欲望論インタビュー@

  実存論・第1部「存在と認識の方法」をめぐって

 

 

  現実対抗性をもつ思想とは

 

犬端

竹田さんが目下執筆中の「欲望論」。その構想と展開を先取りしてお伝えしてみよう、というのが今回の企画です。

まず目次として……以下のような内容が想定されているのですね。

 

  (目次案)

序文 →哲学の現実対抗性

第一巻 実存論

第一部 存在と認識の方法

序論 現実への対抗としての哲学

第一章 哲学の問い  (古代哲学の思考)

 01 哲学の始原

 02 始元論

 03 世界理説の二元対立

 04 懐疑論

 05 普遍論者の登場

第二章 認識の謎   (近代の思考)

 01 認識の謎と主客一致

 02 独断論と懐疑主義 カントとヘーゲル

 03 反懐疑論の試み

 04ヒュームの方法的観念論

 05 形而上学の野望

 06ニーチェ的“転回”

 07現象学の登場

第三章 現象学的解明

 01 方法的独我論

 02 確信の審級

 03 フッサール的用語法

 04 ハイデガー対フッサール

 05 先構成批判

 06 フッサール現象学の根本動機

 

第二部 欲望と身体

第一章 「世界」の説明原理

 01 近代二元論

 02 心的なものの自然化

 03 世界の一般構成

 04 認識対象の本質学

第二章〈欲望〉の構造       

 01 〈欲望〉と世界分節

 02快と不快

 03 情動・感情・衝動

 04 存在と真理

 05 意味と価値

 06 生活世界の現象学

第三章 身体性

 01現象学的身体

 02 身体のアポリア

 03身体の再定義

 04 身体の身体性

@ 感受 (快‐苦)(エロス)

A〈ありうる〉

B〈能う〉

 

第三部 幻想的身体

第一章 深層心理学

 01 フロイト批判論

 02 フロイト的諸仮説

 03 深層心理学、現象学、欲望論

 04 フロイトの未来

第二章 生成する身体

 01 エロス的発生

 02 エロス的中心性

 03 世界のエロス的生成

@ 身体エロス

A〈能う〉エロス

B 関係世界

第三章 審級の生成

 01 関係世界

 02 要請・応答・禁止・ルール

 03感受性の生成

 04 審級性 その1 倫理性

 @〈よい-わるい〉

 A 善悪

1)「よい」の諸階梯

2) 倫理学的対立

3) まとめ 

 05 審級性 その2 審美性

@美学的探究

A〈きれい‐きたない〉

B美醜 審美性

 

 

第二巻 倫理学 (あるいは第四部)

第四部 倫理学

第一章 他者

第二章 自己

第三章 集合性       

 

  ここでまず気になったのが、第一巻「実存論」の序文と、第一部序論に使われている「現実対抗性」という言葉です。これまで、あまり使ってこなかった言葉ですよね。どんな含意をもつものでしょうか。

 

 

竹田

  わたしが哲学を始めたのは30の頃です。それまで自分の中にマルクス主義は入ってきていたんだけど、哲学は難しすぎてよく分からなかった。ポストモダン思想は、マルクス主義にいちど入り込んだ人には、その反措定としてよく理解できたのだけど、それと並行して少しずつヨーロッパ哲学を読んでいきました。

 

  これはよく言っていることですが、30のとき、『現象学の理念』を読んで突然哲学の道が開けた。そこにヨーロッパ近代哲学の最大の難問の構図がはっきり示されていて、そのことが分かったからです。ヨーロッパの認識問題の意味がはっきり分かってくる一方で、新しい現代思想、現代哲学は、はじめは新しい希望のように見えていたんだけど、現実への対抗性を失っている気がしてきた。いまはその気持ちははっきりした判断になっています。マルクス主義は、基本的には現実に対抗するための思想で、この社会をなんとかよくしようという動機も目的もはっきりしているし、展望もはっきりしている。ただ哲学の原理としていうと、「自由と平等の問題をどうやって解くか」という最も重要な問題について答えをもっていない。そのことがマルクス主義のプランの挫折の最も中心の原因です。

 

  その後のポストモダンは、ドグマ化したマルクス主義と現代社会への批判思想としてそれなりに重要な役割を果たしたけれど、マルクス主義に代わりうる総体的な原理をもたなかったためにどこまでも相対主義的な批判思想を出ることができなかった。現在社会は、現在の資本主義体制を根本的に改訂する必要があるけれど、そのアイデアがどこにもない。それで現実対応力を失ってしまった。

 

  近代哲学にさかのぼって哲学を考えると、当時のヨーロッパ社会はキリスト教思想と王権が支え合って権力と支配の体制を作り上げていたけれど、その矛盾は飽和状態になり変革の圧力も極めておおきくなっていた。まず宗教改革が起こり、つぎに啓蒙思想が現れ、そして近代哲学が社会思想を展開していった。哲学者たちは、キリスト教の世界観を全てひっくり返して、まったく新しく、人間の哲学と社会の哲学を展開した。

 

  近代哲学は、一言でいって、万人の自由が確保される社会はどのようにして可能か、という問題をとことん追いつめてその原理を作り出した。万人の自由が確保される社会というのは文明はじまって以来、まだ一度も実現されたことがなかった。多くの近代哲学者がこの問題を追いつめたけれど、中でも最も重要な原理を出したのはホッブズ、ルソー、ヘーゲルの三人です。しかしこのことはまだわれわれに十分に自覚されていない。ホッブズは人間社会の普遍闘争の必然性とその抑制の原理を見出したが、人間は戦争することから離れられないという悲観哲学の持ち主だ、などという説がまだ残っている。ルソーやヘーゲルも同様で、ロックではなくむしろこの二人が、われわれの民主主義社会の根本的設計の原理を提出した。しかしルソーは全体主義のイデオローグで、ヘーゲルは国家主義者だと言われている。大きな間違いです。ともあれ、現代の人間社会は、人間の自由な本質の展開という点でほんとうに深刻な分岐点に立っている。哲学と思想は、現実の論理に対抗できる本質的な原理を打ち出さなければいけない。でもマルクス主義以来まだその役割を果たせていない。

