音楽、生を貫くエロスの穂
INTERVIEW 竹田青嗣
★文芸評論の本格的仕事をなんと井上陽水論で始めた竹田青嗣さん。音楽を論じることがなぜ出発の仕事となったのか。音楽を出発点とする哲学とはいかなるものなのか。いま専念している哲学研究の仕事とどのようにつながっているのか。今回詳しくお聞きした。
◆哲学をやられる方が『陽水の快楽』のような本を活動の開始時期に著したというのは驚きでした。
竹田: もともとは文芸評論というつもりで書いたんです。文芸評論を始めたのは、私は在日韓国人2世で在日のことが自分の中で気になっていたので、一番初めに在日作家論というようなもの、李恢成と金鶴泳という人の作家論を書きました。自分のアイデンティティの問題として書いたら一応文芸評論と見なされて、文芸雑誌から声がかかり、すこし書き始めて、編集者から長編評論をやったらどうかと提案された。自分の好きな作家について長めのものをと言われて、考えて、井上陽水をやりたいと。その編集者に、君はなにを考えとるんか、うちは文芸雑誌だよ、音楽雑誌ではないと言われ、それもそうだなと思ったけれど、どうしてもやみがたい心があって、その編集者に陽水の曲のいくつかをテープに録って送って、とりあえずこれを聴いて下さいと、これでだめだったらしようがないみたいな感じで送ったところ、なかなかよかったから、じゃあ書いてみたらということで始まったんです。「文藝」という雑誌で、いわゆる純粋の文芸雑誌です。当時好きな作家が、村上春樹とか、中上健次とか、増田みず子とか何人かいましたが、でもまず自分の好きな作家をやるとなると陽水かな、みたいな感じで書きました。『陽水の快楽』には今から振り返ってみると自分の哲学的な考え方の芯になるようなものがたくさんある。ちょっと前に機会があって陽水についての講義をNHK文化センターでやって久しぶりに読み返したら、結構面白くて、このぐらいから考え方というのはできてきていたんだなと思いましたね。
◆この本の中で、執筆の動機のひとつとして、学生時代愛好したクラシック音楽が突然生理的に聴けなくなったことの不思議さが述べられていました。
竹田: 中学3年ぐらいからクラシックが好きになって、大学の3年ぐらいまで熱中して聴いていました。このころはクラシックばかりを聴いていて、演歌とか他のものは低く見ていたというか、クラシックは高級だみたいな感じがあった。でも少しずつ演歌も聴き始めたり、越路吹雪とか聴いたり、ポップスも少しずつ好きになっていった。決定的なのは陽水で、ニューミュージックというものが流行ってきて、だんだんクラシックがもうよくなったというか、そんな感じがあったんです。それも結構不思議で、陽水論を書くときにいろいろ考えたんですが、多分、自分の中の世界像がどこかの時点で変化したんではないか。一言で言えば高校ぐらいから、真面目なのが良いというルールが自分の中に出来ていたのが、大学3、4年ぐらいから、音楽でいうとベートーヴェンみたいなのが一番偉い、みたいな真面目な精神がひっくり返ったんだと思うんです。もちろん文化の伝統というものがあるので簡単には言えないんですが、私の中ではクラシックのロマン主義はもういいや、聴き飽きた、みたいな感じになった。陽水の方が自分の中では新しい響きで、陽水にもロマンティシズムやセンチメンタリズムが強くあるんですが、それまで自分が聴いていた音楽にはないようななにかを喚起してくれる。今は歳をとってくるとまた少しずつクラシックが良くなっていて、モーツァルトやベートーヴェンと、陽水と、どちらが天才かといわれると、それは結構困りますが(笑)、自分の中では陽水は現代作家としてかなりいい線いっているのではないかという感じをまだ持っていますね。ときどき今も陽水とかサザンとか、30代にのめりこんだものは、しょっちゅうは聴かないんですが、ときどき聴くとやっぱりこれはすごいなという感じがします。
◆自分の時代の感覚とシンクロする、共振するという度合いの強さでクラシックが座を奪われたということがありますか。
