「僕の哲学? ノート」  加藤典洋


第一部   竹田青嗣『現象学入門』(NHKブックス、1989)
第二部  茂木健一郎『心を生みだす脳のシステム――『私』というミステリー』(NHKブックス、2001)



第一部 
 僕の『現象学入門』ノート(1)

と題して少し、加藤の読書メモ、つけておきます。

 以下、表題書の目次に対応。

入門序説

  用語:現象学・実存哲学・構造主義・ポスト構造主義

  人名:フッサール、サルトル、レヴィ・ストロース、メルロー・ポンティ、ジャック・デリダ

何が現象学にとってやっかいなことか。

 現象学は、近代哲学の「真理」が不可能だということをもっとも説得力ある形で明らかにした、いわばポストモダン哲学の基礎とみなされるべき哲学だった。そうだったのだが、これ(への誤解)をもとに提示されたジャン・ポール・サルトルの「実存哲学」が、マルクス主義以来の「真理」を生き延びさせようという機能をもちながら戦後、ヨーロッパで甚大な影響を及ぼしたこともあり、サルトルが批判される過程で、現象学まで、古いものとして、攻撃対象になるという不幸があった。サルトルの実存主義――これも、それなりに面白いものだが――に対抗して、構造主義、ポスト構造主義が生まれてくる際に、これらの新思想の担い手たちに、現象学は、近代的真理の擁護の哲学だと受け取られてしまった。構造主義のレヴィ・ストロースは、実存主義のサルトルと、対立、抗争することで、構造主義の覇権を確立した。一方で、現象学の果実を守ろうとしたメルロー・ポンティは、やはりサルトルと対立したけれども、その途上で、死んでしまった。ポスト構造主義の立場から、ジャック・デリダが、「真理」の最難関の強敵とみなしたフッサールを批判することから、その哲学を出発させたことも、その位置関係に関する誤解を深めた。そのため、フランス型の現象学の展開は、途中で、終わったまま、というところがある。フランス経由の現象学理解は、だいぶ、いま、危ういのです。

たまたま、日本で、変な男が、現象学というのは、こう受け取ればよいのだ、とオリジナルで、考えを提示した。それに沿って読んでみると、なるほど、と思う。しかし、これはまだ、英語でも、フランス語でも読めない。それが現時点の位置です。

そのため、現象学は、ほんとうはそうではないのに、「真理」を保証する旧哲学の権化のように、ポスト構造主義にみなされた。もともとが、篤実な学者からなる世の現象学者も、それを十分にはねのけられないまま、中途半端な理解で、現象学を研究することになり、現在にいたる。

その後、その誤った理解に立って出発したポスト構造主義は、すべてを疑うことで、――「真理」ならぬ「真=信」なるものをすべて排除することで――袋小路に入ってしまう。差異の戯れ、ということを言い続け、何も信じることがなくなってしまったら、今度は、正義、ということを言い出した。ともに、ちょっと極端なんだね。それを打開するのに、いま、現象学に、もう一度、立ち戻って考えることが、必要になっている。

第一章 現象学の基本問題

志向性

 志向性、フッサール、ブレンターノ

 意識とは、なにものかについての意識だ。と言われる。これを、これまでは、意識というのは何かものを入れた容れ物だ、というように理解してきたのだが、それをブレンターノが、ある対象にむかうという性質を本質とするのが意識の動きだ、と考えた方がよい、と言い換えた。言い換えは、大事なこと。そして、その言い換えで取り出した意識の意識たるゆえん、その本質を、「志向性」と呼んだのです。

主観・客観問題

 ユルスキュル、ソシュール、エポケー(一時的判断停止)、現象学的還元、現象学

 哲学が、これまでそれをめぐって変遷してきた基本問題は、主観・客観問題、としてまとめてみることができる。

主観・客観問題とは何か。

 我々はこう考える。

 ここに石がある(対象としての石)。だから、石が私に見える(認識としての石)。

 これは、普通の感じ方から言ってそうなる。これを「自然的態度」といいます。普通の態度、という意味。

 しかし、これで問題がないかというと、そうではない。そこに石があるように見えるが、それだけでは、そこに本当に石があるかどうかは、わからないから。石のように見えたものが、実はがまがえるだった、ということもあれば、くるみだった、ということもある。

 でも、こう言われても、わざわざ、問いを作ってるよなあ、と思うだろう。しかし、哲学は、普通の見方が無意識のうちに、土台にしているものまで遡及して、そこから考え直し、普通の見方で今ぶつかっている問題点を克服、解明しよう、という考え方をする。だから、ああ、そうか、哲学は、こう考えるのか、と受け取ってください。

 こうも考えてもよい。

石ならよいが、社会問題だったりすると、ある客観的な社会問題があるので、われわれにそれが見えるというよりは、われわれの見方に応じて、その社会問題が、それぞれの仕方で見えてくる、ということにもなる。そうすると、もっとわかりやすい、という人もいるはず。

 さて、以前から哲学的な問題となっていたのは、石があるからわれわれに石が見えるのか、われわれに石が見えるから、石が存在するのか、という問いである(客観が先か、主観が先か)。一見すると、当然、客観が先のように見えるが、これがそう簡単でなく、大問題になりうることは、石の代わりに、神、をおいてみるとわかる。以前から、人神論、神人論、というような論争もロシアなどではあった。

 また、最近の生物学(ユルスキュル『生物から見た世界』など)や、20世紀の言語学(ソシュールなど)は、モノがあって、それに言葉がラベルのように付くのではなく、言葉が、モノの秩序を作っていることを示している(ソシュール言語学)。つまりゴキブリの視覚も、伊藤園の「おーい、お茶」のペットボトルの存在を認めるだろうが、それがペットボトルだとはわからないわけだ。また、日本のことを余り知らない外国人なら、そこに飲料水のペットボトルがあることを認めるが、それが伊藤園の「おーい、お茶」だとはわからない。

 では、石が私に見えるから、見えているモノは石だとなるのか。普通で言うと、どうもそうは感じられないよね。また、そうだとしたら、その石が、自分が存在しなくとも、そこにあり続けるだろうという感じ、――これを客観性の感じ、と呼ぼう――が、なぜ起こるのか、説明できない。やはり石があるから、あるいは、石のモトがあるから、それをわれわれは見るのではないか。

 というわけで、どちらにも理がある、感じがする。

 であるから、この基本問題を解くには、一度、「普通の感じ方=自然的態度」を凍結して、カッコに入れて、仮に、「私に石が見えるから、石が存在する」というように考えてみることにする、それ以外にない。と考えよう。すると、すぐに、では、なぜ、主観的な存在なのに、自分が死んだ後も、この石は自分の主観に関わりなく、客観的に存在し続けるだろうという感じが生じるのか、という問いが生まれる。その問いに答えることができれば、この主観・客観問題は、解けたことになる。
 とフッサールは考えた。

 これが、現象学の基本問題である。

上の、自然的態度をカッコに入れることを、エポケーする(一時的に判断停止する)と言う。自然的態度をカッコに入れて、「石があるからそれが見える」を逆にし、「石が見えるから、その石は客観的にあると感じられる」と考えることにしよう、そして、「では、なぜ石が見える(=石が現象として現れている)だけなのに、その石が客観的に存在する、という確信が、われわれに生じるのか」と逆転して考えてみよう、そうフッサールは考えた。この逆転を、「現象学的に考えられるようにできごとを還元する」こと、つまり、現象学的還元と言う。現象学とは、物事がある、というあり方を、物事が現象として現れている、そして、人に知覚されている、というように現象の知覚として、考える、というような逆転思考をもちこむことによって、哲学の根本問題に答えようという考え方を指している。それでphenomenology、現象学。

 こうわかったうえで、次のフッサールの言葉を読んでみる。

 「認識とは、一個の心的体験である。したがって、主観の認識である。これに認識される客観が対立している。では、どのようにしてこの主観は客観と一致する(見えている石と存在している石の一致)と確かめられるのか。認識はどのようにして主観の枠を超えて客観に的中するのだろうか」。

