はレヴィ=ストロース『野生の思考』である。講読会の後には、先に報告した「共著」の原稿検討会も行ったので、かなりタイトなスケジュールとなり、わたし頭の回線がショート! 来年1月の研究会でも『野生の思考』の購読は継続することになったので、内容のご報告はその際にまとめてさせていただこうかと思う。(スミマセン>現研のみなさん。) 原稿検討会のほうは、今回はそれぞれ担当箇所の第2稿を持ち寄った。「だいたいこんなところかな」と主観的には思っていても、「言われてみたら、なるほどその通り」という指摘が出てくる出てくる……。共同作業の面白さってこういうところにあるんだな、と思う。それぞれの個性を重視しながら、全体の内容と書きぶりを丹念にチェックする竹田さんのお仕事はたいへん……だとは思うのだが、とても楽しそうにやっておられるところがなおさら凄い。できるだけよい内容に仕上げて応えたいな、と思います。担当編集者のSさんも、毎回長時間の立会い、ご苦労様です。 2007年11月25日(日) 平成のルター トップページですでに表紙のご案内をしている『完全解読 ヘーゲル精神現象学』。発売(12月10日)間近です。とはいうものの、脱稿したのはようやく先週半ばだそうです。最後の仕上げにそれだけ「念」を入れられたのだと思う。 (このサイトで一部公開している未改定稿 この仕事、それまで一部の聖職者のみに解釈が可能だった「聖書」を、ラテン語からドイツ語へと翻訳することで多くの人にアクセス可能なものとした、かのマルティン・ルターの偉業になぞらえてしまおうかと思う。(なぞらえられて迷惑だったら許してください>竹田さん、西さん) 「完全解読」のプランは、今後、フッサール、カント、ハイデッガーなどの主要テキストを視野に納めているそうだ。「哲学」はなにがなんだかさっぱりなんだけど、(より開かれた言葉で表現された)小説やエッセーなどの読書体験を自分を見つめるきっかけにしている、という読者にとって、この(『精神現象学』を端緒とする)「完全解読」のプランが進んでいけば、「哲学」が読書の魅力ある選択肢の一つになっていくように思う。これからの展開が楽しみです。 現象学研究会、再び動き出した…… 先回の報告で触れた、竹田さん&現象学研のメンバーで取り組む新しい著作の企画が始動した。哲学史上のビックネームを哲学の素養がなくても楽しく読めるように解説し、かつ自分自身の生活に生かしていくヒントも加えてみよう、というのがおおよそのコンセプトである。 11月23日、第一回目の編集会議が行われた。それぞれ担当箇所の原案(第一稿)を持ち寄り、読み合い批評し合うなかで、全体の書きぶりや基本的な方向性の確認をした。「限られた文字数でできるだけ平易に」「しかも面白く」というハードルは、いざ取り組んでみるとめちゃくちゃ高い。それぞれの哲学の核心にあるものをつかんでおくことが前提となるし、かつ表現にも工夫が求められる。(内容自体はよいとしても)哲学をまったく読んだことのない人でも興味をもてる書きぶりになっているか、という観点から、お互いに厳しく意見を出し合った。 竹田さんは、ご多忙な中、一つ一つの原稿を詳細に読み込み、文章の構成や表現の詳細に至るまで的確なアドバイスをくださった。仕事に対する真摯な姿勢にはいつも頭が下がる。 みんなでよい本をつくりたいなー、と思います。 還元ケーキ 10月30日。「社会人英語ゼミ」のメンバーなどで、竹田さんの60回目の誕生日のお祝いをした。 贈り物の主役は、英語ゼミメンバーのIさんが特注してくださった「還暦」ならぬ「還元ケーキ」。 あまりに見事なできばえにご本人も思わず携帯カメラに手が……。 見た目のインパクトだけでなく、食べてみてもとってもおいしいケーキでした。(リンゴは入っていなかったけど。) 「完全解読プロジェクト」やライフワークである「欲望論」の完成など、これからますます忙しそうになりそうな竹田さん。 