欲望論インタビュー②

実存論・第2部「欲望と身体」第3部「幻想的身体」への構想


現象学、「普遍洞察」こそがその発想の要。

犬端
 現在執筆中の「欲望論」の「予告編」としてのこの企画。第2回目は、現象学の方法を、人間的意味や価値の問題へ展開するための足場として、欲望論、身体論がどのような形で構想されているのか……というところに、いよいよ踏み込んでいきたいと思います。

竹田
 そうですね。今日の話の一つの柱として、まず現象学からどのように欲望論が出てくるのかということを考えてみましょう。

 フッサール現象学の根本のアイデアについては、まだまだ理解されていないところが多い。30年程前にポストモダン思想が隆盛になって以来、ヨーロッパでは現象学はもう過去のものだという風潮もあります。しかし、前回強調したけれど、現象学の中心課題が認識問題の解明にあり、それをほぼ完全になしとげているということについては、欧米の現象学者といわれる人々にさえ、ほとんど理解されていない。その理由はいろいろあって、このところかなりはっきりしていたけれど、一言だけ触れておくと、フッサールの直接の弟子といえる、ハイデガー、そしてフィンク、ラントグレーベ、そのまた弟子のヘルト、同伴していたとされるシェーラーなど、有力な現象学者たちが、ほぼすべて、フッサール現象学の基本方法から離反したということが何より大きな原因です。このうちの誰も、フッサールの現象学的還元、本質観取、本質学という最も重要な方法に疑義をおいた。その最大の理由は、フッサールにとっては最も核心的だった、認識問題の解明という課題を十分に理解できなかったためです。ここにフッサール現象学の中心的課題があるという考えは、おそらくまだ私と西研さん以外にはほとんど出されていない。

 まずその第一のポイントは、近代認識論の謎を解いたという点にあるんです。
 現象学は、方法的独我論によって一切の認識は主観の確信、信憑であり、それが間主観化されることで客観認識が成立していると、とらえます。この考え方は、それまでヨーロッパ哲学の伝統だった、主観、客観の認識構図からの画期的な展開だった。いったん主観にすべてを還元したうえで、主観の確信がどういう条件をもてば、誰にとっても動かしがたいもの、客観認識といえるものになるのかということを追いつめてゆく。そのことによって、主観と客観の一致は論理的にはあり得ない、という哲学の難問のいちばんやっかいな難問を解除し、それまでの古典的な真理概念を解体した。そして、普遍的な認識というものがどう成立するのか、なぜ自然科学が客観認識と呼ばれているか、その妥当性についても説明をした。これが現象学のいちばんの功績だといえます。

 認識問題を解くことを第一課題とするフッサール現象学の最も重要な動機は、哲学的な普遍洞察の発想を建て直そうとすることにあります。どんな事柄でも、このことについては、誰が考えても、こう考えるのが妥当だ、あるいはこういうふうにしか考えられない、という考え方のすじみちを見出してそれを追いつめてゆき、それを共通了解として打ち立てる。このような仕方で普遍認識を創り出してゆくこと、これが哲学にとっての最も重要な本義であり、それを西さんは普遍洞察性というたいへん適切な言葉で表現しました。まさしく普遍洞察の方法として、哲学は近代の初めにもういちど己れを建て直したのです。しかし、認識問題の本質を十分に解明できなかったために、一方で実証主義があらわれて自然科学の方法がすべてを解決してくれるのではないかという誤解のもと、哲学は認識論の謎と二元論の謎に落ち込んで、先へ進めなくなってしまった。また一方で、自然科学の方法を頼りにした実証主義的な人文科学が現われ、ここから伝統哲学を形而上学として批判する流れも現われてきます。

 すごく簡単にいうと、自然科学の客観認識は、いわば自然に数学の網掛けをすることで可能となったものです。そもそも数の秩序、数学の秩序というのは、細かなニュアンスを全部取り払い、だれしもが共有できる秩序、いわば明確な規定性の秩序として編まれているので、すべてをその網の目のなかに投げ込み、この網の目の編み方に一定の合意を作り出しておけば、そこにいわば自然存在についての「厳密な共通了解」が成立することになります。フッサールはこの近代自然科学の方法の核心を、「自然の数学化」と呼びました。

