最新講演録

| →近代哲学における人間の考え方。三つの根本的な「倫理学」。 ヘーゲルの人間論もっと言えば倫理学は、こういうことが土台になっていますが、ここを中心として、今日は、近代哲学における代表的な倫理学を三つ参照にしつつ、話を進めたいと思っています。ただ、すぐにそれに入る前に、もう少し近代哲学が要するに、どのような考え方を提出したのかについて、大きな輪郭を描いておこうと思います。 もういちど繰り返しますと、近代哲学は、それまでの知的権威だった「スコラ哲学」に対して、大きく二つの問題を立て、これをすべて書き直しました。一つが「社会」とは何か、ということ、もう一つが「人間」とは何かという問題です。 近代になって人間が何を要求したのかを考えてみると、十六世紀から十八世紀の間は教義論的な支配の秩序がありました。教義論的な支配というのは、キリスト教の正統教義(オーソドキシー)が動かしがたいものとしてあって、これはキリスト教会が千年くらいかかって作り上げたものですが、この世界像をもとにして支配というものが正当化されていた。まり、身分制や封建制支配というものが自明のものとして存在していたわけです。 ところが、徐々にそれを圧迫的・抑圧的と考える広範な人々の要求が出てきます。その理由は、次第に貨幣経済が浸透していって少しずつ人間に、享受や消費の可能性というものを教えるわけです。たとえば、ルターの宗教改革が出てきた時のきっかけになっているのは、ドイツで中世的な過重な賦課・賦役や封建的課税の制度がいったん緩められていたのに、またある時点で強くなってくる。そういうことをきっかけに農民戦争が起こります。人間の欲望というものは、一旦ある自由が実現すると──もちろん完全な自由ではないですが──、少しでも生を享受することの可能性が与えられると、それを元に戻すということに対して、非常に大きな反発が出てくる。私の言い方では、自由の底板が上がってくると、もとに押し下げるのは非常に大きな抑圧と圧迫になるのです。ともあれ、十六世紀以降そういう人間的要求がヨーロッパの各地で噴出してくる。それまで比較的平穏だったキリスト教と、王権の支配というものが非常に矛盾に満ちたものとして感じられるようになるわけです。それを大きく煎じ詰めれば「自由への要求」ということになります。それは、そこで政治的な解放の要求というものが出て、フランス革命における明確な政治的な解放の要求に至るまでずっとある一環した流れを持っています。ルネッサンスから始まり人文主義、それから宗教改革、科学的合理主義、啓蒙思想、そして最後にフランスとイギリスとアメリカの市民主義革命です。アメリカでは極めて実験的な形で、イギリスでは穏和な形でおこなわれましたが。そういう形でキリスト教会を中心とする政治支配というのがなんとかひっくり返され、ヨーロッパではもう王制は時代遅れになってもちろんたいていは上からの市民化ですが、それでもだいたい市民社会国家が主流になる。 ところが、十九世紀に入ると今度は要求の質が変わってきます。十八世紀に政治革命の波と市民社会の理念が進んで、社会は自由・平等な社会になるのかなと思っていたが、実際には少しもならない。もちろん政権としては、市民社会や共和制や立憲君主制というものが一般的になるんですが、にもかかわらずその支配構造の実質ははなかなか動いていかない。フランスのような市民社会、共和制が先に行われた国ですら、十九世紀の終わりくらいまで上層階級は、皆、旧支配階級がほとんどそのまま乗っかっているという状態だったわけです。イギリスでは今でもはっきりと階層が残っています。ともあれ、市民社会の理念で、自由平等の社会が実現すると思っていたら、ぜんぜんそうならない。これまでの貴族という支配階級に代わって、資本家階級がすり替わっただけで、ある場面では、もっとひどい格差も出てくる。なりより、自由が解放されたという思いがいったん行き渡っているので、不満もきわめて大きなものになります。一九世紀後半から二十世紀のはじめにかけて、ヨーロッパの市民国家、つまり国民国家どうしのはげしい競合が生じてきます。少し立ち後れた後発近代国家が窮地に立たされる。そこから、さまざまな新しい理念が現われます。一方で、アナーキズムと社会主義の理念が出てきます。もう一つは、人種主義からファシズムやナチズムに移行するような、そういう諸理念が出てくるわけです。これが十九世紀から二十世紀のはじめにかけての社会的政治的要求の大きな枠組みです。 今はどうかということをひとことで言いますと、近代のはじめに人々が要求していたようなことについては、いわゆる先進国では殆ど実現されていると言ってよいと思います。フランス革命の時には、「パンをよこせ」とか、「仕事をよこせ」とか言っていた。もう少し具体的には、「不当な封建的賦課税とか小作税とかを全部撤廃せよ」とか、「法の下の対等」「宗教の自由」の実現とか、政治的、社会的解放の問題がそのころの人民の一般的要求だったわけです。そこで要求されていたような問題は、二十世紀の市民社会、民主主義国家では殆ど実現されているます。 しかしその代わり、問題は国家間や資本主義システム全体の問題に移っている。現在の資本主義の中心的矛盾を三つ挙げると、一国内での富の格差というよりむしろ、南北問題つまり富んだ国と貧しい国との富の格差ですね。それから地球全体の環境問題、そして資源問題です。そういう世界大のグローバルな問題が、新しい問題として現われてきている。これはある意味では、進歩と考えてよいかもしれない。少なくとも進国では、近代のはじめに民衆が要求していたような問題はまず大体実現されているという点で言えば。 でもそれは、そうやってだんだん大きな問題も長いスパンでは改善されていくだろうとだけ考えていられない問題を含んでいる。簡単に言えば、人間の自由の解放という点では、明らかに後戻りできないような進歩があったと言える。でも人間の生の問題は、自由を実現したり、生活水準を上げたりということでは、それだけではまったく解決しえないということが非常にはっきりした。それが近代という時代の大きな意味でもあったと言えます。 近代市民社会は、人間の社会的政治的自由を解放した。あるいはそれはますます進んでいく方向にある。生活水準という点でも、100年前と現在では驚くべき違いがある。今や先進国では、かつてなら社会のわずか数%の人だけが享受していたことを、70%、80%の人が享受できるようになっている。しかし、生活の自由は確保されたものの、平等という点では、市民社会原理は少しもこれを解決しなかった。市民社会は自由競争を経済システムの基礎としており、これは資本主義を生み出した。資本主義がいわば競争原理を加速化するようなシステムであることは、当時は誰も予想しなかったのです。資本主義はさまざまな大きな矛盾を生み出しました。植民地と帝国主義戦争、そして世界戦争です。世界中の知識人たちが、資本主義の矛盾を克服すべく新しい社会思想を構想しました。その中でチャンピョンになったのはマルクス主義です。マルクス主義は自由競争こそ諸悪の根源と考え、これを無効にするための二つの根本プランを提出しました。私的所有の禁止と自由競争の禁止です。これは根本的な考えではありました。でも、決定的な点がぬけ落ちていました。それは、各人の政治的「自由」は社会主義の政治システムでは、確保される原理がないということです。「自由の解放」と「社会的平等」の実現という二つの要求は、近代の人間性の最大の要求です。しかしこの二つは、これまでのところ両立する原理がうまく見出されていないというほかありません。ともあれ、これが近代哲学がうち立ててきた近代の「社会思想」の大枠です。 さて、もう一つ問題があります。これは近代哲学がずっと進んでいった途上で、キルケゴールが初めて言い出したことですが、彼はヘーゲルの哲学を目して、近代哲学は人間の実存の問題については何も考えていないと言った。