でも、たまにはゆっくりお休みもとって、ずっと元気でいてくださいね。 /管理人 2007年10月28日(日) 現象学研究会、ふたたび動きす…… 10月6日、約2ヶ月半ぶりの「現象学研究会」が開かれた。課題図書はハイデガー後期思想から『ニーチェの言葉「神は死せり」』と『世界像の時代』の2編。後期思想については「何がなんだかわからない」という印象があり、敬遠していたのだが(食わずぎらいですね。)『存在と時間』を繰り返し読むうちに「ハイデガーターム」に慣れてきたせいか、けっこう読めてしまった。でも、思想的にはやはりちょっと問題ありだなあ、という感じがぬぐえない。それでも読ませてしまう表現力はすごいものだな、とは思いましたけど(なんかすごく偉そうですが)。現研のホームページで簡単な報告をしていますので、よろしければのぞいてみてください。 竹田さんと現象学研究会のメンバーで新しい著書を、という企画が動き始めている。実現すれば『はじめての哲学史』以来10余年ぶりのこととなる。『はじめての……』は、いまでは哲学入門の一つのスタンダードとなり着実に版を重ねている。現象学研究会は、専門の研究者だけでなく、いろいろな場所に実生活の拠点をおく人が集うということもあって、「哲学の意義を開かれた言葉で語り合う」ということにおいてはそうとう徹底した場になっていると思う。『はじめての……』の場合、分かりやすくかつ本質的な言葉が、多くの人たちにだんだんと届いていったのではないか。新著が実現し、その後の現研での成果が、さまざまな人たちの生きる場面に少しでも役に立つようであればいいなと思います。企画が具体化してきたら、また報告しますね。 ヘーゲル完全解読、12月10日にデビューします。 竹田さん、西さんが長年取り組んできたヘーゲル『完全解読 精神現象学』(講談社メチエ)が12月10日、いよいよ発売になる。最後の総仕上げにおふたりとも集中して取り組まれている。哲学に興味のある人ならば、電車のなかでスラスラ読める、というのがコンセプトだそうだ。思えば『精神現象学』、それでも電車の中で読んでしまっていましたね。レジュメ報告などを担当した暁には。それはもう、眼と精神と腕の筋肉にこたえるものだった。寿命も縮まったのではないかとすら思えます。それでもサラリーマンにとっては行き帰りの通勤が、貴重な読書時間なんですよね。ショートカットでヘーゲル思想の本質に入っていくことができれば、それはもうありがたいことではないでしょうか。あともう少し。期待してまちましょう。なお、この著書に関連する竹田さんと西さんの対談講座が12月12日、新宿朝カルで開かれます。こちらのほうもお楽しみに メルロ・ポンティにも向き合ってみましょう。 10月20日、新宿朝カルでの西さんとのジョイント講座、「現象学枢要テキストを読む」後期が開講した。今回のお題はメルロ・ポンティである。初回の講義は、まずポンティに入る前に、フッサール、ハイデガーそれぞれの思想の要点、現象学理解の現状を整理していただいた。(これがとても面白かったです。) メルロ・ポンティについては、竹田さん西さんから見て、現在これが適切だと思える入門書がほとんどないそうだ。自分自身も、なんとなくポンティは読んではいるものの、芯がつかめているとはとても言えない。今回の購読をその機会にできればと思っている。新宿の朝カルのレベルはほんとうに高く、講師お二人のお話はもちろん、毎回のレジュメ発表にも学ばせていただくことが多い。次回以降が楽しみです。 自分が自分でなくなることって、こわいかも…… 10月26日、このHPでもご案内をしていた大阪経済法科大学「市民アカデミア」の講座「老いを哲学する」が開かれた。講座の内容は以前NHK文化センターで開かれた「死と向き合う」をベースにしたものだ。