現象学研究会ホームページ開設記念対談 

現象学の刷新」をめざして  

   竹田青嗣 × 西 研   



わたしたちはこうして現象学と出会いました……


西 まず、ぼくがどのように現象学と出会ったかということから話してみましょうか。

現象学を読んだときの最初の感想は……とくにメルロ=ポンティの著作からそういう印象をもったんですが……「科学的な人間理解に抗うもの」という感じだったように思う。

大学時代に研究会でよく会っていた友人に、徹底的な唯物論者がいたんですよね。アルチュセールなんかをよく読んでいた。それで、彼はこんな考え方をするわけです。……人間に自由なんかはない。本人が自分は自由意志をもっていると思っているだけで、実際にはすべてが決定されている。ひとつには生理学的な意味でも決定されているし、社会的にも決定されてしまっている、と。

マルクスの言葉で有名なものに「存在が意識を規定する」というのがあります。どのような社会関係の中におかれているかということが、人間の意識を規定しているという。たしかに社会の状態と人間の意識とが相関しているということは間違いないのですが、しかしそれを厳密な決定関係と見なしてしまうと、人間の意識というのはすでに決定されており、自由意志というのは一切成り立たないということになってしまう。

それで、その友人はそういう説を徹底して主張するわけですが、ぼくはそれに反論できないんですね。議論を終えて家に帰る途中、なんか足元がふらふらしてくる。いくら努力して何かをやろうとしても、あらかじめすべて決定されてしまっているんだと思うと、なにをしても無駄な気がしてくるんですよね。ですから、当時、何かそれとはちがう考えを強く求めていた。

そんなときに、メルロ=ポンティを読んだわけですが、彼は、社会から人間を説明するとか科学から人間を説明するのではなく、まず人間の生きている場面、人間のありかたそのものに定位してそこから考えようとしている。ああ、これはいいな、と思った。「身体」という言葉も魅力的だった。これが、まず現象学に対して抱いた感触ですね。

でも、竹田さんの場合は最初からフッサールなんだよね。


竹田 いつも言ってることなんだけど、わたしの場合は、まず民族問題というのがあった。そこでは「同化」か「民族」かだとか、「北」か「南」か……昔は北支持と韓国支持というのがはっきり分かれていたのだけれど……「社会主義」か「民主主義」かというように、二つの対立する考えが強固に主張し合って、お互いに一歩も譲らない。

それからまた、大学ではいろいろな政治セクトがあって、みんな色とりどりのヘルメットをかぶって、それぞれ自分のセクトの考え方がもっとも正しくて、あとはひどく間違っていると主張し合っていた。しかも、ただ間違っているというだけではなく、「ヤツらは反革命で、殲滅しなければならない」というようなことをビラに書いて配っているんですね。でも、実際に書いてある内容を読みくらべてみると、どこが違うんだかほとんどわからない。不思議だったのは、二十歳そこそこの学生が、たまたま自分にやってきた考えを強く信じて、他の人間の考えを徹底的に間違っていると、強固に思い込んでいることでしたね。


で、このセクトの対立と、自分が民族の問題を通して立ち会ってきたことは、同構造をもつものではないかということをすごく強く感じた。

自分の中ではずっと民族問題というのがすっきり解決できないでいた。日本人に同化するという考えはなかったんですが、でも、民族的な生き方をしなくてはいけないという考えにも気が染まない。民族的に生きなければ日本人への同化だとかいうように、もう非常に強固な二項対立的な考え方があった。そういうことをどう考えればいいか、ずっと自分の中で考えていて、そんなときにフッサールに出会って、すぐにピンと来るものがあったわけ。ここにはそういう「信念対立」を解きほぐす鍵があるということが、直観的に理解できた。30ちょっと前くらいのことだけど。

あともう一つ。大学を卒業してから、ボイラーマンやガードマンのアルバイトをしながらアパートに引きこもって、一人でずっと本ばかり読んで暮らしていた時期があった。そのとき……いま自分は何者でもないが、しかし世の中とか社会のことについてはいろいろ考えている。他の人たちはそういうことついて何も知らないで、ただ生きるのに一生懸命なだけだ。ハイデガーの用語を使えば、ふつうの人たちは頽落している……そうひとりで一生懸命思おうとしていた。でも、そういうふうに考えようとしていると「それは、お前が勝手に一人で考えているにすぎないことだ。単にお前が自分の頭の中で作り上げている勝手な考えにすぎない」という考えが、いつもいちばん最後にわきあがってくる。「いや、俺のほうがものごとをちゃんと考えているんだ。俺のほうに義があるんだ」とまた考えようとするわけなんたけど、そのあとですぐまた「でも、それはお前の考えにすぎない」というのが頭をよぎる。その繰り返しです。ちょっと太宰の「トカトントン」の音と似ているんですね。