 

 

 いま現代思想の主流は、凋落しつつあるポストモダン思想の他には、現代哲学ではハイデガーとレヴィナスがまだ現役で、あと英米系の分析哲学とアメリカの政治思想がある。社会学としてはシステム論が少し生き残っているが、どれももう現代的な有効性を失っている。現代社会への有効な対抗として哲学を再生できるか、ということが最も大事な課題だと思います。

 

  プラトンの対話編「ゴルギアス」に象徴的なシーンがある。主人公のソクラテスが哲学の意義を説いていると、ポロスという人が出てきてソクラテスに文句をつける。でもすぐに言い負かされる。するとそれを聞いていたカリクレスという人物が、ポロスに代わって議論に参加し、ソクラテスに抗弁する。これがなかなか手ごわい。彼の考えは、現実の論理、生活の論理を代表している。哲学が人間にとって多少大事なことも言うかもしれない、しかしそれは全体としてみれば結局、“きれいごと”にすぎない。なぜなら、ふつうの人間には、生活の中でクリアーすべき多くの現実的義務がある。哲学の言葉は、そういう側面をまったく勘定に入れず、ただ人間の心や精神というものを理想化して物を言っているにすぎないから。

 

  若いうちに哲学にのめりこむのはよい。むしろ全然哲学に興味がないような若者には見所がない。だが、大人になってからいつまでも哲学の理想的な考えに関わりあっているのは問題がある。自分だけの考えでいうならまだしも、そのような美しすぎる理想によって若者に影響を与え、その世界に引き込もうとするのは、人がこの社会で果たすべき大事な義務をないがしろにさせ、忘れさせてしまう点で、大きな害があるのではないだろうか……。

 

  カリクレスの反哲学論は、ただの反対ではなくきわめて強力です。われわれはただちに、ヘーゲルの精神現象学に出てくる「徳と世路」を思い出します。ここでの世路の立場をはっきりと思想化して出している。しかし、これに対するソクラテスの反応がまた興味深い。彼はカリクレスの反論を聞いて大変喜びます。君が言ってくれたことはとても大事なことだ。人間はよく生きるべきだなどという美しい理想ばかりをいくら唱えたとて哲学としては意味がない。そういう試金石こそ思想に不可欠なものだからだ。君のような立場の考えを十分に受け入れたうえで、なお真や善についての主張がほんとうに批判に耐えうるものかどうかを吟味することが、哲学にとってなりより重要なのだ、と。

 

  この特徴的な議論は、プラトンの中でしばしば現われる。「国家」のなかでも人間が自己中心性を超えうるかという主題で、やはり同じ議論が出てくる。哲学は、単に美しい理想を思い描くことではなく、思想的な現実対抗性がなければならないということです。そしてその要諦は、美しい理想、激しい批判ではなく、強くて深い原理があるかどうかです。二十世紀以降の現代哲学・思想では、この原理が失われている。それだけではなく、相対主義に傾いたために原理的に思考する方法も見失われている。この哲学的思考の前提を建て直したいというのが、まず大きな動機です。

 

 

犬端

  「現実対抗性」をもつ思想。それは、つまり生の現実、実存に寄り添ったうえで考えつめたうえで、これはほんとうに原理といえるな、というものが取り出されている思想、それだからこそ空虚な理想理念や、批判のための批判に留まることなく、現状の問題に向き合ったうえで、未来を展望していく新たな視点を打ち出せるような思想……ということでしょうか。

 

 

竹田

  哲学としての明確な原理を出せているかどうかが肝心です。 私のみるかぎり、ホッブズの普遍闘争と、それを抑制するために強力な権威と権力が必要という原理、ルソーの普遍意志契約の原理、ヘーゲルの相互承認の原理。これは近代哲学で見出された最も重要な社会構成の原理です。認識論では、カントがアンチノミーによって、経験を超えた形而上学的な世界認識の原理的不可能性をはっきり示した。ニーチェの力相関的な認識論の原理、フッサールの信憑としての世界定立の原理も、主観‐客観構図の不可能性を示す上できわめて重要な原理で、いまのところ誰もこれ以上の認識論の原理を出すことができていない。

 

 哲学の原理は、基本は科学の法則の発見と類比的です。この問題に関しては誰が考えてもこう考えるほかはない、という考え方の不可避な道すじを取り出して示す。たとえばカントのアンチノミーは、何が正しい信仰のあり方か、といった問いには答えがないことを示して、宗教的な教義の対立の無効性をはっきりさせた。宗教的な真理によって社会の矛盾を正そうという考えに鉄槌を下して、宗教の問題とは自立的に、社会をどう動かしていくのかという地点に人々を立たせました。ちょうどかつて、それが原理的に不可能だとはっきりわかった地点で錬金術が終わりを告げ、新しい科学へと思考が展開していったのと同じです。

 

  哲学の原理的思考の役割は、大きく二つある。一つは、この方向では決して先の展望は開けないことを原理として示して、新しい道を開かせるように推し進める。もう一つは、この方向に進んでいけば、必ず人間と社会の新しい可能性が展開してゆくという明確な像を与えて、目標や合意の形成を強く促すことです。ポストモダン思想をはじめとした現代思想は、基本長く相対主義の方法の上に展開してきたので、原理や普遍性という概念を強く嫌ってきたけれど、大きな間違いです。多様性が確保されるためには、それが確保されるための原理的条件が不可欠だということを知るべきです。

 

 

犬端

  そこでの原理というのは、決して「ものごとの究極原理」ではなく、あくまでもそれぞれの生、それぞれの実存の内実に照らし合わせたうえで共有することが可能な、「普遍的な本質」といった含意のものですよね。

 