(よろしければ「4月15日」の日記をご覧ください 講座の最後に受講生の方が感想として述べられた、「自分の場合死がおそろしいという実感はないのだが、それまで得意だったことがしだいにできなくなったり、妙に依怙地になって人格が失われてしまったりするような、『自分が自分でなくなってしまう』老いへの恐怖がある」という言葉が心に残った。たしかにそれは……こわいことかもしれない。でも、幸いなことに、「よい」年齢の重ね方をしている人が身の回りに何人もいるので、その「よさ」の本質ってなにかな……ということを考えてみようかな、とも思っています。 ティッシュペーパーは2枚だった。 先回報告した「ティッシュペーパーの新しい活用法」についてである。その後、竹田研究室を訪れるとしっかり新しいコーヒーフィルターが補充されていた。だが、この間その方面に関しても研鑽は積まれていたそうで、結論としては2枚で十分だということである。なにごともおざなりにしない竹田教授、ゼミの重鎮I氏の姿勢に敬意を表しつつ、謹んで訂正させていただきたい。 /管理人 2007年9月30日(日) 「超人」は眠らない? というわけで、「管理人月記」です(もはや開き直っている)。 9月20日から3泊4日の日程で「沖縄哲学合宿」があった。この沖縄合宿は、ここ数年竹田さんにとっては恒例の行事となっている。昨年は(早稲田大学の研究室に集まる)「社会人英語ゼミ」のメンバーが主だったが、今年は新宿・朝日カルチャーの講座として20人の参加のもとに行われた。 この4日間沖縄はほぼ快晴。珊瑚の海の美しさを満喫した。 (撮影・磯部和子氏) そのいっぽう、「哲学」の「合宿講座」としても非常に中身の濃い内容だった。計6回の講義では、ギリシア哲学を端緒に、デカルト、カント、ヘーゲル、フッサール→現象学にいたるまでの(「『本質学』としての)哲学の歩み」を、パワーポイントでの「オリジナル新作図解」も駆使して一望していただいた。綿密に吟味された内容と展開に、聞くほうもぐんぐん引き込まれていく、という感じだった。(大学でのほぼ半期分の授業に相当する内容だそうだ。) 深夜まで続いた地元の居酒屋さんでの(おいしいおつまみとお酒を前にした)「懇親会」をも含め、早(朝)寝早起き、楽しさ満載の合宿だった。 沖縄通の竹田さんには、(公設市場の食堂での値引き交渉!を含め)ツアーコンダクター役まで勤めていただいてしまった。ほんとにありがとうございました……。 帰りの飛行機の中。管理人は疲れきって離陸と同時に眠ってしまったのだが、しばらくして眼を覚ますと隣の竹田さんは現象学研究会メンバーの原稿を読み込みながら朱入れをしている。「ちょっと専門用語が多いかな。もう少し分かりやすい表現にしたほうが……」。うわあすごいな、と思いながらもまたすぐ眠ってしまう。30分ほどしてまた眼を覚ますと、今度は「世界の歴史」を読みふけっておられる。「ここ、『普遍闘争』の原理がとてもよく出ているんだよね」。 思わず、「カラダとかだいじょうぶですか?(少し休んだほうがいいですよ)」と言ってしまったのだが、「でもまあこうやってずっとやってきているわけだし……」 「積んでいるエンジン」が違うようだ。 ティッシュペーパーの新しい活用法 新学期になって、(この管理人日記でも何度か触れている)竹田研究室での「ドイツ語ゼミ」が再開。頭の回線がほとんどショートしそうになりながら難解なカント「純粋理性批判」と格闘している。 10分ほどのコーヒーブレイクはまさに安らぎのひとときである。それなのに、コーヒーをろ過するフィルターが切れてしまっている…… 竹田ゼミIさん「(ごみ箱から一度使ったフィルターを見つけ出し)これ、使ってみましょうか?」 管理人「うーん。それはやめとかない?ティッシュペーパーとか代用できるんじゃないかな。」 竹田さん「3枚だな。3枚使えばきっとOKだと思う。」 というわけで、竹田さんの指示通り「ティッシュペーパー3枚」でI氏がトライしてみると…… たしかにまるで問題なし。おいしい淹れたてのコーヒーをみんなで堪能しました。 