あとから考えると、それはつまり自分の中で独我論の回路ができていた。自分の考えを検証する道がなかったわけです。ほとんど人とは会わずに、本だけ読んで暮らしていたので。


そんなときに、現象学と出会った。ふつう現象学は独我論だといわれているだけど、わたしの考えからはそれはじつに奇妙な誤解で、むしろまったく反対。現象学とはむしろ何が人間を「独我論」に追いやるかを教えてくれるものだったんですね。それは、人間が世界像を抱く構造というのはこういう形になっていますよ、ということをはっきり見せてくれるものだからです。経験から受け取ったことを、自分の意識の中でこう考え、このように組み上げていく……というように。それと同時に、その像が、あくまで意識経験の中で立てられている世界像にすぎないことをはっきりと教えてくれるわけ。つまり、独我論の構造をはっきり示して、その限界を示してくれるものとしてわたしにはやってきた。

「その考え方は独我論だ。客観的にならなくてはいけない」というような考え方ならば、世の中にあふれるほどある。「君の考え方は主観的だから、客観的にならなくてはいけない。」これは、さっきの西さんの話に出てきたようなマルクス主義の考えの定型ですね。わたしの場合も、まさしくここに客観的な考え方があるんだ、という入り方をしてきた。「あなたがいくら考えても、それは結局社会的存在として規定されているんです」というように。それで「主観的な、独我論的な場所から出なければいけない」「客観的に考えなければならない」という具合に自分でもずっと思っていた。でも、自分こそ最も「客観的」だという考えは必ずお互いに対立する。セクトの対立が典型的ですね。それがマルクス主義的な思想類型の本質だということが分かってきた。つまり、自分の考えこそ「ほんとうの考えだ」。そういう考え自体が、また世の中の一つの考えにすぎない、ということにうすうす気づく。すると、考えれば考えるほどぐるぐるまわってしまう。そういう場面で、フッサールは、それまでだれからも聞かなかったような考えを教えてくれたわけです。もう何度も言っていることですが、ポストモダン思想は、ただ「客観性」を無限に相対化するだけです。これは思想の範型としては大昔からずっとありふれた考えなんですね。

要するに、すべての人間が大なり小なり自分の考えこそ正しい、と考えて生きている。そして、そんな具合に、それぞれの考えがせめぎあっているということ自体が世界のありようだ。主観そのものから抜け出して客観的たろうとしても、絶対的な客観の立場ということはありえない。独我論を抜け出るために、客観的なものを外側に想定して、そこに身を置くような考えは無効としか言えない。それぞれが自分の主観の中で世界を構成しているということ、またそこから絶対的に抜け出ることができるような立場はありえない、ということを前提として、それぞれの主観が、互いの共通了解を生じさせるその原理はないだろうか。それがあれば、そこから間主観的な共通了解の可能性の原理も出てくる。現象学はそういう考えであって、思考の歴史のなかでまったくユニークなものですね。それからまた、そういう考えだけが、いわゆる「客観性」という局面が成立していることの理由を、とてもよく説明する。現象学が提示しているのは、そういう主観―客観という概念についての本質的な構造の解明ですね。でも、現象学が認識問題をそういう構造の解明によって解いたということも、ほとんど言われてこなかったし、いまもそんな風には理解されていないんですね。



西 いまの話を聞いているうちに思い出したんだけれども、ぼくも学生時代、左翼の人たちが言うような、社会のさまざまな不正や矛盾を正したい、正しい世の中にしたいという考えに惹かれていたんです。進歩的知識人の一人になりたいなあと漠然と思っていた。でもだんだんと、「左翼の人たちは、現実に世の中をよくするというよりも、自分が正義の人だということを主張したいがためにいろいろなことを主張したり運動したりしているだけではないか」というような思いがやってきた。でもそう考えてみると、ぼく自身にしても、社会というものに関わることによって自分のアイデンティティをつかもうとしていたわけですよね。社会をよくする正義の人間の側に自分を位置付けて、なにがしかそういうことに貢献できる人間になろうとしていた。それに対する疑いが頭をよぎりはじめると、もう素直に左翼の立場をとることなどできない。どう生きていったらよいかわからなくなって、あれこれ変なことを考えるようになってしまったわけです。

いまの竹田さんの話にも似ているんですけど、「社会」というものは結局は「触れられない」ものですよね。あの人はこのように天下国家を語る。こちらの左翼の人は世界はこうなっているものだと語る。さらに向こうの人は社会はこうあるべきだというようなことを語っている。そして、それぞれが自分の意見の正しさを主張し合っている。でも、だれも「社会という客観」に直接触ることなどできはしない。だとするならば、それぞれが好き勝手に言っているだけだ、という結論になってくる。それで、もう自分は社会について語るのは一切やめた、という気分になっていた時期があります。