 ところが人間の問題、大きく言えば人間的諸関係の問題、社会関係の問題、さらに言うとこの関係から生成してくる意味と価値の問題については、──これこそが人間と社会を考えるための根本的契機ですが──数学、数式の秩序で網掛けをするのはほとんど不可能であり、別の方法をとらなくてはいけない。人間的な〈身体〉の共通性、つまり類身体性に対応して一定の共通性を形成する自然世界の秩序については、数学化された認識が可能だけれど、さまざまな利害と意志と価値観がせめぎあう関係的網の目としての社会の認識においては、数学的認識はほとんど無効です。自然の因果は一定の枠組みをおけば一義的に捉えられるけれど、人間世界はいわばきわめて複雑な要素が絡み合うゲームの束であり、それを数学的に秩序づけることはできないのです。自然世界の共通認識は、自然の数学化によって可能となった。しかし人間世界の因果は一義的なものではなく、その共通認識を創り出すにはまったく別の手を考えなくてはいけない。

 フッサール現象学は、つぎのような立場から出発します。人間世界の普遍認識を創り出すポイントは何だろうか。人間の歴史の中で、ヨーロッパ近代がはじめて、自然科学の方法によって自然の厳密な客観認識を打ち立てることに成功した。その方法は自然の数学化ですね。しかしこれは自然それ自体の正しい認識、という意味での「客観認識」ではない。自然の量と質とを数式によって計量化する方法を作り出した、というのがいい。認識論的には、自然世界“それ自体”というのは認識対象としては考えられない。ニーチェは端的に、「客観世界はまるきり存在しない」といい、フッサールは「客観世界」の存在という観念は哲学的に“背理”であるといいました。その意味はこうなる。人間は人間の身体-欲望に相関的に“世界”を分節する。世界を分節すること、これが世界を認識することの根源です。認識するとは、世界を分節、区分するだけでなく、肯定性と否定性に分け、この区分を展開して複雑にしてゆくことです。人間は人間の分節した世界を間主観的に創り上げる。さまざまな動物はその動物の「欲望-身体」に相関的に世界を分節する。つまり「世界」は生き物の数だけ経験される。この状態を鳥瞰的にながめるとこのさまざまに経験される世界の本体が存在するように思える。なるほどそう考えるのは自然の理です。しかし、この「本体」としての世界は、逆に言うと、まったく何ものによっても経験されず、生きられることのない世界、まさしく想定されるだけの世界です。だから、客観世界が存在する、というときの客観世界は、実在としての世界ではなく、その想定が不可避であるような「世界」です。「本体」としての世界は、本質的にただ可想的であって、“現実的存在”ではない、まして認識可能性をまったくもっていない。

 自然科学の描く自然としての客観世界は、したがって人間の経験の総体をコードして間主観的な共通性として抽出したものです。しかしそれでも、自然科学の方法には、普遍的な認識がどのような本質によって成立しているかの核心が潜んでいる。これをもう一度整理すると、自然世界の経験の総体を、数学的構図として再編成することです。なぜこのことが客観認識を成立させるのか。ここで数が果たしている役割は一つです。数は、事物の経験的性質を徹底的に単位化して、これを単位的に量化(定量化)する。このことで、すべての人間の間に、自然の性質の定量的構図を形成する。
 「1」は概念です。概念なのでいろんな意味をそこから取り出せる。「1」は全体であったり、「単独」であったり「唯一性」であったり、「両方」の片側であったりする。だから「1」という概念で意味の厳密な同一性を作り出すことはできない。しかし「数学」では、「1」は、厳密に同等の「単位性」と「順序性」としてのみ限定される。「自然の数学化」は、こうしてだれにとっても、1メートル、1キロ、1ワット、1ルクス、1度は、まったく同じものとして規定される。この「誰にとっても」の基準を作り出せるかどうかが、客観認識、あるいは普遍認識の創出のカギだった。