 そこに客観的に石が存在する、を、そこに石が客観的に存在するという確信が成立している、に置き換えること。それが現象学的な還元の基本形である。

コンピュータ問題

 マトリックス、現象学、構造主義、ポスト構造主義、実存主義、『嘔吐』、マロニエの根っこ

 映画『マトリックス』での問いはこうである。この世界は存在しているように見える。しかし、実はすべてがヴァーチャル・リアリティにすぎない。普通に生きている限り、誰にもそれを確かめることはできない。実はこの上にメタ・レベルがあって、この世界を操作しているのかも知れない。

 しかし、誰にもそのメタ・レベルは窺えない。たとえ、その上にメタ・レベルが確認されたとしても、さらにその上にメタ・レベルがあるのではないか、ということを、誰にも否定できないから、この構造には限りがない。誰にもこれを確かめられない。

 この問題は、どうすれば解けるのか。主観と客観の立場から考える限り、この問題は解けない。われわれはマトリックスの世界に甘んじるしかない。どこにも、信じるに足るモノはない。真実は、ない。いつでも、われわれは、操作されていることに、後で気づかされうる。では、どのように考えればよいか。

 これが、構造主義、ポスト構造主義と進んできたここ40年間の新思想の展開が、その果てにぶつかった問題である。

 人間は、一定のコードをプログラムされたコンピュータだと、理論上、考えてみる。しかし、そうだとすると、そのプログラムが外界に「正しく」対応しているかどうかは、コンピュータ自身には検証できないことがわかる。どんな場合も、コンピュータはコードにしたがってだけ「考える」から、そのコード自体の「正しさ」をけっして判定できないというのだ。(とこの本には出てくる)

 ところが、現象学は、ここを、次のように考える。人間は、プログラムにしたがって、自分の内界だけでなく外界までも作ってきた。だから、内界と外界がどう「一致」するか、と問うべきではない。むしろ、なぜ、内界から――内界の材料だけで――「外界」を作ることができたか。どのように内界の材料だけで、「外界」が作られるのか、そこを解明してみよう、とそのように。

人間が、自分の意識によって外部を作り出し、また、その外部によって、内部を編成されるという相互関係のうちに、存在していることは、たとえば、構造主義によっても、サポートされている。それは、人間の外部(文化、言語、社会)が、一個の構造として、存在していることを明らかにした学問系統であり、その構造が、人間の意識にまで及んでいることを、ミシェル・フーコーらのポスト構造主義は、明らかにした。

その人間の内界から外界への「力」の行使と、外界から人間の内界への「構造」の浸透の相関関係のうちに、人間と社会をとらえようというのが、ポスト構造主義である。(浅田彰の入門書は『構造と力』という題だった)。

ここで、『マトリックス』に戻れば、エポケーをほどこし、現象学的還元を行った結果、現象学は、なぜ、われわれが、自然的態度(普通の感じ方)を基礎に生きるようになったのか、を明らかにする。たとえば、中世の時代、われわれは、神の遍在する世界に生きていた。しかし、いまは、自然科学に基礎づけられた感受性をもとに、近代的な自然的態度で、生きている。それはだまされていることだ、目覚めよ、ネオ。というのではなくて、そういう感じで生きているのは、それなりの理由があってのことだ、ということを教える。それが、自然的態度がどのような基礎づけの上に成立しているかを、あきらかにする、ということの意味。だから、われわれは、この世界があるから、これを感じ、そこに生きている。そう感じつつ、生きていてよい。この世界をヴァーチャルではないかと疑おうと思えば、そうかな? と思うが、ボールが飛んでくれば、オッと、身をかわす(笑)。風邪の特効薬――あのタミフルです――でも飲んで、意識中枢を麻痺させない限り、誰も、10階のベランダから、外に歩み出ようとはしない。我々は、この世界を実在のものであると信じている、確信している。『マトリックス』にもかかわらず、それに説得される人はいない。そして現象学は、それでいいのだ、と言うのである。

だから、現象学は、時計がどんなふうに動いているかを調べるために、これを解体し、ねじの一つ一つまでばらし、なぜ、時計が動くか、を調べ尽くした後、もう一度、組み立て、元通りの時計にして、返してよこす時計屋での作業と同じである。サルトルの実存主義は、君らの見ている世界は、実は、断片とモノの解体現場なのだ、と言う(『嘔吐』におけるマロニエの根っこが、主人公に嘔吐を感じさせるのはそのため)。フーコーのポスト構造主義は、通俗化する過程で、人はそう感じるのではなく、感じさせられているのだ、そう考えるのではなくで、そう考えさせられているのだ、という「感じ方」を広めた。皆さんは、そういう世の中に、80年代に、生まれてきた。しかし、フッサールの現象学は、それを元通りのふつうの時計にして返してよこす、わけです。

第二章 現象学的「還元」について

デカルト的懐疑

 方法的懐疑、我思う故に我あり、確信のタネ=内在、タネを足場に全体像を浮かばせる働き=超越

 では、『マトリックス』のような世界で、みんながここは、仮の世界に過ぎない、と言いあっている。そういう世界にあなたが投げ込まれたとして、そこでどう考えてゆけばよいか考えてみよう。

 映画『ブレードランナー』の主人公名は、デッカードだが、これは、デカルトの英語名らしい。デッカードの先祖はデカルトだから。デカルトは中世末期、みんながこの世界は本当じゃないかも、などと言い合っているスコラ哲学の中で、こう考えてみようとした。そうか、では、すべて疑わしいもの、疑おうと思えば疑えるものを、すべて疑うことにしよう。そして、最後まで行ってみよう。神? 疑う。世界? 疑う。コップ? 疑う。しかし、疑っているオレだけは、疑えないな。そのオレの存在を疑ったら、疑い自体が、足場をなくしてしまうからな。これが、「我思う、ゆえに我あり」で、一回、わざと、すべてを疑ってみよう、というこのあり方に、フッサールも学んだ。そして、これを「デカルト的懐疑」と名付けた。上記、自然的態度を一時的にカッコに入れてみること(方法的に〔わざと〕自然的態度を疑ってみること=方法的懐疑)による現象学的還元が、これである。

 デカルトは、この「私」の核心=コギト(自己)からはじめた。

 フッサールは、最後に残る「確信」のモト、から考えていこうとした。

 この「確信」のモト――どうしても疑えない、というあり方――のことを、内在と言う。また、そのモトをもとに、それを一部とする全体の像を「確信」する働きのことを、超越と言う。


僕の『現象学入門』ノート(2)

 少しさかのぼって、ここでは「主観−客観問題」について書いてみます。

 「主観−客観」問題とは何か。

 僕の知る限り、デカルト以来の哲学の流れを、「主観客観問題」として一括りにして説明しようとしたのは、竹田がはじめてではないかと思う。部分的には、このことは言われているが、この軸で見ていくときに、現象学の意義がはじめてわかり、かつ、デカルトから現代思想までの流れも、つかめる、という把握は、竹田のものだろう。

 しかしここでは、加藤の簡単な理解を記します。

 デカルトは何をしたか。

 主観が存在することを証明した。その上で、主観が客観と一致するのはなぜか、というように問いをたてた。これは、この時代のスコラ哲学のぐちゃぐちゃした懐疑の形を全部引き受け、極限まで推し進め、すると、問題は、こういう形に要約できるよ――因数分解できるよ――と言ったことである。みんなわかんないでしょ、全部疑えるでしょ、じゃ最後まで行くと、「疑う私」=コギト(自我)=主観が残る。残りは全部、客観だ。では、主観と客観の関係は? ということ。

 で、主観(私)を作りたもうた神が、事物(客観)をも作りたもうた造物主なのだから、主観と客観は、神つながりとなる、とデカルトは言った。これって、間違いじゃない、とこれを受け取るのは貧しい。問いの形をこのように一新したこと、そこを見てください。そこに、デカルトの革新の意味がある。このように、過去の偉い人の偉さを受け取る、受け取り方を学んでください。)

カントは何をしたか。

 その後、神が没落し、デカルトの神つながりでの主客一致説は信じられなくなった。主観は、客観からやってくるもの=現れ=現象しか認識できない。それがほんとうに、客観そのものであるか、わからず。となった。ふたたび、懐疑の時代がくる。そこで、カントは、たしかに、「本質」はわからないかもしれないが、「現象」は、わかる。人間の認識は、物自体(=客観)の本質は認識できないかもしれないが、その現れ(現象)は、認識できる、と限定してみると、何もかもがわからないのではなく、わかる部分とわからない部分とがある、と整理できるとした。これも、だいぶ、すぐれているね。頭がいい。頭がいいというのは、こういうことなんだね。