こうして極端な実存派になったんですよ。自分がいま感じている痛みとか喜びとか、身の回りの人間との関係のなかで生じていること、そこだけが自分の生活の基盤なんだ。そこを離れて「社会」などということを語ろうとする人間は、信じるに値しない。社会というものに関して発言すること自体が虚偽なのだ、という感じになってしまった。

それで、さっきの自分の話につながっていくんだけれども、現象学の場合、社会や諸学などを前提にしてものごとを説明しようとするのではなく、人間の実存の場所をあらわにして、そこを考える拠りどころにしようとするでしょう。ですから、まずはそういうものとして、現象学は自分にフィットしたわけです。

でも、だいぶ後になって、『哲学的思考』(2001年 筑摩書房)を書いているなかでずいぶんはっきりしてきたことなんだけれども、実はフッサールの考える現象学というのは、「社会」でなくて「実存」だ、「科学」ではなくて「実存」が大事だ、という考え方ではなかった。もちろん実存ないし意識という場所から出発するわけですが、その実存自身にとって「社会」の存在意義はたしかにある。「社会」は知覚事物とはまた違って、ある意味でそれぞれの脳裏に描かれたものにすぎないといえる面がある。しかし人が「社会の中に自分がいる」という像を思い描き、それに対して何かかかわろうとすることに何も根拠がないわけではない。「科学」にしてもそう。たしかに科学絶対主義に陥ってしまうことは問題だけれども、「科学」という考え方を人間がつくりあげてきたこと、科学的な世界観を人間が信じていることの意義はそれなりにちゃんとあるわけです。実存にとっての社会の意味、実存にとっての科学的客観性の意味、というものはちゃんとあって、それを理解できれば、社会科学や自然科学の絶対化を避けることができる。

そう考えると、最初にぼくがメルロ=ポンティを通して抱いたような、「科学」ではなくて「実存」だ、「社会」ではなくて「実存」なんだという形での現象学理解は、核心には届いていなかったように思う。フッサールの場合、竹田さんが言われたように、二項対立の対立項のどちらかにつくというのではなく、対立そのものの根拠や、その二項がどのように意識の中で成立しているのかということ自体を問題にしていくという構えを、もともともっている。近代客観主義・合理主義への対抗ということだとさまざまな思想家がいるのだけれど、その姿勢では、科学が成り立ったり「社会派」の人びとが存在する理由を解きほぐすものにはならない。

だけど、そういうように、フッサールの思想が、竹田さんのいわれたもろもろの信念対立や、近代になって現れた典型的な対立(主観と客観、科学と実存、必然と自由等々)の根拠を、意識の内側に向かってときほぐしていくという要諦をもっているということは、竹田さん以外のだれからもいわれてこなかった。


現象学。その発想のカナメはどこにある?

竹田 「主観」と「客観」はどうすれば一致するのかという「認識問題」が哲学ではずっと続いてきた。近代哲学では、デカルトからヘーゲルまで。これが近代哲学の中心問題だった。ニーチェは、これをはじめて「力の思想」として、わたしの言葉では「欲望相関的」な構図で考えようとした。しかし時間が足りずに全体としては絶対主義の相対化という側面を強く押し出したまま終わってしまった。ポストモダン思想はニーチェのそこに強くインスパイアされたんですね。ヘーゲル→ニーチェ→ポストモダン思想および分析哲学は、認識論における現代思想の主流です。ところがフッサールは、「主観」「客観」という分割の理由それ自体をもう一度問い直した。認識論的には、あらゆる世界像は実存的「主観」の中で現れる。しかしここにすでに、世界の主観的な像と客観的な像が二重に含まれている。あとは、それらがときに対立的に現れるその理由を解明すればいい。そういうことをはっきり示している。この言い方を理解したときに、わたしは「認識問題」はこれでもう解けた、「認識問題」はもう終わったと思ったんですね。現代哲学では、この認識論の難問をまだ延々続けているけどね。

そういうことを少しずつ主張してきたんだけど、まあ、言い方が悪いのか、あるいはわたしが根本的に間違っているのかのどちらかで(笑)、なかなか簡単にはいかない。どんなふうに言えばうまく通っていくかまだ試行錯誤中という感じなんですが……