竹田: 完全にそうだと思います。やはり高校、大学までは、いわゆる教養小説の世界で、自分の中で立派な教養を蓄積して、そのころは別にそんな意識はありませんが、まじめに、立派な人間になるというのが理想像としてあって、クラシック音楽はかなりそれに響いていた。それがあるところで一旦そういう自分の理想というものがちゃらになって、すごく大袈裟に言うと、誤解を生みますが、人生はエロスだ、みたいな考え方に切り替わったんでしょうね、きっと。カント、ヘーゲルからニーチェに宗旨替えした、みたいな感じですね。
◆「ものを学習する」位相から「自分でものを考える」位相への移行と平行するようなところがありますか。
竹田: 真面目な青年はエロス的なものに対しては反感とまではいかないけれど嫌悪感があるんですが、やはり青年期には自分の中でも性的なものを含めて、エロス的な感受性がどんどん出てきて、葛藤がある。でもそれは否定する理由がなくて、ちゃんと人間に対する存在理由をもっているという納得が生じて、響きが変わってきたということじゃないかと思います。時間的な前後関係はもうちょっと後だと思うんですが、私が印象的に覚えているのは、昔、ダイヤ建設という建設会社のテレビCMがあって、クールファイブの前川清が「夢の、夢の、かけらを……」という歌をうたっていた。「東京砂漠」という歌もクールファイブにはあるんですが、それは「東京は砂漠だ」という歌なんですね。昔のパターンで、田舎から出てきたけれども東京は砂漠で、帰りたいみたいな、郷愁も入っている。それを歌っていたのが前川清ですが、そのCMの意は、東京は砂漠と言われるけど、でも自分はやっぱり東京が好きだと。当時は新宿駅の西口辺りはまだ今のような摩天楼ではなくて、高層ビルがまだ四、五本の感じかな、ぱっとその夜景が映るんですよ。そこに都会が持つ独特のエロスがあって、東京は砂漠なんだけど、でもそれがいいんだみたいな、そういうイメージなんです。たしかにそう言われればそうだな、と。ある納得が起こったような気がします。自分は大阪から出て東京に来て、浮かれたものや真面目でないものに対して蔑視があったんだけれども、東京の都会のエロスに惹かれているという自覚が出てきて、それは否定できないな、と。自分の中にすごくそういうものに惹かれている部分がある、それが象徴的でね、多分そういうことが、クラシックが響かなくなったときに、起こっていたのではないか。
◆かなりの大転換ですね。
竹田: そうですね。転換だったと思います。ニーチェと比べるのはおこがましいのですが、ニーチェがスイスの山のシルヴァプラナ湖の近くで永遠回帰の着想を得るのですが、その前後に突然音楽の好みが全部変わったと書いていて、人間ひょっとして、ある世界観、世界像みたいなものの大きな転換があると、音楽の響きも変わるようなことがあるのかなと思うんです。
◆そうして、いろいろな流行歌、ポップスを聴くようになった。そのなかで、陽水の魅力を「超越論の風」と表現されていますが、やはり陽水は特別の存在でしたか。
竹田: ふつう新しいアーティストに入ると、一時期一生懸命聴いて、限界効用がきて、また次の人が来て、ということがありますね。陽水の場合一旦終わって、そのあと何人か、五輪真弓とか、加藤登紀子とか聴いて、そのあと、30近くなってまた戻ってきたんですね。その時はもう、若いときに陽水が自分の中に入ってきた理由がなんとなくわかるというか、まだ言葉にはできなかったのですが、やっぱり陽水というのは自分にとって独特の意味があって、聴いているとずっとその世界に入っていくことになる。なぜ陽水が特に自分にすごく響いたかということがずっとひっかかっていて、はじめて長編でなにか書かないかと言われたときに、陽水のことを書くのが筋かなと。一番引っかかっていた、これは何故だろう、何故陽水の音楽が自分にとってこんなに大きなものなのだろうかと。だからこれを書くときにはまだはっきりしていなくて、書き出してからだんだんはっきりしてきた、そういう感じですね。
◆陽水の経験というのは、今の時代の世界のエロス的核心と出会うというようなところもあったのですか。