ヘーゲルの哲学の基本は、自由な個人と社会との関係の本質を明らかにすることにあります。キルケゴールは、そこが感度があいません。彼は言います。ヘーゲルの考えだと人間の存在意味は、彼の社会的存在価値として与えられるということになるが、普通の人間はそんなところでは生きていない、と。。普通の人間は、むしろ日々の小さな可能性の中で生きていて、社会が進歩しようが全体の人間の条件がよくなろうが、そういうことにはほとんど目もくれない。ただ黙々と自分の小さな可能性の中に生きていて、結局、人生の終わりに、死んだら生の意味は何もないという大きな絶望にぶつかって死ぬことになる。ここに救いの道は存在しない。こういう人間の実存という問題については、近代哲学は何も考えて来なかった。そういうアンチテーゼを出してきたわけです。そういう点で、キルケゴールから近代哲学の実存論、実存哲学の新しい流れが始まったと言えます。私の考えでは、この問題について一つの高い峰をなしているのはニーチェという哲学者です。 一人ひとりの人間にとっては自分の実存は、要するに生は一回きりであって交換不可能なものであるという側面をもっている。そういう一回きりの自分の生を、各人が神という超越者なしに内在的に肯定しうる可能性はあるのか。これがニーチェの立てた最も中心的な問題設定だと言えます。最終的にこの問題をクリアしなければ、思想というのは根本的問題に答えていない、と。 近代哲学はさまざまな問題を考えたが、この最も肝心な問題については、じつに顛倒した考えしか提出できなかった。近代哲学は、主としてこれを人間の道徳問題や倫理問題として考えた。しかし、そこでは道徳や倫理こそ人間の本質であるという思いこみは動かされなかった。むしろ道徳や倫理の意味自体、いま言ったような問題に照らして問い直されなくてはならなかったのに。結局、この問題についての近代哲学の営みは、キリスト教的な教義論の形而上学をの枠組みをほとんど出ていないというのが、ニーチェの近代哲学批判の骨子です。さしあたり言うと、ニーチェが出した答えは、超人とか、運命愛とか永遠回帰という言葉で言われています。このニーチェの概念については解釈も定まっておらず、たくさんのことを言わなくてはいけないので、あとでもう少し触れることにします。こうしてキルケゴールやニーチェが提出した問題は、その後ハイデガーからフランス実存主義といった実存論哲学の流れへと受け継がれることになるわけです。 ともあれ、近代哲学の思索の中心的な成果はこの二つの問題に大きな筋道を与えたということです。つまり、まず個々の人間の自由をいかに解放していくか、そしてそのための社会的な条件をどう考えるかということについての、根本的なプランを打ち立てたこと。もう一つは、この自由の解放ということがもたらす実存という問題を取り出して、各人の実存可能性の条件を考える枠組みをしめしたことです。近代哲学の基本性格は形而上学であって、それは結局近代市民階級の観念論的なイデオロギーとして終始した、というのがマルクス主義から分析哲学、ポストモダン思想までかなり一般化している近代哲学像ですが、これはあまりに歪んだ像だというのが私の考えです。むしろこの二つの問題について近代哲学はきわめて根本的に考え、いくつかの重要なもはや後戻りできないような考え方の原理を生み出していると思います。 先ほど言った「超越」という問題は、この二つ目の実存可能性という問題から出てきたものです。人間の欲望は、一般的には幸福をその目標とするという形で考えられています。というか、われわれは多くの人間が生の目標と考えているものを「幸せ」という一般的な言葉で呼んでいるわけです。つまり、人間というものは、幸せになれば生きていてよかった、その生には意味があったと考えられている。幸せの具体的内容は人によって千差万別だけれど、それはともかく生の目標であり、生の意味を充実させるものだからです。ところが、幸せの具体的内実に普遍的な形を与えようとするとこれはとたんに難しくなります。それを哲学的に言えば「超越」という概念で言えるのではないかということです。術語は少し違いますが、近代哲学では、ヘーゲルがそのことをはじめに最も明確な形で概念化しました。それがさっき少し言った「絶対本質」の概念です。 ヘーゲルには、哲学が人間の存在本質をとらえようとすれば、生の意味の本質を概念化する必要があるということを明瞭に自覚していました。ただこの術語はいまからみるとかなり古くさい言葉に成っています。フランスの現代思想家にジョルジュ・バタイユという人がいますが、この人は独特の思想家で次のようなことを言った。つまり、宗教。それから性。この性は人間の性的な欲望としてのエロティシズムですが、それからもう一つは革命ですね。この三つが人間の超越への欲求を象徴する三類型であると。宗教や革命が、人間にとって一種の生にとっての絶対的な目標となることは比較的すぐに分かりますが、恋愛と言わないで、エロティシズムをここに入れているのが彼の非常に独創的なところです。宗教や革命がある絶対性を帯びるのは想像のつくところですが、エロティシズムは一般的には瞬間的で、永遠や絶対の表象からは離れたものに見えます。しかしバタイユによると、エロティシズムは、連続性への郷愁であり、一種永遠や絶対との一体化の憧れを表象するもなのです。彼はそのような人間の欲望の本質を「至高性」という言葉でも言っています。ヘーゲルが「絶対本質」を、自由たろうとする人間精神の階梯的なゴール(ある高みへの到達)と考えたのに対して、バタイユはこれを日常的な生の営み中に可能性として遍在するものとして想定していて、そこはさすがに現代思想家の慧眼というべきです。 わたしの考えでは、人間の生、実存の意味の本質についての哲学的思考としては、まずプラトンを、つぎにニーチェを挙げる必要があります。プラトンを挙げることができると思います。プラトンのイデア論というのは、普通、形而上学の親玉というふうに言われていて、教科書的には本質実在主義(エセンシャリズム)と見なされている。何か真理の親玉のような「真実在」(イデアのイデア)とかいうものが、人間のあずかり知らぬ天上界のどこかに文字どおり実在している、それがプラトンの主張だとされているわけです。これは明らかに19世紀後半以後の唯物論哲学による素朴な誤解です。プラトンの言おうとしたことは、確かにギリシャ的観念の中で表現されてはいますが、そのようなことではぜんぜんありません。 プラトンの考えの最も中心は、人間のさまざまな「真理」の根源は、世界が何であるか、という事実のうちにではなく、「真善美」という価値的なものの存在本質のうちにある、という考えです。プラトンの「真実在」は、イデアですが、イデアとは真善美の根拠をなすもです。「ほんとう」とか「美」とか「善」の本質は、世界がそれ自体として何かという問いの枠組みの中では決して答えられない。それは新しい本質学を必要とする。ところがそれは自分たち人間のもつ言葉ではなかなか簡単に答えられないので、仕方がないからミュートス(神話)の形で語るほかない。これがプラトンの基本の構えです。プラトンが真善美という人間の価値審級の本質をどう考えていたのかは、彼のエロス論や恋愛論を読めばよくわかります。彼がエロス論、恋愛論を哲学の中心主題として設定したということも、彼の思考の独自性をよく表現しています。 ニーチェはプラトンを強く批判しています。プラトンがプラトニズムを強調した点、真(真理)と美を一つのものとしていたのが、彼の気には入らないのです。しかし、プラトンがそれまでのギリシャ哲学に対して行なった批判と、ニーチェが近代哲学全体に対して投げかけた批判はほとんどみごとに重なっています。プラトンは、世界の事実的な認識ではなく、真善美の問題こそ哲学の中心問題であると言いました。