まずひとつは、客観というものをどこかわれわれの関係の外に置こうとするとダメだということです。普遍的精神とか絶対精神といったものがそれ自体で存在すると考えたらダメだ、というのは、今ならだれでも理解すると思うけれど、実はそれと同じことなんですね。ヘーゲルの「絶対的なもの」はいまなら「普遍的なもの」と取るべきですが、いまはヘーゲル嫌悪が高じて、だれも「普遍性」ということ自体を否定したがる。しかし「普遍的なもの」とは、いわゆる「絶対的なもの」とはまったく違うものですね。およそ人間が、おそろしい混乱状態ではなく社会的な生活を成立させるところでは、必ず「どこかに普遍的なものがあるはずだ」という確信が間主観的に成立してくる。そしてこのことには理由がある。その理由を解明するということが「普遍性」の本質と根拠を解明するということです。そういう構造になってるんですね。

それをできるだけ簡単に言ってみると、ある力をもった人が、絶対的なもの(神でもいいですが)はこれこれこういう存在だ、と言うとする。そしてすべての人がこの絶対的なものを受け容れ信じるとする。ここでは「絶対性」が成り立ちますね。ここではある「神」が、万人にとって共通のものですが、それは上からの規定として成立している。これに対して、さまざまな民族、文化、国、生活がある、そして少なくともそれらがなんとか共存しているとする。この場合、絶対性ではなくて「普遍性」が成立してくる。共存のあるところには普遍性が必ず成立している。普遍性とは、つまり人々(共同体)は多様だが、にもかかわらず、共通項を見出そう、あるいは打ち立てようとするときに現れる概念だからです。神話的な自然の説明が、自然科学的な思考に置き換えられるとき、普遍性が現われる。つまり、そういう自然科学的説明を見て、人は説明が普遍的になったと考えるわけですね。

この場合の「普遍性」とはどういうものかというと、何か絶対的な至上者を想定するのではなく、すなわち絶対的な善悪、美醜、聖俗の基準を置いてそれで一切を考えるのではなく、多様性からたえず共通項を作り出そうとする努力だということが分かる。たとえば、共同体や文化の善悪の真偽の基準は多様ですね。でも、どんな社会、文化も必ず善悪や美醜という秩序の上で成立しており、それが混乱したり秩序が歪められたりすると、人間は苦しい状態に陥る、という事態のほうは共通項として取り出すことができる。そして、自由の感度が生きている人間的な生活があるところでは、必ずそういう「普遍的なもの」への自然な信が成立する。人間はいろいろだ。みなそれぞれ違っている。でも、どこかで人間として同じ面があるはずだ。固定的な共同体の論理がゆるむほど、そういう感度が出てくる。普遍的なものは、はじめから存在するなにか超越的なものでないことは、この上なく明らかなことですね。そうではなくて、多様性が許容され、それをより生かそうとする努力のあるところでは、必ず現われてくる「概念」なんですね。だから、「普遍的なもの」などどこにもない、という主張は、ほとんどの場合、「絶対的なもの」への嫌悪からくる反動形成、秩序や制度への対抗的心性、あるいは、自然な世界像に対する理論的な世界像の心理的優越性の現われだったりするわけですね。



フッサールはよく「理念」実在論者だといわれますね。これは簡単なことで、フッサールはいま言ったような「普遍的なもの」の存在をはっきり主張した、と理解すればいいと思います。フッサールの場合おもしろいのは、理念的なもの、つまり「本質」の存在の構造は、「もの」の存在と基礎構造としては同じだと言っているんですね。『イデーンT』でそう言っています。存在者の存在は、まず主観的確信の構造として、つぎに間主観的確信の構造として、その強度をもつ。その構造は、「もの」であろうと「理念」であろうと同じだ、と。それをある「もの」や「理念」が、ほんとうに実在しているかどうか、つまり客観的に存在するのかどうか、と考えると、認識論はもうどこにも行きつかない。論理の迷路の中をいつまでも回りつづけるほかない。でこれからすると、現代の多くの哲学者が、いつまでもぐるぐる回りつづけることこそが哲学だ、と言っているわけですね(笑い)。これは一定の人を引きつけます。ちょっと宗教団体と似ている。ともあれ、フッサールのこの世界認識の基本構造についての主張は、この上なく明快かつ本質的です。


ともあれ、大事なのは、一つ一つの生がある現実感の中で生きているということであり、その中であるときは共通の確信が成立したり、また齟齬や対立が生じてその確信が崩れ、力の闘いこそが唯一のリアリティとなったり、しかしそれでは生が耐え難く、また確かめ直していく努力を行なったりしている……そういうことですね。それがいわば「ことそのもの」の本質ですね。「認識問題」とは、「主観」と「客観」の一致の可能性を考える伝統的な哲学ゲームですが、「主観」と「客観」の一致があるかないかではなく、なぜ「主観」と「客観」の分裂が問題になるか、を解かなければならない。というよりむしろ、その「意味」を理解しなければならない。人間の社会が、「戦い」()の原理と社会的共存の原理のたえまないせめぎあいの中にあるからこそ、「主観」と「客観」の問題、つまり信念対立の問題、あるいは共通の信念をいかに創出できるかという問題が現われてくる。それが哲学的には認識論という形をとっているだけです。われわれが社会的な共通了解の必要に絶えずせまられながら、しかし力の論理を絶対的に排除することができない、そのことが近代の主観―客観問題の背景にあるものですね。