竹田: なぜ陽水がこれだけ響くのか、すこしずつ思い当たってきたのが、私はまあ全共闘世代で、かなり一般的な類型、パターンというか、そんなガリガリ政治運動をやったわけではないですが、いつもその周辺にいて、自分がどのくらい世の中を変えるために頑張れるか、でもそこまでとことん頑張れるかというところですごく悩んで、うろうろしている間に、就職にもはぐれ、ぶらぶらしているというようなパターンです。井上陽水のような場合とは全然違うんだけれども、でもなにかある種の平行感覚がある。若いときにロマンに出会ってそれを強く求め、しかし現実はそう甘くなく、挫折して、エロス的な現実的な要素が入ってくるんだけれども、その中にやっぱり自分が若いときに出会ったような、絶対的なものに対する憧れが強く響いている。たぶんそれはサザンとかユーミンとか他の優れたポップミュージックにもあるのだけど、陽水の中にはとくにそういう要素がある。それを一言で言うと「超越性」という言葉になる気がしますね。それがとくに自分にフィットするのだろうというのが後づけの解釈です。
◆この本が著されてから20年ぐらい経ってきているのですけれど、時間的経過の中で感覚が変わってきたことがありますか。
竹田: 変わらないんじゃないでしょうか。45ぐらいすぎると、ほとんど音楽を聴かなくなるんですよ。それまでは仕事していてもなにをしていても音楽が一緒でしたが、だんだん音楽が鳴っていると考えられないとか、書けないとかになってきて、ある時点からもう音楽を聴かなくなるんですよ。新しい曲はもう入ってこなくなる。若いころは、喫茶店で聴いているだけで曲を覚えたりしますね。街角で覚えたり、もちろんラジオもあるし。でも今はもうどれだけ聴いても、学生がカラオケで何回歌っても、覚えないんですよ。あ、これ、聴いたことあるぞ、ぐらいの感じで。歌詞も覚えなければ、旋律もほとんど入ってこない。ただ、陽水とかサザンとか、その頃一生懸命聴いた曲だけは時々聴いてもやっぱり、ああいいなあ、すごくいいなあと、味わえるんです。普通はポップミュージックは必ず限界効用があって、習った曲も自分の中で消えていくし、カラオケも100回歌ったらだいたい飽きてくるんです(笑)。でも陽水の曲は、ときどきなんかでふっと聴くと、これはやっぱり大したもんだという感じがしますねえ。
◆すると、この本以降、陽水に匹敵するような作家なり曲なりはないですか。
竹田: 私の中では、やっぱりいないですね。じつはいるのかもしれないだけど、自分の中にはもう入ってこないという感じです。村上春樹の「ノルウェーの森」にちょっと知られたシーンがあって、主人公は男性が渡辺君、女性は二人、まじめな直子と、すごくエロス的な魅力のある緑という女性がいて、直子の方にはプラトニックなラブなんです。直子は心の病気で、一度だけ渡辺君とセックスするんですが、そのあと、もう性的な欲望が完全に消えてしまう。それを友達と話しているんだけれども、一度だけ彼とセックスをしたがそれがいわば死ぬ程良くて、そのあともう何も感じなくなった、自分はこれでOK、もう二度と誰にも入ってきてほしくないというんです。ちょっとその感じに似ているところがあって、つまり一度超越的なものに触れると、それはもう消費するというものではない。もうそれで一生OKみたいな。超越的なものというのはそういう性格がある。たぶんすぐれた音楽は、本来はいろいろあるんだろうと思うんだけれど、自分の中では一回スイッチが入っちゃったので、消費する必要がないから、沢山はいらない訳です。年齢のこともあるし、もう、ある意味で音楽は自分の中で終わりになったんだけれども、でも音楽が全然死んでしまったというのではなくて、よい音楽がなんであるかは自分の中に生きていて、ちゃんと聴いても味わうことができるという、そんな状態になっている気がします。
◆この本では取り上げられていないと思うのですが、陽水の「最後のニュース」という曲はいかがですか。最近の曲かもしれませんが、社会的な問題とか世界の問題とか、歌詞の中に取り込まれていながら魅力的な音響になっていますが。