というわけで、みなさんも、コーヒーフィルターが切れたとき、コンビニエンスストアに走る前に、手元にあるティッシュペーパーを見直してみてはいかがでしょうか?ふだんは汚れ役ばかりを一身に担っているティッシペーパーとしても、この活用法はきっと誇らしいものに違いありません。 こつは「3枚使う」ことです。 /管理人 2007年8月26日(日) リンゴの気持ちもよく分かる…… またまたご無沙汰してしまいました。 7月いっぱいフル稼働していた早稲田・竹田ゼミも8月は夏休み。 でも、この間、朝日カルチャーセンターの合宿講座(フッサール「デカルト的省察」の購読)が開かれたので(遅まきながら)そのご報告をさせたいただきます。 8月4日、5日に行われた朝カルの合宿には、60余名もの参加があった。合宿での講座自体は竹田さんのアサカル講座では恒例のことだが、これほどの大人数が集まったのはおそらく例をみないのではないか、と思う。2日間にわたりフッサールの難解なテキストをみんなでみっちりと読み込んだ。 今回とくに興味深かったのは、夕食後に行われた「現象学・哲学フリー質問会」。初参加の方からも挙手での質問が積極的に出され、深夜近くまで、およそ二時間の時間があっというまに経過した。 「哲学は、(習慣や権威によって担保されてきた価値の自明性が疑問に付されるなかで)『それぞれがそれぞれの場所からとことん考え、話し合ってみる』というオープンな言語ゲームから『ほんとう』を見いだそうとする発想もとで展開していく。そして、『ここで求められるいちばんよい考え方にたどりつく』ためのもっとも確実かつ効率のよい思考の方法を原理として取り出していく。」 「そもそも哲学の意義はなんなのか」「真理を追究するために、フッサールのいうような『確信成立の条件』を探るだけで十分なのか」……そうした、質問者の切実な問いに応えるかたちで、竹田さん・西さんから「哲学の営みの本質」が、以上のように語り出されたことがとくに印象に残った。 だが、「『内在』から(自分自身の意識体験に基づきながら)確信成立の要件をみとっていく」という現象学の基本的方法を、「事物知覚」の場面から飽きることなく語ろうとするフッサールのテクストにやや辟易する声も…… 「『事物知覚』よりも、『ものごとをそのようにとらえている・受け止めている』人間の側のあり方(欲望)に眼を向けていくことのほうが、むしろ必要では?」 「リンゴもいいけど、その先のことを考えることが重要なのでは?」 (※ちなみに「リンゴ」は現象学の発想のポイントを説明するために竹田さんが使う例です。) 「竹田さん・西さんの(欲望論に立つ)現象学は、フッサールの視野にはなかったものを独自に打ち出したもの(オリジナルな価値をもつもの、)と言っていいのでは?」 という(鋭い)意見も出された。 これに対して竹田さんは、「現象学により、『確信成立の条件』という発想、つまりオープンな言語ゲームのもとに本質をみとっていこう、という哲学の方法を明確化したのはフッサールならではのこと」と、その功績をまず整理したうえで、 「事物の本質観取は、自然科学の基盤を問うという目的に即してなされるべきもので、その自然科学は、『人間にとっての利用可能性』という「対象性」「目的性」のもとに展開されていく。そして、「実存の問題」「社会の問題」はそれとはまた違った対象性をもっている。それぞれの対象性の本質をとらえていくことが必要だし、そのためには欲望論的観点が必要になる」とコメントなさった。 西研さんはこれを受けて、「(竹田さんのいうように)自然科学には人間にとっての利用可能性という目的があるし、心理学には自我を一定の連続性のもとに保つという目的が、社会科学ならば『調整の原理の構築』という目的がある。でも、いま社会学の多くが『社会は自律した一つのシステム』ということを前提にしてしまっている。社会を記述するときの目的、価値理念を明確にしていかないといけないし、そのために「社会の現象学」が求められていると思う」と述べられた。 