 さて、近代の人文科学はこの自然科学の客観認識の方法を、人間的諸関係、社会の認識に適用できると考えた。しかしこれは無理です。人間的関係、社会関係、これは「定量化」できない。あるいはわれわれが把握しようとするもっとも重要な問題は、数式的に「定量化」できない。なぜか。自然の諸性質が定量化できるのは、それがとりあえず不変の実体-構造であると想定されているからです。
 しかし人間的関係、社会は、不変の実体-構造であるどころか、まったく異なった本質をもつ対象、すなわちつねに変容しつつ生成する、意味と価値の変成体(ネットワーク)だからです。これをフッサールは、自然科学は「事実学」の領域だが、人間と社会の問題は「本質学」の領域であるという言い方で表現した。要するに、人間の問題、社会の問題、文化の問題を認識することは、ある事実を認識することではない。人間どうしが生成していることがらの本質を、間主観的な正当性を確保しつつ認識することである。これがフッサールの構想であってきわめて正しいと思います。
 こうして、世界を「本体」として捉えるという発想をすべて棄却し、人間的問題の本質を普遍的に捉えるにはどのような方法が必要かを考えねばならない。そのためには、認識の方法が、独断論や「物語」ではなく、誰もが、これについてはこう考えるほかはないという仕方で進んでゆかないといけない。フッサールは現象学の本質観取の考えがその根本的な基礎となると考えたのです。


犬端
 いかに正しく認識の仕組みをとらえていくのか、つまり認識の真理をどうやってとらえるのか、という「本体論」的発想をやめにして、ものごとを既にそう確信してしまっている事態により添ったうえで、何をもとにその確信が自らのうちで形成されているのか、その仕組みをだれもが自分の体験になぞらえ確かめ合っていけるよう記述していった……ということが、現象学の発想の要としてある。


竹田
 そうですね。なぜ確信成立の条件の解明が重要かというと、すべては、いかにして人文科学の領域での共通了解を、すなわち間主観的-普遍的な認識を作り出せるかという方法論にかかわっているからです。自然科学の認識の客観性(普遍性)の要諦は、自然の秩序の総体を数学的に記述する方法を作り出したという点です。しかし、自然科学では数学化はうまくいきません。どうすればよいか。第一に、世界像の信憑構成の本質を解明して、どのような条件で信憑は同じ形として成立しうるのかについての基礎構造を明らかにすることです。しかし次に困難な問題は、そもそも人間と社会は、事実的な存在性ではなくたえず変化する意味と価値の網の目です。ここからどのような発想で、共通認識、普遍的認識の可能性を見出してゆくのか。これがつぎの困難です。そのポイントは、現象学的還元がいわば世界の一切を主観の「信憑」に還元するだけではなく、一切の対象を「意味」へと還元するということを含んでいる点にあります。

 その基本構造は非常にシンプルで、内在意識(わたしは、内在意識とか純粋意識という言い方は誤解が多いので「現前意識」という概念に変えていますが、それはさておき)のなかに到来してくるさまざまな所与から、フッサールの言い方ではノエシス、対象の「志向的意味」が構成される、とされる。向こうから現われてきたものが、そのつどさまざまな対象(事象)の確信として構成されてゆけれど、それはつまり対象の意味性がそれぞれの強度をもって構成されると考えられている。このことで現象学は世界をいわば「意味の束」に還元する方法といえます。そして、この「意味の束」は、事物ではなく、事象やことがらの本質ということにつながっているのです。

 ひとつ例を上げてみます。「よい」という言葉は「善」という哲学の重要な主題ににつながる言葉ですが、この「善」の本質が何であるかと問うと、それだけで、哲学の歴史では、はじめにプラトンがこれこそ一切のイデアのイデアであると言って以来の大問題になっている。いろんな考え方が現われて、とうてい正しい答えが導けそうもない。しかし、現象学の方法からは、「よい」という言葉がわれわれの世界でどのように使用されているかを考えることから、だれもがこの言葉を使用したり理解したりするときに含意している「意味」の核心を、共通了解へ向かうような仕方で取り出すことができます。じつはこれは『欲望論』で展開される主要な主題の一つです。ここでは詳しくいえませんが、「善」の間主観的本質を洞察するには、その基体となっている「よい」の意味の本質を洞察する必要があり、このためには、言語ゲームの中で「よい」がどのような使用をもっており、どのような展開を進んでゆくかという発生的言語ゲーム論が必要です。そういう方法は現象学の方法的原則からはじめて出てきます。