竹田: 音響はすごいし、魅力的ですよね。ただ、私の感じは、歌詞が社会的になると、音楽が持っている力がちょっとそがれるという感じがある。ついメッセージを聴いてしまう。ただ、あの曲想というのは、もう陽水ならではのもので、他の人は作れないような曲ですね。あれをコンサートではじめて聞くと、誰でもかなりショックを受けると思いますよね。ただ社会的なメッセージがあるから、何度か聞いていると、それがなんとなく気になってきて、響きがちょっと飛んでしまう感じです。なぜでしょう、面白いですね。ポップミュージックはまずたいてい恋のことばかり、しかも失恋のことばかり唄っている。他の要素が入るとちょっと違ったものになる。何故でしょうね。陽水に限らず、そういうところがありますね。みゆきなんかでもそういう曲がいくつかありますけれども、メッセージの要素が強く入ると響きが飛んでしまうところがありますね。失恋はつらいのに、なぜポップスでは失恋の歌がいいのか、ちょっと考えたことがあるんですが、陽水にかぎらず、それって一回切りの切なさを喚起するんですね。楽しい恋は歌にするとけっこうつまらない。
◆芸術全般の中で音楽というジャンルは特別の意味合いがあるか、どうお考えですか。
竹田: やっぱり音楽は一番入りやすい。これはもうそういうことを考えている人がいて、実はニーチェが初めに書いたのが「悲劇の誕生」という本で、ワーグナー論なんです。ニーチェは若いときにワーグナーに入れ込んでしまった。当時のワーグナーというのは相当でかい存在、音楽は今の我々のいう文学よりもっと大きなジャンルで、いろんなところに大きな影響を与える大スターです。「悲劇の誕生」は、音楽論、ワグナー論といっていいんだけど、表向きはギリシア文化論ですね。ギリシア文化というのは大体知性的なものと言われていたんだけれど、実はデュオニソス的なものというもう一つの要素、エロス的な要素がある。真面目なものと、エロス的なものがあって、両方のバランスでギリシア文化は生きているんだけれども、エロス的なものの本質が非常に強いと。そういうことが「悲劇的」という概念で言われていて、これを芸術のひとつの本質だと考える。人生は苦悩である、にもかかわらず苦悩を欲する、苦悩にもかかわらず生きることを欲する、というのが「悲劇的」の意味だとされる。そういう芸術観をニーチェがギリシア文化から取り出しているんですが、現代ドイツ文化は堕落してだめになった、そういう芸術の精神が壊れてしまっている、一つそれを体現しているのがワーグナーの音楽である、というのが一番の主張なんです。ニーチェは古典文献学者で、ギリシア古典学の研究者として25ぐらいでもう教授になって、嘱望されていた学者なのに、こんなジャーナリスティックな論文を書いたために、自分の師匠をはじめアカデミズムから完全に白眼視されてしまう。半分は学術的な体裁なんだけども、半分は、陽水はすごいとか言っているのとちょっと似ている訳で(笑)、ワーグナーですから陽水よりはもっと権威があるんですが、それでもアカデミズムの世界では完全に禁じ手だったことを書いた。ともあれ、そこで音楽論をやっているんですが、音楽と絵画、彫刻の違いは何か、音楽には特権性があるという。簡単にまとめてしまうと、彫刻、絵画は形を通して感覚に入る、詩や文学は基本的には概念を通して心に入ってくるが、音楽はいわば直接心臓を突き刺すんだ、という言い方なんですね。音楽好きの人から言うとかなりわかるところがある。まずメロディ自体はまさしくロマンティシズムや人間の抒情性、リリシズムの表現そのものという点があるわけですね。絵よりももっとある。メロディもリズムもそういう情緒性というか情動性を、直接に喚起する。だから音楽は、とくに若いときに、思春期から青年期にかけてですね、自分の内的なロマンがたまるやいなやまさしく直接響いてくるような構造を持っている。文学や詩はもうすこし経験がたまり、自分の中でも言葉がたまらないと響かない。音楽はもう誰でも一発で響いてくる、強い直接性がある。ショーペンハウアーは音楽をかなり特権的に書いています。