「現象学≒哲学的思考の本質」、さらには「竹田さん・西さんの哲学の今後への展開」に触れることができた、とても充実した合宿でした。 (アサカル合宿にて) ※リンゴにこだわることにも理由があるんです。だから、オリジナルTシャツにもリンゴなんです(よね)。 /管理人 2007年7月22日(日) ご無沙汰してすみません。このページ、「日記」と銘打っているわりには、ほとんど「月記」になってしまってますよね。今後せめて「週記」となるように努力していきたい。 ではこの間の主なできごとなどを…… まず「竹田研究室」でのこと。 6月より「ドイツ語ゼミ」がはじまった。メンバーは院生と社会人有志。当座のテキストは、カント『純粋理性批判』。竹田さんは、この間、「英語修行」に打ち込んでいたため、ドイツ語での原書購読は久しぶりとのことである。とはいうものの、与えられた情報(単語の意味・文法・文脈・既存の哲学的知識)から「筆者の意図」に肉薄する「読み」の力量は圧巻としかいいようがない。管理人も、カントの難渋なドイツ語を少しずつ氷解させていくという、楽しみのような苦しみのような味わい深い経験をご相伴させていただいている。幸せだ。 これに並行して、「社会人英語ゼミ」も月一回のペースで継続している。最近竹田教授が話題にされるのは「経済」や「歴史」。「哲学」を現実社会の中で、ほんとうに生きた知として展開していくために研鑽を重ねておられる、のだと思う。先日のゼミでは専門家のH氏をお招きし、経済学の基本的な知識をレクチャーしていただいた。もちろん、英語で。英語経済二つあわせダメダメな管理人だが、それでも経済学の「本質」を明解に説明してくださったHさん、竹田さんの親切な解説を通じて、その意義の一端には触れられたような気がしなくもない。(でも、それについて何かを語ろうとする自信がまだわいてこないので、具体的な報告は今後の課題、ということで……) (先回の報告で触れた)「火曜哲研」での西研さんとのヘーゲル『精神現象学研究』購読は、次回(7月24日)「良心」「絶対知」まで到達して一段落。あとは年内刊行予定の「ヘーゲル完全解読本」が待たれる、という感じだ。西さんは最近ずっと体調が芳しくなくて心配なのだが、もろもろの研究会では相変わらずの鋭い発言で「優しい鬼神」ぶりを発揮なさっている。でも、どうか無理はしないでくださいね。 21日、その西さんも久しぶりに参加し、「現象学研究会」が開かれた。 課題は前回から引き続きハイデガーの「存在と時間」。「死の現存在分析」「良心」などの箇所を購読した。「世界内存在」としての人間=現存在のありようを実存論的に解析した前回の購読箇所と比べ、ここらあたりからは、(死の本質観取そのものはすぐれた現象学的考察だが)、現実的な社会生活とは異なった位相のもとに「本来的」なありかたを希求するという、自分としては受け入れ難い主張が展開されはじめる。ただし、今回の研究会では、こうした思想をハイデガーが展開するに至った動機は何か、というところにまで議論が及び、非常に興味深いものとなった。(詳細な報告は追って、現象学研究会HPでしますね /管理人 2007年6月17日(日) 昨日16(日)は朝日カルチャーの講座「フッサールとメルロポンティー」があった。 当面の中心的課題は、フッサール『デカルト的省察』である。『省察』を読んでみると、現象学の発想の要諦を一生懸命に伝えようとしてるフッサールの真摯な動機が伝わってくる。しかし、記述自体には相当ミスリーディングなところも多い。 講座はテクストの詳細な読解を通して、「筆者のモチーフ」に深く鋭く切り込んでいく……という非常に刺激的なものになっている。西さんとのコラボレーションが非常に生きている。西さんが原典にもあたりながら、一つ一つの言葉の背後にある筆者の動機を掘り起こしていく。竹田さんが、現象学の本質的理解に即してそれを明快に整理していく。