 灰色を見て、これを黒と白にわけることができる。そうすれば、灰色問題は解決できるとしたわけです。

 その範囲内では、人間の主観による推論は、妥当である、として、その妥当性の範囲を再設定し、その根拠を再樹立した。『純粋理性批判』などの著作は、宇宙の果てはどこか、という問いは、回答不可能である(ここ、と言えれば、その向こうは何? という問いが必然的に現れる)というように、理性の限界を定めないと、理性=認識は存在しえない、ということを確定している。

 その結果、認識不可能な客観物の本質が、カントでは、物自体、と呼ばれている。人は、それを獲得できない。しかし、ワンピース欠けたホールのケーキを見ると、そこに円を思い描くように、人は不完全な物を見て、完全を「思い描く」能力、本性をもっている。自分は全知全能ではないが、そのことを知ることは、全知全能がどこかにあり得ること、そこに向かって、顔を上げること、それを待ち望むことの足場にはなる、と考えた。それが、カントの「自由」と「道徳」の領域。カントは、認識の問題の中に、「思い描き」「そこに進もうとする」領域、人間の自由と、道徳、という問題を引き込んだ、ことになる。

ヘーゲルは何をしたか。

 認識はつねに不十分だが、一人によって支えられるのではなく、他者との間で、その認識を試しあう、という契機をもっている。Aに対して非Aを唱え、その争闘のなかから、両者の認識を取り込んだBを作り出す、というダイナミズムがそこから生まれる。そのことを考えると、人間は不完全だが、その認識を試しあうことで、徐々に「完全」に近づいていくことができる。とヘーゲルは考えた。カントにあって、静的だった、認識のあり方が、だんだん、深まりうるもの、変わりうるもの、ダイナミズムをもって、だんだん「強くなっていく」キャラのような性格をもたされるようになる。ヘーゲルは、人間は自由ではないが、自由であろうとすることができる。自由の本質とは、自由だということではなく、不自由であろうと、自由であろうとすること、だとした。自由の本質とは、自由であろうとすることだ、というのだ。すばらしい。

でも、そうすると、正反合を繰り返して、究極点に達するという図式がそこには埋め込まれている。最後にゴールがある考え方におけるその終点のことを、ティロスというが、ヘーゲルの思想には、ティロスがある、だからダメだ、というようなことが言われるのはこのことをさしている。しかし、ここでも、ヘーゲルがやったことは、認識を他者との間のダイナミックな運動ととらえることにした点であることに注目すれば、われわれは、ヘーゲルが何をしたのか、しっかりと受け取ることができる。どこがすばらしいか、を見ないで、ここがおかしい、ということで批判だけするのは、貧しい。評価があれば、はじめて、では、この不足をどう自分がおぎなうか、という観点が出てくる。

 ニーチェは何をしたか。

 ヘーゲルは、主観と客観の図式で考えていくと、そのずれは、どこまでも残るが、そのずれをただす形で運動していくと、最後に主観と客観が一致する点まで行くことができる、と考えた。その究極のゴールが、絶対知とか、絶対精神と呼ばれる物で、そこまでたどり着いたら歴史は終わるだろう、と予言した。フランシス・フクヤマがソ連崩壊後に出した『歴史の終わりと最後の人間』という著作は、それを受けている。しかし、最後に絶対知に行く、という点で、思想の構造が、やはり神学的というか、ゴールを持った思想になっている。これは違うのではないか。この構成自体の中にまだ神が生きているが、神は徹底的に死んだのではないか。そう考えたニーチェは、この主観・客観図式にはじめて、疑問を突きつけた。客観なんてものは、ないよ、と言ったのだ。

 あるのは、強い主観と弱い主観だけで、強い主観のことを、人は客観と受け取っているにすぎない、と彼は考えた。地球はある、客観はある、というのも、われわれはそう思っているが、よおく考えてみると、根拠は弱い、ということが、ソシュールの言語学や、マルクスの経済学や、フロイトの心理学などが現れてくると、だんだんわかってくる。そして、客観的に存在するとわれわれが思っているものも、ある文化の枠内で、そう思わせられているということで、すべては、主観から、考えていった方がよい、という考え方が、そこから出てくる。

 この考え方で、だいたい、デカルト以来の、主観・客観問題、つまり、主観と客観の一致をどう証明するか、という問題系は、終わりを告げる。それに終止符を打ったのがニーチェの行ったことである。

しかし、そこから、別の問題が出てくる。そうだとしたら、なぜ、人々の間に、「共通認識」とか、「納得」などということが生じるのか、どこかに「客観的なもの」がある、というようにわれわれが、信じるのは、なぜなのだろう。それはわれわれがだまされているのだというなら、なぜ、われわれは、だまされても、それに気づかないのか。つまり、それを信じているのか。そこには、どのような根拠があるのか。つまり、問いは、主観しか根拠とするものがないとしたら、なぜ、主観から、客観の感じが生まれてくるのか、というものとなる。

フッサールは何をしたか。

それに答えをはじめて与えたのが、フッサールの現象学である、ということになる。
  以上が、現象学にいたる前史である。

 

僕の『現象学入門』ノート(3)

内在と超越、ノエシスとノエマ

今日は三回目。現象学が、どんなふうに、その冒頭の問い――主観はどのように主観を超えるもの(客観)を自分のなかから作り出すのか――ということについて自分なりに考えてみます。

現象学の会の一回目、風邪の特効薬タミフルのことを顰蹙を買うくらい何遍も口にしたけれど、僕はこのタミフルの話、面白いと思っている。この薬は、副作用で、人間の意識作用のうちのこれまで誰もそこだけ薄皮一枚部分を麻痺させることのできなかった、そこのところを、麻痺させている。他は何でもない子が、十二階から外に足を踏み出したら危ないよ、というところだけ、意識を麻痺させられる、ということの例証。つまり、これはたとえの話だけれど、もしタミフルが僕の思うような薬なら、人間の意識に、そういう薄皮部分があることを、この薬は明らかにしてくれたわけだ。これって、この世界は、ヴァーチャルじゃないよ、ということを、客観的に存在してるものって、あるよ、という感じを僕たちに与えている客観的な感じのもとが、僕たちの意識の中で作用している、あるってことだね。

タミフルはそこをピンポイントで突くわけだ。

僕たちの意識の中には、僕たちの主観を超えて「疑えない」と感じる明証性のもとが、あるってことだ。主観って、主観を超えたものがないと成立しないのかもしれないね。

フッサールはそこのところを、意識って何だろう、というので、知覚直観という形で取り出している。これと本質直観との関係は、ムズカシイ。それで、カッコに入れておく。人間の主観には、知覚すること(見ること、見えること)、感覚(感じること)、記憶(思い出すこと)、想起(思うこと)、といろいろあるけれども、知覚というものの本質は、意識の自由にならないことだ、と言うのだ。そして、その意識の自由にならないことが、主観の自由にならない「客観」の感じのもとを主観に供給する出所だというのだ。

意識の自由にならない、意識のもとの感じを与える対象物、という意味で、フッサールは知覚は、意識に「原的な所与性」をもたらす、という言い方をする。「所与性」というのは、ムズカシイ言い方だが、「与えられたところのもの」性ということ。所与、と書くと、与えられたもの、で受け身。その逆は能与、与えうる、与えせしめるもの、で能動態となる。記号論のシニフィエ(sigifie=signified:所記)、シニフィアン(signifiant=signifying:能記)も同じ。知覚は意識に原的な所与性をもたらす経験であるとは、知覚は、意識に、これだけは動かせないね、という基本的な(原的な)感じ(=ありありとした感じ)を与える経験だということ。