 現象学者の中には、フッサールは「還元」の概念を、あっちではこう言い、こっちではこう言いという感じでよくわからない、という言い方をする人もいますが、フッサールはその主な著作で、『現象学の理念』から始まり『内的時間意識の現象学』でも『イデーン』でも、そして「危機」等々でも、ほとんどの場面でずっと一貫して「本質観取」をしています。自分自身で内省をし、本質を取り出しその実例を示している。まずそのことがほとんど理解されていないために、きわめてありきたりなのは現象学は独我論であるとか、他者がいないとかいう批判です。そんなことをいう学者にかぎってその理論は、普遍的認識に近づく方法をもたない独断論的な思いつき以上のものを出せない。認識の普遍性ということを真剣に考えたことがないからです。

 わたしから見ればフッサールの仕事は、近代哲学の流れの中で決定的なもので、古典的な認識論、その強固な土台になっていた「本体論」の解体という点で、ニーチェに続く仕事です。これについてはもう他の哲学者はほとんどダメで、カントもヘーゲルもショーペンハウアーも、そのあとの新カント派もすべて本体論を土台にしているのです。現象学のもっとも重要な意義は、自然科学の客観認識の本質の考察を推し進めて、人間世界の関係的な原理、すなわち意味と価値の原理を哲学的な普遍洞察性として把握するための発想と方法を切り開いた点にある。まずそのことをはっきりさせたいというのが、この本の第一のねらいです。

 近代の科学の領域では、自然科学の方法が確立され、いわば普遍洞察ということが確立された。そこで、社会の問題、人間の問題についてもこの方法でいけるのでは、ということになったわけですが、結局うまくはいかなかった。そうした状況を打開していくために、フッサールは現象学の方法を作り出し、原理論としてはほとんどうまくいっている。まずそのことをはっきりさせなければいけない。そのことが、この本の一つのねらいとしてあります。

 それがこの目次でいえば、第一部にあたりますね。



欲望論、意味と価値の原理の確立をめざして。

竹田
 それでいよいよ欲望論の内容に入るのですが、全体の構想はこんな感じです。
 まず「社会」のほうから考えてみると、社会の哲学的基礎理論は関係構造についての原理論でなければいけない。

 社会を実体ではなく関係として捉えるという発想は、構造主義など現代思想でもすでに言われてきたわけですが、構造主義での関係論というのは、基本的に、フロイトの無意識理論を関係論に置き換えたもの、すなわち無意識的な関係の構造を見出すという考え方で、そもそもフロイト理論がどこまでもひとつの仮説にすぎないように、そのままでは現象学的な普遍洞察につながる可能性はまったくもっていない。

 そもそも人間関係というのは実体がないものであり、その“関係の構造”を強引に仮説化するとさまざまな理説が現れて対立してしまいます。そこで私のプランは、「関係の構造」というとき人間世界は一切は「言語ゲーム」として構成されているという出発点をおき、そこでどのように意味と価値が生成するか、という発想をとります。意味と価値が現われる源泉は、最も基底では〈身体-欲望〉と対象との欲望相関性ですが、人間世界では人間関係がそもそもルールの網の目であり、人間世界の意味と価値はすべてこのルールの諸関係において生成します。そこで、はじめに意味と価値についての本質洞察をおいておく必要がある。

 フロイトの深層心理学理論は、人間の心を、一方で有機体の生理学的力動構造とみなして、自我、超自我、エスという機能的な構造を想定し、その関係リビドーエネルギーの力学関係によって描きます。しかし心身二元論問題が解明されていないので、どこまでも推測的な「物語」にすぎない。フロイトのエディプス・コンプレックスも、ラカンの「対象 a 」もけっして確証されえない。しかし、人間の中で意味と価値がどのような本質関係をとっているかは、われわれの経験それ自体から内的に洞察されるので、取り出された“構造”は、広範な検証によって“訂正”されより説得的な構造に書き替えられる可能性をもっている。問題なのは、心的な構造を、事物的構造によって比喩したり換喩したりせず、心的事態の基礎構造を表現する適切な術語を設定することです。エロス的力動、エロス的二項、快-不快原理、エロス的可能性-不安、情動-衝迫 目的指標、企投、成就と挫折、判断と確証、疑念、再確証などが、心的存在(「欲望-身体」)の行動原理となる術語です。