 

竹田

  そうですね。存在を可能にするもの、存在の根拠の根拠としての根本原因、究極原理。これが従来の形而上学的探求の主題で、それがまさしく形而上学的原理です。哲学の原理は、開かれた言語ゲームの上で創り出される、「この問題については、だれにとってもこう考えざるをえない」という道すじです。検証されえない深遠な理説ではなく、万人にとって納得されうる普遍性の構造をもった知の形です。ゆっくり辿り返してみれば、人間の問題についても社会の問題についても、先程触れたような、これについてはこう考えるしかないという原理がじっさいに哲学では見出されてきた。

 

  哲学を通覧していると、実存的な人間思想と社会の思想が絡み合っていて切り離すことができないことがよく分かります。社会をそれ自体存在する対象として探求するという実証主義的方法はもはや無効です。人間の思想からはじめて社会の思想へと展開することができるという大きな展望を、初めにはっきり示したのはヘーゲルです。ただ、そうした非常に画期的な発想と裏腹に、彼の哲学体系は、あくまで十九世紀の「理神論的世界像」という世界観の枠組みのうちにあった。この世界像は十九世紀の終わりにはほぼ終焉します。ヘーゲル哲学の画期性は、この世界観の枠組みによってひどく殺がれている点がある。

 

  ともあれ人間の思想と社会の思想とを同じ本質として考えない限り思想は強さと深さをもてない、というヘーゲルの根本的発想は、まさしく現代的です。人間の問題も社会の問題も事実の問題ではなくて、価値の問題だから。ヘーゲルの認識論は弁証法と言われるけれど、これはわたしの理解では意味と価値の運動についての認識方法です。「欲望論」は、意味と価値の生成の原理論だが、ある意味で、ヘーゲルの認識論を理神論的世界観ぬきにやり直すことでもあると思っています。

 

 


 基軸となる現象学の普遍洞察、欲望相関性について

 

犬端

  その欲望論を展開するうえで基軸となるのが現象学であり、現象学の本質観取であるわけですよね。僕自身、若いころから竹田さんの読者ですが、当時流行していた他の思想書との明らかな違いを感じていました。自分の中に不思議なほど入ってくるんですよね。それがなぜかというと、竹田さん自身が内省しながら、「こうじゃないか」というのを出してくる。読み手のほうも、自分自身の体験に照らし合わせながら、その考察を確かめなおしていくことができる。そのプロセスを通して、自分自身の生のありようや、自分にとっての世界のありようをつかみ直すための確かな手がかりが得られる。そんな感じで、わくわくしながら読んでいました。今思えば、そうした思考のあり方自体が現象学、延いては哲学的思考の本質ではないかと……。

 

 

竹田

  それはわが意をえたりです。第一部「存在と認識の方法」の、最後の章が現象学論です。欲望論の方法的基礎は、現象学の本質観取という考え、フッサールに則して言えば哲学的な普遍洞察の方法です。

 

  普遍洞察はもと西研さんの言葉ですが、哲学の思考の原則を示すものとしてまさしくぴったりの言葉です。哲学の思考は、ことがらの本質を、自分の内的体験をてがかりに、自由な内的な洞察を通してより適切な概念に置き換えてゆく。実証主義が、さまざまなデータをあつめてそこから一般的な経験則を取り出してゆくのとは対照的な思考法です。しかし二つの方法を対立的に考える必要はぜんぜんない。ある問題について多くのデータをあつめても、それをどう理解し、解釈するのかという場面では必ず本質洞察が必要で、これはその解釈者が自己の人間としての存在了解から、ある本質を洞察するほかないわけです。

 フロイトは、臨床医として一定の臨床例を把握したけれど、このデータから、人間の心の本質についてどのような理解を示すかについては、データ自体は何も語らない。フロイトが本質洞察を行なうわけです。このとき方法的自覚が大事で、「誰が考えても、これについてはこう考えるしかない」という道だけを踏み分けて進むのが哲学の道です。フロイトはある場面ではきわめて重要な本質洞察をしているけれど、ある場面では、まったく独断的な神話的といえるような推論を導き出している。哲学の思考は、この考え方の原理を徐々に鍛えて推し進めてきたのです。

 

 個々の哲学者をみると「自分はどこまでも世界の真理を探求している」という信念でやっている人もいる。しかし哲学の大きな流れは、そういう絶対的真理という考え、何か超越項をおいて特定の理想理念で人間と社会を解釈するような思考が、徐々に排除されていく流れです。哲学の自由な思考が普遍的ではない考えを徐々に排除して進んできたといえます。

 

 相対主義や懐疑主義は、形而上学的独断論や絶対理念主義を批判するのに大きな役割を果たしてきた。しかし、二十世紀の相対主義は、むしろそれ自身が形而上学的独断論と同じく、「本体論」的な思考のうちにあることを暴露した。これを簡潔にいうと、形而上学的「本体論」は、世界それ自体という本体が存在しそれは認識可能である、と主張するのに対して、相対主義は、本体は決して認識されないし、言葉で示すこともできない、と主張する。ここでは真理も普遍性もごっちゃになって混同されている。「真理」とは、どこかにそれ自体として存在する「本体」の相関者だが、「普遍性」は人間の諸関係、承認と了解の普遍的関係が作り出す、共存のための間主観的な“信”の相関者です。

 

 この普遍洞察という哲学的な方法という観点からは、フッサール現象学の考え方が最も先まで進んでいるとわたしは考えている。哲学には「存在の謎」「言語の謎」「認識の謎」がありますが、「認識の謎」に関しては、近代哲学の終わりに、ニーチェとフッサールが決定的な考え方をはっきりと打ち出した。ニーチェは、「力の思想」によって「本体として世界」という長く続いてきた世界観念を完全に打ち倒し、フッサールは普遍洞察の原理的方法を本質洞察(本質観取)の概念で示したのです。

 