ニーチェもそれを半分引きついでいるのですが、やはり今の若者なんかを見ても結構言えることで、音楽は非常に入りやすく、自分この音楽が好き、というのはすぐ出てくるし、しかもその音楽の多様性は、私はこれが好き、私はこれが好きという、人それぞれのロマンの形によって、ちゃんと好き嫌いが分かれる。かつ、一人一人の人間の生への憧れをそのまま表現しているところがありますから。自分にはこれはすばらしい音楽だ、といったときには、自分の生きるということへの憧れの核をその音楽の中に直観しているんです。それはちょうど若い頃、なんとなく自分の中でロマンがたまってきて、ある人に出会ったとき、あ、この人すてきだと思うのと同じ構造ですね。感性に直接働きかけてくる、抒情性に直接働きかけてくる、そういう特権性をすごく持っています。
◆三島由紀夫に「音楽」という小説があって、物語の内容はともかく、性の歓喜の絶頂のことを表す象徴として「音楽」という言葉を使っているんです。主人公の女性がそのことを表現するのに「音楽がきこえる」とか「音楽がきこえない」とか言うんですけど、それを「絵が見える」とか「詩を感じる」とかにはちょっと置き換えられないようなところがあると感じました。
竹田: わかります。その通りです。三島由紀夫らしい。面白いですね、それは。「音楽がきこえる」というのはまさしく感じるということに直結していますよね。直接心臓に突き刺さる。
◆『陽水』とは別の本で、「人生の意味というのは、エロスを味わうことの他にはない」という言葉があり、そういう表現が他の場所でもいろいろ出てきて、びっくりするのですが、『現代思想の冒険』では、ハイデッガーの「良心」を「エロス」と言い換えてもいいと述べられています。非常に大胆な言い換えで、音楽でいえば同じ旋律が短調から長調に変わったような、思想世界の色合いの変化が感じられて、それが竹田先生の思想の独特な部分のように感じましたがいかがですか。
竹田: そこでハイデッガーについてどういう評価をしたかちょっと忘れたのですが、全体として私はハイデガーは半分半分のところがあります。若いときにずいぶん死についてくよくよ悩んだことがあって、最近はなぜだかよくなったんですが、ハイデッガーを読んだときには、死についてぴったり書いてあるんですごいショックを受けて、のめり込んだ。すごく大掴みにいうと、ハイデッガーは死の問題から人間の本来性、人間の生きるということ、生の「ほんとう」という考えをつかみ出しています。半分は、なるほどそうだなと深い共感がある。ハイデガーの死についての本質観取はとても優れている。一番大事な本質は、普通、人は死というのは恐ろしい観念なので遠ざけてなるべく見えないようにしているのだけれど、誰でも近づくことがある、直面しかけるときがあって、直面しかけると世界から切り離されて単独化して、自分の存在の危うさという自覚をえる。そのとき人は初めて生の一回生というものを実感し、そこで生の「ほんとう」、あるいは本来的に生きるという観念を獲得する、という書き方になっている。「ほんとう」に生きようという意欲それ自体がエロスなんですが、ハイデッガーの場合はそれを死に向きあうことから取り出している。ただ、私の考えでは、人間が自分の実存やほんとうという感度をつかむのには、もう一つ契機がある。つまり、恋愛から、とくに失恋したときに、生きることの「ほんとう」という観念を実感するのです。死というのはいわば自分の底板が板子一枚でその下は海で寄辺がないと、自分が生きているのが小舟の上だとわかるということですよね。ところが恋愛というのは上方にあって、なにか向こうに、まさしくプラトンが言うように向こうに「ほんとう」のものがあるという直観を与えてくる。まさしく音楽のように心臓を直接突き刺すような仕方で。それは分析してみれば全部自分のロマン的幻想に過ぎないんだけども、それでも必ず人間はそういう構造をもって生への強い憧れを抱き、それがあると元気が出てくる。しかも様々な世俗の欲望を考えてみると、大抵相対的なものなわけです。それは自我欲求にもとづいていて、人より立派なものだと認められたいとか、もっと金持ちになりたいとか、つまり我々の幸せという観念を形作っているのは大体相対的な欲望なんだけども、恋愛の場合はちょっと独自のものがある。