 現象学的な認識論は、客観世界をいったん独我論的に自分の確信に還元するわけですが、欲望論も同じように、意味と価値の生成のありようを、いったん個々の実存の体験へと還元したうえで、こそで対象や体験の意味と価値が、どのように生成し、どのような関係と構造をとるかを内省によって観取してゆくのです。この関係の洞察は、原理的には誰でも遂行でき、誰でもある構造として観取できる。そしてそれは「物語」あるいは形而上学的独断ではないので、まったく背立的な、調停不可能もなのとしては現われない。これが現象学的な本質洞察の方法の基本です。このことで、伝統的に生き延びてきた世界の本体論をすべて棄却することができる。

 20世紀初めの社会学は、その出発点から社会の本体論になっている。たとえばデュルケムは完全にそうだしスペンサーも同じです。社会の実体説、あるいは本体論的な考えは少しずつ疑念にふされ、修正されてきてはいますが、社会を実体論的に認識する方法がなぜおかしいのかということを根本的に考える方法が、社会学からは出てこない。例えばルーマンや、パーソンズのシステム論などは、古典的な本体論に対してさまざまな修正を試みているければ、根本的にはシステム論の発想自体が本体論的です。社会というものそれ自体を、どのような高度なモデルによってとらえられるか、という発想の中にある。社会学の理論は、マルクス主義が現われて唯一のただしい世界観を主張すると、その普遍的妥当性は疑問に付され、マックス・ヴェーバーの対抗があり、さらにフランクフルト学派が現われ、ポパーが参戦して認識論的議論になりますが、大きくいえば、独断論と相対主義の枠組みを根本的に超え出ることができない。

 近代の本体論は事情がやっかいです。近代哲学はキリスト教を打ち倒した。しかしはじめに現われたのは、教会とその擁護派の超越神論に対抗する理神論と汎神論です。イギリス、フランスでは啓蒙主義と合理主義的唯物論が主流になったけれど、ドイツでは、理神論と汎神論がヨーロッパ哲学の主流を作った。フィヒテ、シェリング、ヘーゲルです。ヘーゲルの死後もまもなく、実証主義の潮流(コントを先駆けとする)が現われます。汎神論は超越神論を打倒したが、汎神論は実証主義によって打倒される。社会科学とマルクス主義、そして実証主義諸科学が現われるわけです。しかし理解できるはずですが、この近代合理主義の展開は、実証主義的本体論を強化しました。認識論的には、ニーチェとフッサール現象学だけがこの問題を解明していたけれど、これはほとんど受け継がれなかった。そのために二十世紀は、その素朴な実証主義的本体論への対抗として、相対主義を軸とする分析哲学が主流になったのです。


 事物世界の認識においては、すなわち自然科学の領域では、その限界的領域ではさまざまな疑問が現われているけれど、それでも本体論的な(すなわち客観主義的な)前提はなんら問題ではなくむしろ合理的です。しかし、社会の問題になると事情はまったくちがってくる。


 ところが社会とは何かということについては、本体論では語れない。認識論的な議論をおいても、社会は一つの実体ではない。事物的実体でもなければ、有機体的実体と捉えるのも本質からはずれる。社会の本質は、集合的なゲームととらえるのが最も妥当です。というかこれまで現われた社会の本質の中で、いまのところこの考え以上に妥当な考え方はまだ誰も提出していない。これは誰が出したか、ルソーであり多少の留保つきでヘーゲルです。高度な有機体だとか、高度なシステムであるとか、あるいは権力や支配の、あるいは統治の道具であるとかという「原理」が出されたけれど、どれも極めて一面的です。

 社会は集合的ゲームである、という考え方は、社会の本体を言い当てるものではまったくない。社会は集合的ゲームであるという考え方によって、はじめて人間は社会というそれまで不可視だった環境性を、可視的で対処観念のなものにすることができる、ということです。ポストモダン思想は、マルクス主義の基本発想をうけて、社会は支配の巧妙な道具であるという像をいやというほど描き出したけれど、不思議なことに、そのルールを改変すれば社会は変革できるというマルクス主義の考えは捨ててしまいました。ルールをどのように変えれば変革可能かという展望についてのマルクス主義に代わる原理を探し出せなかったからです。つまりこの奇妙な社会の像は、挫折と絶望の所産です。ポストモダン思想の複雑精緻にみえる社会原理よりも、ルソーの簡明極まりない社会原理がはるかにすぐれているのです。