  ニーチェは「力の思想」によってヨーロッパにおける強固な本体論の思考を打ち倒したが、もう一つ重要なのはその価値哲学です。ニーチェは、それをまとまった本の形として展開できなかったが、後期の遺稿集を編集した「権力への意志」のなかでその着想に触れることができます。特に「認識の哲学への力への意志」という章が重要です。何度も言いますが、およそ対象存在は、生き物の生への力(力への意志)の相関者として現われでる、という構図です。私はそれを「欲望相関性」という概念で呼びます。存在者は、生き物の生きんとする欲望の相関者であるという観点がはじめて、価値の本質と意味の本質を示すことになる。世界の生成が、事物の生成ではなく意味と価値の生成であるなら、これまでの形而上学的、論理的、実証主義的観点は、根本的に顛倒されないといけない。そのことが、欲望論哲学の始発点になるわけです。

 

  現象学の普遍洞察とこの欲望相関性の考え方が、「欲望論」の構想の土台です。

  現象学については、フッサールが現象学を提唱してからもう一世紀以上たっているけれども、その最も重要なエッセンスである認識論の原理がほとんど理解されないまま来ています。いまだに独我論とか意識主義とかまったくひっくり返った俗流理解がはびこっている。現象学の本質観取の方法の実際例を作り出すことで、そういう誤解はなくなるかもしれない。

 

 

犬端

  フッサールの著作を根気強く読めば、決して主観に絶対の根拠を置こうというのではなく、ものごとを確かめ合うための共通の足場をつくっていこうとするその動機ははっきりしているように思います。

 

 

竹田

  そのとおりです。ほとんどそうですが、とくに『現象学の理念』や『イデーン』では、フッサールの叙述は、いつでも現象学的還元、すなわち本質観取の方法の実行例です。でもそのことが理解されていない。われわれの事物認識のいちばん基礎にあるのは知覚による対象認識です。で、知覚作用による対象認識というものが、だれにとってもどのような構造で把握されるか、それをフッサールは内的に洞察しながら記述している。しかし多くの現象学者はそれを認識についての一つ説、議論とみなして、あれこれ反対したり過剰解釈したりしている。われわれは「知覚作用」と「想像作用」をこのような条件によって区別している、といっているに対して、はたして「純粋意識」の地平は可能か? などと議論している。ちんぷんかんぷんのきわみです。この区別は誰でもできるものだから、フッサールの区別はまずいとか、間違っているとかいって自分の洞察をおけばいいだけのことです。

 

 たとえば、カントでは「世界の正しい認識が可能か」という問題を本質的に考えるには、まず人間の認識装置の本質構造を考えるべし、といわれる。それが先験的(超越論的)観念論と呼ばれます。カントでは、認識の構造はまず感性・悟性・理性という基本構成からなる。感性の基本構造は時間と空間で、悟性の基本形式は、量・質・関係・様態です。それから感性と悟性をつなぐ図式とか、構想力とかがあるという細かな話しになるけれど、要点は、この認識の基本形式とされるものは、あくまでカントの構想によるもので、ほんとにそうなっているか誰に確かめられない。

 

  実際のところカントの四つのカテゴリーを継承している哲学者はいません。ヒュームも、フィヒテもヘーゲルも、ちがうカテゴリーの枠組みを提案している。

 

  フッサールの主張は簡明です。自分は、認識がいかに構成されるかを考えるが、これは必ず誰でも内省-洞察して確かめられるような構造である。そうでないと単なる物語になってしまう。フッサールの術語は難解だし、同じ意味をいくつもの用語で言いかえるので、なかなかそうは読めないという困難があるけれど、実際、少しフッサールの記述になれてくると、たしかにだれにとってもそのようになっているはずということだけを言っています。

 ともあれ、フッサールはそういう独自の方法で、対象認識の最も基礎となる構造を、普遍的に明らかにした。そのことで、なぜこれまで主観-客観問題が解けない難問であったかを解明しました。このことは、普遍的な学としての哲学の新しい出発点になるものです。

 

 


  認識問題の終焉・信念対立を乗り越える可能性

 

竹田

  そもそも哲学の認識問題は、インド哲学ではヨーロッパ哲学ほど本格的には現れない。なぜヨーロッパの近代哲学で認識問題が中心的な大問題になったか。一つは、ヨーロッパ近代は、キリスト教の教義におけるカトリックとプロテスタントの激しい信念対立が大きなきっかけです。ともに自分たちの教義の正しさを主張して結局決着がつかない。キリスト教が統一されている間は、真理問題は表面化しないけれど、これが分裂するといかにして真理に達しうるかが大きな問題になる。もう一つは、近代のヨーロッパに、世界ではじめて自然についての厳密な客観認識の方法が現れた。もちろん一定の科学的考えはイスラムにもインドにもあったけれど、近代科学のような厳密な客観認識の方法は成立しなかった。

 

  近代の自然科学がいかにしてこの画期的方法を手に入れたかについて、フッサールが『危機』で見事な考察をしている。そのキーワードは、まず時間と空間の、つぎに事物の諸性質の“数学化”、“数式化”です。自然対象の感性的なありかた全体を、数字の、つまりデジタルの網の目にかけて把握するという方法です。その基準そのものはある意味では恣意的。例えば距離をメートルで刻むか、フィートで刻むか、温度だったら摂氏で刻むか華氏で刻むかというのは恣意的な基準です。ともあれ、ヨーロッパでは商業上、軍事上の必要から、この自然の数学的基準化がどんどん展開し、やがて自然世界の全体が、そもそも厳密な数学的秩序としての客観性をそれ自体もっている、という信憑が普遍的になってきた。

 