ニーチェは、客観世界とその認識の可能性という問題は無意味な(レトリカルな)問題であり、実際は価値の哲学こそ重要なのだ、と言っているのです。 客観認識の可能性の問題は、いうまでもなく近代哲学の中心問題でした。それは「主観‐客観の一致」という問題の形を取った。ニーチェによればそれは「真理問題」にすぎない。彼は「真理」より「欲望」、「力」、「美」こそ決定的な主題であると言います。近代哲学の一番お好みのテーマは、「真理」と「道徳」である。近代哲学者たちにとって「真理」と世界の本質であり「道徳」は人間の本質である。しかしとんでもない、生きること、生への欲望、力、美、エロスへの意志、これこそが世界と人間の本質である。そういう考えで、ニーチェは近代哲学を根底的にひっくり返そうとしました。しかしニーチェの思想もまだ充分その可能性が受け取られているとは言えないと思います。近代哲学の最高峰は、ヘーゲルとニーチェですが、ふたりとも、その思想の全容と深度は覆い隠されたままだと思います。 ともあれ、プラトン、ニーチェ、バタイユといった哲学者、思想家たちには深い共通項があります。それは人間の本質をその社会的条件からではなく、むしろ生の意味の本質から考えようとしたことです。彼らの提示した人間と生の本質を哲学的に概念化すると「超越」という言葉になると思います。 そういうわけで、この「超越」という概念をにらみながら、はじめに言ったように、近代哲学における人間の「倫理」あるいは「良心」の問題を考えてみたいと思います。 まず取り上げるべきは、カントです。カントについて言えば、彼は難解ですが、ヘーゲルやフッサールのように恐ろしく誤解されているということはないし、ハイデガーやニーチェのように、沢山のさまざまな解釈の山のなかにあるというのでもない。比較的一般的に言われているカント理解は妥当なものと思います。ただ、一つ言うと、カントの大きな業績のうち、形而上学批判ということは一般的にも言われているけれどでもまだ充分でないということがあります。もう一つは、カントの「善」の概念ですが、その画期性ももっとはっきり意識される必要があるというのが、私の考えです。 近代哲学としてのカントの最大の業績は、上の二つです。そしてこの二つは、哲学の専門家の研究対象といったことではなく、現代人がものを考える上で、誰でも納得できるものであるし、またそれを理解しておく価値が極めて大きな、ものの考え方の上での原理です。一つ目の「形而上学批判」ですが、これは『純粋理性批判』のアンチノミー(二律背反)という有名な思考実験で示されているものです。 アンチノミーというのは、たとえば、哲学では「世界とは何か」という問い方をしますが、こういう世界認識の根本問題をとことん問うと、じつは必ず論理的なアンチノミー、二律相反に陥る、というんですね。たとえば、世界は起源、始まりの時点があるのか、ないのか、という問いを立てる。宇宙には限界があるのか、でもいい。これは経験的には決して実証できない問いです。それでいくつか仮説を立てて推論によって答えるほかない問いなのです。ビッグバン理論といえども、一定の仮説から出てきた一つの推論なのであって、もちろんこの原理に含まれます。カントによれば、こういう種類の問いは、人間の推論ということの本性上、必ずAという答えとBという両方の答えが出てきて、両方とも決定的に間違っていると証明することはできない。つまり、両方とも推論としては成り立ってしまう。このことは、このような問いについては人間は最終的な答えを出すことができないということである、と言うわけです。カントは、世界の時間的起源と空間的限界だけでなく、そして、物の最小単位があるのかないのか、自由というものがあるのかないのか、それから、神のような最高存在といったものが存在しているのか否か、という問題を、形而上学的問い(世界認識についての根本的問い)として提出し、このどの問いについても人間は、その理性の能力の本性からして、つまり原理的に決定的な答えが出ないものだ、と主張します。 今の科学研究の進歩から言うと、およそ200年も前の哲学者の考え方などとっくに乗り越えられているはずだと思うかもしれませんが、事実は逆で、このカントの原理の正しさはますます明らかになりつつあります。たとえば、フロイトのエディブス・コンプレックス仮説は、フロイトの予想に反して、100年たって徐々に確実性を増すどころか、ますます多くの多様な仮説の一つということになっているのだけれど、カントのこの考えは、ニーチェとかフッサールとか後続の哲学者の考えによって、ますます原理的で本質的なものへと深化されていると言えます。どんな最新の科学理論も、カントが立てたような問いに決定的な答えを出せなかったし、むしろ、それについて決定的な答えがでないことを、科学理論は後追い的に承認しつつあるのです。 しかし、このアンチノミーの考え方は、われわれにとってどういう意味をもっているのか。この考えは、哲学史的には、神の存在や目的論、善悪についての神義論などにあけくれていたスコラ哲学の問題設定を決定的に覆したと一般的には言われています。しかしそれだけではないのです。カントの形而上学批判はもっと深い射程を持っている。それは、アンチノミーだけを眺めていても少しわかりにくい面があるのですが、簡潔に言うと、まず、人間は、個々の実用的、実効的な諸問題については、適切な問いを立て、これに答えを出すことができるが、「世界とは何か」「何が世界の諸存在を生み出したか」「生の意味は何か」「存在とは何か」「私とは何か」といった問いは、決定的な「答え」は存在しないということです。ここで重要なのは、これは人間の理性の能力が小さいので答えが分からないというのではないということです。このことをもっと原理的にはっきりさせたのはニーチェ、フッサールですが、カントもうすうすそのことを自覚していました。ニーチェやフッサールではこうなります。われわれは「世界」とか「宇宙」とか、「生」といったことを、いつのまにか「実体論的」に考える。つまりそこでの「あるなし」、「真偽」を、“事実の問題”と考える。だから、世界の起源は「あったのか、なかったのか」と考える。自由というものは「あるのか、ないのか」と考える。ここは少しやっかいですが、ニーチェ、フッサールではこうなります。百頭の羊を一夏養うのにどれほどの広さの牧草地が必要か、とか、月に行くためにロケットはどれほどのスピードを必要とするか、とかいったことは、客観的事実の問いと考えてよい。つまりそれは、誰が考えても同じ答えが要求されるし、また同じ答えがでなければ意味がないような問いである。しかし世界の起源や生の意味、神や私の存在についての問いは、いかに事実の問題のように見えてもじつはそうではない、これらは、人間はこの問題についてどのような考え方が可能かという問題、つまり“本質の問題”である、ということになるのです。カントが最初の一歩をおいたこの考え方は、現代人であるわれわれにとっても非常に大きな意味をもっている。それをひとことで言うと、事実問題と本質問題をしっかり区分せよ、ということです。カントのこの「形而上学批判」の原理が、現在でも近代哲学の成果として十分受け取られてこなかったことは明らかで、それはわれわれがもっているさまざまな「正しさ」の観念を考えてみればすぐに分かります。何が人間にとって「善」であるのか、「ほんとうの生き方」とは何か、「生の意味」とは何なのか、最もよい社会とはどのようなものか、二十世紀思想は、このような問いに対してある決定的な答えを出そうとする努力を積み重ねてきました。しかしカントの形而上学批判を思想原理として受け取るなら、ここでは問題が余りにに“実体論的”につかまれてきたと言えます。 ニーチェやフッサールの思考は、カントから踏み出してつぎのように考えます。どのようなものが正しい「世界観」、「人間観」であるのか、これは顛倒した問いである。