私が人から認められたいというのではなく、そこにほんとうのものがあるという、そこにひたすら目がけているような欲望で、しかもそのことは恋愛の最中にはわからない、失恋しかけているとわかる、そういう構造になっているんです。ただし、恋愛には、すごく強く自我欲望もくっついている。だからそれはなかなか分かりにくい。でも、そのいちばん芯にあるのは、むしろ「自我」を超え出て、あちらのこの上ないものに届きたいという欲望の力だ、というのがプラトンの考えです。ニーチェも同じです。ニーチェは思い切りプラトンの悪口を言っているけど、でもそれはニーチェの誤解です。二人はいちばん近い思想の血族なんです。なぜ失恋の歌が、失恋の音楽が響くのかということの理由はそんなことかなというふうに私は陽水論を書きながら思っていたんですが。死に近づくと自分の生の一回切りが腹にしみる。ひどい失恋をしたときにも、一回切りが心胸にせまる。だから人間の「ほんとう」、自分の一回きりの生とか生の「ほんとう」とかいう観念は出所が二つある、死への根本的な不安と、恋愛という至上の欲望というところ、両方にあって、ハイデッガーは片方をあまりにも過大視しすぎているなというのが私の考えです。もう一方の方を書いているのがプラトンとニーチェと、それからもう一人、バタイユという人がいます。バタイユはプラトニズムではなくてエロティシズムに超越性があると言っている。長い哲学の歴史でそんなことを言ったのははじめて。文学者では、マルキ・ド・サドが言いましたが。ここにもやっぱり大きな神秘がある。『陽水の快楽』でもすこしは書いているはずですが、つまりエロス的なものの中で、都会のエロスというものにはニヒリズムもあるんです。陽水の中期からだんだん後、一種の「頽落」が起こる。都会的な頽落が起こると同時にエロスも深くなってきている。シニシズムも起こるけれどもエロスも深くなって、曲としても深みが出てきているところがある。普通の考えでは、プラトニズムとエロティシズムは非常に対極的なもの、プラトニズムは真面目なもので、エロティシズムは不真面目なものとされますが、じつはそれをつないでいる本質は同じものがあって、エロティシズムの中にも一種超越があるというのが、陽水の響きが面白くなってだんだん深くなっていくことのポイントかなと思う。バタイユという人は面白い人で、性的な欲望、とくに男性の性的な欲望の本質観取をしている。すごく大雑把に言うと、人類というのはどこかの時点で、暴力を禁止し、セックスを禁止したと。なぜなら、あるとき死の脅威というものがあって、死んだらもう終わりという観念がはじめて出た、それまで人間はあまり死の観念はなかったんだけど、どこかの時点でそういうことが起こり、そこから、人間は大きな禁止項をもった。同じ共同体の中では人を殺してはいけない、好き勝手にセックスしてはいけない、つまり、規則的に労働に服す、労働して蓄財して、明日、明後日にそなえること。これは人間社会が初めて持った禁止の秩序です。共同体内での暴力の禁止と、セックスの禁止、労働に服すること。人間はそういう暴力的な本能、性的な本能への、本質的な禁止をつねに抱えて生きている。こういう根本的な禁止をもって生きているのが人間が幻想的欲望をもつことの理由であり、だから人間のエロティシズムはわくわくどきどきするような「恥ずかしい性欲」になった。なかなか遠大なんです。ゆっくりよく考えると、これはとてもよく言い当てているなと私は思います。人間のエロティシズムというのは単に楽しいのではなく、基本的に、わくわくどきどき、不安とエロスがないまぜになったエロスです。その底には、禁止されているものを破るということがある。暴力とセックスの禁止によって人間のエロティシズムは「恥ずかしくない性欲」から「恥ずかしい性欲」になった。人間の自我というのはいわばそういう禁止の鎧であって、だから人間にとって性とはそういう自分の本来的な禁止性を一瞬だけ、しかも象徴的に破る、そういう行為であると。これはエロティシズムの本質観取としては、いろいろ私も読みますが、まずきわめて優れたものと言わざるをえない。女性の中にはこれを聞くと、ちょっと憤慨する人もいるかも知れませんけどね。哲学では、人間の「ほんとう」とは何かはずっと昔から最も大事なテーマの一つですが、ハイデッガー的なほんとうと、プラトン・ニーチェ的なほんとうはかなり明快です。でもバタイユのほんとうも、意表をつくような重要な範型で、陽水の響きの中には、それが全部入っている気がしますね。