 社会は集合的ゲームであるとみなした瞬間、社会はさまざまなレベルのゲームとルールの束であるという観点が現われます。最も上位には、政治のルール権限(政策や法律)についてのゲーム(政治のゲーム)があります。それから社会生産を規定する経済のルールがあり、日常生活を規定する習俗のルールと文化のゲームがある。これらは複雑に絡み合っているけれど、しかし追いつめればルールの束であり、さまざまなレベルでの約束と合意の集積(まさしくルソーがいったように)です。

 社会は支配の道具であるという考えは、社会は支配の道具でありうるという側面を拡大した馬鹿げた誤謬です。なぜそれが馬鹿げているかといえば、社会は支配の道具である、と規定したとたん、社会の正当性や、また支配の批判の正当性という問題を追いつめることができない。するとどうなるか、事態は明らかであって、さまざまな立場から不満と批判があちこちからでてきて、世の中は不平不満の塊になるけれど、にもかかわらずどの方向へ社会を動かすべきかという方向をけっして作り出せないからです。哲学は、社会の存在の正当性の原理をおいつめます。ポストモダン思想はそもそも原理といった考えを危険なものとして捨ててしまったので、相対主義的な批判しか出せない。ばかげたことで、一見華々しいけれどけっしてどこにも行き着けないのです。社会の理論は、初めに大前提を立てる必要がある。社会とは何であるか、ではなく(これは本体論でする)、人々にとってよい社会を作り出すその原理は何か、です。そしてはじめて、この場合「人々にとって」とは何を意味するか、とか、「よい社会」とは何かを、その正当性と妥当性を少しずつおいつめてゆくことができる。この考え方をとれないかぎり、どれほど批判がラディカルであっても、その思想は、社会の現実に“敗北”するほかはないのです。

 社会の問題はおきます。哲学はできるだけ基礎から積み上げてゆく必要がある。人間の世界は、普遍的な承認ゲームの世界(実力のゲームをともなった)です。この複雑なゲームの中はまたさまざまなルールの束からなっており、それが人間世界の多様な意味と価値の関係を生成しています。哲学が出発すべきは、したがって意味と価値の生成の最も基礎的な場面であり、そこから洞察される他者関係の意味論、価値論です。それはどの場面か。ヘーゲルはそれを、主奴の戦いという関係の場面に設定しました。これは素晴らしいアイデアだったけれど、私はむしろ母-子関係へ置きなおすべきだと考えます。
 意味と価値の関係的な発生論(現象学的発生論)は、歴史的発生論ではなく個体的発生論をとる必要がある。歴史発生論は憶測的部分を多く作り出すのに対して、個体的発生論はだれにとっても想像的な本質洞察が可能だからです。

 人間の世界は幻想の世界であって、そこで生成する意味と価値は、動物世界のそれとは大きく異なった原理として現われてくる。 動物の世界における意味と価値は、「欲望-身体」の快-不快原則と、対象世界(環境世界)とのほぼ一義的関係から現われます。「欲望-身体」にとって対象と世界の意味は、比喩的に言えばすべてルールによって規定されたゲームの中で現われるエロス、架空の、幻想的エロスです。そのプロトタイプは母‐子関係の中での「禁止」です。 母親は、危険なこと不潔な対象に対して禁止を与える。人間の初めのルールです。このルールを守ること守らないことで、「よい」と「わるい」の価値の審級が現われる。そして両者の関係感情のうちで「よい」は快を「わるい」は不快を生成する。動物には「よい-わるい」の審級は現われない。恐れと安心があるだけです。しかし人間世界は、この始元の禁止が生成する「よい-わるい」が一切の世界分節の基底になる。つまり一切の価値の基底になるのです。

動物の欲望は身体に固着した欲望(欲求)です。ところが人間の欲望は「よい-わるい」にかかわる欲望、つまり他者承認にかかわる欲望です。この関係的欲望のありようが、人間世界の価値関係の、したがって意味の連関の基本になる。