それは事実の問題ではなく本質の問題である。ある人が「正しい世界観」を持っているか否かが問題ではなく、万人が自分なりの「世界観」をもつのだが、本質的なのは彼の「世界観」が彼の生に対して持っている「意味」である。その人のもつ世界観が彼をよく生かし、彼の社会的関係をよいものにするか否かが問題なのである、と。 また多様な世界観についてはこのように考えます。各人はさまざまな世界観、人間観をもち、それはしばしば、一元論と二元論、唯物論と観念論、性善説と性悪説、功利主義と本質主義、といった二項対立的な区分を構成する。そして、多くの人びとはこの議論のなかで、どちらかが正しいと信じる。ちょうど世界の起源はあるか、ないかのどちらかであると考えるように。しかし大事なのは、この典型的二項対立は、人間の思考の本質構造にその由来をもつということである。なぜ哲学的問題は、つねにこのような二項対立を生み出してきたのか、なぜ多くの場合、どちらかが正しいという思考傾向を生みだし、そのことで思考の共同的対立を作り出しつづけてきたのか。また、この世界観的分割の個人的、社会的動機は何であるのか。そのことに答えが与えられねばならないのであって、どちらが「正しいか」という答えは不毛であり無意味である、と。 カント哲学のもう一つの大きな功績は人間的「善」、つまり道徳哲学を新しく創始したということです。 善と道徳についてのカントの大きな前提は、つぎのようなものです。それで、まず彼は人間の存在本質とは何か、という問いを立てて、これに対して、人間の存在本質は「自由」ということだと言います。自由な存在であるということが人間の存在の本質なのです。またそうである以上、人間存在は、それ自身手段ではなくて目的存在と見なされねばならない。これは、当時のキリスト教的な教義、人間は被造物であって存在そのものが超越者によって規定されている、という考え方に対する非常に強力な反論になっている。貴族であっても奴隷であっても、人間としてその本質は同じであると。 さて、人間の存在本質を自由であると規定しておくと、「〜すべき」(=当為)ということについてまったく新しい規準を取り出すことができます。それまでの「すべき」という観念は、神の意図によって造られた被造物であるという世界観からは、人間の目的論もはっきりしたものです。つまり、神の世界というか、神の目的というものがあって、そのために人間はどのように生きるべきか、ということがそこからすべて取り出されるます。しかしカントは人間の存在本質を、宗教的観念から完全に切り離します。それまで、人間はかく生きるべしとか、かく行為すべしといったことは、すべて「神」とか「聖なる」ものといった超越項を根拠としていた。少し説明しておくと、人間や社会の問題について考えるときに、いわばわれわれの外側に想定された外的な規準項目(スタンダード)を、私は超越項という言葉で呼んでいます。これは先ほど言った「超越」とは繋がっているけれど、すこし違います。簡単に言うと、人間は「超越的なもの」への欲求を持っている。この上ない善いものに触れたいという、あるいはそれをわがものにしたいという欲求を持っている。それが外在化され、実体化されたものが「神」という存在であるとすれば、この外在化されて絶対化されたものは「超越項」と呼ばれる。人間の欲望の本来的な対象が「超越的なもの」であるとすると、それがイメージとして実体化、絶対化されたものが超越項です。神の存在とか王や教会の聖なる権威性とかが超越項という形で言われます。 そういうわけで、カントの考えは、ある意味で人間の「善」の本質を、超越項から完全に切り離して考えようとしたやはりはじめの一歩だったと言えます。人間は自由な存在です。この自由は人間が理性的存在であるということに根拠をおいている。人間は人間社会全体の合理性や普遍性について思考し、同じ仕方でそれに達しうる。たとえ人間が感情や欲望に左右される存在であるとしても、理性においては人間は何が善で何が悪であるかを理解し判断できる。人間の自由は、人間が「何が善であるか」について理性的判断をもつということに依拠します。そして人間の自由は、自分の存在を「善」たらしめようとする自由意志としてのみ発現します。人間はなるほどつねに欲望や感情に押される存在である(これを彼は傾向性と呼びます)。しかしにもかかわらず、人間はある場合、「善」たろうと意志しそのように行為することができる。 「べき」の問題は、誰にも分かるように、単なる世界認識の問題からは導かれない。世界がかくかくの状態にあるという認識は、人間はかく行為すべきであるということとは繋がらないからだ。しかし「善」についての理性的判断が成立するなら、また成立するかぎりにおいて、人間の生き方の「べき」を普遍的な原理として導くことができる。この「べき」は人間の「自由」な存在本質によって可能性の原理を与えられている。カントの主張は、だいたいそのようなことになります。 大雑把に言うとこれは、「君の行為が、君以外の誰が行なっても世界の調和や万人の幸せを阻害せずむしろそれを促進するような行為であると言えるときには、その行為はいつでも正しい」という意味になります。それまでの哲学の歴史を考えてみると、この言い方がいかに独創的であるか言い尽くすことは容易ではありません。要するに、彼は、歴史上、善悪についての全く新しい基準を提出しました。その真髄は、善の根拠を「聖なるもの」「超越的存在」から切り離し、「万人が自由な存在である」という根本前提だけを起点に、普遍的な論理的帰結として取り出した、ということです。もちろん、哲学の思考は前進するので、カント以降の哲学者たちは、カントの「善」の普遍性について沢山の異議を唱えています。それらの異議はたいていまっとうなものです。つまり、カントの善の「法則」の「普遍性」はまったく抽象的な観念としてだけ成立するもので、ちょっとでも具体的場面を想定するともう無効になってしまうような、きわめて消極的なものなのです。もうしかしそれでもカントの原理的一歩の大きさは、誰にも否定できないものと言えます。 カントの形而上学批判と「道徳哲学」によって、人間の倫理や善ということの本質を「聖なる存在」に根拠づけるような哲学的思考は、以後ほぼうち倒されます。といっても、実際は、唯心論的、神学的思考はまだ大分生き続けます。カントのあと、フィヒテやシェリングなどへ続くドイツ観念論の系譜は、フランス、イギリスの合理主義、経験主義に反発するドイツロマン主義の系譜でもあります。人間の心や精神は、合理的理性の枠組みでは到底理解し尽くせないものだという観念は、ドイツ観念論の、精神主義的ロマン主義的性格を強く彩るものです。 このドイツロマン主義的思考の観念性を徹底的に批判して出てくるのが、ヘーゲルとニーチェということになりますが、ヘーゲルについて言えば、彼はドイツ観念論のロマン主義的性格をすべてうち倒して、観念論の本来の精髄をとことんまで推し進めた哲学者であると言うことができます。一般にはヘーゲルは悪しきドイツ観念論の完成者というイメージで言われていますが、むしろドイツロマン主義を克服して、観念論哲学を一つの頂点にもたらした人物と考えるのが妥当です。 観念論哲学というと、まず観念が世界の原因であると考える思考であるという固定観念がある。私もずっとそのような形で教え込まれてきました。しかしそのような考えはひどい虚偽というほかありません。といっても、バークリーやシェリングのように、そういう言われ方が妥当に見えるような哲学者がいることも事実なのでやっかいなのです。しかし少なくともヘーゲルの観念論は、まったくそのようなものではない。 ヘーゲルの観念論では、観念論の本質は、人間の思考(=観念)の必然的な本質類型(本質構造)を取り出すという点にあります。