◆先生の考え方、思想には、ニーチェ、バタイユの弟子のような部分がかなりあるような気がします。
竹田: 私は、お前の哲学の師匠は誰だと言われたら、ふつうは、プラトンとニーチェとフッサールとなるんですが、バタイユが横から突然入ってきた、そんな感じですね。私にとっては、プラトン、ニーチェ、バタイユが、超越派なんです。ハイデッガーはひっくりかえってネクラになってしまっている、でもやはり死の問題は大きいので、欠かせない存在ですけどね。
◆バタイユはあまり読んでないのですが、ニーチェのテキストというのは、強烈に「音楽がきこえる」ようなものですね。
竹田: その通りです。本当に、心臓を直撃してくるような、そういう響きです。ニーチェは字面を読んでも、論理的にはなかなか明晰でないことが多い。でも、ずっと読むときわめて考えが一貫していますよ。ちゃんと原理がある。考えが原理をたどっていく感じ。そこが現代思想とは違います。私の最近の持論は、現代思想はどんどん難しくなってきてそこから原理がきちんと取り出せない。いくら難しくてもその中にちゃんと原理が言い当てられていれば、読めば読むほどだんだん焦点が絞られてくるものです。が、残念ながら現代思想には原理がない。いろんな考えはある、思想はある、けれども原理がない。そうするとどうなるかというと、いろんな人がそこに寄ってきて議論が山と生み出される。つぎに参照の束になってしまう。この人がこう言っているとか、権威に使われていく。ニーチェやプラトンやバタイユははっきり、一つの全く新しい、ユニークな考え方の芯があって、そのことは人間の精神の一つの大事な「原理」になっているので、いつでも取り出せて、それがわかると必ず人間を聡明にする。そういう思想の形になっていると思います。
◆もうひとつ、大事なキーワードとして、「欲望」という語があります。カントの哲学の基本部分は認識論だと思いますが、先生の哲学の基本は「欲望-エロス」という欲望論のようにも思えるのですが。
竹田: そうです。さっきも言いましたが、なぜポップスでは失恋が大事なのか、失恋はポップスの本質なんです。失恋は生の「ほんとう」を教えるところがある。宗教は「死」を教えるけど、ポップスは失恋を教え、その中で生の「ほんとう」を直観させる。でも、耳に入りやすい、薄められた響きと、どかんとくるものがある。よく流行る音楽はたいてい響きが弱い。ともあれ、音楽が生の「ほんとう」をどういう風に教えるかというと、失恋の意味を教える。ただ、もし失恋だけだとそれがわからなかったという気がするんです。失恋に似たことをその前に、二十歳過ぎくらいに経験した。社会的理想の挫折ということが自分の中で起こった。我々は昔の全共闘世代で、わあっと燃えていた。ところが連合赤軍事件とかがあって、そういう社会変革に対する美しい夢が、すごく醜いものを含んでいて、一遍に夢が壊れた、そのときかなり深くショックを受けました。もちろん私だけでなくて、みなそういう体験を持った。そのあと、何回か失恋をしたときに、どこかで覚えがあるぞと。要は、世界崩壊というか、世界喪失の体験なんですね。世界喪失の経験というのは、どういうことかというと、自分の生きるということの中にはっきりした欲望があって、欲望の対象がそこに存在している。その欲望の対象が中心になって、そこから世界の意味が網の目のように出来上がっている訳です。たとえば革命みたいなのが一番大事だとすると、一切はそこに結びついて、政治の存在とか大衆の存在とか、自分が今どこにいるかとか、そこで意味を持ってくる。ところがそれがドカンとなくなったとき、ちょうど蜘蛛の巣の真ん中が切れてしまったみたいに、ばらばらっと世界の意味が崩れてしまう。