  近代初期の哲学者、たとえばデカルトやライプニッツは、世界は数学的秩序をもち、その基本公理を捉えれば一切が普遍的に認識されうるという普遍学を構想した。結局これはうまくいかなかったが、ともあれ自然世界についての厳密な客観認識の方法が成功した以上、この方法を人間と社会の領域に適用すれば、この領域でも厳密な客観認識が可能になるはずだという考えが現われた。これはある意味で当然の期待です。しかし自然の領域では見事な成果を上げた自然科学の方法が、人間や社会の領域ではまったくそうはいかないということがはっきりしてくる。そこで、一方の世界の合理的な客観認識が可能であるとい合理論に対して、経験主義的な懐疑論や相対主義が対立的に現われる。スピノザ対ヒュームの対立がそれを象徴しますが、その調停者としてカントが登場して世界それ自体の認識の不可能性、あるいは形而上学の不可能性を宣言する。この不可能性を乗り超えようとしてドイツ観念論、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルらが、汎神論的哲学を展開します。

 

  つまり、ヨーロッパでは、自然科学によって自然世界の客観認識・普遍認識のモデルがうち立てられたために、なぜ人文的領域では普遍的認識は成立しないのか、ということが大問題となったわけです。世界の正しい認識というものはそもそもありえないのではないか。これが主観‐客観の一致問題です。この認識問題が近代哲学の最大のアポリア、「認識の謎」を生み出した。すでにデカルトがこれを定式化した。つまり人間の認識は決して主観から出て、自分の認識を客観それ自体と参照できない。こうして認識はどこまでも「超越」(把握されえないもの)だとされます。

 

 

 この認識の謎は、現代哲学では、ポストモダン思想の記号論的な相対主義として、たとえば目は目を見ることができないといった自己言及的難問や、分析哲学では、言語の意味と規則についての規定不可能性といったいわば哲学的パズルとしておおいに言及された。しかしここでもどんな解明も与えられていません。ポストモダン思想も分析哲学も、ヘーゲルいうところの悟性的分析という方法以外の方法をもたないので、この地平では認識問題は決して解明されないのです。言語哲学では、主観‐客観問題は、言語とその概念の一致、言語的意味とその対象の一致は可能か、という形式に変えられ、これを論理学的に解こうとするができない。問題の本質は同じで、認識、言語と「本体」との関係です。ポストモダン思想は、独断論対相対主義という比較的古い議論の現代版です。ここでは同一性や普遍性の概念が問題化される。でも中味はやはり同じです。

 

 しかし、「認識の謎」は、哲学的には単なる論理的パズル以上の深刻な意味をもっている。主観と客観の不一致、言語と認識、言語の意味と対象の不一致は、ただ客観的認識が存在しえないということを示唆するだけではなく、煎じ詰めれば、人間世界における善悪や正偽の基準がどこにも存在しない、という問題にゆきつくのです。

 分析哲学では、論理パズルの展開が主な仕事なので、あまりこのことが問題化しない。しかし社会批判をモチーフとして現われたポストモダン思想では、これが重大な意味を帯びる。ポストモダン的相対主義は、既成の世界観や制度の相対性を強烈に批判できるが、では新しい社会的な善悪と妥当性の基準を示せといわれると、「普遍的なものはどこにも存在しえない」、がその理論的支柱なので、これを示すことができない。ポストモダン思想の本質はイロニーで、正しさは誰にも言えないけれどしかし存在する、という立場です。だから分析哲学のように論理パズルの迷宮に入り込んでいればOKといかないので、なんらかの倫理的立場を探すことになる。それが「他者」や「贈与」や「倫理」の観念ですが、これはいわば普遍性のマークを取り外された「超越項」になっている。それは根拠なくわれわれにやってくる、というわけだけれど、これは哲学的、思想的な自殺です。それならはじめから宗教を打ち倒す理由はどこにもない。

 

 ともあれ、認識の謎が解けないということは、善悪や正偽の普遍的な基準を誰も言えないということです。もっといえば、善悪・正偽は力が決定する、というのが、相対主義思想の論理的帰結です。そのことが徐々に自覚されたために、ポストモダン思想は、社会的正義の根拠を問題とするアメリカ政治学ほどのアクチュアリティをもてなくなっている。

 

  フッサールはずっと以前に、認識問題を解明できないことが学問の相対主義化をもたらすこと、人間的な理性の普遍性の概念が危機に陥ることをはっきりと自覚していた。彼が『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』で人間の理性の普遍的なありようの回復を求める哲学的マニフェストを行なったのは、ナチズムによってドイツの学問的、市民的理性が破壊されたそのさなかです。

 

 二十世紀は、人間社会がイデオロギー的な対立によって恐ろしい悲惨に巻き込まれた世紀です。イデオロギーは主として政治制度の理想についての信念対立です。自由主義と社会主義、進歩主義と保守主義の対立が、二十世紀の大きな定型でした。このような政治・社会的な信念対立の問題は、現在もまったく解かれていません。自然科学では大きな共通認識が成立してそれはどんどん展開しているけれど、人文領域では、人間社会がどこに向かうべきか、どのような制度が人間にとって望ましいのか、人間の生の中心的意味がどこにあるのか、といった問題に、大きな合意と了解は存在しない。多様性が大事だという言い方は、もしもさまざまな場面で生じているコンフリクトを克服する原理が見出された上でいうのでなければ、あまりに無責任で、知識人的な気休めにすぎません。ポストモダン的多様性の観念はずいぶん喧伝されたけれど、驚くべきことに、どのような社会のシステムが人々の多様性を可能にするかという問題ですら、そこでは解かれていない。

 

 フッサールは、近代哲学から持ち越されてきた認識問題は、現代に至って必ず解明されねばならないし、また解明できると考えていた。それが現象学的還元の方法です(ところが現象学的還元の中心動機が認識問題の解明にある、ということさえ理解しない現象学者も多い)。

 

  さて、第一に、なぜ自然科学では普遍的認識が可能となったか、それはどのような方法で可能となったか。ここには普遍認識の可能性のカギがある。したがって、このことの本質的理解なしには人文領域での普遍認識の可能性を、推し進めることはとうていできません。人文領域では、自然世界において達成されたような厳密な共通認識は、成立しそうもないことは直観的に理解できます。しかしそれにしても、どのような限定において、どのようなレベルにおいてなら共通認識、普遍認識が可能となるかという問題についての原理的解明は可能である。それがフッサールの構想です。