人間というものは、思考をはじめると、具体的な生の現実を離れて、客観的なものや絶対的なものがほんとうにあるのかどうか、それは一体どういうものなのかという具合に考えてしまう傾向がある。でも、そこに入りこんだら、もう思考の泥沼にはまってしまう。もともと思考は、人間が自己を規定する現実条件にもかかわらず自分の自由を確保できる可能性の領域としてあった。でも、この迷路に入りこむと、むしろ自由を奪われてしまう。それが不要であることの本質的な理由が腑に落ちれば、そこで伝統的な認識論の枠組みは終わりになる。



そういう発想が、まさしく現象学の核心としてつかめるのだけれども、現象学をそのようにとらえている説は、少なくともこれまではなかったんですね。

フッサールの現象学を受け継いだとされている人の中でも、まずサルトルは残念ながら全然ダメですね。サルトル哲学のいちばんのポイントは、自由と必然という二項に分けたのちに、人間の本質を絶対自由の側におく、というところにあるんですが、そういう発想そのものがもういま言ったような現象学の核心からはずれて、むしろ、フッサールが解体しようとした問題範型にすっかり戻っている。

メルロ=ポンティの場合は、現象学から実存の問題を取り出しており、感度としてはかなりいい。でも、西さんも言われたように、現象学の中心的な意義は実存論的な反科学主義にとどまるものではないんですね。

ハイデガーは、現象学の理解としては非常にすぐれているんですが、存在論と称して形而上学へとまた戻ってしまった。いくら考えても答えが出ないことを考えるのが好きなタイプなんです。現象学はハイデガーによって、すごく前に進んだんだけれども、そのハイデガーが形而上学的に行ってしまったので、その真意が非常ににごってしまった。これはハイデガーの周到な超難解戦略がいまのところ功を奏していて(笑い)、だれもはっきりハイデガーはこれこれこういう理由で決定的にダメだ、と言える人がほとんどいない。レーヴットの批判なんかはちっとも核心をついた批判ではない。彼のおかげで、現象学の理解は30年くらい後退して、デリダの『声と現象』のように、現象学の根底にあるのは、形而上学的な野望なんだという形で受け取られるようになってしまった。デリダのハイデガーに対する評価はアンビバレントで、怪しいと言っている反面で影響を受けている部分も大きいんですが。ともかくそういうわけで、フランスでは、メルロ=ポンティ、サルトルのあとの世代にとって、「現象学は怪しいものだ」ということになってしまった。

フッサールの後継者とみなされるドイツの現象学者たちもほんとに総崩れの状態ですね。例えばヘルトなんかが有名で、「瞬間とは何か」とか、フッサールの考えでは「現在」は解けないとか、素朴な主観客観図式を前提にしたうえで本来もうフッサールが片付けた議論を蒸し返している。基本はデリダの相対論の議論と同じです。でもいかに弟子たちが現象学の核心を理解していないか、ヘルトを読むと象徴的に理解できます。

日本の若手の現象学者たちも、まずほとんどがこれらのドイツとフランスの現象学批判にきれいに右にならえしているようですね。


つまり、これまでの現象学解釈の中で、われわれのような形で現象学を受け取った人は残念なことにほとんどいなかった。哲学上ずっと課題とされてきた問題がはっきり解かれているのに、そのことが全然理解されていない。これから、この問題にはしっかりした決着をつけないといけないなと思っていますが。


「確信成立の条件」の「発明」〜 信念対立の図式を超えて……

西 現象学の発想の核心部分がなかなかうまく伝えらない、と竹田さんは言うけれども、これまでも竹田さんなりの言い方をつくってきているんですよね。『現象学入門』(1989年  NHKブックス)が出る直前だと思うんだけれども、竹田さんが、「確信成立の条件」という言葉を発明した。認識問題を「主観」「客観」の一致の問題として考えようとすると、「これこそが客観だ」だとか「これこそが実在するものだ」というさまざまな信念をひたすら呼び込んでしまうだけ。なので、現象学の場合は「客観」を、意識を離れてもともと存在しているものとはみなさない。むしろ、「これが客観的実在だ」と意識が確信するのはどんな場合なのかということを、意識の内側に徹底して見とっていく。つまり、どういう条件のもとにあるとき、人はひとつのものごとを客観的実在だと信じて疑えなくなるのか、という「確信成立の条件」の問題として考えようとするのが現象学なんだ。この言葉を勉強会で竹田さんが使い始めた瞬間をぼくは記憶しているんですよ。これは鮮やかな言い方だなあと思った。『意味とエロス』(ちくま学芸文庫)のころはまだ使っていなかったよね。