その代わり、知覚というのは機転がきかない。馬鹿正直に、見たものを見た、というだけである。

カントのように、客観的にモノがある、ということを前提に考えてしまうと、この知覚(見ること)は、それに基づいて悟性が働き(判断が起こり)、理性の活動へと連なる(推論がはじまる)意識の三層構造の基礎部分に見える。
 しかし、客観的にモノがある、というのは「ないことにしよう」、主観からだけ考えて、どのようにそこから「客観」がもたらされるか考えよう、というフッサール式に考えると、この知覚は、三層構造の基礎部分ではなくて、主観のうち、ただ一つ主観の意のままにならない部分、として現れるのだ。

では、コップを見る、そしてそこにコップがある、と意識する、というとき、どのようなことが起こっているかを、コップがある、ということを「ないことにして」考えるとどうなるか、見てみよう。

コップのある面が見えている。これは、原的な所与。

それだけ(コップの一部分、片側)を見て、僕たちはコップがあると思う。(見えないところまでをあると判断して、コップの像を受け取る)。これが意識内で超越が起こる=ピンと来る、ということ。

このうち、上の原的な所与が、ありありと「これだけは疑えないな、疑う理由がないな」と感じられること、そういう本質をもっているとき、その本質を、内在と呼ぶ。だから内在とは、知覚されたものが、疑えないことである。なぜわざわざ内在などというかというと、知覚されたものには、疑えない(原的なもの)という本質がある、それって、とっても大事なことなので、特に名前を与える、ということです。

また、このうち、下のピンと来るという形でしか、意識は成立しないことをさして、そのピンと来る時に起こっている超越(飛び越し)に着目して、ピンと来ることを、超越と呼ぶ。

だから、人がコップを見て、これはコップだと思うことのうちには、原的に与えられた知覚直観と、そこからピンと来ることで(=超越)を通じて得られるコップの意識像という二つの意識の過程が含まれていることがわかる。と言うか、その二つの組み合わせで意識というはたらきが成立していることがわかる。

で、原的な素材をもとに、ピンと来る、この働きをさして、ノエシスと言い、ノエシス作用を通じて得られる意識像のことを、ノエマ、ないしノエマ像という。
 意識は、ノエシスーノエマの構造をもっている、というのが、フッサールの意識の定義となる。

では、これと、例の本質直観はどうなるの? というと、これはムズカシイ。知覚直観ならわかるが、本質直観というのがわからない、という藤岡は、正しいのです。

では今日はここまで。


僕の『現象学入門』ノート(4)

本質直観をどう考えるか。

もうほとんど誰も読んではいないだろうが、今回が、このノートのヤマです。

知覚直観と本質直観。数少ない読者に向けて書きますね。

知覚直観(あのときのコーヒーはうまかった!)は、わかるけれども、本質直観は、よくわからない。誰もが、そんな気がする。

それを、哲学的な言い方は、こう語る。うまい!という個的な知覚直観は、この場合だと、コーヒーがうまい、という形になっている。つまり、このうまいものは、「コーヒーだな」という「知」を含んでいる。だったら、この知覚直観が何もかもを疑ったプロセスの最後に残る、それ以上分解できない元素、「原的なもの」だということは言えないのではないだろうか。それは、「このコーヒーは・うまい」、「うまかったのは、コーヒー」というように、さらに二つに分解できるから。さらに、この「コーヒー」は概念だから、人間の身体=感覚の働きなしには成立していないので、概念と感覚(客観と主観)に分解される。つまり、堂々巡りになり、「原的なもの」というのは、ないことになってしまう……。(竹田著54)

デリダの『声と現象』を読むと、だいたい、これと似たことが、別の位相で言われている。デリダのフッサール批判が、まあ、こういう考えから出てきて、「そうだよねえ」という形で、説得力をもったのであることがわかる。

でも、知覚は、疑えないものと、疑えるものとの組み合わせからなっているんじゃないか、というこのフッサールの直観の場所に、もう少し、立ち止まってみる。するとこうなる。

主観と客観で見る、という立場を崩さなかったら、当然、(あのときのコーヒーはうまかった!)は、「コーヒーは」(主語部)「うまい」(述語部)にわかれるように見える。でも、これがそう見えてしまうのは、「主観と客観という二元論の立場をこの際捨ててみる」という「還元」の態度が徹底されていないということなのではないでしょうか。デリダにしても、フッサールの「還元」のポイントが理解できなかったため、核心を受け取り損ねたため、こういう「誰もがそうだよね〜」と思う疑問を、提示しているのではないだろうか。

と、そう考えてみる。

すると、主観というものが、すでに、その疑えないもの(うまい!)を、これ単独では存在させていない、ということがわかる。うまい! という感覚は、つねに「何かが……うまい!」という形でしか存在していないことがわかる。これって、意識が「何かを……意識する」という志向性なしには、存在しない、というブレンターノの意識の志向性というのと、同じだ。

では、このことは、主観というものが存在しない、ということを意味するんだろうか。そんなことはないだろう。オレがコップを見る、というとき、コップがあるから、オレにそれが見えるのか、オレがそれを見るから、コップがそこにあるのか、というのが、主観・客観問題のはじめの問いだった。これは、オレが世界を見る、というとき、世界があるから、オレにそれが見えるのか、オレが世界を見るから、世界がそこにあるのか、という問いと原理的に同じだ。コップなら、それは、コップがあるからだろうよ、と僕たちは思うが、世界なら、たとえば、「世界」がいまうまく行っていないのはイスラムという悪の帝国をまだ撲滅できないからだろうよ、というように、僕たちは思わない。人によって世界は違って見えると、経験的に感じているからだ。世界というコップが、いろんな人間に、違った風に見えていること、世界がある、ということでは共通しているが、どういう世界が、という点では、違っていることをわかっている。つまり、世界の認識というものが、一人一人で違っている要素(主観部分)と、共通だろうと思える要素(客観部分)を含んでいることを、誰もが知っている。しかし、それなら、コップにも同じことが言えるのではないだろうか。コップにも、主観部分(疑える部分)と客観部分(どうも疑えないな、と思える部分)があるということだ。と現象学は、考える。

主観は存在する。しかし、知覚部分だけでは実は主観は存在していなかった。主観は、「あのリンゴは、……うまかった!」という形で、存在する。そして、それは、主観が、主観部分と客観部分からなる、ということとは、違うことだ、とフッサールはここで言っている。だから彼は、知覚直観を、個別直観と、もう一方を、本質直観と呼ぶのだ。  

実は、主観は、どう考えても疑えない個別直観の部分と、それをささえる「うまい……何」の述部部分から、成立している。「あのリンゴは……うまかった!」つまり「うまかった……あのリンゴ!」は一回限りの経験事実を表現している。でも、この一回限りの経験が成立するのに、つまり「(うまかった)あのリンゴ」が成立するのに、「リンゴ」というどこにも通用する意味の部分が不可欠なのだ、ということに、はじめて、フッサールは気づいたのだ、と言ってよい。

だから、そこをつかまえて、主観にも客観があるので、もっと分解できるじゃないか、と考えると、ツボを外す。そうか、主観っていうものが、そもそも、主語部と述語部をもつかたちで、疑えない「原的なもの」を構成しているのか、と逆に考えないといけないのだ。

その主語部をさして、彼は、本質と呼ぶ。そして、主観は、個別直観(=知覚直観)と本質直観の二層構造として、成立している、と言うのだ。「個的対象」(うまかったあのリンゴ)は「一つの一回限りの対象であるだけではなくて、『それ自身において』これこれの性状においてある対象として、その特性をもち、本質的な述語要素をそれなりに貯蔵させている」(『イデーン』、竹田著58ページ)。この「貯蔵させている」という比喩は、いけるんじゃないか、藤岡君。

だから、簡単に言うと、カラン、と音がする。それは、「いまここにあるこのもの」として「偶然的な事実存在」だ。〈ところが、同じこの音は、「音響」とか、「音」一般といわれる「述部要素」を持ち、この側面は「必然的」なものだ。この音の前者の側面をわれわれは「事実」と呼び、後者の側面をその「本質」と呼ぶ。〉(竹田)。

