完全解読ヴィトゲンシュタイン:講座報告

(朝日カルチャー新宿 冬季合宿 at箱根(2011/03/12,13)

講師:竹田青嗣・西研
報告者:小井沼広嗣



3月12日、13日の二日間、毎年恒例の朝日カルチャー講座の冬合宿が行われました。東北での大震災の翌日という非常事態であったため、開催が危ぶまれましたが、カルチャーセンター担当者の石井さんのご尽力もあり、なんとか無事に開催されました。ほんとうに感謝です。けれども、震災の影響で急遽こられなくなった方も多く、参加者は当初の予定人数の半数ほどでした。震災に合われた方、今も大変な悲しみや多くの困難を抱えている方々には、心からのお見舞いを申し上げます。


課題テキストはヴィトゲンシュタインの『哲学探究』(黒崎宏訳『哲学的探求』産業図書)。今回はその締め括りだった。以下、その合宿での議論のエッセンスを自分(小井沼)なりにまとめてみたい。

今回は合宿ということで、講読範囲も広く、その議論も多岐に及んだが、本報告では、最も有名でかつヴィトゲンシュタインの哲学的立場(=言語ゲーム論のエッセンス)がよく表れている「規則問題」、「私的言語批判」、「痛み」の箇所に焦点をしぼって報告したい。またそれに加え、竹田さんが『言語的思考へ』(径書房)で展開した「言語の現象学」の要点も紹介しようと思う。(合宿では一日目の晩に、竹田さん自身がパワーポイントを使って分かりやすく説明してくださった。)というのも、本講座は一貫して、竹田さん、西さんが依拠する現象学の立場からヴィトゲンシュタインの主張を吟味していく、という性格のものだったからだ。


■言語ゲームと規則問題

「言語ゲーム」とは、複数の人々のあいだで交わされる言語的なふるまい(応答関係)のことだが、それは何らかの規則によって成立している。するとひとは一般に、≪規則が言語ゲームに先立ち、それを根拠づけている≫と考えたくなる。だが、そうなると「言語ゲーム以前」といった次元が存在することになるが(ちなみにこのメタレベルの規則を確定しようというのがいわゆる「論理学」の立場)、ヴィトゲンシュタインの考えではむしろ、言語ゲームが成り立っているという事実こそ、規則の存立を可能にしている根拠なのである。つまり、人間の言語活動は規則的なものなのだが、それはそうした行動を規定する規則があらかじめ存在するわけではないのだ。それでは、言語ゲームの「規則に従う」とは一体どういうことなのか。かくして、「規則問題」こそ、『探究』最大の山場である。

私たちはどのように規則を「理解する」のか。言語ゲームという場に定位して考えるかぎり、次のように言わざるを得ない。わたしたちは、“有限回”の経験からそのゲームの“一般則”を理解する、と。(たとえば、「2、4、6、8、10、12・・・」と続く数を見ていて、ある時点でその数列を理解し、「以下同様に」続けていける(=規則に従うことができる)と確信する。「14、16、18・・・」といった具合に。)けれどもここで、規則に対する懐疑主義が生じうる。≪“有限回”の実践から、そのゲームの確定的な“一般則”を理解したとはいえない。それは権利上、無限の「解釈」を許容する。するとどんな行動も規則と一致することになり、そもそも規則への一致も矛盾もないことになるのではないのか≫、と。

〔*たとえば、クリプキはこの『探究』で提示された「規則のパラドクス」を展開しつつ、次のようなことを言う。「2、4、6、8、10、12・・・」という数列の次にくる数はなにか。「14」だと答えたくなるが、実はどんな任意の数も正答となりうる。たとえば「16」でもよい。なぜなら、ここまでの数の並びを見るかぎり、この数列の規則が「12までは2が足され、12を超えると4が足される」というものではなかった、とは言えないから。〕

けれども、ヴィトゲンシュタイン自身はこうした懐疑主義を退ける。規則に従うとは、規則を恣意的に解釈することではない。それはそのつどの実践において、「合っている」「合っていない」などと他者から指摘されつつ、慣習的に身についている。そこに疑いが入ることはない。かりに、規則の正当性について疑いが沸いたとしても、「もし正当化をし尽くしてしまえば、そのとき私は固い岩盤に到達したのである。そしてそのとき、私の鋤は反り返っている」(§217)。つまり、規則の正当性とは、最終的には私が現にそうふるまっている(また他者とのふるまいも噛み合っている)という慣習的な事実に帰着するのだ。

≪規則には絶対的な根拠はないが、それは決して恣意的なものではない。規則の正当性とは慣習である≫。これがヴィトゲンシュタインの帰結だ。この考えにはなるほど、と思わせる面がある。しかし、原理的な観点からすると、いかにも不徹底だ。これでは、なぜ規則への疑いが生じるのか、逆に、なぜ規則の妥当性への不可疑性が生じるのか、といったことに明快な答えを与えることができない。それは、「欲望相関性」や「信憑構造」という現象学的観点を導入することで、よりクリアに説明できる。