ヘーゲルの思考で特徴的なのは、たとえば、一元論と二元論、唯物論と唯心論、宗教的思考と啓蒙的実証的思考という大きな思考類型の分割について、この分割の根拠を探求しようとしている点です。人間の思考は、物質を実体化したがる傾向もあれば、精神を実体化したがる傾向もある。どちらが正しいかという問い方は無効です。なぜこの二つの思考傾向があるのか、それは人間存在のどのような存在本性に由来するのか、この問いに答えるためには「事実」が何であるかを問うてもだめである。人間の思考(つまりこれが「観念」です)の本質それ自身をつかみだすのでなくてはならない。これが観念論の本質的モチーフです。そのように言うのはべつにヘーゲルを特別視してのことではありません。ロック、ヒュームといった「観念」を問題にしたイギリスの哲学者たちの思考のモチーフもまた、まさしくそのようなものだったのです。 ともあれ、ヘーゲルのカント批判を考えてみます。 カントの『道徳形而上学の基礎』に法論というのがあって、これはカントの言い分をとてもよく現わしています。「いかなる行為も、その行為そのものについて見て、あるいはその行為の格律に即して見て、各人の意志の自由が何びとの自由とも普遍的法則に従って両立しうるような、そういう行為であるならば、その行為は正しい」と。カントによれば、これこそ「法」というものの基礎原理です。 これが、「君の意志の格律が、常に同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ」という「善」の根本原理と、同じ基本形を持っていることが分かると思います。 前提にあるのは、人間存在の本質は「自由」ということであり、また人間は「自由な存在」でなくてはならない。したがって、もしある行為が、他人の自由を侵害せずにその人の自由を実現するような行為であるときには、その行為ような行為はすべて正しい(レヒト)と認められなくてはならない。そうカントは言っています。法というものは、この人間の自由な行為というものを保障し、実現するようなものの根本的根拠でなくてはならない。こうしてカントでは、「法」の根拠は、人間が自由な存在であるという本質に根本的な根拠をおき、こそから取り出されてることになります。 これはひとことで言うと、ここでの「法」の根拠づけは、それまでの近代以前の法の本質とは全く違うものになっている。近代以前の法の本質は権威から出ています。法の権限は王や神の権威に根拠づけられています。法は王様が決めるものだけど、それはたいてい神の権威から来ている。だから、法の正しさは、正統な王が正統な手続きで決めた法は「正しい」ということになる。ほかに法の正当性の根拠は存在しないのです。もちろん「悪法」というものもあるが、これはその法律が人民を苦しめるようなものだということであって、ほうの内容が適切でないということにすぎない。正統な王が正統な手続きで作った「法」以外に、「法」それ自体の正当性は考えられないわけです。これが近代社会以前の社会の「法の正当性の根拠」だったわけです。 ところが近代社会では、法の根拠とはその本質をがらりと変えます。近代社会の前提は、各人が「自由」な存在として認められるということです。互いが自分の自由であるということを実現しあうのだが、そのことを互いに認めあうので、当然、自分の自由の追求が相手の自由を侵害しないという限定ができる。この相互の自由な存在を保障するものが「法」です。それが近代社会の「法」の本質です。カントの法論は、まさしくそのような原理で書かれていると言えます。つまりここでは、法の原理は、各人が自由でありうる条件という形で導かれているのです。 ところがヘーゲルは、このようなカントの自由論を徹底的に批判します。徹底的に批判しますが、さっき言ったように核心的な点は保存している。それはどういうことかというとこんな感じになります、カントは人間は自由な存在であるし、また自由な存在でなくてはならないと言う。しかし、これはきわめて曖昧である。人間は生来自由な存在であるとは言えない。むしろ人間はこれまで自由な存在であった試しがない。人間は自由なものとして生まれているという言い方もよくない。むしろ、人間精神は「自由」たろうとする本質をもっている、と言うのがよい、というのです。 ヘーゲルの「自由」の概念は、そうとう鍛え上げられたものです。彼は『法哲学講義』でこんな風に言っている。「人間は貧しく、みじめで、たよりない存在だが、にもかかわらず、自分の自由と自主性についての無限の自己意識を持っている」。精神とは不思議な働きをするもので、この二つの両極端を結びつけるのであると。続けて、「精神とはおそるべきもので、いわゆる健全な常識からすると狂っているといわれかねないが、このように正反対のものを結びつけるのが精神で、その力は偉大です。わたしは道端の石ころのように力なく、はかない存在ですが、弱い存在ながら、自分のことを無限に自由だと自覚しているのです」。人間の存在というのは非常にもろいもので、自分より強い他人が出てきたらすぐ奴隷にされてしまうかもしれない。自然の猛威によって、あっという間に命がなくなってしまうかも知れない。しかし、にもかかわらず、そういう自分の存在が弱いということも含めて、自分の生というものがある絶対性を持っており、自分がこの宇宙の中で取り替えの効かない主人公であることを自覚していると。このような人間の生についての自覚のあり方を彼は精神の「無限性」と呼んでいます。それが精神の本質であるというわけです。 ヘーゲルのカントに対する批判のポイントはこうなります。人間は先験的に自由な存在であるという言い方はよくない。「人間は自由な存在である」というのは一つの理念にすぎず、この考え方をいくら強調しても、人間は「自由」な存在たりえない。人間はいまのところ自由な存在でもないし、かつてそうあったこともない。しかし人間精神はつねに自由」たろうとする本質をもっている。この証拠は歴史にある。人間の歴史は、各人が「自由」であるような条件を少しずつ実現していくプロセスであると考えてよい。重要なのは、「人間は自由である」という理念はイメージ(表象)にすぎず、それ自体では人間の自由を実現しないということ。問題なのは各人が自由でありうるための歴史的、社会的条件を取り出し、これを積極的な実現のプロセスへと向けること、それが思想の本質的役割である、とヘーゲルは言います。 ヘーゲルとカントの考えは、一見それほど大きな違いはないかのように思えるかも知れません。人間の自由ということを思想の根本に据える点では、さっき言ったようにヘーゲルはカントの継承者だと言えます。しかし思想としてある決定的な違いがあります。それが「当為」という考え方に対するスタンスです。 カントの人間の倫理や道徳についての考え方を大きく要約すると、人間とは正しく判断する理性という契機と、感情や欲望に押される傾向性という契機のいわばせめぎあいにあるということになります。感情や欲望に負けないで、普遍的な理性を使用すること、これが人間の人間たる所以だということになります。ギリシャ哲学とくに、ソクラテス-プラトン、ローマ期のストア主義などにすでにこういう考え方が強くあります。ヘーゲルはこの考え方を徹底的に批判するのです。 カントのような、人間の本質は自由にあり、したがって人間は自由でなくてはいけないという考え方からすると、倫理というものは、一つの命令、義務になります。これはカント自身はっきり言っているのですが、道徳というものは「自由であれ」すなわち「正しくあれ」という義務であり、命令です。いくら感情や欲望がつよくてもきちんとそれを抑制して、理性による「正しさ」の判定に従って行為すること、それが自由であることであり、人間の価値の内実はそこにあるということになる。 ヘーゲルはこんな言い方をしています。