 

  ここで思い切ってこのフッサールの構想の軸を二つあげてみます。第一は、一切の認識を「信憑-確信」であるというアイデアです。これは方法的独我論と言えます。このアイデアの核心は、一切を「信憑」とみなすことで、普遍的認識を「主観と客観の一致」として考える必要がなくなることです。普遍認識が主観‐客観の一致なら、普遍認識は決して存在しえない。簡明な論理です。しかしすべての認識が「信憑」であれば、そのうちある条件をもった信憑の形式が普遍的な信憑だといえる。

 

 私の整理では、一切の信憑は、主観的-個人的な信憑か共同的(間主観的)な信憑です。共同的な信憑のうち、ある条件をもった信憑は、普遍的信憑です。自然科学や数学の認識は、客観と一致した認識ではなく、普遍的条件をもった信憑なのです。主観‐客観一致図式をとるかぎり、客観認識はあるのか、それともどんな認識も相対的なのか、という水掛け論がはびこるだけです。ここからは自然科学の方法の人文科学の方法への適用も不可能です。しかし認識を徹底的に信憑の類的構造とみなすことで、一挙に道が開けます。これが第一の問題です。

 

 第二の問題は、現象学的還元の方法は、ことがらの本質構造を洞察する方法だということです。自然科学から現われた実証主義の方法は、ことがらの一般的事実を把握します。しかし現象学の本質洞察の方法は、ことがらの意味と価値の関係性を洞察する方法です。これは欲望論の中で展開していることなのでひとことでいえませんが、大きなイメージだけ。

 人文科学を実証主義的な認識の領域と考えてはいけない。人文的領域は、意味や価値の関係的普遍性の領域です。したがって、この領域では、意味と価値の関係の一般性を捉える新しい認識方法が必要になる。自然事実は、すでに見たようにその諸性質を数学化、数式化すれば、客観認識が可能になる。しかし人文領域では、事物の諸性質ではなく、ことがら、できごとを一般的に把握するための方法的なタームの基礎論が必要です。言いかえれば、意味と価値についての一般原理論が必要なのです。

 これが欲望論のもう一つの柱ですが、ともあれこの考えは、フッサールの「本質学」の考えが起点になっています。もういちど整理すると、第一に、方法的独我論による「認識問題の解明」。私の言い方では「確信成立の構造の解明」。第二に、現象学的還元における本質洞察の方法の展開としての「本質学」の基礎づけ。この二つのアイデアによって、フッサールは人文科学の領域における普遍認識の可能性をもういちど立て直した。これがフッサール現象学の最大の達成です。

 

 

犬端

  「信憑=確信成立の構造を確かめ合う」というフッサールの発想のいちばんのポイントを汲み取れないと、現象学を、意識に還元すればものごとをとらえる仕組みが一様に見いだせると考えるような独我論だとみなす、とんでもない誤解が生まれてしまう。そうした誤解を拭い去ることができない限り、いま話してくれた現象学のもつ射程、人が生きるうえで何より切実な意味や価値の問題への一般性=共有可能性、延いては普遍性を築いていく原理を示した思想なのだということは永遠に理解されない。ただ、フッサール自身も、「確信成立の条件」というキーワードを発案した竹田さんほどには、自分の着想を十分に伝えられる言い方をできていないようには思います。

 

 

竹田

  たしかにそこがネックになっている。ひとつは、内省による洞察は、どこまでも主観の中での洞察だから、独我論的であって、客観性を確保できないという批判。もう一つは、意識はすでに構成されたものであって、意識を可能にしているものこそ問題にしなければならないという「先構成」批判がある。とくに現象学は普遍認識を目ざすので、これは危険であるという現代相対主義からの批判が強い。

 

  ただ、普遍認識を目指そうという試みに対峙する形で、懐疑主義、相対主義が出てくるというのは、大昔からのことではあるんですね。

 

  そもそも普遍認識の可能性に対する相対主義的批判は、ギリシャのソフィスト前後の哲学でとくに発達した。エレアのゼノンが、はじめに言語を論理的に使用すると、ふつう自明だと考えられていることをいくらでも覆すことができる、という事態を自覚して論理的に展開した。アキレスと亀や飛ばない矢のパラドクスで有名です。ここからソフィストの考えが必然的に出てくる。とくに興味深いのはゴルギアスという人で、彼は三つのことを証明してみせた。

 

  第一に、そもそも存在ということはありえない。第二は、仮に何かが存在するとしてもそれを認識することはできない。第三は、仮に何らかの存在を認識できたとしても、それを言語によって表現することはできない。つまり、存在と認識の不可能性の論理的証明です。

 

  ゴルギアスの証明はいまからみると比較的素朴ですが、しかしその論拠の核心は、ポストモダンを代表するデリダの懐疑論とべつに変わらない。基本的には背理法の応用です。分析哲学もまた、言語の意味の本質を捉えようとして、意味の同一性の不可能性の議論へと進んで行くけれど、そこでも背理法が大きな論拠になっている。そしてポストモダン思想も現代の分析哲学も、その結論はゴルギアスと同じです。絶対的に確実なものは証明できない。絶対的な同一性は証明できない。規則の絶対的な規定は存在しえない、したがって、絶対的な存在も、認識も、その伝達もありえない、ということ。

 