自力では読み込めなかった部分も、深い納得感のもと氷解していく。現象学の理解が深まる、ということのみならず、テクストを読むという行為の「楽しさ」と「本質」を実感させてもらっている、という感じである。 帰京した西さんとのコラボレーションは、早稲田の研究室においても展開中だ。月に2度ほど開かれている通称「火曜哲学研」では、いま、二人によるヘーゲル『精神現象学』の徹底解読が行われている。「一つ一つの表現を詳細に読み込み、筆者のモチーフをつかむ」「筆者の主張の意図や意義を、時代状況も鑑みて深くとらえていく」「哲学の本質に立ったうえで、その可能性・限界について考察する」。こうした思考の作業を、ふだんはそれぞれご自身のなかでやっておられるのだと思うが、二人の共同作業においては、その役割が(長年にわたり培われた阿吽の呼吸で)当意即妙という感じで分担され、威力倍増という感じである。 この共同作業の成果は、講談社より(年内には?)刊行される共著に結実していくことになる。(担当編集者の山崎さんもその作業に立ち会っておられます。) いまから刊行がとても楽しみです。 /管理人 2007年5月3日(木) @4月28日、竹田さん主催の現象学研究会があった。今回のテーマはハイデガー『存在と時間』。「本質観取」の「見本」のような実存論の展開は何度読んでも圧巻という感じだが、詳細に読んでみると後期思想に通底する「存在」≒超越への希求がそここにうかがえることに気づく。今回の購読を通してまた新たな発見があったように思う。現象学研究会HPに報告をまとめてみたので、よろしければご一読ください 今回は竹田ゼミの学生さんも参加。大会場での、マイクを使ったレジュメ報告と議論に最初のうちはとまどいを感じだが、しだいにその緊張感も消え、マイクを奪いあうような活発な議論が展開された。とても充実した会となった。 A4月15日の日記で「予告」したが、竹田ゼミの助手である「モカさん」より、NHK文化センターでの竹田さんの連続講座の感想を寄せていただいた。 学業で忙しいなか、時間を割いて一生懸命書いてくださったことに感謝。師匠のHPに寄稿するプレッシャーもあるのか、「脱稿」した今日は体調不良で寝込んでいる様子。どうもありがとう。早くよくなってね。M‐OKAくん。 /管理人 2007年4月23日(日) 22日より朝日カルチャーセンター(新宿)の講座、「フッサールとメルロポンティ」がスタートした。 受講人数は約80人!たいへんな盛況である。 まず、フッサールの『デカルト的省察』の精読から出発し、現象学の発想の核をとらえていく……ということである。 アサカルの講座は、受講生のレジュメ発表をふまえ、竹田・西両講師がテクストを詳細に解説していくという「参加型」かつ内容の濃いものである。 また、講義をきっかけにさまざまな人たちとの出会いがうまれる。管理人もこの場をきっかけに、(現在の)大切な友人たちと知己をえることができた。今回の講座がどのような出会いを生み出すか、ということも楽しみにしている。 /管理人 2007年4月21日(土) 15日の日記で報告したNHK文化センターでの講座「人生とどう向き合うか」をともに受講していた方から、管理人宛に感想を寄せていただいた。 これをきっかけに、「哲学の丸てーぶる」というコーナーを新設してみることにした。 竹田さんの著作や講演・講座の感想などを思い切って公募してみようかと思う。 ただ、なにしろキャパの少ない管理人なので 「返信できるとは限らない」ことはあらかじめご理解いただきたい。 (ただ、掲載させていただくものについては、もちろんその旨を事前にご連絡します。) 「丸テーブル(での議論)」というのは、開かれた言語ゲームの中でものごとの本質、原理を取り出していこうする哲学のありかたを示すものとして、竹田さんが常々いっている言葉です。 このページがそういう場として展開されることを祈念する。 /管理人 2007年4月15日(日) HPでご案内をしていた講座が、先週立て続けに二つ開かれたました。そのご報告を。 まず一つ。NHK文化センターの連続講座「人生とどう向き合うか」の最終回が4月11日(水)にあった。 この講座では、キルケゴール、ハイデガーらの実存哲学に、ドストエフスキーなど文学者の視点を織り交ぜながら、「生への絶望」「死への不安」など人生の一大事をどう受け止め、どう乗り越えていくかが論じられている。竹田さんの文芸批評家としての側面にも照射した、たいへんおもしろい企画である。(その分毎回の準備がすごくたいへん、とご本人はおっしゃってました。) 最終回のテーマは「死とどう向き合うか」。作家としてはトルストイ、晩年の代表作『イワン・イリッチの生涯』などが取り上げられた。 トルストイは自我理想が非常に高く、作家として功なり名を遂げたのちも、自分の作品、ひいては自分自身の人生ははたして意義あるもなのかという不安、絶望に苛まされ続けていたそうだ。『イワン……』にはそうしたトルストイ自身の姿が投影されている。社会的には安定した身分をたもちながら、「ほんとう」の生き方ができているという感触がもてない、家族とも心の絆をえることができないという実存的不安に苛まれる主人公。あるとき病に侵され、忍び寄る死の不安に脅かされることになる。作品はこの主人公が、いかに自己肯定感へと開かれ、そのなかで死を受け入れることができるようになるかをテーマとしている(そうだ。実はまだ読んでない。お話を聞いて読んでみたくなりました―)。 ハイデガーの場合、死という不可避な宿命を正視すれば、世事に惑わされることのないほんとうの生き方へと向き合っていくことができるはずだ、と説く。たしかに、「死」に向き合うことが、自分自身の生き方を見つめ直す契機になることはあると思う。しかし、常に「死」を意識して「生きる」ことが現実に可能だとは思えない。「具体的な目標のもとに、未来への期待を抱ける」ことが生きることの意欲を得るうえでは基本になるし、それがうまくいかないときでも、些細なできごとから得ている(人との)関係の喜びが生への感触を維持してくれる。いずれにしても、生きることへの力は、自分自身が日常生活のなかで、どのように自己肯定感、生の悦びを得ているかを自己了解していくこと以外には見いだせないように思う。……というのはこれまで竹田さんの哲学に触れながら自分なりに考えてきたことであるが、そんなことを確認しつつ聞かせていただいた。 死の不安にしても、それが「生」の側から組み立てられた「意味」としてあり、それが絶え難いほど恐ろしいイメージのもとに表象されているのだとしたら、その恐怖の本質を自己了解することで、受け入れることが可能なイメージへと転換するしかない。……今回の講座では、そんな視点も新たにいただいた。(深夜帰宅する際、お墓の横を通るのがいまだに恐怖なわたしです。あんまり関係ないすね。) 「死については、いったん突き詰めて考えてから、『忘れる』ことが大事」「自分は目的地に向かうバスに乗っている。結果としてはすぐに降りることになるかもしれないけど(気持ちとしてはなにかへと向かって生きている……)」という竹田さんのコメントがとくに心に残った。とても納得。そんなふうに生きてみようと思います。 この講座、ラジオで放送するんですよ。4月22日と29日(日)、夜8時から、NHK第2ラジオです。(でも竹田さんは、自分では聞かないかも、といってました。照れ屋さんですね。) このシリーズの講座は今回で終わり。講座を担当しているNHK文化センター青山教室・榎本さんの企画力と交渉力(?)に感謝です。また、たのしい竹田さんの講座、企画してくださいね。 ちなみに、この連続講座のレポートを竹田ゼミの助手・Mさんにお願いしてます。よろしくね! もう一つ。4月14日(土)には淑徳大学池袋キャンパスで、「現象学と現代思想」があった。 