なぜ私たちは慣習的な事実において規則への疑いが生じないのか。それは、私たちは通常、規則というものの意義を、他の人々との行動様式や生活様式の協調・一致という点に見出しており、そうした(暗々裏の)関心(欲望)が揺るがず、また既存の規則がその必要を満たしているかぎりで、そこに疑いをはさめることには理由がないからだ。(逆に言えば、すでに慣習的に身についたものであれ、その規則に問題を感じれば、私たちはその規則の根拠を問い直したり、規則の変更を模索したりするだろう。)

また、私たちは、「2、4、6、8、10、12」の次にはどんな数がくるか、という問いに対し、「16」がくるとはふつう思わない。その理由は慣習という点にあるというよりも、そうした「任意の数を入れよ」といった問題が数学の出題として意味をなさないこと、そうした設問を問題作成者が出すはずがない、といた「信憑」がその不可疑性の根拠となっているからだ。


■「私的言語」批判

私的言語とは、自分のある特別な内的体験を指すために用いられる自分専用の言語のこと。これは、≪言葉の意味とは意識内容である≫という主観主義的な意味理解の立場を批判するために、ヴィトゲンシュタインが考え出した想定である。次のような「感覚日記」がその典型だ。

「私には或る感覚が繰り返し起こるので、私はそれの日記をつけようと思う。そのために私は、その感覚に記号「E」を結合し、そして私は、その感覚を持った日には、いつでもカレンダーにその記号を書き込むのである」(§257)。

だが、ヴィトゲンシュタインによれば、こうした私的言語は成り立たない。「私」がその語と感覚との結合を心に刻みつけたとしても、その結合を記憶しているのは「私」だけであるから、その結合の正しさを保証するものは何もない、と言うのだ。

この批判の仕方はあらかじめ言語の「客観性」を前提している点で、十分なものとはいえない。けれども、≪言語とは公共的なものであり、完全に私秘的な言語などはない≫というヴィトゲンシュタインの主張は基本的には正しい。というのも、言葉の存在意義とは他者との意思疎通を基本としているものだし、また、私たちが自分の内的体験を反省する場合でも、それは言語という公共的なものの習得がすでに前提となっているからだ(言語習得以前の赤ちゃんは、内的感覚をもっていても、それを「反省する」ことはできないだろう)。

たしかに、純粋に私的なものだけで成り立つ言語はない。けれども、言語の本質は、≪一般的なものと私的なものとの絡みあい≫にこそあると見るべきで、その点では、ここでの私的言語批判は、片手落ちの指摘にとどまっている。たとえば、文学というのは、一般的には言い表しがたい内的な事柄を、あくまで一般言語を介しつつ表現しようと試みる言語ゲームだといえる。つまり、言語とは、私的なものを伝えたい・共有したいという関心・欲望によって成り立っているのだ。また、そもそも発生論的に考えれば、言語はかならず最初は私的なものの「表出」であり〔⇒吉本隆明の「自己表出」の議論が示唆的〕、それが共有化されることで公共的な言語が生じたと言える。


■「痛み」:私的体験について

ヴィトゲンシュタインはさらに、言葉の意味に関する主観主義を批判するために、「痛み」という事例を持ち出す。もし、言葉の意味が対象との対応関係によって決まるなら、そもそも、内的体験といったことは公共的な言語としては成り立たないだろう。なぜなら、その対象(=内的体験)を直接に確かめられるのは、当人だけなのだから。それゆえ、痛みといった内的体験を表すとされる語も、基本的には自他の「ふるまい」を通じて、意味が成り立っていることが主張される。

ヴィトゲンシュタインによれば、「私は痛い」という発話は、私の感覚の直接的な「記述」ではなく、泣いたりわめいたりといった自然な身体的「表出」(ふるまい)の代理である。他人はこの「私」の発語を、「やさしくしてくれ」等々の訴え、懇願と受け止め、「なんとかしてやらなければ」「かわいそうに」等々、何かしらの対応をとったり、態度を示そうとする。こうした応答関係が「痛い」という語の言語ゲームを成り立たせている。要するに、「痛み」といった内的体験であれ、その語の意味は、言語ゲームの成立に依拠しているのである。〔⇒ヴィトゲンシュタインは、「痛みのふるまいがなければ痛みなど存在しない」、と言おうとしているわけではないことに注意。〕