竹田  そう言えば、「意味とエロス」のころは、「妥当成立」と言っていた気がするな。


西 そうそう。もともとのフッサールの言葉でいえば「妥当」なんですよね。意識の中で何ものかが何かとして妥当する、という言い方をしている。それを「確信成立の条件」という言い方にしてみたらどうかというのを竹田さんが打ち出したんですよね。

さっきの竹田さんの話の繰り返しになるかもしれませんが、現象学にあまり詳しくない人のためにちょっと細かく話してみますね。例えば、ここにオレンジ色の鉛筆ケースがあるということを、ぼくらはまず疑わない。知覚される事物(もの)の場合、その認識を疑っていたらやっていけないんで普通はまあ疑わない。それと同時に、「ぼくにはこれがオレンジ色に見えているけど、まわりのみんなからも同じように見えているはずだ」ということも信じて疑っていない。

しかし、ですね、「このオレンジ色のケースがですね……」と言いながら手にとって見せていたら、まわりの人から「何を言っているんですか。あなたは空中をなんかふにゃふにゃ触っているだけですよ」と口をそろえて言われたら、「俺はちょっと頭がおかしくなったのかな、疲れているし」と思う以外になくなりますよね。

わたしたちはふつう、自分は物の姿を何も歪めることなくただ直接に受け止めているだけだと思っていますよね。でも、それが自分にとっていかにリアルに見えているとしても、「ほんとうに実在するものだ」「客観的実在なんだ」と確信できるためにはいくつかの条件がある。その大きな条件の一つが“間主観性”なんです。

一人で部屋にいて、例えば「ここにプーさんのぬいぐるみがある」と思っている場合でも、だれかがこの部屋に入ってくれ必ず同じものを見るはずだ、と確信している。見る方向が違いますからその人から見える姿形は少しは違う、でも、必ず同じものを見るはず。そういうふうに信じているわけです。でも、そのこと自体が疑わしくなると(他人から反駁されるとか)、自分自身では目の前に「プーさんのぬいぐるみ」がハッキリ見えていても、客観的実在としては妥当しなくなる。竹田さん流にいえば、確信が成立しなくなるんですよね。

フッサールの場合、こうした「もの」の認識、即ち「事物知覚」という、あまりにも当たり前の場面から考え詰めていく。でも、そこに見とられた確信成立の構造は、少しずつバージョンを変えればほとんどの場合に応用ができるようになっている。そういう考え方をつくりあげているんですよね。

たとえば、「社会」なんかにしてもまさにそうです。マスコミなどメディアで語られていることを受け取ったり、お互いにしゃべりあったり、文字を通したりして、そこから思い描かれたある像をそれぞれが確信としてつくり出しているわけです。



竹田  そういう現象学の発想の核心部分がピンとわかると、信念対立の問題は考え方としては、もう解けてしまう。たとえば、「わたしは世の中についてこう思う」というのは、自分だけで考えている限りはあくまでも自分自身の考えにすぎない。だけど横にもう一人いて「俺もそう思うよ」と言ってくれると、その二人の間である「現実」が成立することになる。「現実」とは「客観それ自身」のことではない。考え方の共通性が成立したときに“人間の間”に成立するものなんですね。ところで、二人あるいは一定の人々の間に共通了解が成立し、そこにある強固な「現実」が成立しても、またそこに「それは違う。我々はかく考える」という別の一団(共同体)が現われてくるとします。このときたいていは、「どちらが正しいか」と考えますね。そのため共通了解が成立することは大変むずかしい。このとき、現象学はそのように考えることを禁じ手にする。「本当はどちらが正しいか」と問うな。それでは必ず主観どうしの対立になる。そうではなくて、そのように二つの違った考え方が対立する理由、根拠はなにかと考えてみよ。わたしがこれを「現実」だと信じていることにはある条件がある。彼らがまた違う現実を思い描いていることにも、同じように条件がある。その条件をよく理解することができれば、そこから共通了解を取り出しうる可能性が生じる。そのときだけ、お互いの信念対立を克服できる可能性の原理がみえてくる。