念のために補足しよう。

カラン、と音がする。あれ、誰かが下駄で、来たかなあ、と僕たちは思う。この場面において、知覚直観は、カラン、という乾いた音が聞こえたなあ、ということ。本質直観は、下駄みたいだったなあ、ではなく、その知覚直観の中に、本質直観として、聞こえたのは「音」だ、という直観が「貯蔵され」、この知覚直観としてある主観の確信を「ささえている」こと。知覚直観と本質直観は、違う二つのことではない。シニフィアンとシニフィエが言語において、一つのものの二面であるのと同じ。「カランという乾いた音が聞こえたなあ」の動かせない感じの中に、知覚直観と本質直観が含まれている。それがないと、この動かせない感じが成立しない、と考えるべきなのです。

音を聞く。

それは「事実」だ。「ところが、この個物はある言葉で呼ばれうる(ピアノの音、電車の音、風の音みたいな音)、この言葉それ自体が含む普遍的規定性、それが「本質」である」(竹田59)。

要するに、現象学で言う「本質」とは、言葉の意味のことだ、と考えるといい。それが、先に、授業中、加藤が言ったことで、加藤の言い方でいうと、――

主観は、「知覚」部分と「本質」部分からなっている。これが、フッサールの大発見。そして、その「知覚」と「本質」の関係は、言葉におけるにおける音(リ・ン・ゴ)と意味(リンゴ=林檎)の関係に相似である。どんな言葉にも音と形の部分(シニフィアン。だれが見ても同じ)と、意味の部分(シニフィエ。人によって違いうる)がある。そのように、どんな主観にも、知覚部分と本質部分(=意味部分)がある。

だから、主観の底に、どう考えても疑えない「原的なもの」がある、というとき、その原的なものは、「林檎」(本質直観)と「うまい」(知覚直観)とからなり、「あの林檎は……うまかった!」というあり方で、われわれにやってくるのである。

どうでしょう。

わかったかな。(どうかな、千葉君)

このことは、僕の感じでは、ソシュールの言語の考え方の転換(言語を人間主体の表現という基軸から切り離して言語を中心に考え直した)と、フッサールの人間の認識の考え方の転換が、似ていることを示唆しているようだ。

つまり、主観と客観で考えるというとき、そこには、主観を使って客観を認識する人間主体という「主体」が想定されている。「意識作用を人間主体の認識行為という基軸から切り離して主観を中心に考え直した」ら、シニフィアンとシニフィエの一対としての言語とよく似た、知覚直観と本質直観の一対としての主観の確信の構造、というものが、見いだされたのだ。

これって面白い。

主観の「確信」のポイントは、磁石が、どこか途中で、早押しクイズの「ぴんぽーん!」のように、ひゅっとNSくっつく、カチッという音を立てる、その「超越」にある、と前回述べた。

コップの片面が見える。その知覚による一面の受容をもとに、超越という作用を媒介にそこからコップという全体像(これがノエマ像)が構成される(これがノエシス作用)、そのプロセス=構造を、ノエシス−ノエマ構造という、ということも、先に述べた。

では、主観の確信成立の構造のなかで、なぜ、超越ということが起こるのか。

それは、主観が、知覚のほかに、本質というもう一つの極を持つ、二極の構造として存在していて、その一方(知覚)が始点=スタート地点となり、もう一方(本質)が終点=ゴール地点となる磁場が知覚触知によって生成される、というような事態として、存在している、ということなのではないか。

僕は、そんなふうに考える。

なんだ、知覚直観の中にも概念があるじゃないか、と考えるのではなく、主観は、知覚直観(音)と本質直観(意味)とで構成されている、その点では言語と同じ、それが、フッサールの大発見、と考えること。そうすると、本質直観が、主観の確信成立の構造にとって知覚直観と同じくらい、大事だということの意味が、わかってくる。

以上が、加藤の理解。

ここの部分は、竹田にも読ませよう。これでよいか。竹田の感想を聞いてみないと。

以上、僕の「哲学? ノート」。第一部、一応の終わりとします。




第二部 
 茂木健一郎『心を生みだす脳のシステム――『私』というミステリー』読書ノート 

 本をいかに面白く読むか、という問題があります。
 以下、僕の読書ノートを参考に供します。

はじめに

 この本をざっと見ての僕のねらい目は、脳科学がなぜ、心とか、主観とか、「私」というところまでくるようになったか。そこのところを、皆さんにわかってもらいたい、すると、いろいろと、いいことがあるだろう、というものです。

システム
 一つは、脳は、機能局在的に考えてもダメだ、システムとしてみなければならない、というところでしょう。11。ではここで質問。なぜ、このシステムを、茂木は、「体系」と名づけないのか。そうではなくて、別の対応語をあてるのか。(答え:答え、体系は、全体がわかっている上での完結した関係性に用いられるが、この脳のシステムは、全体像がわからない。また、全体像をもつ、完結した関係性ではない、開かれたシステムかもしれない。そこで、茂木は、これを、「関係性」とのみ、書くのではないか。)

別の対応語をあてるのか。
クオーリア・主観・私

さて、この後、クオリアという概念が出てくる。クオリアとは何か。どこがポイントか。僕の考えでは、「薔薇を見た時に心の中に浮かぶ赤い色の感じのように、私たちの心の中に浮かぶ質感」12のうち、「私たちの心の中に浮かぶ」がポイントで、この赤い質感は、「俺にしかわからない」「どうも伝えきれない」と感じられる、ということだろうと思う。つまり、感覚の奥底に、「ああ、だれにも伝えられない、この感じ」というのがある。「心」の属性というか、本質的な属性の一つとして、「自分の主観」の固有性の檻、というのがここにある。それが「私」だ。心というのは、それぞれが、自分だけ、というあり方で存在する。つまり、主観、として、存在する、そこが本質だ、というわけだね。

クオリアとは、自分だけにわかる、他人にはなかなか伝え難い、つまり、言葉にしがたい、と感じさせる、主観の私性を根拠づける質感(feeling)の本質のことを言う、これが加藤なりの答えになる。

この本は、「言葉の意味、ボディ・イメージ、脳と環境との相互作用、自己意識、他者の心の理解、感情、心理的時間といった「私」を作り出す多様な要素の全てを、「クオリア」をカギとなる概念として統一的に理解しようとする試みである」13と言われている。

第一は、「私」という主観的体験が脳内でどう生じるか。(1〜3:ミラーニューロン、クオーリア、言葉の意味)
第二は、身体を通して環境を把握するための脳内メカニズムの考察。(4〜5:ボディ・イメージ、アフォーダンス)
第三は、主観と客観の関係(6〜7:自己意識[自分は心を持っている]と他我意識[他人も心をもっている]=心の理論、間主観性)

第四は、主観と客観の結びつき(8〜9:感情、カプグラ妄想と時間)

最後、脳というシステムと心(10)。


第一部 脳とクオリア

第一章 ミラーニューロンはなぜ衝撃だったか。

 〔脳のシステムからはじめる=現象学と同じ21。脳と意識、胃と消化=臓器と働き。つまり、意識は脳という臓器の働き。そこから生まれるのが「心」〕

 感覚については、感覚情報処理というシステムとしてのモデルがある。運動については、運動情報処理というシステムモデルがある。しかし、ミラーニューロンのような多層、高度重層システムは、まだ出来ていないため、こういうシステムがありうることが衝撃だった。(対象のある動きを見て、これが自分のある運動と「同じ」「意味」をもつ運動であると「認識」する多重システム。まだ、人類はこれに対応するシステムを作りえていない。)しかし、もっとこれが衝撃的だったのは、こういうものがあるとすると、この先に、極限的に複雑な高次なシステムというものが想定できて、その極限的高次システムこそ、「心」であり、「主観」であり、「私」なのではないか、と人が思うようになったこと。つまり、臓器としての「脳」の研究が、はじめて彼方にある究極のゴールに「心」のあることを、示唆されたということだったのではないか。加藤はそう思います。


第二章 クオリア

 クオリアとは何か。「私たちの主観的体験の中に感じられるさまざまな質感」とある。でも、こんな表現のままで満足していたら、どれだけたっても、ものを考える、なるほど、面白い、という世界には入れない。クオリアに関する茂木の発見の挿話を見よう。興味深い。味読すべきだろう。