 フッサールは、相対主義-懐疑論哲学との哲学的な対決が現代では必須の課題であると強調しましたが、まさしくその通りで、いまやその臨界線が見えている。現代は、人間社会をどのような方向に推し進めるべきかについて、大きな合意をどうしても必要としている時代です。 相対主義はドグマ的思想を嫌って「普遍性」や「原理」の概念を攻撃するけれど、大きな誤りです。普遍性や原理の概念は、ヨーロッパ的な絶対唯一神的な真理とは無関係であるどころか、むしろこれに本質的に対抗するものです。思想的相対主義は、結局のところ、羊のロマン主義を力の論理に対立させるだけで、論理的には力の論理を克服できない。形而上学的独断論とその対抗としての相対主義は、結局のところ、世界それ自体という「本体論」をから離脱できない。

 

 

犬端

  フッサールの発想自体、もともと存在している絶対的な真理などはありえないという地点、つまり「本体論」から離脱した場所から始まっている。それを前提にしたうえで、それでは、必要な局面においてどのように共有可能な価値を見出していくのか、という問題意識が根底にある。そのための足場が何かと考えると、それぞれがものごとへの認識=確信を形成している背景にある体験を自覚的にとらえ直し、それを確かめ合っていくプロセスは、間違いなく基盤となるもの、原理を築く礎になるものだと思います。

 

  そもそも、「疑おう」というモチーフをもってものごとに接すると、言葉のうえではどんなことでも疑えてしまう。でも、実際のところ、人はそのように生きてはいない。知覚にしても、価値的なものごとの感受にしても、そう見えてしまう、そうとらえてしまっているというような動かしがたさ、「到来性」のもとに生起してくるものですし。「懐疑主義」「相対主義」というのは、実存論的に考えると、そもそも「ありえない」ものではないかと。ただ、硬直したイデオロギーによる支配から脱却するための現実的要請として、そうしたものが生まれ出てくる動機は理解できる。

 

 

竹田

  現代のポストモダン思想の展開は象徴的です。もともとそれはイデオロギーとしてのマルクス主義や全体主義、そして矛盾に満ちた現代資本主義の批判思想として現われた。それはかつて近代哲学が巨大な知的権威であったキリスト教の教義全体を批判して現われたのと類比的です。しかし決定的な違いは、近代哲学は原理を一から立て直そうとした。社会の原理と近代社会における人間性の原理です。ところが、ポストモダン思想は「原理」は怪しい、ヨーロッパ的普遍性も怪しいという批判的懐疑を出発点とした。これがポストモダン思想の批判の力が本質的で根底的なものにならなかった根本原因です。しばらくの間、国家と権力が諸悪の根元だからこれを打ち倒せという論理的主張だった。いまは、資本主義は無根拠である、とか、他者、異質なもの、多様性を尊重せよというスローガンになっている。そこには原理的な理論がない。

 

 相対主義は現に存在するものの根拠を批判し、否定できるが、未来の可能性を提示しその正当性を確証することができない。だから結局、ロマン的な「正義」の主張に終始するという傾向が生じる。どんなものも「正当化できない」はずなのだけれど、社会についての自分たちの直観については「正しいはず」という確信をもっている。なぜかというと自分たちが批判しているのは、誤った世界、矛盾に満ちたこの世界だからという思いがあるから。まさしくニーチェのいう反動的な正義です。

 

 この社会が誤っているという主張には、つねに一定の理がある。しかし、ではどういう方向へ進むべきか、という点では原理と根拠を示すことができない。そこで、どうなるかというと、自分たちの考えが大多数を占めればOKだというところに進んでゆく。人文科学では自然科学とはちがって、理論の普遍的、客観的論拠を提示するのはきわめてむずかしい。そこでアメリカの大学の人文科学の領域では、一時、そのような相対主義的な反体制-反制度的ポストモダン思想の学問が多いに栄えた。たとえば、教育学では、教育じたいが社会の制度だから、反制度的教育が重要である、とかね。政治学や法学でも同じです。教育や法や政治は、いかにより合理的なシステムを構築しうるかという学ですが、いかに反システムを喧伝できるかという議論だけになる。

 

 

犬端

  人って、相対主義で生きているものではない。自分としての方向性をつくりながら生きているし、何かしらの価値観を形成しながらものごとをとらえ、それを人と交換し合いながら生きている、生きてしまっているものですよね。

  多様な価値観が対立し、具体的な方向性を見出しにくい状況であればあるほど、生のありかたの一般条件、基本構造に立ち返ったうえで、共有可能な価値を探っていくことが切実に求められる。そのプロセスのなかで、自分自身の素朴でロマン的な正義の背景にある動機を見つめ直すことも出てくるでしょうし、それを踏まえてこそ共有可能性も生まれてくる。もちろん共有可能といっても様々なレベルがあるけれども、ある局面においては、「普遍性」を念頭に置いたうえで、たとえば社会制度のありかた、未来への可能性を見出す基本となる考え方を見出しあっていく必要がある。そうしたことへの希望を一切持てないとすると、かなり厳しい状況になってしまうように思います。

 

 

竹田

  現代の相対主義思想も、せんじつめるとこの世の中をよくしたいという近代に固有の思想的モラルを動機としている(分析哲学には留保が必要かも)。ただ、社会的な原理を見出すことは可能かもしれないことを認めると、自分たちの主張のいちばん重要な論拠、つねにメタレベルに立ちうるという論拠を投げ捨てることになる。

 

  ポストモダン思想の場合、十年ほど前から徹底的相対主義のポストモダンから、「倫理的ポストモダン」に転じています。とくにレヴィナスの他者の形而上学は、その大きな拠り所になっている。しかし、レヴィナス哲学は、一切の超越項を排除した上で、個々人の自己中心性の普遍性を認めた上で、社会的、人間的な「正しさ」の根拠を探求すべき現代哲学の基本原則からいって、許容しがたいものです。その核心は、「他者」の観念を絶対的超越者として自己中心性を克服せよ、という思想で、ひとことでいうと、かつての「宗教的聖性」を「他者の聖性」に置き換えることで、現代的な倫理の基底として置き直そうとする試みです。カントの道徳法則から導かれた倫理性の根拠づけのほうが、はるかに近代的な意味をもっていて、これは思想的にはそれ以前への退行です。