カントのような考え方は、人間存在における「自然性」(自然な感情や欲望として生きている要素)と「社会性」(他者と関係しあって生きているという要素)とを、「和解しがたい絶対的な対立」へと持ち込み、前者が後者を完全に統御し圧迫することでかろうじて人間は人間たりうるという極端な人間観を作り上げた。これは人間思想として決定的に致命的欠陥である、と。それからこうも言います。カントの言う「善」の普遍性は、形式論理としてだけ成立するが、現実的にはまったく使い物にならない理念である。社会の問題について言えば、どのような状態が「正しい」社会なのか、またそのような社会を実現するために、個々のどのような行為が「正しい」行為なのか、人間は状況的に全知ではなく、カントの言うように論理的普遍性としては決して言えない。それを言えると強弁すると必ず「理想理念」どうしが自分の「正しさ」を競って対立する以外になくなる。こういう批判はきわめて妥当なもので、フランス革命と恐怖政治のなりゆきをつぶさに見ていたヘーゲルの歴史的な視線の優位だと言えます。 もう一つあります。さっき少し言いましたが、人間は自由な存在であるという理念だけでは人間は自由たりえない。そのためには現実的条件が必要であって、これを模索し、確定していくことこそ思想の重要な課題であると。人間が自由であるためにはどういう条件が必要かということです。これも大ざっぱに言いますと、近代以前の社会ではどんな人間も何かに属していたと言えます。子どもは親に属し、妻は夫に属し、夫は主人に属し、主人は領主に属し、領主は王に属し、王は教皇に属していた。そういう場面で人間はなかなか自由でありえない。何かに依存して生きているからです。人間の自由とは、いくつかありますが、まず基本的なのは、自分の生き方を自己決定する、仕事や、信仰や、生き方のスタイル、態度、そういう大事な問題について自分で決め自分で生きるということです。しかし常に必ず何かに属し、依存し、あるいは支配されているというところには、人間の自由はない。そういうときに、理念として人間は自由であると考えていても仕方がない。 では、どういう条件によって人間は自由な存在たりうるのか。近代哲学と近代思想は長い時間をかけてこの条件を考えてきたと言えますが、最も大きな点は、まずこれは誰にも分かるように政治システムの変革ということです。社会は自由な個人が対等の権限をもって作っている契約社会であるという考えにもとづく政治システムを作ることです。これは共和制とか民主主義と呼ばれている。しかしこれだけではだめでもう一つ非常に大木なのが経済システムです。一人一人の人間が経済的にも自立しなくては自由はありえない。たとえば、もし自分の作った作物を特定の領主しか買ってくれる者がいなければ、彼は自由な存在たりえない。自分が作ったものを市場にもっていく。そこで不特定多数の人間がそれを買ってくれる。最もシンプルな形で言えば、このことで彼ははじめて自分の力で自分を生かしていると言える。そこではじめて自分の意見や自分の信仰や自分の仕方で生きることが可能となる。 まとめていうと、市場が普遍的であるような経済システムが各人が自由となるためのもう一つの基本条件です。そのためには貨幣経済が充分浸透し、多様な商品流通が一般的となり、基礎的な衣食住の商品だけでなく、多様な消費一般が普遍化されていなくてはならない。要するに、これが自由経済というものの一般条件です。 われわれは自由経済から出てきた資本主義のひどい矛盾というものを知っていますから、自由経済というと比較的悪い側面を考えてしまうところがあります。しかし経済システムとしての自由経済の本質は、各人が自分のために自分で作り出すことが、全体としては社会的や役割を果たすようなシステムということ、言い換えれば、各人の労働と生産を普遍交換を通して社会化し、そのことによって各人の経済的「自立」と「自由」を確保するためのシステムだと言えるのです。ここでは十分言えませんが、人間社会は一つのゲームシステムですが、各人の「自由」を実現するという前提に立つなら、政治システムとしては、共和制と民主主義、経済システムとしては自由競争経済以外に、いまのところこれを確保し保証するシステムは誰も考えたことがないし、いまのところ代替プランはありえません。マルクス主義は各人の「平等」を前提としたプランであって、それは各人の「自由」とは両立しえないものです。マルクス主義者たちは、ちょうど初期の自由主義者たちが資本主義というやっかいな問題に気づかなかったように、自分たちの「平等」プランが「自由」と背立的であることに気づかなかったと言えます。 ともあれ、ヘーゲルのカント批判の要点は、カントの考えは「理想主義」を十分克服していないということです。人間はすべて「自由」な存在であるし、そうでなくてはならないという考えは「美しい理念」です。しかし「美しい理念」はむしろ実現の条件としては脆弱なものです。「人間は自由である」と考える以上に、「人間が自由であるためには何が必要か」と考えるのでなくてはならない。これは「利己主義はいけない」と考えるだけでは思想として弱く、各人が「利己主義」を克服できる条件は何か、という思考が必要であるのと同じです。「戦争はいけない」とか「差別は悪である」という考えも同じです。それは「戦争を少なくしてゆける現実条件はどのようなものか」とか「差別の本質は何であり、それを少なくていける条件は何か」と考える思考に比べると虚弱体質の思考だと言わざるをえないのです。 カントの思想は近代思想としては、見てきたように極めて大きな異議をもっています。しかしヘーゲル的な観点からは、まだ「理想主義」としての脆弱さを克服していない。それはまさしく「利己主義はよくない」、「利他主義こそ正しい」「善人たれ」という命令を基本とするからです。カントの「自由」とは「道徳的」意志のことであり、この「道徳」とは善人たれという命令あるいは要請なのです。 ヘーゲルはこれを批判するのに、「道徳」という言葉を捨ててかわりに「良心」とい言葉をおきます。良心は、Gewissenで、定番の金子武蔵訳では「全的に知ること」独自の訳になっていますが、これはドイツ語でふつうに言う「良心」なので、「良心」というのでいいと思います。 ヘーゲルの『精神現象学』の白眉は、「自分自身を確信している精神──良心」における「良心」論ですが、これはカントの「道徳」に対置されたヘーゲルの独自の倫理学です。その後の近代哲学者たちもいろいろ倫理の本質を考えていますが、ヘーゲルのそれは容易に乗り越えられるものではありません。ここで十分説明するのはむずかしいのですが、重要なポイントだけ言ってみます。 たとえば、フランスの啓蒙主義やその後出てきた実証主義的実在論は、宗教や信仰を嗤います。それは事実をみない蒙昧な精神であるというわけです。しかしヘーゲルはこう言います。なるほど近代の啓蒙主義や実証主義の精神は、必ず信仰的精神に勝利する必然をもっている。にもかかわらず、彼らは信仰の本質というものを理解してはいない。宗教や信仰の本質は、「絶対本質」(ほんとう)を求めようとする人間のやみがたい欲求にある。それは大昔から存在してきたし、科学的合理主義の時代になったからと言ってなくなるものではない。それは人間の生の欲望の本質的な「対象」であるから。実証主義は自分たちは世界を正しく認識し、その事実をありのままにつかんでいると考えている。しかしたとえば実在論はべつに唯心論に対してとくに思想上の優位をもっていない。ただ超越的存在者が存在するという考えは没落する必然性をもっているというだけの話なのである。 宗教的思考や信仰的精神の本質は、「ほんとう」を希求するという点である意味では実証主義の欠いている側面を豊かにもっている。しかし信仰的精神の最大の弱点は、そのような人間精神の欲望の対象を自分の外部に絶対的に超越的に存在するものと考えている点である。