「確信成立の条件を問う」「主観にたずねあう開かれた言語ゲームのもと普遍性を拡大していく」という、現象学の発想と方法の要諦をおさえたのち(おい!なにをいっているのかわからないぞ!という方。すみません。言葉が足らなくて。こちらのほうなどをお読みいただけると、そこらへんのこと竹田さんがわかりやすく解説してくれてます。 竹田さん、二つの講座。ほんとうにお疲れ様でした。 /管理人 2007年3月27日(火) いけない。竹田さんに「ひとりごと」を言わせてしまった。(いや、むしろHPの読者の方にしてみたらうれしいことかもしれませんが) 何代目なのだろうか。昨年末より竹田HP管理人を引き受けることになった。しかし、長年このページの読者だったこともあり、「管理人日記はいつ更新するのかな……」と心愉しみにしながら日々を過ごしていた。でも管理人は、自分だったんだ。 閑話休題。 前管理人さんも書いておられたが、竹田研究室にはほんとうにいろいろな人が集まってくる。 学部生、大学院生のみならず、竹田ゼミを巣立ったばかりの社会人1年生から、竹田さんの熱心な読者で、アサカルの講座にながーく通いつめているうち、いつしか研究室にまで足を運ぶようになった社会人何十年生まで。 トシやカタチはさまざまだが、おそらくそれぞれの仕事や生活のステージで、「哲学」を生かし、「哲学」に生かされつつ日々を送っている人たち……なのではないかと思う。 一昨日の25日(日)、そんな多様なメンバ-で構成される通称・「社会人英語ゼミ」の2006年度打ち上げ?が行われた。このゼミの目玉は「フィロトーク」。毎回一人の哲学者をテーマに、報告者が簡潔に(英語で)レポートしたのち、(もちろん英語で)竹田さんに質問をしたり、(これも英語で)感想を語りあったりする。だが、「英語ゼミ」とはいうものの、参加者は英語に堪能な人ばかりではない。(自分なんか、英語できない代わりに面の皮が厚いので参加してます。)でも、竹田さんの英語は非常に明快。日本語と同様、平易な言葉で本質的なことを的確に表現してくださる。だから、言っていることの大体は理解できる(つもりでいる。) 本年度最終ゼミのテーマは近代哲学の祖・デカルト。 2時間ほどの集中的な議論を通して、デカルト思想の要諦は、(神という超越項を失った近代人が)「信念対立」を超え、普遍的な考えを導き出そうとするのなら、「自分自身で考え・確かめる」(そしてそれを言葉にして語り合ってみる)というみんなに開かれた、それ自身普遍的な方法に定位していくしかない、ということを打ち出したことにある……ことをあらためて確認できた(ように思う)。 そして、このゼミ(の議論の場)自体が、そうした哲学の最良のエッセンスにたって展開しているのだということも。 哲学する意義や喜びを実感させてくれた一年間の英語ゼミと竹田さんに感謝です。 /管理人 2007年3月21日(水) 竹田の「ひとりごと」 諸事情あって、管理人日記がずいぶんとぎれているので、これから、管理人の代わりに、 竹田の「ひとりごと」をときどき載せることにしたい。 このごろは、何でも忘れる。存在的に、忘却の穴だ。60に近づいたので仕方ないが、日常生活に困ることもあり。ときどきいろんなニュースに感想をもつが、少しするとすぐ忘れるので、こんな場合に不便。 最近思ったことの一つ。私立中学や高校に子供をやるときには、その学校の理事長や学長(学園長)が長期政権で、ずーと居座っているか、ちゃんと選挙で交替しているか、基準にするのは一手かも。永久居座り、あるいは長期政権の私立校は、とうぜんのことながら、体質が腐ってくることが多い。ちょっと見聞したなかで、そういうことがよくあるという印象が残っている。 組織が権力ゲーム体質になると、「よいこと」や「合理的なこと」が生き残れないので、これは組織の基本原理かもしれない。 今日は、とりあえず、これだけ。 今年は花見できるといいけど。去年は、仲間で、川端の一等地に座って10分したら無情の雨が降ってきた。残念でした。 |