〔*ちなみに、「痛み」という語の「獲得」に関しては、永井均『ウィトゲンシュタイン入門』(ちくま新書)の次の箇所がその事態をうまく言い当てている、と報告者(小井沼)は思った。「正常な成人に関しては、たとえば歯が痛いかどうかを、自分だけが知ることができ、他人は知ることができない(略)。言葉を覚える以前(あるいは途中)の子供に関しては、事情は逆なのである。そういう子供に関しては、たとえば痛みを感じているかどうかを、他人(大人たとえば親)だけが知ることができ、自分は知ることができない(略)。大人は子供の置かれた脈絡(前後の状況)と表出(外的な振舞い)から「痛い」という語を教える。だから子供は、痛いとはどういうことであるかを自分自身の事例からのみ学ぶ(他にどんな事例がありえよう)にもかかわらず、自分自身のどのような状態が「痛い」と言われる状態であるのかを、他人から教えられてのみ学ぶ(他にどんな学び方がありえよう)のである」。なお、この指摘は、他の感覚言語、感情言語にもみな当てはまると言えるだろう。〕


■言語の現象学:「信憑構造」としての言語行為


竹田さんは、『言語的思考へ』で、現象学的な「本質観取」の方法を用い、言語(ないし言語行為)の原理論を展開された。(なお『現象学は<思考の原理>である』(ちくま新書)三章でも、同書の内容がコンパクトに解説されている。)そのエッセンスは以下のとおり。

○ソシュールの言うように、人間の言語活動には、ラングとパロールという二つの次元がある。一方の「ラング」とは一般的な言語規則のことであり、他方の「パロール」とはそのつどの言語ゲームのなかで遂行される言語行為のことである。両次元の関係は次の点にある。語の一般規則が確定されていなければ、われわれは言語的なコミュニケーションを行うことができない。しかし他方で、語の一般規則はそのつどの言語行為が積み重なり、その集合的な痕跡として成り立っている。

○ラングとパロールに対応する仕方で、言語の「意味」には二重性がある。つまり、「語」がもつ一般的・辞書的な意味としての「一般意味」と、実際の言語行為の場面のなかでわれわれが了解しようとしている発語者の言葉の「意味」(=「企投的意味」)」である。

○以上を踏まえると、言語行為の基本関係は次の点にあることがわかる。一方の話し手のほうは「語の一般意味」を利用しつつ、自分のそのつどの「企投的意味」を他者(聞き手)に投げかけようとする。他方、聞き手は、話し手が発した言葉を介しつつ(聞き取りつつ)、その話し手の「言わんとすること」を“めがける(=志向する)”。そして、話し手の言わんとすることが「分かった」という確信(信憑)が成立することで、そのつどの言語コミュニケーションは成り立つ。

○たとえば、「空が青い」。この発話の“字義通りの”意味は誰でも分かるが、それによって、話し手が「何をいわんとしているのか」は、様々でありうる。「雨でなくてよかった」「すがすがしいなあ」「空は青いのに、私の心は暗い・・」などなど。この企投的意味の読み取りは、そのつどの状況やその会話者同士の関係性など、様々なコンテクストに依存している。かくて、そのつどの言語ゲームの意味は、「信憑構造」として成り立っているのだ。(なお、ヴィトゲンシュタインは「意識主観」という場を排除するがゆえに、この点に関する考察が抜け落ちている。)

○言語の意味が多義的である所以は、個々の言語行為はそのつどの「企投的意味」を含むが、それは言語の「一般意味」とズレる、という事態にある。また、うそがつける、誤解を招く、他人の言葉に疑いが生じる、などといった事態は、言語行為が「信憑構造」から成り立っていることが土台になっている。


■まとめ:言語ゲーム論の現象学的刷新に向けて

ヴィトゲンシュタインは、言葉の意味の根拠を「事実との対応関係」に見いだそうとする客観主義も、それを「意識内容との対応関係」に見出そうとする主観主義をも、ひとしく退ける。そして、「具体的なそのつどの言語使用」(=言語ゲーム)こそが言葉の意味である、と主張する。これは、言葉の意味が、そのつどの言語実践における関心や必要性、様々な状況コンテクストに依拠していることを明確化した点ではたいへん画期的なものだ。

しかし一方で、ヴィトゲンシュタインでは、主観性の場を退けるがゆえに、(せっかくその言語ゲーム論がうちに秘めている)「欲望相関性」の視点が曖昧なままだ。その結果、言語ゲームとは事実的な慣習である、という帰結になってしまう。だが、この考えではルール(規則)の「編み換え」といった事柄が積極的に語りえなくなるし、ひどくとれば、(「様々な慣習が並存しているだけ」といった)相対主義的な立場に援用されてしまいかねない。

言語ゲーム論は欲望や必要という現象学的な観点を導入してはじめて、有意義なものとなるはずである。近代とは、人類史上はじめて、人間の社会が自然秩序でも聖なる秩序でもなく、多くの人間によって“構成された”ものに他ならないことが自覚された時代。だからこそ、社会を「様々な言語ゲームの束」「ルールの網の目」と捉えることには、大きなメリットがある。言語ゲームという発想は、既存の社会の諸制度を分析し、また、よりよい社会を構築していく上での原理的な方法論としてこそ、その真価が発揮されることとなろう。