 意味や価値の理論はキリスト教の没落のあと、哲学的にはいろいろ出てきた。一つは19世紀の半ばから二度目の科学革命が現われ、これに呼応して実証主義が隆盛になったとき、これへの哲学的対抗としてドイツで新カント派などが出てきた。ヴィンデルバント、リッケルト、それから少し遅れてシェーラーなどですが、カントの実践哲学を手掛かりに意味と価値の問題をもういちど建て直そうとした。しかしここでも価値の本体論を拭い去ることができず、うまくはいかなかった。

 価値の本体論を解体できないと、どうしても価値の普遍的基準としてなにか超越的なものを拠り所として求めざるをえない。象徴的なのがシェーラーで、彼はもともと現象学から出てきた人ですが、価値の源泉としての「神」にまた戻ってしまった。ハイデガーの場合も同様で「神」ということは言わないにしても、存在それ自体が価値の源泉だという全く似た「神なき宗教」のような構図に戻ってしまう。驚くべきことにハイデガーを批判してでてきた、レヴィナスも同じで、ここでは「他者」という観念が超越項として置かれ、倫理の絶対基準にされるわけです。価値の根拠の絶対化、超越化でこれはニーチェが激しく批判したものです。

 もう一つの試みが言語哲学、分析哲学で、あらゆる価値は言語から出てくるわけなので、言語の構造を考えなければいけない、として展開していくわけですが、言語の問題をいくら考えても、価値や意味は必ずある不可思議なパラドクスの中に陥ってしまう。


 私の立場からすると、意味や価値の問題に対して、本体論ではなく本質論として洞察しようとするなら、ニーチェの立てた力相関図式、つまり欲望相関性の構図から出発しなければいけない。それが欲望論の原理のいちばん中心となるものです。ただし、ニーチェには、認識論的問題意識がなかったために、この力相関図式は、生物学的な生の拡大へと向かう「力の意志」という根本仮説と一つになっている。「力意志」仮説は、どことなくフロイトの「リビドー仮説」に似ているし、進化論的仮説とも似ている。この点に対処するためにフッサールの方法が不可欠です。

 ところがフッサールはフッサールで、また大きな弱点をもっている。ひとことでいうと、フッサールの現象学は一切を対象の存在「意味」に還元するので、意味の普遍理論としてきわめて根底的ですが、価値の問題をうまく取り扱えない。人間が意味と価値を生成する最も基礎的現場は「生活世界」ですが、フッサールは「生活世界」の概念は出したけれど、その中で生成するエロス性や価値の問題を扱う術語系がないのです。知覚-認知-認識-意味というのがフッサールの基礎的な術語系列です。

 さっき触れたシェーラーやハイデガーがフッサールに対してもった最も大きな不満はそこにありました。ただここでも本体論が生き残っているために、シェーラーは価値の本体論に行き、ハイデガーは「存在の真理」の形而上学へ進みます。人間的価値の問題を重視しようとする彼らの動機そのものは妥当だけれど、本体論はどうしても解体されない。本体論の解体は普遍洞察としての哲学にとっていま最も重要な課題です。ニーチェとフッサールがこの課題について大きな仕事をしたのだけれど、現代哲学ではこのことはほとんど理解されておらず、受け継がれていないのです。分析哲学、ポストモダン思想は、本体論の問題を解明できないために、総じて「不可能性」や「自己言及」のパラドクスの迷路に入り込んでいる。


犬端
 それで、価値の本質論を欲望論に立ち展開していくうえで基盤となるのが、3部で扱おうとしている「幻想的身体性」……というわけですね。


竹田
 そうです。フロイトの提出した「無意識」の概念は、一つの新しい人間論の領域を開いた。そのことは誰も認めざるをえない。フロイト理論は、ちょうど近代哲学が、「社会」がルールの束であり、その構造を把握できることをを明らかにしたように、人間の心身がある意味でルールの束であり、その構造を把握できることを示したという点で、きわめて重要な功績をもっている。
 ところが、フロイトの論理構成には重大な欠陥があった。それは、「無意識」の構造を解釈するのは誰か、という点に現われる。分析者は人間が気づくことのできない人間の内的構造を洞察する。しかしその洞察の正しさ、妥当性は、まさしく無意識の領域であるがゆえに誰にも検証できない。禅の悟りのゲームと同じ構造が現われる。