「社会とは何か・どうあるべきか」という対立は、ふつうは神様のような絶対的な存在を措定するのが、いちばん考えやすく、効率的でもある。一人一人の主観を超え出たところに絶対的な真理がある。そういう想定のほうが自然的であり、考えやすい。「正しいことなんてどこにもない」と考えるよりは、ずっと生産的でもある。でも、この考えで解決するための現実的な条件はただ一つで、圧倒的な力がある場合です。力が拮抗しあうと、「闘い」しか解決策がなくなる。これが原理です。

ヘラクレイトスに言わせると「闘いは万物の父である」。まさしく古代社会、中世社会では、これ以外に対立に決着をつける原理は存在しなかった。「認識問題」が現われたのは、この力によって絶対的なものを決定するという原理が、近代社会になって壊れたためですね。キリスト教が絶対的権威であり、そのことで絶対的権力を保障している社会では、認識問題、つまり信念対立は問題にならなかった。絶対的な力が現にあったから。しかし、キリスト教の絶対的権威が崩壊し、ヨーロッパでカトリックとプロテスタントを擁護する諸国家の対立が生じてからは、まさしく「認識問題」こそ時代の課題を表現する哲学的問題となった。近代は人間の「自由」の自覚をますます推し進め、そのことで、絶対的権威や権力ということの正当性が、どう転んでも成立不可能になったからです。近代哲学はこの問題にずっと悩み続けた。マルクス主義が、近代合理主義の考えのうえで、新しい絶対性、つまり客観認識の思想を打ち立てようとしたが、原理的にこの客観認識の思想は、キリスト教的絶対認識の変種にすぎず、イデオロギー対立の壁を越えられなかった。そこで思想世界は、圧倒的な相対主義に落ち込むことになったんですね。その状況がいまも続いているわけです。


そう考えると、この問題に対する現象学の考えがいかに決定的なものか、理解できると思う。共通了解を取り出す可能性の原理は、主観と客観を一致させようとする思考の土俵の中からは出てこない。この発想はつまりいかに決定的な権威をつくり出すか、という問題に帰着するからなんです。そしてそれを避けようとして、絶対的な相対主義が現われる。彼らの主張はこうです。主観と客観の一致は論理的にありえない、だから「絶対的権威」や「権力」は存在しえないはずだし、また存在してはいけない。もし存在するとしたらそれは“間違っている”。そんな具合になっているわけです。しかし、間違っているのは、ポストモダン的相対主義者たちの推論のほうですね。

認識問題の「意味」を現象学的な発想で解明してみると、ポストモダン的相対主義の主張が、「絶対的権力=権威は絶対的な主客の一致であり、したがって、それは存在してはならない」というカント的要請主義ときれいに重なっていることがよく分かる。これに対して、現象学の認識問題の解き方が、「絶対的な主客の一致はありうるが、それは絶対権力=権威に帰着する。そうではない可能性は、絶対的権力ではなく普遍的な共通了解をつくり出すという方法であり、その可能性の原理はある」、というものであることが分かる。


大切なのは、了解の共通の網目をつくり出していくためには社会的に必要な条件がある、ということですね。いちばん基本になるのは「自由の相互承認」。もしわれわれが、おたがいに同じ資格の人間だと認めることができなければ、共感の可能性の度合いが下がり、共通了解の可能性がますます引き下げられる。もちろん、自由の相互承認さえあれば必ずみんな同じ考え方になるということではない。共通了解を取り出すためには、同じ人間としてその基本資格を認め合うことが前提条件になるということですね。ここを出発点として、それぞれの「確信」の条件を確かめながら共通了解を導き出していくしかない。ほかには方法がありません。ほかに方法がないというのは「真理」とは違いますね。

ここでの原理は、いわばほかに方法がないことを深く了解することだけれど、なぜそれに意味があるかというと、このことの了解だけが、絶望を回避し新しい欲望の通路を造り出すから、と言いたいですね。現象学の確信の原理は、欲望論的な原理の中で意味をもっているわけです。なぜわれわれはそういう原理を取り出す必要があるのか。これは、「正しい認識の構造」ということを超えて、「なぜわれわれは認識しようとするのか」、つまり「共通了解をはかろうとするのか」、という問題です。

ひとことで言えば、だれもが自由な人間として深く生きたいという欲望をもっているからですね。その可能性のために生の条件を探っていこうという、「生へのエロス」がいちばん根底にあるわけです。大事なのは、認識問題そのものではない。そういうことも現象学の考え方によって、はじめてはっきりしてくると思います。