いろんなことの意味がなくなって、すべては単なるモノの羅列のようになる。実はその時シニシズムということが起こっているんですが、すべての意味がばらばらになる。恋愛のときもすごく自分が信じていて、この人だ、この人以外にはないと思っているところを、私はあなたは違いますサヨナラと言われたときに、そういうことが起こる。優れた恋愛小説にはそういうことがちゃんと書いてある。私がそのとき思ったのは、認識というのは、客観的な世界があって、それを客観的な鏡のように、正しく反映するのではなくて、私の強い欲望がそこにあり、その欲望を中心に世界がある秩序を保っている。この意味の網の目が張られているときに、世界はこうこうであるとわかるということです。欲望の中心がなくなると世界は壊れます。別の欲望が現われてはじめてまた別の形で世界の秩序は形成される。だから、欲望論が認識論に先行しなければいけない、そういう感じが陽水論を書いているときだんだん出てきたように思います。少し前に、必要があって読み直していたら、ああ、陽水論を書きながらそういう感じがだんだん出てきたんだなと思いました。失恋をしたときには世界が壊れますが、まただんだん世界の秩序が戻ってくる。初めはもう何もする気がなくなって、すべてが無意味になってしまう。どうやって戻ってくるかというと、単に生理的な欲求が出てきて、何かすべきことの結び目が出てくる。結び目ができると、そのためにはこれをしなくてはいけないとか、このことのためにこれをしなくてはいけないという意味の連繋ができてくるわけです。この感じを、私の場合は、革命幻想のときは、失恋のときと、似た感じで二回もった気がします。で、ポップスがその意味を教えてくれた。クラシックは私には駄目だった。そこではロマンが壊れない。そういう意味でも陽水の音楽の響きは自分の中で大きかったなと思います。
◆文学で、陽水の音楽のように切実に響くようなものはありますか。
竹田: ずっと持続的に読んでいるのは、もう今や村上春樹だけなんですけれども、それは書いたことがありますが、村上春樹の資質と陽水とは私の中ではかなり呼応しているところがあって、やっぱりまず「超越」の響きというか気配がいつもある、二人とも。それから、昔に対する深い郷愁もある。一言で言うと、響きが似ているんです。読むとその響きの中にどんどん入っていく。体質がロマンチックで、リリシズムもあり、またどこかの時点でリリシズムが壊れて、シニシズム体験も持っている、それが共通の感度だと思います。私は15年ぐらい前から、文芸評論から少しずつ手を引いて、哲学の方にどんどん入っていったんですが、村上春樹だけは長編が出ると必ず読んでいます。ちょうど陽水のように、いつでも読むと自分の中で深く引き込まれる、という感じでしょうか。もちろん古典はときどき読みます。ゼミなどで、ドストエフスキーとかトルストイとか、スタンダール、カミュを読みます。優れた小説というのは歳をとって、なおまた面白いとうのが、やはり本当に面白いものですね。
◆音楽に関してでも他のことでも、やりたいとか、取り組む予定とか、なにか計画がありましたら教えてください。
竹田: 今は私、哲学にハマッてしまっているんです。「完全解読」という仕事にかかっていまして、最近「『完全解読・ヘーゲル「精神現象学」』というのを書きました(西研と共著)。主な、なかなか読みにくい哲学者についての「完全解読」を十年ぐらいはやろうと思っています。そこで音楽と文学の評論はとうぶんむずかしいですね。70を過ぎたらまたやろうと思っています。チェホフとか太宰とかドストエフスキーとか、好きな作家が何人かいますので。でも当分お預けですね。
★竹田青嗣さんの哲学研究は、アカデミズムのがちがちの「客観的研究」ではない。自分の知的探求の流れを構築するための独創的な「演奏」であり「作曲」であり、そこに光るのはむしろ思考の創造的真実である。つまりは、思想の言葉のなかに、精神の冒険の「エロス」を感じ、自己の生につながる「音楽」を紡いでいるのではないだろうか。 (取材・構成=池田康)