 象徴的にいえば、フロイトの精神分析理論はポストモダン思想に次のようなような仕方で輸入された。「人々は自己の主体性がじつは何ものかに規定され拘束されていることに気づかない」「主体は存在しない」「主体はあらかじめ簒奪されている」。これは思想的には終わりです。この拘束と規定を知っているのは特権的な見者、つまり知的僧侶階級だけだということになる。これではせっかくのフロイト思想の意義は無に帰してしまいます。

 フロイトの「無意識」の理論を現象学的-欲望論的に編み変えると現象学的「身体論」に、もっというと「幻想的身体」の理論になります。これはフロイト理論に抗してメルロー=ポンティが構想したけれどうまくいかなかった。メルロー=ポンティの根本のアイデアは心身の相互滲透という観点だけれど、これは心身論の一つの解明にはなるけれど、エロス論、価値論には進まない。「幻想的身体」の理論は、一言でいえば人間の価値感受の構造の発生論です。すなわち、倫理感、美意識の構造的発生論です。言い方を変えると、われわれのうちの「よし悪し」「きれいきたない」「美醜」の感受的ルールの形成の本質論です。価値の理論、エロス性についての哲学理論は、哲学にはまだほとんどありません。系譜としては、プラトン-ニーチェ-バタイユがこの領域の可能性を少しずつ開いてきたのです。

 フッサールが構想した「事実学」ではなく「本質学」へという道を推し進めるには、認識の理論、あるいは実証的な社会科学の理論ではなく、エロス論と価値論が必須です。しかし分析哲学はウィトゲンシュタイン以来、倫理と審美性の問題は捨て去っているし、ポストモダン思想は相対主義なので、社会批判はするけれど、そもそもこの領域の「原理」を立てることを禁じ手にしている。

 幻想的身体論は、身体の本質論ですが同時に「美」の本質論でもある。すでにプラトンが美の問題について最も本質的な問いう立てている。われわれの視覚は単なる「ひかりいろかげ」の感覚なのに、なぜ花や風景から「美」を感じるのか。プラトンはこれを「想起説」で、すなわち「イデア界」における「美のイデア」の想起として説明している。そして現代哲学ではみなこれを本質実在論として棄却している。しかしプラトン説はきわめて本質的なのです。

 『饗宴』でのエロス論はこういう話しですね。人間の「エロース」すなわち「美しいもの」に引きつけられる力の本質を論じていて、それは肉体=容姿の美から、人間の美質へ、美しい行為や営みへ、さらに美しい認識と思想へ、そしてこれらの経験を経めぐってはじめて人間は「美の本質」を理解できると。つまりこれは、美的感受の発生論かつ生成論です。プラトン説は「物語」になっているけれど、これを現象学的-欲望論的発生論として編み直すことができます。

 美の本質論によって、美的なものの「普遍性」の本質に近づくことができます。そして美的な感受の「普遍性」は、芸術や文化や思想の普遍性の根拠の問題に近づくための最も重要な足がかりなのです。この芸術、文化、思想の普遍性の問題がうまくとけないと思想はどんな局面でも、普遍性への挫折から相対主義と懐疑主義におちこみます。それがいま現代哲学と現代思想が陥っている状況です。

 ともあれ、そんなことで、第2部から第3部で構想しているのは、身体論、幻想的身体論、そして価値の審級論、「よい‐わるい」「きれい-きたない」という価値が、いかにして人間世界に生成するのかについての原理論です。しかしその内容については、また次回以降に話すことにしましょう。


犬端
 幻想的身体論は「美」の本質論でもある、という話……なるほど、大切なのはそこか、と思いました。美的な経験、これが「よい」と心動かされてしまう経験に関する共構造を自覚化していくことは、価値の問題を実のある形で論じあえるようにするために欠かせない。そうでありながら、我々はその手立てを得られていない。それがさまざまな局面で「信念対立」を持続させ、相対主義、懐疑主義を乗り越えられないままの現状を生み出しているのではないかと。

 価値審級の形成が現象学的、発生論的にどのように取り出されていくか。そこに期待しながら、次回のインタビューに臨みたいと思います。


(続く)