今回『人間的自由の条件』(2004年 講談社)というヘーゲル論を書いたんですが、じつはヘーゲルも、まさしくいま言ったような問題を独力で深く追求していたことがよく分かった。ヘーゲルもそうとういい線までいっているんだけど、ただどうしても「普遍的精神」が絶対的な真理であるかのように措定されている。そのために最後の一線を越え出ることができない。ヘーゲルは非常に優れた哲学人ですが、哲学の原理として考えた場合、そうしていちばん外側に置かれている「絶対的なもの」を取り払わない限り、欲望論的な場面まで行きつけない。フッサールの場合には原理としては、それが可能な形になっているんです。



西 ヘーゲルも面白い人で、若いころの『フィヒテとシェリングの哲学体系の差異』という論文のなかで、「二項対立をどう解くかということが哲学の使命だ」ということを書いています。例えば「実存」と「社会」でもいいんですけれども、何か二つの項目なり考え方が強烈に対立したときに、その対立をどうやって解くか。そのときにヘーゲルが考えたことも、フッサールの発想とよく似ていて、その各々の対立がどこから生じているかということを、その根底に向かって解きほぐしていこうとする。

フッサールの場合には「超越論的自我」とか「超越論的意識」という言葉のもとに、もろもろの主観の共構造を想定してそこから考えていきますね。「どの主観も反省してみればこのような構造になっているでしょう」というわけです。それに対してヘーゲルの場合は「精神」が共通項になっている。つまり社会的な「精神」において、ある経緯のもとに対立が生じている。でも、対立自体にはちゃんと根拠があるのであって、その根拠をきちんと理解できればそれは解消され、次の段階へと進んでいける。そこでまた新たに思考の課題がでてくる。そうした展開をしている。

だから、ある意味で、「精神」という設定は、強固な二項対立をときほぐしていくための方法としてあると考えることもできるんですね。ヘーゲルは、それまでの哲学の「これが真理だ」というような独断的な言い方ではなく、いろんな考え方のすべてを包括したうえで、それらの根拠(なぜそういう考え方がでてきたのか)を精神の働きとして理解しなおしていく、という非常に画期的な考え方をつくった。ただ、竹田さんがさっき言ったみたいに、「精神の歩み」みたいなものが形而上学的に想定されてしまっているんですね。巨大な主体である世界精神が、歴史を通じて、もろもろの宗教や思想や社会制度のかたちで自己を実現し−−潜在的なものを外化するわけです−−、そのことを契機として、自己自身を「自覚」するという形になってしまっている。これではいまの多くの人はついていけないでしょうね。じつはその自覚とは、自由であるという自覚なので、内容的にはおかしくないのですが、やはり巨大な実体=主体の想定はまずい。

しかし二項対立やどうしようもない対立的な考え方が出てきたときに、どっちが正しいのかということではなくて、なぜその対立が生まれてきたのか自体を明らかにすることによってその対立を解きほどく、という意味で、フッサールの信念対立の解き方の先駆といえる考え方になっているとは思います。


希望の哲学をめざして……

竹田  さっきの繰り返しになりますけど、いまのところ現象学からそうしたフッサールのモチーフを受け継いで、ちゃんと展開していこうとする人がほんとうにいない。まあ、誰もいないということは、すいたデパートみたいなもんで(笑い)、どんどん自由に買い物ができてけっこう気分がよいという面もある。われわれにどれだけ力があるかは別として、ちょうどいまかなり自由にそれをできる場所にいるんではないかと思っているわけ。ひどく誤解されている現象学を哲学の原理として立て直していけば、哲学が今まで抱えてきた課題をも、もっと深く展開していけるのではないか。認識論に決着がついたからといって、哲学そのものが終わるということは全然ないわけです。哲学の根本の課題は、つねに、時代の中を生きている人間のいちばんの大きな困難を問題化していくということにある。そういう意味で、現象学の理解を刷新していくことには大きな意味があるかと思っています。


ただですね、いつも二人で話していることだけど、フッサールの場合、どうしても意識の場面だけでやっている感じはあるよね。
 

西 エロス原理がないんだよね。

竹田  うん。それだね。フッサールの考え方をもっとエロス論的に変容していけば、『イデーンU』でフッサールが非常に苦労している身体性の問題であるとか、もっとすっきり考えられるようになる。

西 うん。共通了解の話にしてもそうで、さっきも竹田さんが言ったように、共通了解を作り上げるということによって、どういった希望がみんなの中に生まれるのかということが大事なんですよね。例えば、社会について何も知らん、といっても生きてはいけますよ。でも、この社会にいろいろ問題があるとして、その困難をこういう形で考えていけばいいんじゃないか、そうすれば今後よくなる可能性がみえてくるんじゃないかという共通了解がつくり出せれば、そのことによって人は希望をもてるようになりますからね。

ですから、フッサールの現象学をエロス論的にさらに刷新することで、その発想をもっと生かしていくような方向を考えていきたいですよね。


現象学研究会
ホームページ