 ガタンゴトン、が教えてくれた、と彼はいう。

 何を? それまで彼は、車が走る、というのは、エンジンルームの中で燃料が気化して燃焼し、車を構成している物質が空間を異同する、という物理的変化を「簡略表現」(shorthand)したものだと考えていたが、それと同様、考えるというのは(意識や心というものは)、脳のなかで、ニューロンが反応し、シナプシスからシナプシスへ、反応が伝達され、脳システムが稼働する、その物質的変化を「簡略表現」したものにすぎないと思っていた、「今は便利だから簡略表現を使っているが、いつかは、具体的な脳内のニューロン活動を通して、より詳細で正確な記述に取って代わられる」、オレはそういうことをやるんだ、と思っていた。しかし、化学的にいくら脳を詳細に記述しても、そのニューロン活動の結果、これだけ生々しい薔薇が赤く色づいている、という「感じ」には、辿り着けない、それって全然別のことだ、とはっきりわかった、それが、「それまでの人生の最大の驚き」、発見だった、と彼はいう。

 これに気づかなかったら、茂木は、脳科学分野の一秀才にとどまっていたでしょう。

 考える、というと、その一つの説明の仕方は、その間、臓器としての脳はどう動いているか、一つ一つの脳細胞、ニューロンがどう活動しているか、という部分の動きの総合によって、最後の結末の働き・作用を説明することだ。それが、従来の脳科学の方法だし、客観的な方法、と信じられているものだった。しかし、最後の結果としての働き・作用の「本質」は、それがいかにして、どのような臓器的働きの形で起こるか、ということによっては説明できない、全然別物だよ! ということに、茂木は気づいた。腹がもたれて気分が重い、もういやだ、憂鬱。これって、臓器としての胃の不調によって説明できる。でも、この気分の重さ、イヤーな感じ、これって、臓器的説明で、他の人にそれとしてわかってもらえるようなことじゃない、と感じられる。その感じが、この気分の重さの「本質」なのでは? これって、これを成り立たせている部分をいくら加算しても、辿り着けない、どこかで「跳躍」しないと、そこに辿り着けない「ゴール」なのでは?

 生々しい薔薇の赤さも同じ。

 その、物理的説明、部分から全体へ、という説明の仕方では、説明できない結果的産物としての「感じ」。「感じ」の離陸、跳躍をへた隔絶的なあり方、これをさして、クオリアという、というのが、ここから出てくる定義となる。

 と、こう書いてくると、これが、現象学の「超越」とよく似ていることがわかるよね。

 現象学のいう、超越というのは、ピンポン! あたり、の世界だった。つまり四捨五入。ある一面だけ知覚として与えられたところで、あ、そうか、これってコップだ! と「跳躍」が起こって確信作用が生じる。その作用を、ノエシス作用といい、そこで得られる像を、ノエマ像といい、この意識のピンポン! の働きをさして、ノエシス・ノエマ構造といった。

 茂木は、このクオリアには、どうしても、「私が赤のクオリアを感じる」というように、「私が」という契機が伴わなければならない、といっている45.これは、竹田が、現象学の基本に「確信」の構造、意識の明証性ということをいい(これ、私が、ということ)、加藤が、作品読解において、「作者の像」というものを設定しないと、テクストの読解は、実は可能にならない、というのと同じ。茂木は、そのことに気づいていないが、そうなのです。(作者の像というのが、私が、の契機、ということ、別にいえば、作品のクオリアを取り出すには、読むことの対象と主体の関係の中に「私が作品のクオリアを感じる」という契機をおかなくては、いけない、ということ)。脳科学は、その最先端で、いわゆるテクスト論的なポストモダン的アプローチでは、「意識」「主観」「私」という最後の問題にはふれられない、と言っているのです。

 さて、感覚的なクオリアと志向的なクオリア、というのが出てきた。ここまできて、藤岡君、先の知覚直観、本質直観が生きてくる。

 茂木は、現象学に――本当の意味では――通じていないので、ここには述べられないが、たしかに、これ、似ている。論としては、フッサールの考え抜いた知覚直観、本質直観のほうが、深い。茂木さんに教えてあげたいが、ねえ。そこでは、こう言われていた。(加藤の言葉で反復すると)

主観は存在する。しかし、知覚部分だけでは実は主観は存在していなかった。主観は、「あのリンゴは、……うまかった!」という形で、存在する。そして、それは、主観が、主観部分と客観部分からなる、ということとは、違うことだ、とフッサールはここで言っている。だから彼は、知覚直観を、個別直観と、もう一方を、本質直観と呼ぶのだ。  

実は、主観は、どう考えても疑えない個別直観の部分と、それをささえる「うまい……何」の述部部分から、成立している。「あのリンゴは……うまかった!」つまり「うまかった……あのリンゴ!」は一回限りの経験事実を表現している。でも、この一回限りの経験が成立するのに、つまり「(うまかった)あのリンゴ」が成立するのに、「リンゴ」というどこにも通用する意味の部分が不可欠なのだ、ということに、はじめて、フッサールは気づいたのだ、と言ってよい。

だから、そこをつかまえて、主観にも客観があるので、もっと分解できるじゃないか、と考えると、ツボを外す。そうか、主観っていうものが、そもそも、主語部と述語部をもつかたちで、疑えない「原的なもの」を構成しているのか、と逆に考えないといけないのだ。

その主語部をさして、彼は、本質と呼ぶ。そして、主観は、個別直観(=知覚直観)と本質直観の二層構造として、成立している、と言うのだ。「個的対象」(うまかったあのリンゴ)は「一つの一回限りの対象であるだけではなくて、『それ自身において』これこれの性状においてある対象として、その特性をもち、本質的な述語要素をそれなりに貯蔵させている」(『イデーン』、竹田著58ページ)。この「貯蔵させている」という比喩は、いけるんじゃないか、藤岡君。

だから、簡単に言うと、カラン、と音がする。それは、「いまここにあるこのもの」として「偶然的な事実存在」だ。〈ところが、同じこの音は、「音響」とか、「音」一般といわれる「述部要素」を持ち、この側面は「必然的」なものだ。この音の前者の側面をわれわれは「事実」と呼び、後者の側面をその「本質」と呼ぶ。〉(竹田)。

念のために補足しよう。

カラン、と音がする。あれ、誰かが下駄で、来たかなあ、と僕たちは思う。この場面において、知覚直観は、カラン、という乾いた音が聞こえたなあ、ということ。本質直観は、下駄みたいだったなあ、ではなく、その知覚直観の中に、本質直観として、聞こえたのは「音」だ、という直観が「貯蔵され」、この知覚直観としてある主観の確信を「ささえている」こと。知覚直観と本質直観は、違う二つのことではない。シニフィアンとシニフィエが言語において、一つのものの二面であるのと同じ。「カランという乾いた音が聞こえたなあ」の動かせない感じの中に、知覚直観と本質直観が含まれている。それがないと、この動かせない感じが成立しない、と考えるべきなのです。(「僕の『現象学入門』ノート」2007)


感覚的クオリアと志向的クオリア

 この「カランとした音」を茂木の「ガタンゴトン」に変えてみよう。茂木は、ガタンゴトンという音が聞こえたなあ、の動かせない感じが、けっして、脳ニューロンの「簡略表現」としては説明できない生々しさをもつことにがーん、となった。この動かせない感じ、に気づいた。そして、それをクオリアと呼んでいます。しかし、そこには、知覚直観と本質直観の二つがある。薔薇が赤い、には、赤い、という感覚的クオリアと薔薇だ、という志向的クオリアがある、と言っている。そして、面白い話を出してくる。

 バイオロジカル・モーション。白い点が動いている。すると、ピンポン! 人だ、とわかる。ピンポン! 彼女だ、とわかる。

 さらに。脳の視覚を司るV1野の一部を失い、視覚をなくした患者に、点を示すと、「見えないのに、何となく上に動いているような気がする」と答える58。それは、90パーセントの正解率で、この現象を「見えない」(blind)のだけれど、「見える」(sight)、ブラインドサイトと呼ぶ。

 何故、こういうことが起こるかというと、網膜から、V5の視覚野まで、二つの経路があるからだという60。一方は各駅停車だね。網膜→外側膝状体→V1→V2→V3→V5。でももう一方あって、これは急行だ。網膜→上丘→視床枕→V5。同時に二本の路線が走っていて、こっちのほうが、早くV5の終着駅につく。