それは、精神の本質であるものを実体的なものとして表象(イメージ)し、これを外的な実在者と考える。それは絶対的で排他的な信仰の世界を形づくり、そのために普遍性を獲得できない。 近代になって「道徳」という観念がうち立てられた(カントによって)。この功績はきわめて大きい。「道徳」とは何か。「ほんとう」の本質は外在的な実在者としてあるのではなく、じつはめれは、自己自身の内部に精神のあり方として存在するのだということの人間的な自覚である。「道徳」は内的な義務であり、どんな外的な超越者からやってくるのでもない。カントの「道徳」の観念は、精神が自らの本質を自己自身のうちに取り戻したという点で非常に大きい。 だが、「道徳」的精神においても、じつはまだ「ほんとう」の概念は純分にその本質を展開していない。「道徳」はたしかに自己の本質を自己自身の内的なものとして取り戻しているが、その内実はまだ「表象」(イメージ)として留保されている。たとえば「最高善」というイメージ、「神の存在要請」というイメージ、「魂の不死」といったイメージ。 まさしくその通りで、カントの「最高善」というのは、人間の道徳性と幸福が完全な調和に達しているような世界のイメージです。それは理念的な理想社会です。 ヘーゲルはこれに対して、人間の精神の本質は「良心」においてはじめてその内実を十分に展開する、といいます。ヘーゲルの「良心」というのはどういう概念か。二つくらいポイントがあります。まず「良心」は自分自身をよきものに合致させようとする精神の本性ですが、これはいろんなあり方をとる。自己修練とか、自分自身で自分を良き存在と思いこもうとすることや、信仰や、美しい魂やその他いろいろです。ヘーゲルの「良心」は、そういうさまざまなよき存在であろうとする試みの最後の地点と考えられている。まずそれは「義務」や「要請」であってはいけない。カントの道徳は、何が「善」であるか理性によって判断され、つぎに道徳的自由がこれを目指すべきであるという「要請」と「義務」をもたらします。ヘーゲルではこれでは「ほんとう」の内的本質が死んでしまいます。「よいこと」はあくまで命令としてではなく、自己の内部で、自分がそれをなすべき理由と動機を内的に洞察した上でめざされるのでなければ意味がない。簡単に言えば、神のために、国家のために、道徳のために、他者のためにではなくて、自分の生きるということを全うするために、自分の内側から自分自身の納得として出てくるものでなくてはならない。それではじめて「良心」は「ほんとう」の本質にとどくものとなる。ある理想理念を立て、そこに善の規準をおくと、なすべきことは、この規準からの演繹となる。そんなことはありえない。何か良いかを絶対的に決める能力すら人間は持っていない。人間は状況について誰も全知ではありえないから。人間の「よい」、「善」は、そのつどそのつどの判断のなかで、自分のすべての力を挙げて考えたすえ、ひょっとしたら間違っているという可能性も含んで、しかしそれでも自分がその行為を選択することについての必然性の自己洞察とセットになっているのでなければならない。そこまで行ってはじめて良心というものの最も深い本質があらわになる。そこまで至らないかぎりそれは、まだ「善」は、美しい表象としてイメージされているにすぎない。それはまだ「概念」にとどかず、「表象」に留まっている良心なのである。そうヘーゲルは言います。 ヘーゲルの「良心」の概念の決定的な重要性は、カントの「道徳」概念が持っている乗り越えがたい難問を克服していることです。一つは、何が「善」であるかを絶対的な真理とせず、万人に「開かれた」問題として置くことで、伝統的な「真理」概念を変更している点です。もう一つは、ヘーゲルでは、「善」を徹底的に人間の内発的な自由の本質的対象と位置づけることで、「善」は特定の内実を持つものではなくなり、ただ各人がその「自由」を豊かに育て展開していくための相互的な「努力」の総称となります。ここから「善」からはじめて超越項的な性格が抜き取られることになります。「善」は耐えず検証されつつ確かめられていく、人びとにとっての努力の対象となるわけです。 ヘーゲルの「良心」概念は豊かなもので、到底ここですべて展開し切れませんが、対照として、現代哲学の代表であるハイデガーの「良心」概念を取り上げてみます。ハイデガーも『存在と時間』で「良心」を人間存在の本質的な概念として提示しています。これもdas Gewissenです。ハイデガーは現代哲学の最高峰と言われている。まさしくその通りでとくに近代の終わりに現われた実存哲学の方法的基礎を据えた人です。人間の実存の本質について極めてすぐれた考え方を示しています。しかし同時に、非常にいかがわしい面もあって、私の考えでは、後期ハイデガーはカントがこれは辞めようと言った「形而上学」的思考に完全に入り込んでいる。それをヨーロッパ哲学は「形而上学」の歴史だったと批判しているのだから、きわめてやっかいです。ハイデガーを辿ってみるとわかるんですが、ハイデガーの中にはいわば神学的精神と現象学的精神の二つが同居しているという感覚が強くしてきます。人間の実存の本質を取り出す仕方は、まさしくこれぞ現象学的方法のお手本というか、芸術的な完成を思わせるような高度な達成になっている。ところが『存在と時間』のあと、このテーマをさらに展開する「後期」ハイデガーになると、いつの間にか神学的精神が入り込んできて、これがまた独自のスタイルと影響力をもつものになっている。そういうきわめて不思議な、問題的と言う意味でもまさしく二十世紀最大の哲学者と言っていい哲学者です。 ともあれ、ハイデガーの「良心」の考え方は非常にユニークなものです。ここでも要点だけ言ってみます。ハイデガーでは、「良心」とは何かという場合、道徳とは何かとか、倫理とは何かといった問いが正面切っては出てこない。それは人間の実存における「本来的な存在可能性」という概念のなかで展開されます。「本来的な存在可能性」とはどういうことかと言いますと、それは「ほんとうの生き方」ということはありうるか、という問いです。「ほんとうの生き方」などと言うと今では眉をしかめる人もいるかも知れないけれど、それはハイデガーにはあまり効き目がありません。彼もそれを素朴な形で信じているわけではないからです。 われわれは、もはや生き方の「ほんとう」なんてものをなかなか信じられなくなっている。しかしそのことは人間における生の「ほんとう」(本来性)といった概念を無意味化できるだろうか。いやそうではない、と彼は言います。生の「ほんとう」という観念は、じつは人間の実存にとって固有で本質的で必然性なものである。そのことはじつは「良心」という現象を考察してみると徐々に明らかになってくる。そうハイデガーは言います。 われわれがふつう「良心」と呼んでいるものは何か。これは自分の中で本質観取してみれば比較的簡単に出てくることですが、それはとのときどき、ある行為や判断、選択などについて自分で自分をチェックする、そういう心の動きですね。つまり何かをしようとして、ふと、待てよと思って、ちょっとこれでいいのかなと思う。それが良心ですね。自分の行為、選択を「とがめたり」「やましくさせたり」するわけです。それがふつうの良心現象ですが、こういう場合、われわれのなかで何が起こっているのか、またその意味は何なのか、それを現象学的に本質直観して取り出すわけです。ハイデガーは存在論的分析とか学的解釈とか言っていますが、基本は「良心」現象の「本質」を取り出すということです。 彼はこんな言い方をしている。そういう場合、「何かが呼んでいる」のだと言うのです。「良心」はいわば「呼び声」である。この呼び声は、自分自身を省みるように促すような呼びかけである。それはある何かをほのめかしている。大きな声ではない。「これはいけない」とか「これよりこれをしなさい」とか言うわけではない。