 レヴィナスが、なぜユダヤ人としてのナチズム経験からそのような倫理思想を構想したのかは、かなりよく理解できる面がある。しかし、倫理の根拠を超越的なものにおいてはいけないというのは、ニーチェ哲学がおいた現代的な鉄則で、これとはまったく背立的です。

 

 なぜポストモダン思想が、レヴィナス的倫理をひとつの根拠としたかを考えると、これも理解できる面がある。徹底的相対主義の中からでは、決して倫理性の根拠、正当性は取り出せない。そこでなにかを外から輸入する以外にはないわけです。ポストモダン思想の多様性の要求と、他者の尊重の思想は折り合うものがある。しかしそのことでポストモダン思想は、ますます倫理要請型の思想になり、この点で宗教的、マルクス主義的な倫理要請型理論に近づいている。

 

犬端

  それぞれの意識経験に寄り添った現象学的、哲学的考察を、主観絶対主義、独我論と見なして棄却しようとするポストモダン的前提に立つと、たしかに倫理の根拠を見出していく手立てがなくなる。「神」「他者」などの「超越」を立てることで、その拠り所を得ていくしかない。でも、そこに現実対抗性をもつ思想が生まれてくる可能性はないですよね。

 

 

竹田

  現代哲学でポストモダン思想と並び立つのが分析哲学です。現代の分析哲学は、フレーゲやラッセルの厳密な論理学の試みを出発点としている。ただし公的には数学の論理学的基礎づけの試みとされているけれど、むしろ論理の数学化といったほうが分かりやすい。言葉の論理を数学のように厳密に規定できれば、その原則あるいは法則にしたがって言葉を使用すれば、つねに正しい認識がもたらされる、という考えです。しかしこれは煎じ詰めると、コンピュータ言語のような完全にデジタル化された論理領域だけに成立する考えで、一般の言語の領域、つまり現実言語の領域ではまったく成り立たない夢想です。ヴィトゲンシュタインが面白いのは、はじめの『論理哲学論考』でこのデジタル化的論理学を追いつめたのに、後期の『哲学的探究』では、この試みの不可能性を探求しているという点です。

 

 もしこの設定が可能なら、自然科学だけでなく、人文科学でも厳密な認識方法が成立するかもしれないのだけれど、うまくいかない。これは主観‐客観問題を、言語の領域に移して議論しているだけだからです。しかし分析哲学では大きな困難がある。近代哲学の主観‐客観問題では、この一致の不可能性について早い時期から合意が成立した。そこから、ニーチェとフッサールの認識問題の解明が現われた。ところが、言語と論理の領域ではその原理が明確に取り出されない。それで、合理的独断論と相対主義がどこまでも論難しあうという状況がつづいている。

 

  興味深いのは、この相互の論難の主な論理的武器になっているのが、古くからある相対主義的帰謬論-背理法だということ。後期ヴィトゲンシュタインの厳密論理主義に対する批判も、その論理は煎じ詰めると背理法的です。分析哲学は、基本論理学から出発している。論理の厳密性の可能性と不可能性を、論理分析によって追いつめている。しかしここにははじめから可能性がない。いちばん重要なのは、言語記号は個々の意味との厳密な対応をもたないし、文それ自体はどれほど分析しても、文の意味と一義的対応をもたないということです。

 

 名は名の意味と客観的一致をもたない。文は文の意味と客観的一致をもたない。これは主観(認識)が対象(現実)と厳密な一致をもたないのと同じです。そしてこのことは、言語記号や文章それ自体をいくら厳密に分析しても取り出せない言語の本質です。主観‐客観の一致にもとづく実在論が厳密には成立しないのは、世界自体という本体論が解体されないから。また、論理主義がどこまでも相対主義の批判を克服できないのは、やはり意味の本体論が解体されないからです。そこで現代哲学では、「言語の謎」の議論が、かつてのスコラ哲学の唯名論と実念論の対立のように延々と続けられている。

 

 

犬端

竹田さんが『言語的思考へ』で明快に打ち出していることですが、互いに共有化された言葉=「一般言語表象」を用いながら、互いの意図への信憑を形成し合い、共通理解を得ていこうとするのが言語行為の本質ですよね。そういう実存の場面から「一般言語表象」だけを切り離して考察しても得られるものはない。

 

 

竹田

  言語の本質を解明するには、書かれて単なる表象となった言語ではなく、われわれの言語行為それ自体の本質を取り出さないといけない。それが現象学的方法のポイントです。生き物の生の本質を取り出すのに、いくら生き物の身体の組織を細かく調べても無駄なことです。人間性の本質も、社会の社会的本質も、ことがら、出来事であり、事物的痕跡をいくらしらべてもことがらや出来事の本質はとらえられない。哲学が、人間の実存と社会についての普遍的洞察の学でありうるなら、いま哲学の方法的発想を大きく変換する必要があると思います。哲学の方法的原理がもういちどはっきり立て直されないといけない。現代哲学が遠ざけていた原理と普遍性という概念が、いま哲学が新しい力を持ち直すために、最も重要な概念なのです。

 

 

犬端

  「表象としての言語」を「実体」とみなしたうえで考察の対象としても、そこから得られるものはない。空虚な議論がただ繰り返されていくことになってしまう。……言語論というのは、ある意味「本体論」のもつ問題点がもっとも顕わにされる場面かもしれませんね。現象学的本質観取の発想をとらない限り、意義ある考察は展開できないことがはっきりと照らし出されていくような。

ただ、人間性の本質を洞察するためには、フッサール自身には希薄だった欲望論の観点が欠かせない……というのが竹田さんの持論だったと思います。「現実対抗性」をもち、現実に生きる人たちへと届く哲学の方法的原理を打ち出すために、欲望論がどのような射程をもつものなのか。そんな関心を抱きながら、次回は第二部「欲望と身体」以降の展開についてお聞きしたいと思います。

  (続く)