わかったでしょ。これが、あの、ピンポン! の起こる脳科学的な根拠じゃないかな。志向的クオリア=本質直観のほうが、早く駅についている。それに、遅れて、各駅停車の感覚的クオリア=知覚直観がやってくる。その落差が、「超越」、あ、そうか、という「超越」を呼ぶ。まだ磁石のNとSが、ある地点まできたところで、ひょいとくっついて、カチンと音がする、これが、理解、ということで、このカチンがないと、いけない。統合失調症というのは、このカチン(超越)がない病気なんだ、と言った。

それが、この60ページの図で説明されているんじゃないか。ことによったら、加藤は、ここで、大発見をしているわけになる……かな。

統合失調症は、この図で言うと、V5が二つに分かれている。西武新宿線と西武池袋線がそこで出会い、乗り入れ、「統合」される所沢駅と違い、西武池袋線の本川越駅と東武東上線の川越市駅みたいに、二つに分かれていて、平行したまま。観客は、降りて歩かないといけない。各線により、川越まではくるのだが、「再会」のカチンの音が聞こえない、病気、つまり、統合が失調している病気であると、わかる。

感覚的クオリアと志向的クオリアの違いは、フッサールの、知覚直観、本質直観の説明のほうが、はるかに哲学的に厳密で、これにくらべると、あいまいだが、やはり脳科学、まったく別の方面から、これを説明もできている点、寄与するところ大である。特に、カニッツァの三角形の説明61は、知覚直観なしで、三角形の本質直観が生じる例として、いいね、脳科学、という感じがする。

その結果、クオリアの源泉に、「私」を考えないことは、不可能だ、と茂木は言う。そこから、「私」とは何か、という問いが出てくると。このあたり、完全に、脳科学の先端は、ポストモダンの哲学を、まったく意表をつくかたちで、超えてしまっているというべき。しかし、誰もそうは、思っていないね。

とはいえ、「私」が単独であるというのでもない。先の61図は、意識の本質が、単線ではなく、複線であることを示している。ま、同方向だとすると、複々線だな。各駅と急行が平行して走っている。そしてその速度差から、「超越」が生じ、意識の原型がそこに見出されるのだとすると、「私」は、複数でもある。つまり、複数のものが単数として現れるところに、「私」の、本質が、あるのかもしれない。


第二部 脳と外部の環境

 加藤の見るところ、この本は、ここまでで重大なほぼすべての知見の基礎を提示している。大事なことは、この複々線構造である。第三章のマガーク効果は、聴覚と視覚の間に、直接の連関がないこと、それが複々線になっていること。しかし、そこから、一種の錯覚のように、「統合」が生じる(バとガから、ダがうまれる)ことを示す72。ジョン・レノンの顔が認識されるとはどういうことか、という問題は、顔のそれぞれの知覚=感覚的クオリアの足し算が、ピンポン! と「レノンだ!」との了解に達する「超越」が、感覚的クオリアと志向的クオリアの一致として、起こることを示している89。第四章のジョン・ホージランドの真正の指向性(authentic intentionality)は、「見る」ことは、「私が見ていることを、私は知っている」という構造をしている、つまり、感覚的クオリアと志向的クオリアの重層構造をして、はじめて、「人間が経験しているところの、『見る』行為」になっているのであって、その場合には、「見る」ことは、責任をもたらす、それにはモラルが付随する、という。100幻肢の話が出てくるが、これも、意識には、複線的回路があり、一方が死んだ後も、もう一方が、生きている。その路線を「再度使えるようにする」ため、鏡を使って「もう一つを感覚的クオリア」を刺激するものとして、提示してあげると、「意識」として浮上する、ということである118。第五章のアフォーダンスは、モノが環境との間に、関係性をもつ形で志向性を成立させるという話で、これは、哲学でいうと、フッサールの現象学に弱かった側面を、ハイデッガーが補い、実存(生き方)の問題につなげた側面にあたっている。ハイデッガーは、でも人が生きているので、モノ・コトとの関係は、「不安」で彩られている、といった。そして、ハンマーは、ただあるのではない、それで釘を打つこともできれば、窓を割ることもできる、メモが飛ばないための、重しにもなる、という「道具連関」という考え方を示した。それが、ジェームズ・ギブソンの言う、アフォーダンスの考え方。竹田の、欲望をここに加味しないと、現象学は、先にいけない、というのも(竹田の欲望現象学、といわれている主張)も、現象学に、アフォーダンスの考え方を、「欲望」をキーワードに、加えた、ということになる。125

第三部 「私」とは何か

 ここは、「私」について。第六章、鏡とチンバンジーをもとに、「心の理論」(theory of mind)=他人の心の状態を推測する能力、をもつとはどういうことか、と考えている。面白い個所だね。「鏡の中のイメージは私だ」という認識をもつことと、「鏡の中のイメージは『私と同じ』だ」というのは、違う156、というのが面白い。その通り。第七章、直接目に見えない「他人の心」を、心の中で表象化する(ありありと思い描く)能力が、「心の理論」の核心として、取り出される。誤信念問題。サリーがぬいぐるみをおもちゃ箱に入れる。サリーが部屋を出た後、アンが入ってきて、ぬいぐるみをおもちゃ箱から衣装ダンスに移して、出て行く。その後、サリーが戻って来る。さて、サリーはどこを探すかな? という問いの形。写真問題。木の前にAさんをたたせ、写真にとる。その後、木の前にBさんがきて、写真の前に立つ。そこで、子どもに聞く。「写真の中では誰が木の前に立っている?」自閉症の子どもは、写真問題には、しっかり答える。「Aさんが映っている」と。でも誤信念問題では、「サリーは、衣装ダンスを探す」という。サリーが、おもちゃ箱に入れていて、その後、衣装ダンスに移されたことを知らない、というサリーの心の中の状態を、思いみる、能力が欠けている。どうも、ある認識が生じるのに、二つの回路があり、それが「統合」される必要があるらしい、その一方が、自閉症の人では、欠けているようだ、ということがわかる。


第四部 主観と客観はどう統合されるのか

 このあたりにくると、この本の構造は、もっとはっきりしてくる。また、われわれが先にやった現象学での話し合いとの重なりが、よく見えてくるね。

 ここで、一つ思い出した話をしておく。養老孟司の『唯脳論』に出てくる話。先に書いた『僕が批評家になったわけ』で、ふれているが。

以下付録として、巻末に再録しよう。要点だけいうと、養老は、「ことばには聴覚で信号をキャッチされるもの(音声)と視覚で信号をキャッチされるもの(文字記号)」とがあるが、唯脳論的に考えれば、この二つの刺激、聴覚と視覚との間には相互的な関係がない。だから「むしろいちばん不思議なのは、われわれが、視覚によるものも聴覚によるものも一緒くたにして『言語』と称していることの方」だという。「聴覚と視覚とは、いわば脳の都合で結合したのであり、その結合の延長上にヒトの言語が成立しているはずである」。脳を解剖すると、視覚を受けとる脳の位置と聴覚を受けとる脳の位置はだいぶ離れているらしい。養老は、脳髄の模型的な図をあげているけれども、その図では、脳の離れた二点がそれぞれ視覚と聴覚の刺激の受容野としてマークされ、そこからの二次的以降の刺激の出力が波紋のように示されていて、ちょうど二つの地点に石を投げ込んだ池の波紋の重なりのような絵柄になっている。二つの波紋が重なる部分、つまり「波のぶつかりあいの部分に、言語中枢が位置することになる」。養老は、ここから推定されることとして、この干渉域(大脳皮質)――二つの波紋が重なる部分――が大きくなければ、言語は生まれないことになる、という。ゴリラやチンパンジーでは、この大脳皮質の部分が小さい、波が二つに重なる余地がない。「皮質が小さい以上、その皮質はヒトが持つほどの「剰余」を示さないはずであり、それが言語がない理由であろう」。

どうですか。茂木がいっていることも、養老がいっていることも、加藤が竹田の本の解説として、展開した「ピンポーン!」説も、全部、同じコトを言っている。竹田のいう、フッサールの、ノエシス・ノエマ構造が、別の形で、サポートされているのだ。