無言の内に、あることを了解するようにほのめかしている。では、何をほのめかしているのかというと、まず「おのれ自身であれ」ということを、呼びかける。いわば、「君は、そういうことをしようとしているけども、それは本当かな。本当にそれはあなた自身なのかな」という具合です。その感じが良心の一つの本質なのだと。それだけではない。「あなたはあなた自身であるか」という無言の声は、じつはある独自の不気味さや不安の気分として自分自身を呼んでいる。この不気味さや不安の感じをたどると、それはまたある重要なことを了解させるようにほのめかしている。そう言います。 そのある重要なこととは、ハイデガーの言葉では、人間存在自体が抱えているある「責めあり」である。ふつう良心の声は、それでいいのか、それで君はよいのか、と聞く声のように思えるかもしれない。しかしそれは良心という現象のある一側面にすぎない。われわれはなぜある場合、それでいいのかな?、それでほんとうかな、といった自分自身への配慮の声を聞くのか。それはわれわれが自分自身のうちにある根源的な「責めあり」を抱えているからである。このいわば存在の「非性」が、それでいいかな? それでほんとうかな? といった自己配慮の源泉であると。ハイデガーはさらに進みます。この人間の根源的な「非性」は、三つあります。「現事実性(被投性)」における非性、「実存(企投)」における非性、そして「頽落」という非性です。これを解説すると、一つ目は、人間は自分の存在について自分自身で根拠を持っているのではない、たまたま生のなかにいわば否応なく投げ入れられているという非性、実存自体の根拠のなさ、という非性である。次の「企投における非性」。企投というのは可能性のことです。人間の実存はつねに何かを目がけて生きているということがその内実です。ハイデガーでは、人間はそのようなさまざまな可能性を持って生きている。しかし誰にとってもその可能性は、実際は一つしか選び取ることができない。企投は、可能性によって支えられているが、実際の行為とは、たった一つの存在可能性に限定されることでもある。これが「企投における非性」です。もう一つが「頽落という非性」で、これが最も問題的な概念です。「頽落」はハイデガーでは、人間が自分の実存の単独性、独自性を忘却して、世事のなかに自分の本来を隠蔽し、世事の気遣いのなかに自分を紛れ込ませて生きていることです。キルケゴールの「騙り取り」の概念とほぼ重なります。 ふつう良心は、そのときどきの事態のなかで、その問題についてとがめたり、やましく感じさせたり、という形でやってくると感じられる。しかしじつはこの現象の底には、より深い良心の本質があって、それはこのような人間存在の本質的な「非性」を示唆し、ほのめかすとうことにある。そしてそれは、人間の存在が、本質的に自己自身への気遣い、自分の存在仕方についての本来的な自己配慮としてあるからだ、そうハイデガーは言うのです。 ハイデガーの言うところをくわしくみると、かなり循環論法的になっていることが分かりますが、それでもハイデガーの「良心」論にはある独自の動機があって強く訴えるものをもっている。彼の「良心」は、まさしく抽象的な存在論として進行しますが、前提として、人間の「実存」の本質観取ということから始まって(これは情状性、了解、語りという形で取り出されますが)、そこから一貫して人間の内的実存の論理として展開されているところに非常に強みがあり、大きな魅力になっています。この議論はもっと進むのですが、ここでは重要な点だけ結論的に言います。 カントの「道徳」や「善」は、見てきたように人間の「自由」ということを根拠として導かれている。ヘーゲルはカントの「自由」概念をさらに推し進めています。「自由」の本質は、固定化された「理想の表象」への自由意志ということにではなく、何か善であるかを徹底的に自己納得し、その不十全性をも深く洞察した上であくまで自分の生の内的、自発的行為として選ぶところにその本質があるのです。ハイデガーはまた彼独自の角度から「良心」や「自由」について考えています。その全体像について私としては異論もあるけれど、彼の良心論や自由論(実存論)が現代哲学の非常に高い峰であることは疑えません。なにより、自由を「ほんとう」への希求に根ざした本質的な自己配慮という像で描いた功績は、代え難いものがあると思います。 さて、お話すべきことはだいたいこれで終わりです。ここで取り上げた三人の哲学者の「倫理学」は、ヨーロッパ哲学の人間論の象徴的な高い峰です。ニーチェとか、ドストエフスキーとか、他にも取り上げたい人はいるけれど、まずここにヨーロッパ近代の人間思想の最も優れた例があると考えていいと思います。ここからいろんなものが取り出せるわけですが、つまり、その射程はきわめて深いと思いますが、一つ大きなポイントを言うと、彼らは、まさしく近代の思想家として、人間の「善」や「倫理」の本質を、超越項から切り離して、人間の内的な「自由」の本質それ自身のうちに根拠づけようとしたということです。これは一面、未曾有の画期性をもっていますが、一面きわめて危険なことでもあります。まさしく人間の「自由」は自己中心的な本質をもっているからです。古代の絶対帝国や、中世の封建社会システムは、考えてみればじつに大きな合理性をもっていた。というのはそれは、いったん解放するときわめて統御するのが難しい人間の「自由」、各人の「自由」というものを、いかに不満を出ないように制御しておくかということについてのある意味で卓越したシステムだったと言えるからです。大きなルールを誰が決めるのかについて、誰か特別の人を指定できないという近代社会のシステムは、きわめて重大な危険と隣り合わせです。その危険性は、実際に近代になって噴出してきたのです。 自由と倫理の関係も同じです。近代の人間思想は、ちょうど社会思想が「ルール決定権限」を不特定多数の個々の人間に委ねたとまったく同じ原理によって、「倫理」や「善」を人間の「自由」という本性に委ねてしまったと言えます。人間の「自由」の本性は言うまでもなく両義的であって、それはあらゆる超越項が仮構する、「善」と調和に必然的に向かう方向性の保証をもっていない。にもかかわらず、近代哲学者たちは、あらゆる超越項を排除するような仕方で人間思想を掘り進めていたのです。 この問題についてはニーチェの考え方を参照しないわけにはいきません。彼は、十九世紀の終わりに、ヨーロッパのニヒリズムの必然性を言いました。そして人びとはこのニヒリズムを克服するために、さまざまな超越項を復活させようとするだろうが、それらはすべて反動思想であり、結局必ず相対主義とニヒリズムに敗北する。このニヒリズムを克服する唯一の原理はニヒリズムを徹底するという方向しかない。そうニーチェは言いました。私はこれを方法的ニヒリズムと呼びます。 ニヒリズムはなぜ必然的となるか、それはヨーロッパ近代の歴史が煎じ詰めれば人間の「自由」を徐々に解放していく歴史であり、それはつまり、それまで人間の倫理の根拠となっていたさまざまな超越項が崩壊していく歴史でもあったからです。倫理的救済の根拠として現われたのは、神、信仰、道徳、精神的ロマン主義などだけでなく、新しい政治思想、民族主義、人種主義、共同体主義、といった思想もそれに加わります。 現代社会は、いまやニーチェのいうニヒリズムは普遍化しかつそれと意識されない拡散化した状態であると言えます。これを立て直すことは、社会の構想を立て直すことと同様、重要な思想的課題です。現代哲学は、この問題を、いまだいま挙げた哲学者たちの先へと十分に展開しているとは言えません。それはまだその地点にとどまっています。彼らが提示した倫理の問題と課題を、現代社会の状況のなかでもう一度立て直し、先へ推し進める必要がますます大きくなっていると思えます。これで一応終わらせていただきます。 (了) |