第八章のカプグラ妄想。ある朝、起きたら、隣に寝ている妻が、妻にそっくりの全くの偽物、妻に化けたエイリアンだと思える、という症状があるという。これって、先に述べた、NとSの磁石がひょっと飛んで「カチン」とぶつかる、あの「所沢駅」での複々線的な出会いではない、「本川越駅」と「川越市駅」のような出会わない二つの路線、のケースだとわかる。いわば感覚的なクオリアでは、奥さんそのものなのに、「あ、僕の奥さんだ!」という「カチン!」の音が聞こえない。ノエマ像(コップだ!)が結ばない。知覚上は、僕の奥さんなのに、その「確信」が生じない。これはおかしい、エイリアンに相違ない、となる。「確信」が、この本で言う、意識・認識が、二つの働き、脳で言うなら二つの回路の合流、統合によって、生じている、ということが、わかる。

ここから、いえるのは、私とは、この二つの異質なものの、一つにはならない、二つのままの、重なりとしての単一の像、なのだ、ということではないだろうか。

そして最後に、これもめっぽう面白い、時間の問題がくる。第九章、ペンフィールドの実験(てんかん患者に電気刺激、脳のシステム的連関=マッハの原理のすごさがわかる)、「マッハの原理に基づいて考えれば、志向的クオリア、感覚的クオリアを生みだす前頭連合野と感覚野の関係性の非対称性から『私』という主観性の構造が生まれることになる」236。その一方からの一方への「命がけの跳躍」、それが、「超越」だね。オレが言った通りじゃないか。その後の、物理的な時間と心理的な時間の実験、下条と神谷の実験というのは、加藤のいう、複々線のうち、A線(各駅停車=感覚的クオリア)とB線(急行=志向的クオリア)で、進行速度が違う(t=一〇〇ミリ秒と、t=六〇ミリ秒)二つの電車が、最後、V4野、IT野に同着する、という話になっている。

「絶対的な」心理的時間に「感覚的同時性」と「志向的同時性」という二つの要素が存在することは、脳というシステムの性質、とりわけ、感覚的クオリアを生み出す「ボトム・アップ」のプロセスと、志向性を生み出す「トップ・ダウン」のプロセスの間の関係を考える上で重要な意味を持っている。252

 こういう話になるね。このボトム・アップとトップ・ダウン。面白い言葉だよね。この二つは、どういう関係にあるか。そう、ボトム・アップされてきたものが、10のうちの5を超えると、そのあたりで、トップ・ダウンの動きに飲み込まれ、四捨五入して、トップに吸い上げられる。これが、跳躍、いや、「超越」だった。これ、現象学とぴったり符合。感覚的クオリアは、現象学でいう、知覚として与えられるものだから、コップのさまざまな、「面」(部分)だね。それをボトム・アップ、ゼロから加算していくのだが、あ、そうか、ピンポーン! と了解が起こり、ノエマ像が成立する、トップ・ダウンの動きに取って代わられる。こうしてみると、茂木の脳科学的なアプローチと、竹田の現象学は、ほぼすれすれのところまできているのがわかる。しかし、現象学からは、「主観と客観の統合」という言葉は出てこない。このあたりは、茂木、ちょっと苦しい。でも、なかなかスリリングな展開で、加藤は、酔った。


終章

「私」は、脳ニューロンの関係性のなかからどう生まれるか。加藤は、脳科学者ではないので、そうは、考えない。しかし、この本は、「私」が二つの経路、あり方の「非対称性」の関係のなかから、その「主観性の構造」を生みだしている、ということを、脳科学の裏付けのうちに、述べている点、非常に貴重な仕事だと思う。


付録:養老孟司『唯脳論』さわりについて

ところで、その理系のことばで、養老はことばについて、面白いことをいっている。彼によればことばは、そもそもが関係のない二つを一つに「無理に」合わせたところに成立したものだそうだ。それを信じるなら、ことばとは、本質的に安定をもたない存在だということになるからである。

養老によればこうである。  

ことばには聴覚で信号をキャッチされるもの(音声)と視覚で信号をキャッチされるもの(文字記号)、さらに触覚で信号をキャッチされるもの(点字の場合)がある。でも主には聴覚と視覚で考えてよいだろう。唯脳論的に考えれば、この二つの刺激、聴覚と視覚との間には相互的な関係がない。だから「むしろいちばん不思議なのは、われわれが、視覚によるものも聴覚によるものも一緒くたにして『言語』と称していることの方である」ということになる。

驚くべき指摘である。

なぜこういうことが起こっているのか。


光と音という物理的に異質なものからの情報をつなぐのは、たぶん外的必然ではなかったであろう。自然界で、音と光が「連合」することは余りない。(中略)生物が生きている自然の環境で、音と光は必然的に結びつくものではない。両者が異質であればこそ、光と音に対する受容器、すなわち目と耳とは独立に発生し、進化した。

両者の連合に関して、強い外的な必然がなかったとすれば、あとは内的な必然である。聴覚と視覚とは、いわば脳の都合で結合したのであり、その結合の延長上にヒトの言語が成立しているはずである。

視覚を受けとる脳の位置と聴覚を受けとる脳の位置はだいぶ離れている。そう述べてわかりやすくするために、養老は、脳髄の模型的な図をあげている。その図では、脳の離れた二点がそれぞれ視覚と聴覚の刺激の受容野としてマークされ、そこからの二次的以降の刺激の出力が波紋のように示されていて、ちょうど二つの地点に石を投げ込んだ池の波紋の重なりのような絵柄になっている。二つの波紋が重なる部分、つまり「波のぶつかりあいの部分に、言語中枢が位置することになる」。養老は、そう説明をつけた上で、ここから推定されることとして、この干渉域(大脳皮質)――二つの波紋が重なる部分――が大きくなければ、というか、存在しなければ、言語は生まれないことになる、という。

こうしたことが可能になるための条件として、視聴覚の一次中枢からの波がぶつかるまでに、複数段階の処理が必要である。したがって皮質は、網膜と内耳という末梢器官に対して十分大きくなければならない。(中略)ゴリラやチンパンジーの網膜や内耳は、おそらくヒトと変わらない大きさを持っている。ところが皮質が小さい以上、その皮質はヒトが持つほどの「剰余」を示さないはずであり、それが言語がない理由であろう。

養老の説によれば、聴覚・運動系(音声)と視覚・知覚系(文字記号)が重層しうるだけの大脳皮質の「剰余」(=過剰さ)があってはじめてヒトは言語を手にできている。同じく解剖学者養老によれば、「ヒト、現代人つまりホモ・サピエンスは、ここ数万年ほど、解剖学的、すなわち身体的には変化していない」、「ネアンデルタール人の段階になると、骨の形が違う」という。「この公理的な前提から」どんなことがいえるかというと、「おそらく、ヒトの脳の機能もまた、数万年このかた変化していないはず」で、ということはつまり、言語の本質は、この視覚系刺激と聴覚系刺激の「連合」だということである。

したがって、彼は、たとえ文字言語のない文化におけることば(音声のみ言語)でも、本質的には視覚と聴覚の「連合」として構造化されているはずで、そうであればこそ、そういう文化の中に「文字記号」が移入されると、すみやかに文字言語が生まれるのであろうという。文字言語の習得によって脳に変化が生じないこと、あるいは言語文化を持つ社会にも同じ脳をもちつつ文字言語をもたない言語活動をしている人々(文盲者)が存在することなどは、その傍証となる。

さて、そうだとすると、言語の本質は、この本来異質な無関係な二つの刺激が「連合」したものだとなる。ゴリラやチンパンジーはその双方の波動が干渉しあうだけ広い大脳皮質の運動場をもっていないため、意思の疎通こそ可能ではあれ、言語はもっていないのだということになる。逆からいうと言語、ことばというものは、単に意思が疎通すればそれで言語だといえるようなものではない、ということにもなるだろう。言語は記号とは違う、ということにもなる。この養老説から浮上してくる言語観は、空中で放電している青白い光のようなもの、二つの液体が混じり合って生じている化学反応のようなもの、つまり、難しいとか重いという以前に、平明なままで、すでにダイナミックな運動としてある存在なのである。

(加藤典洋『僕が批評家になったわけ』岩波書店、2005、より)